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幸せの約束⑥
「そんな言い方、雪弥さんが可哀想だわ」
継母の声にはどことなく愉快がる響きがあった。父親は低い声音で続ける。
「あれの母親はさもしい女やった。家事は完ぺきにこなしてたけど俺を見る目つきがすがりつくような、みっともない目つきやった。あいつも同じ目で俺を見るねん。あの目、見てたらムカムカすんねん」
(みっともない目つき? お母さんが? 俺も?)
雪弥はガツンと頭を殴られたような気がした。好かれているとは思わなかった。しかし、具体的に嫌いなところを突き付けられるとさすがに堪える。しかも、行動などではなく目つきのような生理的に近い部分だとは。
パタリとスリッパの踵が落ちて音を立てる。
「永青か? 寝られへんのか?」
父親の声が裏返った。そんな優しい声を出せることを今まで知らなかった。
しばらくして、声音がガラリと変わる。
「雪弥か?」
永青に向けた声とは違う、冷たい声だった。
雪弥はリビングまで出ていった。
「今の聞いたか?」
「……はい」
「そうか」
父親は観念したような声を出した。これまではそれでも一応、雪弥に気を使っていたのだ。雪弥にありのままの本音を知られて、多少は動揺しているのか。父親からはためらいを感じ取れた。しかし、何の取り繕いもする様子はない。逆に開き直る。
「このついでに言わせてもらう。俺はお前の面倒をこれまで見てきた。ここまで育てたんだ、親としての義務も果たしただろう。優秀なαのお前なら、もうひとり立ちできるはずだ。俺たちをお前から自由にさせてもらう。後はわかるな」
父親の言い方は回りくどい。言いにくいことを言っているのだろう。
「はい」
「じゃあ、鍵を返してくれ、高校卒業には少し早いが。もうここはお前の家じゃない」
「ちょっと、あなた!」
継母も驚いている。さすがにひどい言い様だ。
「はい」
喉に込み上げるものを必死でこらえて雪弥は何とか返事をする。
金を借りるどころか、縁を切られてしまった。
雪弥は目を伏せたまま父親の顔を見ることもできなかった。
『みっともない目』を見られたくなかった。
客間で眠れずに何度も寝返りを打った。もう雪弥の部屋もないこの家を実家だとは思ってこなかったが、縁切りされるとは思わなかった。
小さい頃には父親の気を引きたくて雪弥なりに頑張ってきたことを思い出した。
父の誕生日には絵を描いて書斎に置けば、勝手に書斎に入るなと余計に嫌われた。小学校の修学旅行でお小遣いのほとんどとを使って御猪口をお土産に買ったら、子どもが買うものじゃないと呆れられた。
そのときの自分は無駄な努力をしていた。
(それでも、子どもの俺はお父さんに好かれたかった)
幼いころの自分を思うと喉に込み上げてきた。
(自己憐憫もいいとこだ)
永青が生まれてからは、自分はどれだけ頑張っても好きになってはもらえないのだと、わかってきた。永青は何もしなくても愛された。そのまんまで愛されていた。
家に居場所がないと気付いて、中学で家を出てからはもう精神的には親と決別していた。しかし、まだどこか期待している自分がいたのだ。
(そこまで嫌われていたのか)
こらえきれずに声を殺して泣いた。
(仕送りにしてもぎりぎりだったのは俺に出す金も惜しかったのか。進学費用など用意してくれるはずもない)
涙が治まれば、進学先のスカラシップを検索した。
(何とかしなければ。どこでもいい、金を用立てないと、俺の未来はなくなる)
探しまくって結局見つからなかった。そうして夜が明けた。
朝になって気付いた。
(はあ? 俺はバカか。俺はΩだぞ)
Ωに奨学金が与えられるはずがない。どこにも明記していないが、社会がそういうものだというのだけはわかる。
(そんな世の中なら、Ωが苦労するはずがない)
そもそもΩに勉強なんか不要だ。親に理解があって愛情もあって金も出せるΩにしか、大学には行くことができない。
Ωにとって大学とはそんな夢みたいな場所だ。これまでの雪弥はそんな事情にも気づかなかった。
(このままαとして偽り通して、奨学金を騙し取るのか? 抑制剤が手に入らないとすぐに詰むのに?)
どういうルートでシミュレーションをしても、雪弥に進学の道はない。
雪弥は茫然と壁を見つめていた。
(どうして、大学に行けると思っていたんだろう、俺は……………)
そこはかとなく抱いていた数学者への道はこれで完全に閉ざされた。
(アメリカで一から出発だなんて、そもそも無理な話だった。俺は、俺は、無駄なあがきをした………。俺は俺は、もう何もなくなった………)
のろのろと荷物をまとめた。
起き出した継母に、ペコリを頭を下げた。鍵はテーブルの上に置く。
継母はけらけらと笑う。
「あの人は、あんな風に言ったけど冗談よ。鍵は持っておいて」
(冗談に聞こえてたなら、めでたい人だ)
改めて、ショックがぶりかえして、詰まりそうになる喉で何とか声を振り絞る。
「お世話になりました。お継母さんもお体にお気をつけて」
継母はけらけら笑いながら気安く言う。
「たぶん、パパは、あなたに甘えてるのよ。お母さまにつらく当たっても、お母さまはにっこり微笑んでたタイプだったのね。パパはそれと同じことをあなたにしているのよ。あなたもお母さまも強い人だから。あなたが弱ければ、家から追い出すようなことは言わなかったわ、多分」
(甘えてるだと? ふざけんなッ!)
雪弥には怒りのあまり何も言えなかった。拳が震えてくる。
(俺のこと、なんもわかってないくせに。わかろうともしないくせに。俺はαじゃないのに。強くなんかないのに。弱くて惨めなΩでしかないのに)
眼前にそのことを突きつけてやりたくなった。
(Ωって言ってしまおうか。そして金の無心をしてみようか)
だが、そんなことをすれば保護施設に放り込まれるのがオチだ。同情も哀れみも、もらえるはずもない。
(保護施設は嫌だ………。出るときは一方的に番にされるときだけ。今までの俺は浅はかだった。Ωがそんな扱いを受けていることも知らないで、Ωなら保護施設に行くのが当然だと思っていた。でも、でも、俺も行きたくない………)
雪弥は自宅だった場所を出た。
太陽がまぶしくて立ち眩みがした。
(俺は非力だ。もう何もない。金もない。帰る先もない。家族もない。未来もない)
雪弥はスマホを見つめた。
(もしも、まだ受け入れてもらえるのならば)
雪弥は天陽にメッセージを送った。
『俺を番にしてほしい』
もしかしたら、これは天陽を利用していることになるのかもしれない。
天陽の人生を邪魔することになるのかもしれない。けれども、雪弥にもう道は見つからなかった。
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