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Ωの人生①
雪弥はベッドスプリングの揺れに目を開けた。
天陽が「腹減った。何か持ってくるね」と言い残して部屋を出て行った。
もう太陽が高く昇っている。
天王寺家の屋敷では人の気配は感じるが、誰も見かけなかった。天陽が人払いをしているのだろう。
そんなところにも天陽の気配りを感じる。
雪弥の胸に幸せが満ちていく。
(ご両親は驚くだろうな。ずっと同級生だった俺と番だなんて。怒るかもしれないな)
それを考えると雪弥の胸に不安が広がる。Ωと番うだなんて。天陽は雪弥にαとして生きていけばと言ってくれているが、それでも両親には本当のことを告げなければいけないだろう。
両親は許してくれるだろうか。しかし、天陽のあの様子ならば大丈夫だろうと、思い返す。
日本でもリベラルでΩと番っているのを公表している有名人もいる。天陽の両親もそんな人なのかもしれない。
(これから、ずっと天陽と一緒に生きられる。落ち着いたらバイトはじめて学費貯めて、それから大学に行って)
雪弥の真っ暗だった未来がもう一度明るく照らされる。希望に満ちたものになる。
(天陽がいつも照らしてくれる。天陽のそばはいつも温かくて安全だ)
雪弥は幸せに浸りながら、サイドボードを手で探った。
スマホが見当たらない。サイドボードを覗き込んだ。
金文字のついた黒い小箱を見つけて雪弥は思わず笑った。
(家だとあいつベッドでチョコ、食ってんのか)
しかし、その文字を認識して、やがて、顔が強張っていく。
『SKYN』の金文字。
(…………え?)
箱は封が開いている。中のものを取り出して、取り落とした。
それに触れたことのない雪弥にもそれが何かわかった。
『愛情の証です』
どこかで見かけたキャッチコピーが脳裏をよぎる。
それは雪弥との行為では、天陽は一度も使ったことがないもの。今も使わなかった。
しかし、雪弥以外の相手とは使ったもの。これからも使うもの。
『怖い婚約者』
そう言ったときの天陽の顔を思い出そうとしても思い出せなかった。本当に怖がっているのなら怖いなどとは口に出すはずがないことだけはわかる。婚約者への親愛すら感じられる。
唐突に理解した、『番』の意味。
理解した瞬間、雪弥の顔から血の気が引いた。
(ああ、そういうことか。そういうことか……、そういうことだったのか………)
雪弥は愚かしい思い違いをしていたことに今更気が付いた。
(そういうことだったんだ、そういうこと………)
世界の色が変わっていく。バラ色から無彩色へと。
その黒い小箱は、天陽が誰をより大事にしているか、明白に示していた。
喉に込み上げるものがあり、涙がぽとぽとと落ち始める。
(天陽が俺のものになるはずがない。そんなこと、わかってたはずだろ。最初からわかっていたはずだ。だから『好き』をしまい込んできたのに。何を勘違いしたんだ、俺は。ほら、やっぱり惨めなことになった。ほら、やっぱり惨めなことになった)
手に掴んだと思っていた自分なりの幸せ。それが、またもや色と形を変えた。
求める未来は打ち砕かれて、自分なりの未来を求めて何とかもがいてもう一度形作ってきたが、それはまたもや色と形を変えた。
(両親が驚くなんて、俺も馬鹿みたいだ。紹介されることもないのに)
一昨晩、番になるのを断ったとき、天陽は引きとめることはなかった。
天陽は雪弥を大事に想ってくれていることは間違いはない。だが、雪弥と同じ感情を抱いているわけでもなかった。
ただ親友に手を差し伸べてくれただけだった。無謀にもアメリカに行こうとする親友を見かねて。
(俺が天陽を利用するって? そんな大げさなことじゃなかった)
天陽はいつもいつも、「別にいいよ?」と手を差し伸べてくれた。「別にいい」程度のものだった。
(最初から分かっていたはずだ。俺は何ておろかでおめでたいことを……、惨めだ……、たまらなく惨めだ………)
雪弥は体を起こすとノロノロと服を着始めた。
(ここは俺なんかがいても良い場所じゃない。天陽と正式な関係になれない俺はここにいてはいけない)
雪弥は、廊下に出ると玄関を探して屋敷内を進んだ。人目を避けて身を隠しながら行くも、前から華やかな三人組が来たときには身を隠す場所がなかった。
真ん中のスーツ姿の男が、ひと仕事を終えた風情で、ネクタイを緩めている。緩め終わると、両脇のしどけない姿の男女の腰を抱き、二人に交互に耳打ちをしては、「やだあ! きゃはは!」と、はしゃがせている。卑猥な会話を楽しんでいるに違いなかった。
スーツの男は雪弥を目ざとく見つけると、「へえ」とまっすぐに向かってきた。値踏みする目で遠慮なくジロジロと見つめてくる。
面差しが天陽に似ている。
「これ、すげえ上物じゃん。親父の? お袋の? まだなら俺の番にならない? 大事にするよ?」
両脇の男女が口々に言う。
「やだあ、この子、まだ子どもじゃん」
「手を出すと捕まっちゃうよ? クスクス」
スーツの男が雪弥に鼻を寄せてきた。
「げ、天陽の匂いがする。あいつ、いいの見つけて来たな。俺も最初の番を持ったのは18のときだったっけ。あのΩ、今頃何してるかな。きみ、天陽をよろしくなー」
好きなことを言い散らかして、通り過ぎて行った。
天陽の兄と、そのΩたちに違いなかった。
彼の左手の薬指には指輪があったが、両脇の二人が婚姻相手ではないことは明白だった。二人は男の何番目かの番。最初の番の顛末は想像するだに恐ろしい。
捨てられたΩ。その行く末など知らない方がいい。
雪弥はベチャッと土足で踏みつけにされた心地だった。身の程を知らされる。
(これがΩ。これがΩの人生)
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