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高まる熱④
「痛いところ、ない?」
すべての粘着テープをはがし終えると、天陽はそう訊いてきた。
無視して水道に向かうと天陽は離れずについてくる。雪弥は顔を洗うとシャツで拭った。
体中に鈍痛はあるが、とりたてて痛いところはない。それよりも、精神的なショックが大きい。
(体調が悪いとはいえ、この俺が、俺が襲われるなんて)
項垂れていると、天陽が慰めるように背中から雪弥を抱えてきた。
雪弥はビクッと体を震わせて、天陽から身をよじって逃れた。天陽から距離を取る。
「雪弥……?」
天陽からは心配するような気配が漂っている。雪弥をひたすら気遣う天陽しかそこにはいない。
(怖い)
天陽は自分を助けてくれた。しかし、本当の意味で危難が去った、という気がしない。
(怖いんだ)
天陽が雪弥に手を伸ばしてきた。
思わず跳ねのける。天陽が傷ついたような顔をした。
雪弥は、そのまま走り出した。天陽が追いかけてくる気配があった。
「雪弥、頼む……。もう行くな」
今まで耳にしたことがないような天陽の懇願するような声。その声には優しさしかない。精一杯の雪弥への気遣いしか感じられない。天陽のそばは安全だ。そう思わせる響きがあった。
立ち止まると、天陽が、雪弥を追い立てないように、ゆっくりと近づいてくる。
「雪弥、大丈夫だから、お前が怖がるようなことはしないから」
宥めるような天陽の声に情けなくなる。
(何で、俺が天陽なんかを怖がると。俺には怖いものなんか……)
「天陽。何で、俺に隠してた?」
「え?」
先ほど天陽が見せた威圧。天陽の威圧があれほどのものとは知らなかった。
強い威圧を放てる天陽。その力を隠していたのか。何のために?
それとも俺のように見せびらかさなかっただけなのか。
(天陽の威圧に助けられたなんて)
「俺にも出せない、あんな威圧」
まともに張り合えば、雪弥でも適いそうにもない。
(いつも俺の威圧に伸されていたくせに)
「雪弥がひどい目に遭ってたから。火事場の馬鹿力ってやつだ」
「俺のために?」
「当たり前だろ? 怪我したとこない?」
天陽が首をかしげて見つめてくる。いつもの伸びやかな顔。口元には微笑を湛えている。優しい目で見つめてくる。
雪弥にブワッと沸き立つものがあった。雪弥を見る天陽の目が眩しそうに細まる。
(俺、こいつのことが)
狂おしい衝動が雪弥に沸き起こる。
(うぅ……、あつい)
雪弥は衝動に駆られて天陽にしがみつきたくなった。
(俺、こいつにまた、欲望を感じている。今、どうしようもなくこいつを抱きしめたい)
天陽がガクッと傾き、片膝を地面についた。雪弥も慌てて屈みこんだ。
「天陽こそ、どっか怪我したのか?」
天陽の顔を覗き込むと、頬を赤く染めていた。息遣いが荒い。
「いや、俺、雪弥にあてられてる。抑制剤を飲んだのに」
(俺にあてられ?)
「お前、抑制剤飲んでいるのか? 秀人に言われて?」
「あ、いや」
天陽は言葉を濁そうとした。雪弥は震える声で訊く。
「お、れ、におう?」
天陽は、答えにくそうにためらっている。雪弥は天陽の肩を掴んで訊いた。
「お、れ、変な匂いするのか?」
天陽はしばらく戸惑ったうえで、「うん、する」と頷いた。
そして、天陽は雪弥に眩しそうな目を向けて、「でも変な匂いじゃない。俺、今、その匂いにどうしようもなく煽られてる」とはっきりと言い切った。
「Ωの匂いか?」
「多分」
それを聞くと雪弥は息を飲んで、立ち上がった。
(嘘だ嘘だ嘘だ)
天陽が慌てて雪弥を後ろから捕まえてくる。逃さないようにと、強く抱き込まれる。
「雪弥、待て。一人で行くな。ここには数十人のαがいるんだぞ」
「俺もαだ」
がやがやと校舎の向こうから出てくる生徒の集団が見えた。後夜祭の音が途絶えている。第一部を終えたのだ。これからは自由参加となり、夜じゅう騒ぐ連中もいる。
雪弥は恐怖に身を竦ませた。数十人ものα。怖がる必要なんてないのに。
(数十人の一人として、いやその数十人の覇者だ、俺は)
しかし、今しがた暴力にさらされた恐怖が蘇る。自分は何も抵抗できなかった。
普段は雪弥に目も合わせられなかったような生徒が、我を失ったように雪弥に暴力をぶつけてきた。大群でかかってこられてやり返せるはずもない。
雪弥は後ずさった。恐怖を植え付けられたばかりだ。
先頭の生徒らの声が聞こえてくる。充実した時間を過ごしたらしき生徒の語らいが聞こえてくる。
「今年も終わったな」
「また来年だな」
彼らはまだこちらに気付いていない。しかし、もう数歩に迫っている。
「て、てんよう」
雪弥は天陽の腕にすがり付いた。
天陽がぐいと雪弥の腰を引いた。
「こっちだ」
有無を言わさぬ切羽詰まった声だった。
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