8 / 8

第8話 後日談 ※R描写

【君と紡ぐ旅路】 野生の鹿や猪を狩り、血抜きし、丁寧に解体する。 獣の命に敬意を払いながら、その肉と皮を街の肉屋に売ったり、交易をしながら旅の糧とする日々。そんな日常が、ふたりの旅を静かに支えていた。 かつては細く小さな身体だったアゼも、歳月を重ねた今では、見る者の目を引くほどに成長していた。 体格こそやや細身のままだが、しなやかに鍛えられた手足には無駄のない筋肉が宿り、ナイフを握る手には、一片の迷いもない。 狩りも解体も手慣れたものだ。命を奪うことに慣れたのではなく、命に向き合う覚悟が、彼の所作に静かに滲んでいた。 陽の光を受けてきらめく金の髪。 まるでアクアマリンを溶かしたような、澄んだ水色の瞳。 その美しさに、街を行く誰もが思わず振り返る。けれどその目が柔らかく細められるのは、ただひとり──ガルに向けられるときだけだった。 ある夜、焚き火のそばで。 狩りの帰り、アゼは黙ってガルの隣に腰を下ろす。 ほんのり汗の香りと、焚き火の薪が焦げる匂い。 アゼの横顔を見つめながら、ガルは不意に口を開く。 「……強くなったな」 その声に、アゼは振り返る。目が合う。焚き火の光が、金の髪を揺らし、瞳に揺れる火を映す。 「……ガルが、隣にいてくれたから」 ぽつりと、アゼはそう言った。 沈黙。だが、静かな温もりが満ちていく。 どちらからともなく、そっと手が伸びる。 指先が触れ合う。震えるように絡まる。 「……今夜は、離れたくない」 囁くような言葉のあと、アゼがそっと、ガルの胸に頬を寄せた。 アゼの頬が、ガルの胸元にふれる。 その重さは羽のように軽く、けれど確かに心に沈んでくる。 鼓動の音が近くなる。 ひとつ、またひとつ。確かめるように重なる呼吸。 「……ガルの心臓の音、好きだよ」 アゼが囁く。まぶたを閉じて、ほんの少し、唇が笑んだ。 「昔からずっと、これに守られてきた気がする。ここにいると……安心する」 その言葉が、胸の奥を深く打った。 守っていたつもりが、こんなにも、救われていたなんて。 ガルはアゼの肩にそっと腕を回す。 触れることすらためらっていた存在が、今は自分から寄り添ってくる。 「……触れても、いいか?」 問いかける声は、まるで獣がひそやかに願うような、震える低音。 アゼは顔を上げて、真っ直ぐ見上げた。 月の光が、彼の瞳を淡く照らす。 「うん。……ガルが、いいなら」 その笑顔に、もう何も迷う理由はなかった。 寝袋を並べた小さなテントの中は、ほんの少しだけ湿り気を帯びていたが、外よりは暖かかった。 胸に抱いたままのアゼがそっと手を重ねてきた。 「……アゼ、寒くないか?」 問いかけに応える代わりに、アゼはガルの手をきゅっと握る。 それはもう、幾度も繰り返してきた仕草だった。けれど今夜は、ほんの少し違う。 アゼの指が、ためらうように、けれど確かに、ガルの胸元を探る。 「……ねえ、少しだけ……」 言葉の続きを告げる前に、ガルはそっとアゼを抱き締めた。 拒む理由なんて、どこにもなかった。 壊れ物のように大切に、大切に──触れることが、愛おしくてたまらなかった。 焚き火の明かりが、テントの布越しにゆらゆらと揺れている。外では風が草を撫でていたが、この小さな空間の中だけは、別世界のようにあたたかかった。 指先がそっと、アゼの頬に触れる。 金の髪を梳きながら、額に唇を落とす。 そこにあるのは欲望ではない。ただただ、愛しさだけ。 ゆっくりと、静かに唇を重ねた。 火の粉がはぜる音だけが、夜の帳に溶けていく。 世界に、ふたりきり。 夜風は優しく、焚き火はまだ温かかった。 ガルの指先が、アゼの背をなぞる。 骨ばっていた肩はいつの間にか丸みを帯び、薄い胸板は、ほんのりと温もりを蓄えていた。 彼の成長を、手のひらで確かめる。 誰よりも近くで見守ってきた時間が、触れた肌に刻まれている気がした。 アゼは微笑みながら、ガルの首元に頬をすり寄せる。 「……こんなに近いのに、昔は遠いと思ってたんだ」 囁きながら、ガルの胸の毛並みにそっと指を絡めた。 「でも、今は違う。今は……ちゃんと、ここにいられる」 ガルはその言葉を、胸の奥に刻みながら、そっと彼の顎を持ち上げた。 ふたたび唇が重なる。今度は、少しだけ深く。 ガルの逞しい腕が、そっとアゼの背へと回る。 だが、その「そっと」は、思いとは裏腹に力を込めすぎていた。 爪がわずかに肌をかすめるほど強く抱きしめてしまい、高ぶる感情のままに、彼の制御のきかぬ想いが滲んでいた。 「……痛くなかったか?」 低く問いかける声には、戸惑いと、それ以上に深い愛しさが宿っていた。 アゼは小さく首を振った。 「ガルの全部が、あたたかいから」 その一言に、ガルの理性が揺らぐ。 だが、乱暴になどできるはずもない。彼を傷つけるものは、何ひとつ触れさせたくなかった。 指先で胸元を開くと、アゼは目を細め、かすかに身を震わせた。 けれどそれは、恐れではない。 「……見て、ほしいんだ。ちゃんと、ガルの目で」 癒しの力を持つガルのその目に映してほしかった。 もう、傷跡は残っていない。ガルが癒したから。 けれど、心に刻まれた痛みは、簡単には消えない。 だからこそ――今、愛する人の視線で、自分の存在ごと確かめたかった。 ガルは、うなずいた。 その瞳が、アゼの白い肌をゆっくりと辿っていく。 