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第6話
突如として隣国からの使者が現れたのは、ひどく静かな朝だった。
城門の前、陽の差さぬ陰に佇んだ男は、無表情のまま布に包んだ文書を差し出す。
「これは、我が国王より貴国陛下への最後通牒にございます」
その一文を読み上げる兵の声が、城内に重く響く。
──数日後、貴国へ攻め入る。覚悟されたい。
セリオスはわずかに眉をひそめ、「想定よりも早いな」と呟き、すぐさま軍の動員を命じた。
地下牢の鉄扉が、重く軋む音を立てて開いた。
たちまち空気が張り詰める。
響く鉄の靴音。
鎖につながれた獣兵たちの前に現れたのは、冷ややかな目をしたサリオス王子だった。
「出撃命令だ。戦場へ向かえ」
かつてのガルであれば、それに何の感情も抱かず従っただろう。だが、今の彼は違っていた。
鋭い視線が、一瞬、誰かを探すように揺れる。けれど──アゼの姿は、そこにはなかった。
その事実が、体の奥底に火を点ける。
サリオスが近づいてくる。
この男が、アゼを傷つけた。
喰い千切ってやりたい。骨ごと噛み砕いて、二度と喋れぬように。
血まみれのまま屍に変えて、アゼに手を出すとはどういうことか、王族の脳に刻み込んでやりたい。
喉の奥が、獣の咆哮を抑え込むように震えていた。
今ここで飛びかかることはできる。鎖があろうがなかろうが、関係ない。
だが──アゼが望むのは、それじゃない。
「せいぜい暴れてこい、獣ども」
サリオスが鎖の接続部に手を伸ばし、王家の血がそれに触れた瞬間──「カチャリ」と、静かに外れる音がした。
「死ぬなら、せめて敵を道連れにしろ。犬死には見苦しいからな」
その瞳に、命の価値など一片も宿っていない。
けれどガルは、ただ静かに、足元の鎖を踏み越えた。
この命令は、王のためではない。
アゼを守るため──ただ、それだけが彼を動かしていた。
「さぁて、久々の出番か」
ライグが愉快そうに武器を担ぐ。
「チビ坊やが泣かねぇように、俺たちが全部蹴散らすとするか」
その頃、アゼは厨房の片隅で交わされた使用人たちの会話に凍りついていた。
「獣兵部隊まで出されたってよ……もう、終わりかもしれないな、この国も」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。ただ、耳に残った“獣兵”の響きに、心臓が早鐘のように打ち始める。
──まさか、そんなはずはない。
そんなはず、ないのに。
乾いた喉で息を呑み、アゼはふらりとよろめいた。
けれどすぐに我に返り、何かに突き動かされるように踵を返す。
足元が崩れるような感覚に襲われながら、アゼは地下牢へ向かった。
不安と焦燥が胸を締めつけ、ただ願うのはひとつ──そこに、ガルがいてくれ、と。
地下牢へとたどり着いた時、そこにはもう、彼の姿はなかった。代わりに、空っぽの檻と、彼を繋いでいた太い鎖が冷たく残っている。
アゼはその鎖を抱きしめ、震えながら嗚咽した。
「……っ、ガル……」
誰の温もりも届かない場所で、せめて残された痕跡だけでも抱きしめるように、ガルが寝床にしていた敷き藁の上で、アゼはその重く錆びた鎖を抱え、小さく身を丸めた。
どれだけそうしていただろうか。冷たかった鎖の感触は、いつしかアゼの体温を帯び、ほんのりと温もっていた。
頬ずりをするように、そっと頬を寄せ、もう一度抱きしめる。
鎖が腕に絡み、手のひらが自然とその先端──金属の飾りのような突起に触れた。
無意識のまま、指先でなぞる。……円形。指に伝わる、浮き出た細工。
それは、幼いころに一度だけ触れたことのある、王家の紋章にそっくりだった。
「……なんで、こんなところに……」
確信はない。けれど、ふと胸に灯る微かな予感。
──もし、王族である自分の手で、これを……外せるのだとしたら──。
アゼはそっと手のひらを重ねた。
鎖の奥で、何かが微かに、呼吸するように脈打った気がした。
静かな鼓動が、胸に残る。
***
爆発音が、遠くで続いている。
地響きのような振動と共に、天井から細かな塵がぱらぱらと舞い落ちてきた。
外の空気は、張り詰めたような緊張に満ちていた。
それは、嵐の前の静けさ──敵軍はすでに城の外郭を囲み、いつでも牙を剥ける距離まで迫っている。
そしてついに、砲撃が始まったのだ。
石壁が崩れ、天井が砕け、土と火薬の臭いが空気を満たす。
耳をつんざくような轟音。衝撃に膝が抜けそうになる。
恐怖で喉がひりつき、息を吸うだけで肺が痛い。
アゼは崩れかけた柱の陰に身を寄せ、頭を抱えた。
目が見えなくとも、破片の飛ぶ気配がわかる。
そのたび、全身がびくりと震えた。
だけど──その中で、瓦礫の落ちた隙間から感じた熱風に顔を向ける。
耳を澄ます──遠く、確かに聞こえる。
あの咆哮。
「……ガル……!」
それは、獣の咆哮でありながら、アゼにとっては救いの音だった。
彼がまだ、どこかで生きている。誰かの命を奪い、誰かを守っている。
自分のために。
──急がなければ。確証はない。……だけど。
──もし、ガルの……皆の首輪を、外すことができるのなら……!
あの首輪がある限り、彼らは人間の「道具」のままだ。
自由も、命すら奪われる。
アゼは力を込めて、瓦礫をかき分けた。砕けた石に指が裂け、腕が傷ついても、かまわなかった。
わずかに空いた隙間に、躊躇なく身をねじ込む。
──この先に、きっと彼がいる。
外の世界に出ても、視界は暗闇のままだ。
だが、確かに聞こえる。あの咆哮が。
それは、闇を裂くような音だった。
アゼにとっての“光”とは、姿ではない。
「……ガル……!」
その声がある限り、進める。
震える足に力を込め、アゼは闇の中を踏み出した。
恐怖も迷いも、すべてを置き去りにして。
杖はとうにどこかへ吹き飛ばされていた。だが今は、そんなことに構っていられない。
もつれる足を懸命に動かし、瓦礫に取られながらも、ただあの声のする方へと身を進める。
──ガル。
直後、アゼのすぐ背後に爆弾が落ちた。轟音とともに爆風が巻き起こり、細い身体はなす術もなく宙を舞う。地面に叩きつけられ、うつ伏せに倒れ込んだ。
「……うっ……!」
痛みで身体がきしむ。砂利を握りしめ、涙に濡れた声で、名を呼んだ。
「ガル……ガル……!」
「──ッ! 坊っちゃん!? こんなとこで何してやがる!!」
荒々しい声が飛ぶ。顔を上げると、そこにはライグの気配がした。
「ライグ……?」
「ったく、死にてぇのか!」
そう怒鳴るなり、ライグはアゼをひょいと抱き上げる。逃げ道を確保するように走り出す。
「待って、ライグ! お願い、ガルのところへ連れてって!!」
「は? バカ言ってんじゃねぇ、死ぬぞ!」
「じゃあいい、降ろして……自分で行く……!」
「……ああ~~もうっ!! どうなっても知らねぇからなッ!」
言葉とは裏腹に、ライグの腕は力強くアゼを支える。
「……ありがとう、ライグ」
「しっかり掴まってな!!」
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