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第5話※R描写
夜。静寂を割るように、どこか心地よい杖の音が地下牢の石畳に響いた。
その音を耳にした瞬間、ガルの耳がぴくりと動く。
「今日は、傷んでないお肉と綺麗な水を持ってきたよ」
囁くような声とともに現れたのは、いつもの少年──アゼだった。
昼間、セリオスの傍らで所在なげに伏し目がちだった彼の顔は、今はまるで別人のように穏やかで、 優しい微笑みをガルに向けていた。
その笑顔が、ガルの胸を余計に締め付ける。
無理をしているのが、わかってしまうから。
「……アゼ」
名を呼びながら、ガルは格子の隙間から手を伸ばし、アゼの細い体を引き寄せた。
鉄の柵越しに、抱きしめる。
途端に、アゼの体が小さく震え──そして、ごくわずかに、顔を歪めた。
「……痛むのか?」
ガルが囁くように問うと、アゼは慌てて首を振った。
「違う、そうじゃない。大丈夫……だよ」
けれどその言葉とは裏腹に、薄く開かれた襟元から覗いた鎖骨や腕には、淡い紫の鬱血がにじんでいた。
指でそっとなぞれば、すぐにでも壊れてしまいそうな、脆い痕跡。
──どれほど、我慢してきたのか。
胸の奥で、じくじくと熱を帯びた怒りが膨れあがる。
だが、今ここでぶつけるべきは怒りではなく、癒しだ。
ガルはアゼをそっと引き寄せ、額を触れ合わせるようにして目を閉じた。
「……アゼ。お願いだ。俺の傍に来てくれ」
その声音に、欲などひとつもなかった。
アゼはゆっくりと檻の扉を開け、中へと足を踏み入れる。
わずかに震える指先。けれどその顔には、怖れよりも、どこか安心したような色があった。
ガルがそっと、その細い体を自分の胸に抱き寄せる。
片腕を背にまわし、もう片方の手でアゼの肩口にある鬱血をそっとなぞった。
「……冷たいか?」
「ううん……その、……くすぐったい、かも」
アゼの声が微かに震えた。
それが痛みのせいではないと、ガルにはすぐに分かった。
「……治してやりたい。俺の力で」
低く、熱を孕んだ声でそう言いながら、ガルはアゼの鎖骨に唇を落とした。
舌先が、皮膚にやさしく触れる。
まるで壊れものに触れるように、慎重に、静かに──。
「……あっ」
甘く漏れたアゼの声に、ガルの動きが一瞬止まる。
だが、すぐにまたそっと唇を這わせ、内出血した箇所に優しく口づける。
肌の奥まで舐め取るような、丁寧な動き。
「すまない。……痛くないか?」
「……ううん。痛くない……けど、なんか、変な感じで……」
ガルの舌が、鎖骨の下、腕の内側へと移るにつれて、アゼの身体がふわりと震える。
呼吸が浅くなり、細い指がそっとガルの服をつかんだ。
「……ガル、どうしてこんなに……やさしいの……?」
ぽつりとこぼれた問い。
ガルは顔を上げ、真っ直ぐにアゼの目を見つめた。
その瞳が何も映さなくても、気持ちは届くと信じて。
「お前を、大事にしたいからだ。
誰にも、傷つけさせたくない……もう、これ以上」
その言葉に、アゼの喉が小さく鳴る。
今まで知らなかった感情に、体が戸惑い、心が揺れる。
「……変な声、出たら……ごめんね……」
「いい。お前の声なら、全部欲しい」
そう言って、ガルはふたたび唇を落とす。
今度はアゼの首筋に、少しだけ深く──
舌と息づかいが混ざるその熱に、アゼの背が小さく跳ねた。
「ん……っ……ガル……」
静かな地下牢。
重なり合う鼓動だけが、壁に優しく反響していた。
そっとシャツの裾に手をかけると、アゼの体がわずかに強張った。
布越しに指先が滑り込む。静かにめくり上げたその下──。
ガルの眉が僅かに寄る。
本来なら白く滑らかなはずの肌には、無数の痣や傷が刻まれていた。まだ赤く腫れた新しい傷もあれば、褪せた紫に変色した古傷もあった。何度も何度も、癒えぬままに重ねられた苦痛の痕。
「……俺は、お前の兄を殺すかもしれない」
震えるような吐息混じりの言葉に、アゼは目を伏せた。
「ガル……」
「少し、我慢してくれ」
祈るように、赦しを乞うように。
