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第4話
石畳を叩く規則的な足音が、遠くから近づいてくる。
その響きだけで、アゼには誰なのか分かった。
息を潜めるように壁際に身を寄せ、長い前髪で顔を隠して俯く。
気づかれませんように、通り過ぎてくれますように──。
祈るような願いは、無情に打ち砕かれた。
不意に腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。
身体が揺れた拍子に、顔を隠していた髪がふわりと流れ、傷一つない頬が露わになった。
「隠すな。見せろ」
低く冷たい声とともに、覗き込まれるように顔を引き上げられる。
視えぬアゼは、ただ怯えたように眉を寄せ、小さく震えながら唇を噛んだ。
兄、セリオスの目が細くなり、アゼの頬を無遠慮に掴んで更に顔を上げさせる。
「貴重なポーションを、誰の許可で使った?」
「っ……使ってない、僕は……」
真実を告げかけたその口が、かすかに震えた。
──ガルのことを話してはいけない。
あの力を人に試したのは初めてだと言った。
話してしまえば、彼はまた“使える道具”として目をつけられる。檻の中に、あんな穏やかな笑顔を向けてくれる場所など、もうなくなる。
アゼはぎゅっと拳を握り、視えぬ目を伏せて言った。
「……勝手にポーションを使って、ごめんなさい」
嘘だった。けれど、守りたいもののためにつく、精一杯の嘘だった。
セリオスはしばらく黙っていたが、やがて氷のような声音で告げた。
「……仕置きが必要なようだな」
その眼差しに、もはや情の欠片はなかった。
***
体のあちこちが痛む。
ぐったりとベッドに身を沈めながら、アゼは虚ろな目で、あの温かな手の感触を思い返していた。
優しく触れてくれた、あの大きな掌。怖くなかった。心地よかった。ただ、そばにいるだけで癒されていくような……。
──会いたい。今すぐにでも。けれど、行けない。
こんな姿を見せてしまったら、きっとガルはまた心を痛めてしまう。
彼を、これ以上、傷つけたくない──その想いだけが、アゼの細い体を縛っていた。
その日、アゼは一歩も部屋から出られなかった。
薄暗い寝室の中、誰にも届かない小さな声が、喉の奥からこぼれた。
「……ガル……」
今夜は、あの軽やかな杖の音は聞こえなかった。
ガルはいつもの場所に座ったまま、檻の向こうをじっと見つめていた。
夕方に灯された松明の火はすでに消え、今は闇だけが地下を満たしている。
アゼの足音が、気配が、何も届かない夜は初めてだった。
「……来ない、のか」
そっと呟いた声が、誰にも聞かれずに石壁に吸い込まれていく。
気づけば、長い尾が寂しげに床をなぞっていた。
アゼの姿がないだけで、こんなにもこの場所が冷たく感じられるとは思っていなかった。
あの小さな笑顔。ふんわりと香るパンの匂い。細くても真っ直ぐに差し出された手。
そのすべてが、心を満たしていたのだと──今になって、強く痛感する。
「ふあぁ……なんだよ、あのチビ坊や、今日はお休みか?」
ライグだった。
鉄格子に片肘をついて、尻尾を揺らしながらガルの方をちらりと覗き込んでくる。
「……退屈だなぁ。最近の楽しみって言ったら、あいつのうっかり転び芸くらいだったのに。なー、あんたもそう思うだろ?」
無言のまま、ガルは目を閉じた。
「……ふん」
短く鼻を鳴らすと、ライグはまた檻の奥に引っ込み、毛繕いを始める。
「ま、来ない理由なんて、だいたい碌でもねぇもんだ。あの細っこい腕、折られてなきゃいいけどなぁ……」
それを聞いて、ガルの耳がぴくりと動いた。
──胸の奥を、何か冷たいものが這いずる。
嫌な予感が、静かに忍び寄っていた。
***
不定期で設けられる屋外訓練の場。
日差しが焼けつくように照りつけるなか、ガルはいつものように鎖の届く範囲で身体を動かしていた。
だが今日に限って、視線の端に違和感が刺さる。
──監視。
見なくてもわかる。
静かに、けれど確実にこちらを値踏みする視線。
その先に立っていたのは、訓練に付き添っているとは思えない格式ばった装いの男。
あの男、戦場で見たことがある。
指一本汚さずに命を操る。血の匂いを纏わぬくせに、戦場の空気よりも冷たい男。
──セリオス。この国の第二王子。
己の野望のためなら、誰の命も惜しまぬ、冷徹な支配者。
「……チッ」
思わず舌打ちが漏れる。
その時だった。
ふらりと遅れて姿を現した細い影。
アゼ──。
見るな、と頭が叫ぶ前に、ガルの視線は彼を捉えていた。
その歩みは遅く、不自然にぎこちない。
表情は見えないが、明らかに何かがおかしい。
動きを追っていた鎖の先、彼の腕が風に煽られて 揺れた瞬間──袖の隙間から、紫色に変色した肌がちらりと覗いた。
「……ッ!」
呼吸が荒くなる。
内側から湧き上がる怒りが、体内で爆ぜた。
拳を強く握りしめ、爪が掌を食い破らんとする。
喉の奥で唸るような低音が漏れた。
(また、あの男か──)
すべてを察した。
アゼが、どれだけの痛みを抱えてここに立っているのか。
何も言わず、ただ従うしかないその姿に──
「……セリオス」
その名を呟いた瞬間、野獣の目が怒りに染まった。
鎖がなければ、今すぐ飛びかかっていた。
あの薄ら笑いの喉元に、迷わず牙を立てていた。
ガルの呼吸が荒くなるのを、横目で見ていたのはライグだった。
獣のごとき気迫が肌を刺す。拳は血が滲むほど強く握られている。
「……ちったぁ落ち着け」
ライグが低く囁いた。
ガルは振り向かない。けれど、その肩がほんの僅かに揺れる。
「今ここで騒ぎを起こしても、チビ坊やが悲しむだけだぜ」
淡々と、けれど真剣な声音だった。
それでもガルは答えなかった。
だがその瞳に宿っていた狂気の色が、ほんの少しだけ、揺らいだ。
アゼはまだ、ゆっくりとこちらに歩み寄っている。
何も知らず、ただ日常の一部として。
──だからこそ、騒ぎ立ててはいけない。
その小さな平穏を、今はまだ守らなければならない。
ガルは苦しげに息を吐き、拳をほどいた。
だがその目には、燃えるような怒りが静かに灯り続けていた。
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