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第2話
また来た。
コツ、コツと階段を降りる細い音が、重苦しい地下牢の空気を裂いて響く。かび臭い石壁に、ほんの微かな人の匂いが混じるたび、ガルヴァンは無意識に鼻先を動かしていた。
アゼリアンは、今日も白い杖を手に、ひとりでやってきた。
その手には、掃除道具と、替えの藁。肩からは古びた布袋。
檻の奥、壁際には木の樽が置かれていた。本来なら水が入っているはずのそれは、排泄物を受けるためのものとして使われている。
清掃など滅多にされず、溢れた汚物は床に広がり、悪臭が立ちこめていた。
手にも負えないような腐った残飯の残り、乾いた糞、泥に混じった藁くず。
アゼリアンは、白杖の先で床をなぞりながら、左手に握った箒を持ち直した。
床に散った藁や食べカス、乾いた泥を、粗く編まれた箒で集めていく。
傍らには、板を削って作られた簡素な塵受け。彼は器用にそれを足先で支えながら使うようになっていた。
「……ごめんね、すぐ替えるから……今日は、ひどい匂いだね……」
そう呟く声は、不思議と柔らかかった。
何度も階段を上り下りして、替えの藁を抱えて戻ってくる。息を切らせ、額に汗を滲ませながら、それでも動きは止まらない。
「今日は風があるから、少しは楽かな……」
そう言いながら、藁を敷き直すその手は、まるで誰かの寝床を整えるように優しかった。
ガルヴァンはただ、じっとそれを見ていた。
この場所に、こんな手があるなんて思わなかった。
人間は、嫌悪の目で睨みつけ、鉄格子越しに嘲笑い、汚物すら投げ込む存在だった。
だがこの人間は、目も見えず、細い体で、命じられただけの仕事以上のことを黙って続けている。
「……アゼリアン」
名を呼ぶつもりではなかった。けれど喉の奥から漏れたその響きに、アゼは顔を上げた。
「ガル……? 大丈夫……藁、もう少しだけだから……」
白杖を握る手が、薄く赤く染まっていた。縄の擦れか、何度もぶつけたのだろう。
人間など、どうでもよかったはずだった。
なのに。
どうして、こんなにも目が離せない。
「……アゼ」
また、名前が漏れた。自分でも意図せずに。
アゼはぴたりと手を止め、こちらへと顔を向けた。
「……ガル? あ、ごめん……踏んじゃってた?」
違う。
だが言葉にはしなかった。
代わりに、ただその姿を見ていた。
視えぬ目で、すべてを見ようとするように、檻の奥まで必死に手を伸ばすその姿を。
あの手は、やはり――少しだけ、違う。
***
床に膝をつき、箒でこつこつと汚れを掃き寄せていたアゼリアンは、不意に手元の白杖が無くなっていることに気づいた。焦って手を伸ばした先に、乾いた笑い声が降ってくる。
「お探しかい、お坊ちゃん?」
その声の主は、隣の檻にいる|猫獣《びょうじゅう》、ライグだった。細身の体躯にしなやかな尻尾、吊り目がにやりと歪んでいる。ライグはアゼの杖を指の先で弄びながら、檻の隙間からひょいと手を伸ばす。
「細い腕だな。ちょっと握ったら折れるんじゃないか?」
冷ややかな悪意と戯れが混じった声。次の瞬間、アゼの手首が乱暴に掴まれた。びくんと肩が震え、喉奥から掠れた声が漏れる。
「……っ、やめてっ!」
――バチン!
首輪に埋め込まれた法具が反応した。淡い光を帯びた紋が一瞬煌めき、野獣の首元から電撃が走る。 肉が焼けるような音と共に、猫の野獣が悲鳴を上げてのたうった。
「ぐ、あああっ……くそっ、なんだよ……ちっと可愛がってやろうとしただけじゃねぇか……!」
アゼは思わず後ずさった。床に転がった白杖に手を伸ばすが、震えてうまく掴めない。
「自業自得だ。人間に手を出したら、こうなると分かっていただろ」
静かに、だが低く抑えた怒りの声が響いた。ガルヴァンだった。金属のように冷たい声音で睨みを利かせ、じりじりとライグへと視線を送る。
アゼは、その声に縋るように顔を向けた。何も見えない目は揺れ、唇が震える。
「……あの、ごめんなさい……僕のせいで……」
その言葉に、ライグがかすれた声で嗤った。
「あ……? ハハッ……俺たちに謝る人間なんて、初めて見たぜ」
ガルヴァンの眉が、ほんの少しだけ動いた。
――こいつは、他の奴らとは違う。
一通りの掃除を終え、パンと水を配っていたアゼの前に、影が落ちた。
足音。床に沈むような重さ。肩幅の広い、無骨な気配。
「……粗末だけど、焼きたてだよ」
怯まず、アゼは焼きたてのパンと水袋を差し出す。
大きな手が、それらをそっと受け取った。意外にも、その仕草はとても丁寧だった。
「……ありがてぇ」
くぐもった低い声。それだけだったが――アゼは、そこに微かなぬくもりを感じた。
しばしの沈黙ののち、|猪獣《ちょじゅう》のバムがぽつりと呟く。
「……ライグが、ちょっかいかけてごめんな。あいつ、ホントは悪いやつじゃねぇんだ」
アゼは少し驚いたように顔を上げた。
「たぶんアゼのこと、好きなんだと思う。……あいつ、好きな子に意地悪するタイプだから」
向かいの牢から抗議の声が飛んだ。
「おいバム! 余計なこと言ってんじゃねぇ!」
バムはパンをかじりながら、ぽつりと返す。
「ほらね」
アゼが小さく笑った。
その笑みを、ガルは黙って見ていた。
この牢に来る前――獣たちは、ただ飢え、怒り、諦め、牙を磨いていた。
笑い声など一つもなかった。希望など、とうに失われていた。
だが、あの少年が現れてから――
掃除をして、焼きたてのパンを配り、水を汲んできて、毒もないのに味見までして。
名前を呼んで、言葉をかけて、ひとりひとりに怖れずに接する。
ただそれだけのことが、ここにいた全員の何かを少しずつ変えていった。
ライグでさえ、もう前のような殺気を纏っていない。
そして、今。アゼが笑った。
ほんの小さな笑みが、薄暗い牢の空気を、ほんのわずかに、けれど確かに照らしていた。
――守らなければならない。
このささやかなぬくもりが、また踏みにじられぬように。
いつの間にか、そう思っていた自分に気づき、ガルはそっと目を伏せた。
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