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第7話

味方軍と獣兵部隊は、なんとか敵兵の進軍を食い止めようと、最前線の砦に立て籠もっていた。 だが、それももはや限界だった。砦の壁は崩れ、地面は血と炎に塗れ、崩壊は時間の問題だった。 ガルの身体は血にまみれていた。 返り血か、自分の血か──それすらもはや、わからない。 痛みも、疲労も、とうに感じなくなっていた。 それでも構わない。 アゼが逃げるための時間稼ぎにさえなれば、それでいい。 それだけを胸に、ガルは獣の本能すら超えた意志で、なおも立ち上がる。 城の一角が崩れ落ちているのが見えた。爆撃の煙が立ち込め、火薬の臭いが鼻を刺す。 向かってくる敵兵を、ガルは鋭い爪でなぎ倒し、喉元に喰らいついては噛み千切り、唾を吐くように吐き捨てた。 「……ガル!!」 一瞬、幻聴かと思った。だが振り返れば、ライグがアゼを抱きかかえて、こちらに向かって走ってくるのが見えた。 目を見開く。 「なぜ連れてきた!!」 怒声を放つガルに、アゼがすぐに声を重ねた。 「違うッ、ライグを怒らないで。僕が……僕が、ライグに頼んだんだ……!」 「……アゼ、ダメだ。ここは危険すぎる……ッ」 「……でもっ!」 ガルはアゼに背を向け、低く命じる。 「ライグ……アゼを連れて逃げろ」 「……ガル!」 「早く行け!!!」 だがアゼは必死に暴れ、ライグの腕から抜け出す。 「あっ、こら! 坊っちゃん!!」 アゼはガルに飛びつき、しがみつく。 「イヤだ、行かない……! ここにいる……っ。ガルと、ずっと一緒にいる……!!」 「……アゼ……!」 その瞬間、すぐ近くで爆撃が起きた。ガルは即座にアゼを庇い、身を挺して覆いかぶさる。 土煙が舞う中、アゼが震える手で、ガルの首元に触れた。そこにも王家の紋章が確かに刻まれていた。 アゼがそっと目を閉じ、静かに念じる。 ──どうか、外れて。 この人を、縛るものが、もう何もありませんように。 首輪から、小さく「カチッ」と音がして、留め具が外れた。 ガルが、わずかに目を見開く。 「……首輪が……」 「わかったんだ、地下牢で……この首輪、王族の力で外せるかもしれないって……!」 アゼは震えながらも、はっきりと頷いた。 「僕が……僕が皆を自由にする。今しか、もうチャンスはないから……! だからお願い、みんな僕の近くに集まって……っ」 アゼは次々と獣兵たちの首輪へ腕を伸ばした。土煙の中、獣の姿をした兵たちが驚きに目を見開く。 「お願い、逃げて……! 首輪が外れれば、もうあなたたちは戦わなくていい……!」 だが、外れた首輪を見つめた獣の一人、バムが、アゼを見つめて静かに言った。 「アゼ……俺たちは、お前を守るために戦う」 「……!」 「ガルヴァンと、どうか一緒に逃げてくれ。それが、俺たちの願いだ」 「アゼ、時間がない……!」 ガルが手を伸ばす。砲撃の音がまた、近づいてくる。 アゼは、躊躇いながらも最後の一人の首輪を外し、涙を堪えて叫んだ。 「お願い……皆、死なないで……!」 まるでそれが合図であったかのように、敵の軍勢が怒涛の勢いで押し寄せてきた。 ライグが叫ぶ。 「もう、ここもヤバい! 俺たちが食い止める!!」 仲間の兵たちも次々と駆け出す。誰かが叫ぶ。 「ガルヴァン、アゼを頼む……!」 アゼの世話になった獣兵たちが、アゼのために命をかけて立ち上がる。 その刹那、再びすぐ傍で爆撃音が轟いた。 咆哮が響き、弓矢が飛び交う。 波のように押し寄せる大勢の敵兵。 まるで壁のように立ちはだかる獣兵たちの背中を、ガルはちらと見やった。 「……ッ、すまない、頼む……!」 片腕でアゼを抱き、残る手足で地を蹴る。逃げるのではない。獣がただ、守るために走る──それだけだった。 歯向かってくる残党だけを蹴散らしながら、深く深く茂る森の中へと、その姿を消していった。 *** ガルは、ただ森の中を走り続けた。 そこがどこなのかも、とうに分からない。行くあてなど、はじめからなかった。 けれど──もうガルには、その腕に抱いた温もりさえあれば、それでよかった。 アゼもまた、ガルだけが傍にいれば、それ以上は望まなかった。 いったい、どれだけ森の中を彷徨ったのだろうか。 ようやく二人がたどり着いたのは、誰の記憶からも忘れ去られた、小さな古びた教会だった。 