3 / 8

第3話

アゼの父――この国の王が治める王都は、今やかつての栄華の面影を失いつつあった。 隣国との冷戦状態は長引き、度重なる小競り合いのせいで、国の資源は枯渇。焦土のような荒野を広げるばかりで、国民の生活も逼迫していた。 それでも国を守らねばならぬ王家の者たちは、弱みを見せるわけにはいかなかった。 「……アゼ」 廊下の途中で、鋭く名を呼ばれた。 それだけで、アゼリアンは足を止め、肩をぴくりと震わせる。 第二王子――セリオス。彼の異母兄が、苛立ちを隠しもしない声で言い放つ。 「あとで、俺の部屋に来い」 返事は、できなかった。 聞こえなかったふりをするには遅すぎる距離だったし、かといって従順に頷くのは悔しすぎた。 けれど、この命令の意味は知っている。 アゼは、父の側室の子だ。 正式な后の子ではない自分は、王宮のなかではいつだって「余計な存在」だった。 母は、自分を産んだ直後に忽然と姿を消した。 王である父には見向きもされず、王妃には疎まれ、そして――腹違いの兄に慰み者として扱われている。 「……兄さんっ……お願いだから、もうやめて……」 「……黙れ。お前なんて、こんなことしか能がないだろう」 人目のつかぬ王宮の片隅で、声も上げられぬまま、ただ黙って耐える夜が幾度あっただろう。 何も持たない自分にとって、拒むことは贅沢だった。 「王子」と呼ばれることすら、もうなかった。 居場所も与えられず、使用人としてこき使われる日々――それが、アゼの「王族」としての現実だった。 *** 今日もまた、コツ、コツと、あの優しい音が降りてくる。 遠くから階段を降りてくる、あの細い杖の音。 耳に届くたび、無意識に尻尾が揺れそうになるのを、いつもどおり平静を装って抑え込んだ。 だが、見慣れたはずのその姿に、今日だけは違和があった。 俯きがちに項垂れ、長い前髪が顔を隠している。どこか、息をひそめるような歩き方だった。 「……アゼ?」 牢の奥からではよく見えない。 だが、扉の外から差し込んだ松明の明かりが、彼の顔を照らした時—— 切れた唇。血がにじむ口角。腫れ上がった頬。 「……どうした、その顔は」 低く問いかける声が、自分でも抑えたつもりだったのに、怒気を帯びていた。 その声に、ほかの獣たちも牢の中から心配そうに顔をのぞかせていた。 アゼは笑った。痛々しく、力なく。 「今日も……みんなに、焼きたてのパンを持ってきたよ。食べて……」 手探りで袋を探る。その指先が震えているのに、気づかないふりをするには限界があった。 差し出された腕。袖がずり落ち、痣がひとつ、またひとつ。 ガルは咄嗟に、その細い手首を掴んだ。 「アゼ……誰にやられた」 「大丈夫。ぶつけただけ、だから」 また、笑う。今にも泣きそうな顔で。 「はい、ガルの分。食べて」 その手には、焼きたてのパンが握られていた。ほんのり、温かい香りがした。 アゼがパンを渡そうとする腕を、ガルはそっと引き寄せる。 袖をまくると、そこには皮膚の薄い手首に、指の形が残るほどの痣。 「……人間の傷は、放っておくと膿む」 低く唸るような声で言って、ガルはそのまま手首に顔を寄せた。 「……え?」 戸惑うアゼの問いかけの前に、ぺたりと温かな感触が走る。 傷の上を、獣の舌がひと舐めした。 「ガル……?」 「黙ってろ。……癒やせる気がする」 それが確かかどうか、本人にも分かっていなかった。 人間に、その効力があるかどうか試したことがなかったからだ。 ただ、本能がそうさせていた。 この柔らかい肌に、こんな痣を残していいはずがない。誰のものでもないはずなのに、誰かが痛めつけたことが許せなかった。 もう一度、傷に舌を這わせながら、ガルは低く、唸るように呟く。 「チッ……こんな檻越しじゃ、届かないな」 ガルは低く呟き、鉄格子の中で音を立てる鎖を引いた。 首輪につながれた枷が、彼の動ける範囲を制限している。 「来い。……酷いことはしない。誓う」 その声は、いつもより少し低く、けれどどこまでも穏やかだった。 本能で相手の気を察するアゼには、ガルの言葉が嘘ではないと分かった。 「……うん」 ほんのわずかな逡巡のあと、アゼは鍵を外し、そっと中へ足を踏み入れる。 「そこに座れ。……顔、見せろ」 そっとしゃがみ込んだアゼの腫れた頬に、ガルが顔を寄せてくる。 ぺたり、とあたたかい舌が肌を撫でた。 「っ……」 くすぐったさと、少しの安堵。 「これで少しは、マシになるといいが」 アゼはそっと指先で腫れていた頬に触れる。 痛みを思い出して身構えたけれど――何も、感じない。 「……あれ……?」 指でなぞった肌は、あんなに腫れていたのに、今はほとんど平らだった。 切れていた唇も、ぬるりと濡れていた舌の感触だけを残して、もう痛まない。 「ガル……これ……治ってる……?」 「ああ、俺には癒しの力がある。……人間に試したのは初めてだけどな」 ガルは、爪を立てぬよう注意しながら、そっとその頬に触れた。 その手を、アゼが両手で包み込むように重ねる。 「……ありがとう……ガル」 「いや……。お前の目までは、治してやれないが……」 「ううん、十分だよ」 舌が傷口を優しくなぞり終えると、ガルはただ黙って、目の見えぬアゼを見つめ続けていた。 その熱い眼差しに気づかぬまま、アゼはほっとしたように微笑んだ。 ――本当は、アゼの目を癒せるかどうかなど、俺にも分からない。 だが、もしそれが叶ってしまったら…… 光を取り戻したお前が、俺の顔を見て怯え、もうここへ来なくなるかもしれない。 そう思うと、願うことさえ怖かった。 ガルの爪が、ごくわずかに震えた。 「……どうしたの?」 アゼがふと、小さな声で問いかける。 その手が、ガルの指先に添えられ、温もりが静かに伝わる。 「……なんでもない」 ガルは首を横に振り、それ以上は何も言わなかった。 ただ、そのぬくもりが逃げないように、そっと自分の手を重ね返した。

ともだちにシェアしよう!