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幸せなΩ①
発情を迎えた夜。雪弥は追い詰められていた。
喜びと怒りとが両立している。
天陽への想いが報われていることの喜びと、しかし、彼こそが雪弥の災難の元凶だったことへの怒り。
天陽をどうして受け入れられよう。しかし、天陽を求めてたまらない。
ガラスブロック越しの月光が、室内に翡翠色の海を作り上げている。
もう何時間ベッドの上で過ごしているのかわからない。
快楽の場所を心得たうえでの発情中の情交は、想像を絶するものだった。次元の異なる交わりが繰り広げられていた。
「あああああっ……、もう……もうっ、……ああっ……」
「ゆきや、すごい締め付けだ。中がうねってる。いやらしいよ、雪弥」
「ああっ……、も、もう、おかしくなる……」
「雪弥、おかしくなって? 俺が雪弥をおかしくさせてるんだよ?」
体の表面の全てで性感を受け止める。器官の全てで快楽を受け止める。
雪弥が達する直前で、天陽は動くのをやめた。ベッドの上でビクビクと体を震わせている雪弥を見下ろした。
快楽の途中で放り出されて、雪弥は戸惑っている。
「あ………、あ………」
天陽は唇を重ね合わせてくる。雪弥は開いた唇で受け止める。
雪弥にとって天陽の与えてくるものは甘く気持ちが良く温かなものでしかなかった。とろける心地で熱い舌に自分の舌を絡ませる。チュ、チュ、と立てる音までもが、快楽の刺激となって、高波に打ち上げられていく。
天陽は唇を外しても見下ろしたままだった。
(こいつは敵だ。俺をΩにした)
理性ではそう思うのに、理性が飛んでしまえば、雪弥は甘えてねだるしかない。
「てんよ、う……。ほしい、天陽のがもっと……、もっと欲しい。もっと中に、……中にほしい。中に出して。おれの中に……」
何度も重ねた夜が、あられもなく欲しがることへの恥じらいを失わせていた。長いこと絶頂の高波に悶えてもう意識が朦朧としている。
雪弥は欲しいと懇願するが、天陽は動かない。
「雪弥、俺と番うか?」
天陽は再び、雪弥の奥深くに突き立てた。しかし、天陽は最奥を突き上げる手前で止めた。雪弥はもどかしく腰を揺らす。
「あ………、あ………、ほしい、天陽、お前がほしい……、お前のを……」
「俺と番うか?」
「…………出して、おれの、なかに。お前のが欲しい」
「番うと言え。そしたら、中に出してやる」
天陽は雪弥の胸の突起をひと撫でした。指先でなぶる。熱を孕んだそこは硬く弾む。天陽がそこをこねるたびに雪弥は背中をビクビクを跳ねさせる。
「あっ………、ああっ………」
「雪弥、番うと言え」
「あっ……………」
「雪弥、俺のものになれ」
「いや、いやだ……、俺はΩなんか嫌だ……、αに戻りたい……」
「まだそう言うのか」
「あっ………、あっ………」
「αに戻るには、俺が消えるしかない」
天陽は思いもかけないことを言い出した。
「て、天陽が? 消える?」
「そうだ。αに戻るには俺がお前のそばから消えるしかない」
雪弥はそれを聞きつけると焦点の合わない目で必死に半身を起こした。天陽の肩にしがみ付く。
「いやっ、そんなの嫌だっ、おれ、お前が消えるのなんかいやだ………。そんなひどいことをいうな……」
混濁した意識の中で、心の奥底の本音が雪弥の口からこぼれ始める。
「天陽、いなくなったらいやだ」
雪弥は涙をこぼし始めた。
天陽はそんな雪弥を見つめて、「そうか」と言った。
「天陽、……おれとずっと一緒に、ずっと俺のそばにいて……」
「うん」
「おれ、つがう、天陽の、つがいになる」
雪弥はついに天陽に降伏した。
「俺だけのΩになるんだな」
「う……うん……。お前の、つがいに、……お、れを、つがいにして……」
雪弥にはもうわかっている。天陽からは離れられないことを。それがαを捨てることになったとしても。
理性を失って、そこに感情だけが残ったときに、一つの答えにたどり着いていた。
天陽とは離れたくない、もう離れられない、と。
天陽は情愛のこもる目で雪弥を見つめた。そして、何度も突き上げた。
「ああああっ………、俺のてん、よう……」
雪弥はガクガクと震えて意識を失った。そんな雪弥の中に、天陽は精液を吐き出した。
天陽は涙をこぼしていた。涙をこぼして、雪弥を見つめていた。
「雪弥………、雪弥…………。お前は俺の全てだ…………」
天陽は深く呼吸をしながら、雪弥の頬を両手で包んだ。そして、その形を目に焼き付けるようにじっと見ていた。
室内に静けさが戻り、潮騒が満ちる。天陽はうなぞこに沈む彫像のように、じっと雪弥を見つめて動かなかった。
***
雪弥が目を開けると、朝の光が柔らかかった。明度の高い翡翠色に満ちて、南の島にいるようだ。そこが天陽の別荘であることを思い出す
ベッドには雪弥一人だった。
「天陽…………?」
発情期はどうやら過ぎた。
「てんよ………、天陽?」
雪弥は飛び起きた。波の音の合間にエアコンの音が低く唸っている。それ以外の物音はない。
「天陽? どこだ?」
声をかけるが返事はない。
「天陽、天陽、どこ?」
次第に焦りながら、部屋の隅々まで探し回る。
雪弥は天陽のスマホを鳴らした。電源が切れている。
「天陽……?」
遠い意識の淵で聞いた天陽の声を思い出した。
『好きだよ、これから先もずっと好きだ、雪弥…………。ごめんな』
天陽は、そう言い、そのあと、『ありがとう』と聞こえた気がした。
バスルームで首の後ろを確認する。項には何の跡もついていなかった。
(どういうことだ?)
