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第1話

王宮の地下――そこは、陽の光の一片さえ届かぬ、石と鉄でできた獄の底だった。 鉄錆びた檻の奥から、鈍い唸り声が漏れている。  獣たちが蠢いていた。戦で使われることを前提に飼われた、“野獣”たち。喰らい、殺し、命ずれば何にでも牙を剥く生きた兵器。 アゼリアンは、硬い石段を「コツ、コツ」と叩く細い杖を頼りに、手探りで階段を降りていた。 視えぬ世界のかわりに、杖の微かな抵抗と、足裏に伝わる段差の感触がすべてだった。 暗闇に慣れていても、この地下だけは湿気と瘴気のようなものが濃く、嫌でも空気の違いを感じ取らされた。 「……ここが、餌やりの場所?」 肩に下げた袋には、カビが生え、嫌な臭いのするパンと腐った肉。これが“餌”なのだと兄に言われたとき、彼は黙ってうなずくしかなかった。 ――せめて、落とさずに運ばなければ。 視えぬ目の代わりに頼るのは、足裏の感覚と壁伝いの手、そして手に握られた細い杖の反響。 硬い床を「コツ、コツ」と小さく叩くその音が、進むべき道を教えてくれる。 慎重に進んでいたはずだった。だが、不意に段差を踏み外し、肩にかけていた袋がずり落ちた。 「……!」 布袋が石畳に落ち、中身が転がる。アゼリアンはしゃがみ込んで、手探りで一つひとつ拾い集めた。  土の匂いにまみれたパンを、申し訳なさそうに握りしめる。 「――……何やってんだ、人間」 声がした。低く、冷たく、興味も憐れみもない声。 アゼリアンは驚きに目を見張り、反応がわずかに遅れた。 視えない代わりに、彼の聴覚は研ぎ澄まされている。 だからこそ――声のする位置は、正確に把握できるのだ。 「……あ、えと……ごめんなさい、ごはんが……」 うつむいたまま手を伸ばす。見えない指先が、ゆっくりと、鉄格子の位置を探っていた。 「その目。……見えてないのか」 無機質だった声に、わずかな濁りが差す。 アゼは戸惑いながら、うなずいた。 「生まれつき、見えないんです」 返事のあと、しばし沈黙が流れた。 それは人間にとっては気まずい間で、獣にとってはただの無意味な“空白”だったかもしれない。 「お前、なにしに来た」 「……兄さんに、“お前でもこれくらいは出来るだろう”と、あなたたちのお世話を命じられました」 「ふん、新しい餌やり係か」 吐き捨てるような声。 だが、その直後――野獣は一歩、檻の中で体を起こした。鉄がきしむ音。アゼの鼻先に、動物の匂いが強くなる。 「……置いてけ。触れるな」 「……はい」 アゼは袋からパンと肉の欠片を取り出し、檻の隙間からそっと差し入れた。獣の気配は、触れる寸前でぴたりと止まる。 息づかいだけが、目の前にある。 「あなたの名前は?」 「名乗るほどのもんじゃねえ」 即座に返された言葉は、まるで壁のようだった。 けれどアゼは微笑む。かすかに、優しく。 「僕はアゼリアン。アゼで、いいよ」 沈黙。 そして、目が見えぬ少年の指先が、すこし傷つき、埃まみれになっているのを、野獣はちらりと見やった。 ――見えないくせに、こんな場所で、なにやってんだ。 そう呟きかけて、口を閉ざす。 アゼは白い杖を手に、手探りで進んでいた。 床をそっと撫でるように、つん、と前を突きながら、不器用ながらも他の檻の連中に「どうぞ」と声をかけ、丁寧に食事を配っていく。 時折、段差に躓き転びそうになりながらも、ひとつひとつ確かめるように、歩を進めた。 かつてここに来た餌係たちは、乱暴に食事を投げ入れる者、与えるふりをして結局何も渡さなかった者、わざと地面に落とし、踏みにじってから檻へ蹴り入れる者。 そんな奴らしかいなかった。 だが、この少年は違う。 まだ興味はない。けれど、“異物”としての人間ではなかった。 あの手だけは、少しだけ違う気がした。 泥にまみれても、傷ついても、どこまでもまっすぐで。 役目を終え、よたよたと歩き出すアゼの背中に、野獣はふいに「おい」と口を開いた。 「……ガルヴァンだ」 それは、長いあいだ誰にも呼ばれなかった自分の名。 まるで岩に刻まれた記憶のように重たく、けれどどこか――あたたかさを孕んでいた。 アゼの足が止まる。振り返る気配。けれどその目は、どこも見ていない。 「ガルヴァン……? うん、覚えた。……また来るね。ガル」 それは、はじめて名前で呼ばれた瞬間だった。

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