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第3話
アゼの父――この国の王が治める王都は、今やかつての栄華の面影を失いつつあった。
隣国との冷戦状態は長引き、度重なる小競り合いのせいで、国の資源は枯渇。焦土のような荒野を広げるばかりで、国民の生活も逼迫していた。
それでも国を守らねばならぬ王家の者たちは、弱みを見せるわけにはいかなかった。
「……アゼ」
廊下の途中で、鋭く名を呼ばれた。
それだけで、アゼリアンは足を止め、肩をぴくりと震わせる。
第二王子――セリオス。彼の異母兄が、苛立ちを隠しもしない声で言い放つ。
「あとで、俺の部屋に来い」
返事は、できなかった。
聞こえなかったふりをするには遅すぎる距離だったし、かといって従順に頷くのは悔しすぎた。
けれど、この命令の意味は知っている。
アゼは、父の側室の子だ。
正式な后の子ではない自分は、王宮のなかではいつだって「余計な存在」だった。
母は、自分を産んだ直後に忽然と姿を消した。
王である父には見向きもされず、王妃には疎まれ、そして――腹違いの兄に慰み者として扱われている。
「……兄さんっ……お願いだから、もうやめて……」
「……黙れ。お前なんて、こんなことしか能がないだろう」
人目のつかぬ王宮の片隅で、声も上げられぬまま、ただ黙って耐える夜が幾度あっただろう。
何も持たない自分にとって、拒むことは贅沢だった。
「王子」と呼ばれることすら、もうなかった。
居場所も与えられず、使用人としてこき使われる日々――それが、アゼの「王族」としての現実だった。
***
今日もまた、コツ、コツと、あの優しい音が降りてくる。
遠くから階段を降りてくる、あの細い杖の音。
耳に届くたび、無意識に尻尾が揺れそうになるのを、いつもどおり平静を装って抑え込んだ。
だが、見慣れたはずのその姿に、今日だけは違和があった。
俯きがちに項垂れ、長い前髪が顔を隠している。どこか、息をひそめるような歩き方だった。
「……アゼ?」
牢の奥からではよく見えない。
だが、扉の外から差し込んだ松明の明かりが、彼の顔を照らした時——
切れた唇。血がにじむ口角。腫れ上がった頬。
「……どうした、その顔は」
低く問いかける声が、自分でも抑えたつもりだったのに、怒気を帯びていた。
その声に、ほかの獣たちも牢の中から心配そうに顔をのぞかせていた。
アゼは笑った。痛々しく、力なく。
「今日も……みんなに、焼きたてのパンを持ってきたよ。食べて……」
手探りで袋を探る。その指先が震えているのに、気づかないふりをするには限界があった。
差し出された腕。袖がずり落ち、痣がひとつ、またひとつ。
ガルは咄嗟に、その細い手首を掴んだ。
「アゼ……誰にやられた」
「大丈夫。ぶつけただけ、だから」
また、笑う。今にも泣きそうな顔で。
「はい、ガルの分。食べて」
その手には、焼きたてのパンが握られていた。ほんのり、温かい香りがした。
アゼがパンを渡そうとする腕を、ガルはそっと引き寄せる。
袖をまくると、そこには皮膚の薄い手首に、指の形が残るほどの痣。
「……人間の傷は、放っておくと膿む」
低く唸るような声で言って、ガルはそのまま手首に顔を寄せた。
「……え?」
戸惑うアゼの問いかけの前に、ぺたりと温かな感触が走る。
傷の上を、獣の舌がひと舐めした。
「ガル……?」
「黙ってろ。……癒やせる気がする」
それが確かかどうか、本人にも分かっていなかった。
人間に、その効力があるかどうか試したことがなかったからだ。
ただ、本能がそうさせていた。
この柔らかい肌に、こんな痣を残していいはずがない。誰のものでもないはずなのに、誰かが痛めつけたことが許せなかった。
もう一度、傷に舌を這わせながら、ガルは低く、唸るように呟く。
「チッ……こんな檻越しじゃ、届かないな」
ガルは低く呟き、鉄格子の中で音を立てる鎖を引いた。
首輪につながれた枷が、彼の動ける範囲を制限している。
「来い。……酷いことはしない。誓う」
その声は、いつもより少し低く、けれどどこまでも穏やかだった。
本能で相手の気を察するアゼには、ガルの言葉が嘘ではないと分かった。
「……うん」
ほんのわずかな逡巡のあと、アゼは鍵を外し、そっと中へ足を踏み入れる。
「そこに座れ。……顔、見せろ」
そっとしゃがみ込んだアゼの腫れた頬に、ガルが顔を寄せてくる。
ぺたり、とあたたかい舌が肌を撫でた。
「っ……」
くすぐったさと、少しの安堵。
「これで少しは、マシになるといいが」
アゼはそっと指先で腫れていた頬に触れる。
痛みを思い出して身構えたけれど――何も、感じない。
「……あれ……?」
指でなぞった肌は、あんなに腫れていたのに、今はほとんど平らだった。
切れていた唇も、ぬるりと濡れていた舌の感触だけを残して、もう痛まない。
「ガル……これ……治ってる……?」
「ああ、俺には癒しの力がある。……人間に試したのは初めてだけどな」
ガルは、爪を立てぬよう注意しながら、そっとその頬に触れた。
その手を、アゼが両手で包み込むように重ねる。
「……ありがとう……ガル」
「いや……。お前の目までは、治してやれないが……」
「ううん、十分だよ」
舌が傷口を優しくなぞり終えると、ガルはただ黙って、目の見えぬアゼを見つめ続けていた。
その熱い眼差しに気づかぬまま、アゼはほっとしたように微笑んだ。
――本当は、アゼの目を癒せるかどうかなど、俺にも分からない。
だが、もしそれが叶ってしまったら……
光を取り戻したお前が、俺の顔を見て怯え、もうここへ来なくなるかもしれない。
そう思うと、願うことさえ怖かった。
ガルの爪が、ごくわずかに震えた。
「……どうしたの?」
アゼがふと、小さな声で問いかける。
その手が、ガルの指先に添えられ、温もりが静かに伝わる。
「……なんでもない」
ガルは首を横に振り、それ以上は何も言わなかった。
ただ、そのぬくもりが逃げないように、そっと自分の手を重ね返した。
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