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第6話
リュカだ。フォークを皿に叩きつけたせいで、ソースが飛び散っている。
「もういらない! おいしくない! きらい!」
アレッサンドロも目を丸くした。
「どうした? さっきまで美味そうに食っていただろう」
「いやだ! アルきらい! レネもきらい!」
リュカはスプーンも放り投げ、コップを倒した。水がテーブルから床に滴る。
いつものふくれっ面が出現している。ルヴァンヌ王国では「いくら幼い王子でも張り倒してやりたくなる」と称された顔だ。
レネはひとまず皿をリュカの前から遠ざける。
「アル様。申し訳ありませんが、ここの片づけを――」
いや、相手は王子だった。片づけに使っていい人ではない。
「いえ、リュカ様をお願いいたします。外に出ていただけませんか。私はここを片づけてから追いかけますので」
「ああ……。わかった。ほら、リュカ」
「いやだ!」
アレッサンドロは頭を巡らす。
「そういえば、波止場に仔猫がいたよなあ。見たか?」
リュカが顔を上げた。
「ねこ?」
「ああ。仔猫だ。見たいか?」
「うん!」
「よし、来い。探しにいこう」
上手い。リュカの気を引いた。
ふたりが出ていってから、レネは気づいた。テーブルに金が置かれている。アレッサンドロが置いていってくれたのだろう。
給仕が飛んできた。
「よろしいですよ! ここはこちらでやっておきます」
「すみません。ありがとうございます」
レネは自分からも金を払った。詫びのつもりである。
「こんなに、よろしいのに」
「ご迷惑をおかけしてしまいましたから。お料理はとても美味しかったです。無駄にしてしまい申し訳ありません」
「とんでもない! どうぞまたいらしてください!」
レネは外に急いだ。波止場に猫が――と言っていたからには、港の方だろう。あれだけ気を回すアレッサンドロのことだ、リュカを連れてあまり遠くへは行くまい。
――もうあの人を信頼し始めている。
自分でもおかしかった。知り合ってものの数日なのだ。あの人はこちらの意図を汲んでくれるなんて、信じるのは早すぎやしないか。
しかし、彼は店からほど近く、波止場の見やすい場所にいた。予想していた通りだった。
「リュカ様。アル様」
ふたりとも振り返った。リュカの表情が和らいでいる。
リュカはボラードを指差した。
「ねこ」
ボラードの陰で猫が腹を舐めていた。
「知っているか? 船にはよく猫が乗っているんだ。レネ。なぜだと思う?」
「え? ええと……。航海中の慰めに、ですか?」
「いや、ネズミを狩るためだ。積み荷をかじられてはたまらないからな。悪いな、夢も何もない答えで」
リュカはしゃがんで猫を眺めている。アレッサンドロもその隣に膝をついていた。
「猫なら王宮にもいるぞ、リュカ。紹介してやろうか?」
「うん」
「なら、戻ろう」
リュカは納得したらしく、立ち上がった。
「かえる」
「はい」
レネも胸を撫で下ろした。リュカにわからないよう、アレッサンドロに頭を下げた。彼も手を挙げて応える。
ベルーサの王宮内には数匹の猫が飼われている。それぞれに性格があるようで、ほとんど部屋から出てこないようなのもいれば、一日中庭で過ごすのもいるのだという。
リュカとレネは庭に出て猫を見ている。
「いち、にい、さん」
「リュカ。猫が好きか?」
問うアレッサンドロの足下には黒猫が擦り寄っていた。彼は猫にも好かれるらしい。
「すき」
「ここに座れ。この猫ならおとなしいから、撫でても怒らないぞ」
「うん!」
リュカは目を輝かせて指定された石段に腰を下ろした。アレッサンドロが小さな膝の上に黒猫を乗せる。
「わあ、ふわふわ」
「ゆっくりな。優しく撫でてやれ」
彼は数歩下がり、レネに並んだ。話があるらしい。レネは先に口を開いた。