ガルはその長い舌で、ひとつひとつ、傷跡に唇を寄せ、優しく、丁寧に舐めた。
じんわりと沁みる温もりに、アゼの肩がふるりと震える。
「……ん、ぁ……っ……」
抑えようとするほどに、漏れ出てしまう甘やかな吐息。
その声に、ガルの胸の奥が激しく揺さぶられる。
アゼの手が彼の柔らかく分厚い体毛をきゅっと握る。そこに込められた微かな震え──拒絶ではなく、受け入れようとする勇気。
──愛おしい。
その感情に名を与えるのは、これが初めてだった。
獣の身でありながら、誰かをこんなにも大切に想うことがあるなんて。
今だけは、この小さな命を守るために、すべてを捧げてもいいと思えた。
「おいおい、ガルヴァン。お楽しみは一人占めか?」
突如、気怠げな声が響いた。
鉄の格子の隣側、暗がりの中に立っていたのは、同じく囚われの身である男──ライグだった。
乱れた金の髪に、どこか人懐こさと毒気を混ぜた笑みを浮かべている。
「ねぇ、おチビちゃん。ガルヴァンなんかより、もぉっと優しくしてやるよ。こっちへおいで?」
その声に、アゼの肩がびくりと揺れる。
とたんに、ガルの喉奥から低い唸りが漏れた。
「……ダメだ。俺のだ」
牙を剥き出しにして、野生そのものの眼差しで睨み据える。
それは明確な拒絶であり、支配の宣言だった。
「おー、こわ……」
ライグはわざとらしく肩をすくめ、鼻で笑うと、興味を失ったように踵を返した。
その背に向かって、バムがニヤリと声をかける。
「ライグ、振られたな……」
「うっせ!! ……まっ、せいぜい壊さないようにしろよ? 俺らみたいなもんは、壊れたら取り替えがきかねぇんだからさ」
意味深な言葉を残し、彼の足音は奥の牢へと遠ざかっていった。
腕の中のアゼに視線を戻すと、彼は小さく震えていた。
ぎゅっと瞑られた瞳、唇を噛み締めて、何かを必死に堪えている。
上気した肌に、熱の混じった吐息がこぼれ落ちる。
その理由に、ガルはすぐに気づいた。
「……アゼ」
名を呼ぶと、アゼはかすかに顔を伏せたまま、震える声で答えた。
「ごめんなさい……僕……。こんなふうに、優しく触れられたこと……なかったから……」
言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さる。
ガルの中に、どうしようもない感情が込み上げてくる。
始まりはただ、傷を癒したいという一心だった。
けれど今は違う。
この華奢な体を、あらゆる苦しみから解き放ちたい。
そのすべてを、自分のものにしたい──。
渦巻く欲望をぐっと喉元で押し留め、ガルはそっとアゼの金色の髪を撫でた。
「……大丈夫だ。楽にしてやる」
ガルの爪が器用にアゼの衣服を解くと、そのままそっと顔をうずめた。
肌に触れた瞬間、鼻腔をくすぐる甘やかな香りが、まるで媚薬のように理性を侵してくる。
──危うい。
頭の奥がじんじんと熱くなり、世界がぼやけていくようだった。
それでもガルは意識を保ち、ただ無心に、だが丁寧に舌を這わせた。
「ん、ぁ……ッ」
アゼの体が跳ね、ガルの背にしがみつく。
ぶるぶると細い肩が震え、抗うようにこぼれる甘い声が鉄格子の奥に微かに響いた。
──噛みつきたくなる。
そんな衝動を、ガルは必死で押し殺した。
牙が触れぬように細心の注意を払い、ただ、熱を逃がすように愛おしさを注いだ。
「……あッ……ぁ……ぁ……っ!」
やがて、アゼの身体がふるりと波打つ。
小さな喘ぎとともに、ひときわ強く震えた腰が、微かに跳ねる。
その証さえも、ガルは静かに舌で拭い、痕跡すら残さぬように――まるで罪を隠すように──そっと浄めた。
「……ガル」
か細く名を呼ぶ声に、ガルは顔を上げた。
アゼは頬を赤く染めながら、少しだけ恥じらうように目を伏せている。
何も言わず、ただ強く、強く抱きしめる。
その腕の中は、まるで春の陽だまりのように、やさしく、温かかった。
二人はしばらく、互いのぬくもりを確かめるように抱き合いながら、そっとまぶたを閉じて眠りについた。
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