窓は割れ、蔦が這い、壁は風雨に蝕まれて崩れかけている。 けれど、その場には、なぜか穢れひとつない、澄んだ空気が満ちていた。 神など、とうに信じてはいなかった。 いや──初めから、信じてなどいなかったのかもしれない。 それでも、この時ばかりは、その名も知らぬ存在にすがるように祈った。 どうか、この先も──アゼのその瞳が、悲しみの涙に濡れることのありませんように。 その夜、ふたりはただ、互いを抱きしめたまま眠りについた。 長い夜が明け、淡い木漏れ日が教会のステンドグラス越しに差し込む。 ガルは眠ったままのアゼの寝顔をしばらく見つめたあと、その瞼をそっと舐めた。 アゼの目が治っても、治らなくても──どちらでもいいと思った。 たとえ、自分を見て怯えたとしても……見えないよりかは、きっと、ずっといい。 その覚悟は、とうにできていた。 アゼの睫毛が震える。 ゆっくりと開かれたその目に映し出されたのは、もはや暗闇ではなかった。 アゼはそのぼんやりとした輪郭を確かめるように、そっとガルの頬に手を伸ばす。 「……ガル?」 「アゼ……」 その目は、しっかりとガルの瞳を見つめていた。 けれど、しばらくすると、くしゃりと顔を歪ませ、瞬きをした拍子に、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。 「……すまない。俺は、お前の目まで治せるか分からなかった。なによりも、お前が、俺を見て怯えるのが……恐ろしかった……」 アゼは目を閉じ、ふるふると首を振った。 「……君の手は優しいから、きっと、優しい目をしてると思ったよ。僕は君の目が──一番、見たかったんだ……」 そう言って、アゼはガルを抱きしめる。 「ありがとう、ガル……」 「アゼ……」 ガルは、その小さな肩を、祈るようにぎゅっと抱きしめた。 まるで祝福するように、天井のすき間から淡い光が降り注ぎ、二人を包み込む。 ──大丈夫。きっと二人なら、もう、怖いものなんてなにもない。 *** それから数日が経った頃だった。 アゼの国は──もう、どこにもなかった。瓦礫の山となった城も、戦火に焼かれた街も、すでに他国の兵の管理下に置かれていた。国としての体裁を失ったこの地は、隣国に吸収され、地図からその名を消すこととなった。 それでも、あの小さな教会の中で交わした誓いだけは、誰にも奪えなかった。 ガルとアゼは、旅に出ることにした。 アゼの新しい目に、この世界のたくさんの景色を見せてやるために。 「……ガル、ここはどこ?」 「国境の向こう、もう誰も追ってこないさ」 森を抜け、山を越え、いくつもの村や町を通り過ぎた。アゼの瞳はまだ完全ではないけれど、光も影も、風景も人も、少しずつ映るようになっていた。そんなある日──。 「……よお、ガル。ずいぶん毛並みが荒れてんじゃねえか」 ぴくりとガルの耳が動き、即座に身構えた。アゼが驚いてガルの腕を掴む。 「ガル……? 誰か、来たの?」 ガルは一拍遅れて、緊張を解いた。 「……ああ、大丈夫だ。敵じゃない。声で分かった」 「声……?」 「おいおい、忘れられてんのか、チビ坊や」 その言葉に、アゼの目がゆっくりと見開かれる。聞き覚えのある、少し荒っぽくて、あたたかい声。 「……ライグ……!」 「おう、生きてたぜ。やられちまった仲間もいるが……生き残った連中は、みんなお前に会いたがってた。いろいろあったが──お前らが無事で、本当に良かった」 アゼは、震えるように笑みを浮かべながら、ガルの腕をぎゅっと握った。 ライグは遠くを見て、ふっと笑う。 「んじゃ、またどこかでな。チビ坊や」 ひらりと手を挙げて背を向け、ライグは人混みに紛れて去っていった。 ──風が吹き抜ける。 アゼはそっと、つぶやいた。 「ありがとう……また、どこかで」 アゼはその背中が見えなくなるまで目を細めて見送ると、そっとガルの手を取った。 「……行こうか、ガル」 「どこへでもな。お前の行きたい場所へ」 あたたかな陽射しの中を、二人は並んで歩き出した。 それがどれほど長い旅になるのか、どんな困難が待ち受けているのか──そんなことは、誰にも分からない。 ただ一つ確かなのは、二人の手はしっかりと繋がれていたということだった。 囚われた野獣と盲目の王子 完

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