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拉致②
自動車のドアが開けば潮の匂いがした。波の音が聞こえる。二人を玄関前に下ろすと自動車は元の道に戻っていった。
目の前にあるのは翡翠色のガラスブロックを多用した洋館だった。雪弥は辺りを見回したが、オフシーズンの別荘地には人影はなかった。
「寒いだろ。早く入ろう」
雪弥が立ちすくんでいると、天陽がおどけた口調で言ってきた。
「雪弥ァ、自分で入るのと、無理やり押し込まれるのと、どっちがいい? わかってるぞ、さっきから隙を見て逃げようとしてるだろ? でも俺がそんなに甘くないってことくらいもうわかってるだろ?」
言ったそばから威圧がまとわりついてくる。しかし、それは攻撃的なものではなく包み込むようなものだった。
中に入れば、暖炉が燃えていた。室内には人の気配はないが、人をもてなす準備が整ったばかりのように感じた。
入るなり、天陽は雪弥の服を脱がせる。コートを取ると、シャツのボタンを外していく。
「い、いやだ」
「駄目だ」
天陽は無理矢理に衣服をはいでいく。ベッドではなく、リビングで服を脱がされるのは屈辱がひどかった。
「てん、よう、やめろ、いやだ」
しかし、天陽は雪弥から身につけているものをすべてはぎ取った。
天陽は雪弥に一瞬なぶりたそうな目を向けたが、雪弥の服をまとめると雪弥の靴も持って玄関から出て行く。
(どういうことだ?)
天陽はすぐに戻ってきた。そのときには手ぶらだった。
「これで逃げられないだろ?」
雪弥は唇を噛んだ。
「ひどいぞ……」
「拘束するか?」
雪弥は目に怯えを浮かべた。今の天陽なら拘束もやってのけそうだ。
「まあ、いい。こっちのほうが俺も楽しめるしな」
天陽は雪弥の肢体を上から下まで目でなぞった。
「先に食べよう。腹減った」
調理済みのものが既にテーブルに並んでいる。天陽は雪弥を腕に抱えたまま、サーバーから冷たい水をグラスに注ぐ。
そして、雪弥を腕に抱えたまま、テーブルにつく。
天陽は上機嫌だった。無言で沈んでいる雪弥とはまるで対照的だった。
自分の膝の間に座らせた雪弥がなかなか食べようとしないでいると、自分と雪弥の口に交互に皿の物を運ぶ。
食事の間じゅう、天陽は喋っていた。
「明日の夜には発情してるな。俺が欲しくてたまらなくなってる。俺、じゃないな。αだ。αが欲しくなる。でも、番にしたら、俺だけを欲しがるようになるんだ。雪弥は、俺にしか触られたくなくなる。指の一本、髮の一本まで、俺だけのものになる」
天陽はそう言いながら、雪弥の横顔を見つめてきた。
怯えた目で見つめ返す雪弥に苦笑いを寄越す。
「そんなに怖がらなくてもいいだろう。お前に痛みなど与えたことはないつもりだ。ずっとお前に尽くしてきた。こっちだって精一杯をお前に捧げている。ずっとお前を最優先にしてきたんだ」
天陽は雪弥の口をこじ開けてスプーンを入れる。雪弥は咀嚼させられるが味がわからない。天陽は続ける。
「最初の発情のときに、雪弥は俺が欲しいと言った。しかも腹で俺を受けると言った。お腹に欲しいと。夢見心地だったよ。嬉しくて眩暈がした。俺だけをひたすら欲しがっていた。俺だけを見て、俺だけに甘えてきてくれた。それに最初のキス、お前からしてくれた。有頂天になったよ。でも、あのとき、そばにいたのが、たとえば秀人ならどうだったろうな。それを考えたら惨めになったよ。Ωがαを欲しがっただけだった。雪弥は秀人にキスをして、秀人を欲しがってたんだろうな」
天陽は自嘲気味に笑った。
(違う。俺は天陽が好きだったから、だからキスをした。天陽を最も信頼していたから。そばにいるだけで安心できる相手だったから。なのに)
「……お、れを貶めるな。俺は天陽だったから…………」
「へえ、うぬぼれてもいいんだ、俺」
しかし、その声は少しも雪弥の言うことを真に受けてはいない。天陽の声にはわずかに苦悩がにじんだ。