スマホに天陽からのメッセージが届いていた。
『お前を解放してやる』
(天陽は俺を番にしなかったのか?)
メッセージの続きに目を走らせる。
『俺と離れていればそのうちαに戻る』
ペタリとカーペットに座り込む。
「天……よう……?」
声が漏れる。
(天陽、天陽、俺を置いて行ったのか? 俺を番にしないで?)
テーブルの上に薄紙で包まれたものがある。紐解けばクリーニングされた雪弥の服だった。
ノロノロと身につける。
(ずっと一緒にいるって言ったのに、ずっと一緒にいるって、一緒にいるって言ったのに………、お前は俺がいなくてもいいのか? 俺に会えなくてもいいのか…………?)
何となくこうなる予感はあった。
そもそも雪弥の意思にかかわらず番にするなら最初の発情のときにしたはずだ。天陽が無理やりに雪弥を番にするはずがない。
再びベッドルームに戻り、ベッドに身を伏せる。
(これで俺はαに戻れるのか………)
しかし、αに戻れる喜びは、全く湧いてこない。
それどころか、天陽がいない不安しかない。
(天陽が俺からいなくなる…………?)
急に深い穴に落ち込む心地がした。
枕元に丸いオレンジの粒が落ちているのに気付いた。
(錠剤……………?)
雪弥はその錠剤を口から出したことを思い出していた。必死で意識を保って吐き出していた。何とか吐き出してホッとしたのを覚えている。
自分の腹を抑えた。天陽のものが胎内にある。
(なぜ俺はピルを吐き出した?)
発情期は妊娠する可能性が非常に高い。
(これはΩの本能なのか? 強いαの子種を欲しがるのが。動物のようなあさましい本能のせいなのか)
しかし、以前感じたようなΩへの嫌悪は起きない。
(Ωがあさましい………? そんなことはない!)
雪弥は今となってはそのことを身をもって知っている。以前の雪弥はΩを蔑視していた。
しかし、今はそんな考えは微塵もない。Ωだって必死で生きている。ちゃんと尊厳のある一人の人間だ。
手の中の錠剤を見た。自分はなぜ錠剤を吐き出したのか。
(そして、正常な思考を持つ今、なぜ飲もうとしない?)
電子音が部屋に響く。
鳴ったスマホに飛びつく。
(天陽?!)
「雪弥さん………?」
継母だった。
こんなときに話したい相手ではなかった。口を利けないでいると継母は言ってきた。
「あなたの母親としては役不足でごめんね。雪弥さんの身に何があったのかわからないけど、あれからずっとあなたのことを考えてたの。その………、性別が変わったの? 俳優KみたいにΩになってしまったの?」
(何なんだ、この人は…………)
忌々しさと、面倒さに、雪弥は何も答えず黙っていれば、母親はまた口を開いた。
「私、うまく言えないけど、αだからすごいとか、Ωだからダメだなんて、そんなの、そんなのおかしい、って思ってたの。私の弟がΩでね、なのに私よりもずっと優秀だった。そして、Ωでもこんなに素晴らしい人生があるんだって、見せつけてやるって、保護施設に入らないで生きてきたの。今は立派に会社を経営してるのよ。結婚もして幸せそうにしてる。パパはあんなだけど、とにかく、私、雪弥さんのことを応援してるから」
継母は終いには涙ぐんでいた。
(何を言ってるんだ、今更)
腹を立ててみたものの、継母の温かい気持ちは雪弥にも伝わってきた。
確かに、αとΩに優劣の差はない。
(αからΩになろうと、俺の中身は同じだった。Ωになってからも変わらなかった。第二性と、人の優劣に関係はない)
Ω蔑視は、差別や偏見の類だととっくにわかっていた。
母のことが思い浮かんだ。Ωと駆け落ちした母。しかし、性衝動だけで駆け落ちなんかするはずもない。二人は心から愛し合ったに違いなかった。
(そして、俺も天陽を愛している……。天陽もまた……、俺をΩに変えるほどに愛しているんだ………)
雪弥は錠剤をティッシュにくるんでポケットに入れた。
雪弥の腹はとっくに定まっていた。
錠剤の訳は明らかだった。天陽と生きたいからだ。天陽が姿を消すのを予期した、雪弥の思考が吐き出させた。
(お前が消えていなくなるというのなら、俺はどんなつながりにでも縋ってやる)
「おかあさん、ありがとう」
思わぬ威勢のいい声が出てきた。
「雪弥さん……」
「お母さん、俺には大事な人がいます、その人と一緒に生きていくつもりです」
「……………まあ!」
継母は電話の向こうで感嘆の声を上げていた。
(俺、天陽を追いかけなきゃ!)
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