「先ほどは失礼いたしました」
「いや。少し驚いただけだ。リュカはどうして急に怒りだしたんだ?」
「おそらく、アル様と私がお話していて、仲間に入りづらかったからではないかと」
「ああ、そうか。わからなくはないな」
レネは目を伏せる。
ひどいかんしゃく持ち、悪さをする、行儀作法も知らない問題児――それがルヴァンヌでのリュカの評価だった。いきなり怒りだしたり、従者を叩いたり、物を投げたりは日常茶飯事である。おかげでリュカの部屋はいつも散らかり、おもちゃは壊れ、気に入らないことがあればどこであれ構わず転がって暴れるため服も汚れていた。
ふたりいるリュカの兄たちも、また二歳の妹にも似たところはない。むしろ兄たちは優秀で、きちんとしすぎているくらいなのだ。
このままではリュカのためにならない。荒療治が必要であろうと国王は言った。リュカを外国へ遊学させるというのだ。
環境も人間も、また言語も習慣も違う場所で揉まれれば、リュカも改心するだろうと。一種の賭けである。
ベルーサはすべてを承知で引き受けてくれた。くれぐれもあちらの王族に無礼を働くなとは、レネも厳命されてきた。
「俺が意外に思ったのは、お前の態度だ。叱らないんだな」
アレッサンドロが言った。
レネの視線はリュカに注がれている。リュカにはふたりの会話は聞こえていない。猫に夢中のようだ。
「これまでリュカ様は何人も従者が代わっております。おそらくそのほぼ全員がリュカ様を叱りつけ、あるいは優しく諭したことでしょう。また妃殿下や国王陛下も、時に怒り、時に泣きながら何度もリュカ様を叱ったそうです。それでもリュカ様は変わらず、従者たちは去っていくばかりでした」
「だから放っておくというのか?」
「違います。方法を変えるのです」
リュカの膝から黒猫が下りた。
「ねこ! レネ、ねこ! つかまえて!」
「猫もおうちに帰るのですよ」
「ぼくもねこほしい」
「少しずつ仲よくなりましょうね。そうすればきっと、お部屋までついてきてくれる子もいますよ。リュカ様はとても優しく猫を撫でていらっしゃいましたね」
「うん。ねこ、すき」
「その思いはきっと猫にも伝わります。リュカ様のお優しい気持ちが私も嬉しいです」
リュカが傍に来て、レネの手に触れる。
「お部屋に戻りますか?」
「うん」
「アル様。本日はありがとうございました。リュカ様をお部屋にお連れしますので、失礼いたします」
「ああ。また後でな」
夕食と入浴までを終えて、部屋に戻る頃にはリュカはもう眠い。目をこすりながらおもちゃ箱に手を突っ込んだ。
「ぼくのえほん」
「こちらですよ」
昨夜も読んだ同じ絵本である。枕元に置きっぱなしになっている。
レネは窓を閉める。あたたかい地方とはいえ、一月の夜は冷たい風が吹き込んでくる。湯冷めしてはいけないと、リュカの肩に上着をかけた。
「波の音がしますね」
窓を閉めてもまだ聞こえる。
「ぼくうみきらい。つまらない」
「アル様のお話はいかがでした? ベルーサの父祖のお話を聞いたでしょう」
「ふねに、ねこ」
リュカにはベルーサの父祖より猫の方が記憶に残ったようだ。
「ルヴァンヌのふねにもねこいた?」
「さあ、どうでしょう。見ませんでしたね」
「レネがよったからだよ」
リュカは従者人形の頬をぐにぐにつねった。
「もうベッドに入りましょう」
「えほんよんで」
リュカお気に入りの絵本は動物たちがたくさん描かれたものだ。絵の猫や犬、鳥たちを指でなぞり、嬉しそうに微笑む。
ルヴァンヌでは王妃が飼っている小鳥や、王城で飼われている犬たちでさえ、リュカからは遠ざけられていた。万が一リュカが悪さをしてはいけないと、先回りした措置である。
リュカは今日初めて猫に触れたのだ。
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