「でも、発情が終わったら、俺の手を拒絶した。最初の夜が明けたとき、忘れてくれって言われたときは、ひどく傷ついたよ。俺たちの初夜だったのにな」
「えっ………?」
(そんな素振り少しも見せなかった。あのときは、俺だって、お前の素っ気なさに傷ついた)
「でも、お前は廊下で襲われたあと、俺を求めてくれた。最高だった。それからは自由に触らせてくれるようになって、俺はお前を好き放題にした。今じゃ、すっかり俺に馴染んで俺の思い通りの体だ」
天陽はそう言いながら雪弥の胸に触れてきた。ひとなぶりされるだけで硬く尖る。天陽にそうなるように仕込まれた。そのままなぶってくる天陽の手から身をよじって逃れる。天陽はそれ以上は責めてこなかった。
「まあいい。これからずっとお前は俺のものだ」
天陽は雪弥の背中をツーッと撫でる。
「んんっ………」
雪弥は背中をのけぞらせる。そのまま天陽から逃れようと体を離すも、天陽がしっかりと胴体を抑え込んでくる。
天陽の進めてくるフォークに乗った魚を雪弥は口に含む。雪弥には天陽に逆らう術はない。
テーブルの上に雪弥の涙がポトリと落ちた。
「こ、この魚、うまいな」
落ちた涙をごまかして、そう呟いた。本当は味などわからない。だが喉にするりと入っていくことからして極上の逸品なのだとはわかる。
天陽は雪弥の涙に気付いたのか、息を飲んだような気配があったが、その声は上機嫌を装っている。
「うまいだろ? この近くに店があるんだ。今日は魚だけど、肉もうまいんだ。発情が終わったら一緒に行こうな」
「ペットを連れて行くのか」
天陽はその言葉に固まると、しばらく黙っていた。ナイフとフォークが置かれ、やがて、深いため息があった。
そして、後ろから、雪弥を抱きすくめる。雪弥の肩に顎を乗せる。
「雪弥ァ………、どうして俺の気持ちがわからない? わかるだろ、俺がお前をどう思っているかなんて。俺はもうとっくに伝わっていると思っていたけど」
「わかんないよ……。俺にはお前のことなんてもう何もわかんないよ………!」
天陽の言葉はもう雪弥には届いてこない。天陽のことを完全に見失っている。
優しい天陽、自分をいつも照らしてくれた天陽、そんな天陽は最初からいなかった。雪弥をΩに閉じ込めようとする捕縛者しかいなかった。
「何で俺がお前をペット扱いすると思ったんだ? そう思われていたとは俺もショックだよ」
天陽の声は、上機嫌が一転して、低く沈んだものとなっている。
「違うのか?」
「もしかして、兄貴のせいか? 俺をあんなクソと一緒にするな。俺はあいつとは違う」
「……お前の部屋にスキンと書いた箱があった。あれを婚約者とは使ってるのに?」
天陽は合点がいったような声を出した。
「ああ! そのことか! 俺のバカ!」
天陽は、わめく。そして真剣な顔で雪弥の横顔に言ってきた。
「婚約者って、まだ小学生かそこらだ。クソ生意気ですげえ怖えの。スキンはあれだ。俺にもお前を諦めようとしていた時期があってさ、寄ってくる相手に手当たり次第に手を出しまくってた。中学のとき、俺、しょっちゅう寮を空けてただろ。そんとき俺、見境なくやりまくってた。そんな相手と生でやりたくなくてさ、そんときのだ。でも高1でお前をΩにすると決めて、一切そういうのをやめた」
天陽は早口でまくし立てると、急に黙り込み、「ふははっ」と笑った。そして、雪弥の肩に顔をうずめて横顔に頬を擦り付けた。
「雪弥ァ、なあ雪弥ァ、お前、もしかして嫉妬してくれてんの?」
天陽はそう言うと、雪弥の体を持ち上げて膝の上に横向きに座らせて、雪弥の顔を覗き込んでくる。
「嫉妬?」
「嫉妬でしょ、それ」
雪弥は天陽の嬉しそうな顔に戸惑いながらもそっぽを向いた。
そんな雪弥の顎を天陽がつまんで自分に向かせる。
「ほら、嫉妬だ」
「ち、ちが……」
「ああ! 最高だ! 雪弥ァ、いつから? いつからだ? ああやっぱりΩの性質がαを求めるのかな。でも、俺、それでも嬉しい!」
「ちがう。俺、ずっと前からお前のことが」
(ああ、そうか、嫉妬なのか、これは)
雪弥は俯いた。天陽はそれをさせずに、もう一度雪弥の顎を上に向ける。
「雪弥、俺を見て? よく聞いて? 俺、全部捨ててきた」
「…………えっ?」
「俺、大学が決まったら家を縁を切るって決めてた。それを言ったら親父に殴られた。母さんには泣かれた。兄貴には笑われた。でもあんな家クソ喰らえだ。お前が寮に帰った後、大変だったんだぞ。親父は日本刀持ち出して、俺に切りかかってくるしさ。マジで殺されるかと思った。母さんが叫んで使用人が親父を抑えてさ、もうすげえ修羅場。親父に蹴られまくってさ、あとで見せるけど痣になってんだ」
雪弥は天陽を見つめる。放心したような顔で聞いている。天陽が何を言いたいのかがわからない。その雪弥の顎を天陽はぐいと上げる。
「雪弥ァ、お前のためだぞ? 俺、お前のために全部捨ててきたんだぞ?」
「おれの、ため?」
「俺もお前だけのものだ」
雪弥は天陽を呆けた顔で眺める。天陽はそんな雪弥にさも愛おしそうな目を向けている。もう一度告げる。
「俺もお前のものになる。お互いにお互いだけのものだ」
長いこと呆けた顔で天陽を眺めていた雪弥の目に涙が浮かんできた。次から次へと涙が浮かんできては頬を濡らす。
「て、んよう………、お、お前は俺と伴侶になりたいのか。それで番にすると?」
「当たり前だろ? 俺を見てたらわかるだろ?」
天陽は雪弥の涙を親指でそっと拭く。
「ホ、ントに?」
「どうしてわからない? お前は俺の唯一無二だ」
雪弥の頬に幾筋もの涙が流れ落ちる。もう何の涙かわからない。ただ天陽の覚悟が伝わってきた。それが頬を熱く濡らしている。うまく働かない思考のもと、心は強く揺さぶられている。
(天陽がすべてを捨てて俺だけのものに………? 俺をΩに変えたのは俺とともに生きていくためなのか…………?)
もう一度天陽の像が明確な形を持ち始める。側にいるだけで安心させる天陽の像へと。天陽は一方的な収奪者ではなかった。天陽もまた雪弥に全てを差し出すつもりでいた。
「雪弥ァ、俺にそこまでさせたんだから、今日はねぎらってくれよ? そうだ、風呂で背中流してくれ。いつも、ぐったりしたお前の体を俺が洗ってるんだしな。足の指の間まで丁寧に洗ってやってんだぞ、この俺が。家に帰れば、爺やに玉の裏まで洗わせてた俺がさ」
雪弥は思わず笑みをこぼした。
「お、お前んちには、そんなことしてくれる爺やがいるんだ?」
天陽は雪弥の笑みにホッとしたような顔を向ける。
「うん。小2のときに死んじゃったけどね。何と腹上死。あとで意味が分かって敬服したね。やるな、ジジイって」
「あははっ、何だそれ」
雪弥の笑い声に天陽は喜びを満面に浮かべた。
「4月からは、大学近くのマンションに住もうな。でっかいベッド置いてさ。いや、ベッドは狭い方が良いな、くっつきあって寝られるもんな。お前知ってる? 結構寝相悪いんだぞ? 俺の足蹴りまくってるからな」
「親と縁を切ったのに、どうやって大学に行くんだ?」
「お前、俺を舐めてるな。親父の金庫から札束抜いてきた。親父、ネジが緩いから、30個くらい抜いても気が付かねえからな」
「あははっ、お前そういう奴な」
「そのうち日本刀も盗んでどっかに捨ててこねえとな。あのオッサン、我が親ながら危険人物」
「お前のお父さん、そんな人だったの?」
「うん、抜き身を振りかざして俺に突進してきたからな。ちびりそうになった」
「あははっ、何だそれ」
天陽が笑う雪弥をじっと見つめてきた。そして、かき抱く。
「俺、お前のために何でもする。だから雪弥、俺と番になって?」
天陽が項に唇をはわせてきた。雪弥はビクッと身を強張らせる。
雪弥は黙り込んだままだった。今は何も考えられない。
そんな雪弥を天陽が困り果てたような目で見ていた。しかし、きっぱりと断言する。
「雪弥、どうあがこうが俺は雪弥を番にする」
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