今、この光に映っているのは、傷跡ではない。 ──たしかにここに生きている、愛しい人の姿だった。 ガルの腕に抱かれたアゼは、まるで小動物のように胸に顔をうずめる。 細くて白い指が、そっとガルの上着を摘み、迷いながらも自分から寄り添ってきた。 「ガル……」 その名前が、息のように唇からこぼれる。 ガルは答えず、アゼの金の髪に口づけた。ふわりと香る、乾いた草と木の匂い。そして、彼自身の体温がすぐそこにある。 「……怖くないか?」 ようやく問うたガルの声は低くて優しく、いつになく緊張していた。 アゼは小さく首を振った。 「ガルだけは、怖くない……。ずっと……ガルになら、って思ってた」 その言葉に、ガルの喉が震える。ずっと、この日を夢に見てきた。けれど、手に入れてしまうのが怖かった。失うことが、怖かった。だから──こんなふうに差し出された想いが、愛しくてたまらない。 震える手でアゼの頬を撫で、瞳をのぞき込む。見開かれたその目は、もう何も恐れていなかった。 「……お前が、愛しい」 たったそれだけの言葉に、アゼが微笑んで、そっと目を閉じた。 唇が触れる。 それはどこまでも優しく、深く、静かだった。 互いの傷を包み、孤独をあたため、過去を赦し合うように── アゼの指が、そっとガルの頬に触れる。 獣のような逞しいその体を、まるで壊れ物に触れるような手つきで撫でながら、微笑んだ。 「こんなふうに触れ合うの、夢みたいだね」 その瞳には怯えも影もなかった。ただ、深く、透きとおるような想いだけが灯っている。 ガルはそっとアゼの手を取り、自分の唇に押しあてる。 その仕草はまるで誓いのようで、ただの愛撫以上に、強く、優しい。 「夢じゃない。ずっと……こうしたかった」 ふたりの距離が、静かに、けれど確かに縮まっていく。 指先で髪を梳き、額に唇を寄せ、喉元、肩先──丁寧に確かめるように、時間をかけて触れてゆく。 「……っ、アゼ……」 「……んっ……ぁ、……ガル……」 触れられるたびに、アゼの身体がほどけていく。 愛されていると、何度も何度も伝えられている気がした。 やがてその優しさは、名もない熱へと変わっていく。 言葉はもう要らなかった。 ふたりの体温が混ざり合うように重なり、過去の傷も痛みも、すべて溶かしていった。 ふたりの体が、ゆっくりと重なる。 アゼの肌に触れるたび、微かな吐息が漏れた。 火照るような熱が、じわじわと身体の奥から湧きあがってくる。まるで、心の芯まで解けていくようだった。 「……あ……っ、ガル……、ガル……っ……」 掠れた声で名を呼ぶ。自分でも驚くほど甘く、脆い声だった。 求める気持ちだけが先走って、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。 指先が、背に、肩に、胸元にすがるように触れる。 ガルの体温を、息づかいを、もっと感じていたかった。 このぬくもりが遠くならないように。今夜だけで終わらないように。 思考がゆるやかに霞み、言葉にならない想いが胸に満ちる。 目の奥が熱くなり、ただただ、彼の存在だけを頼りに揺られていく。 何も怖くなかった。ガルの腕の中だけが、世界のすべてだった。 求めるように、すがるように、身体が触れ合う。 時間も、傷も、過去も忘れるほどのやさしさと、確かさ。 アゼは気づかぬうちに泣いていた。 安堵と、幸福と、名前もつけられない想いが、ひとつになって溢れ出していた。 どこか夢の中にいるようだった。 熱を帯びたガルの体が、自分の上に、重なるように覆いかぶさる。けれど、その重さは決して苦しくない。ただただ、安心で、やさしくて──心まで包まれている気がした。 目が合うたび、ガルは確かめるように、名前を呼んでくれる。 その声に返すたび、胸が締めつけられて、涙が滲む。 誰かに触れられることが、こんなにもあたたかいものだったなんて。 誰かを求めることが、こんなにも幸福なことだったなんて。 きっと、知らなかった。 ガルが自分を見てくれる。やさしく、深く、まるで壊れものを扱うように触れてくれる。 それがうれしくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになって、もう何も考えられなかった。 言葉も、理屈も、何もいらない。ただ、彼のそばにいられればそれでいい。 抱きしめられるたび、深く息を吸い込むたび、心がほどけていく。 「……ガル……大好き……」 小さな声で囁くと、優しくキスされる。 唇が重なり、ぬくもりが伝わり、すべてが満たされていく。 ──ああ、こんな夜が、終わらなければいい。 瞼を伏せると、また静かに涙がこぼれた。 それは悲しみの涙ではなかった。ただ、あふれてしまっただけの、幸福のしずく。 やがて、嵐のような熱が静まっていく。 互いの呼吸がようやく穏やかになり、アゼはそっと目を細めた。 ガルの腕の中はあたたかくて、心地よくて、まるで安らぎの泉に沈んでいるようだった。 指先が髪を梳く。額に、まぶたに、鼻先に――静かに唇を重ねられるたび、胸が震える。 でもそれはもう、怯えではなかった。 ただ、自分がこんなにも誰かに大切にされているという事実に、心が追いつかなくて――それでも、うれしくてたまらなかった。 「……眠っていい」 低くやさしい声が、耳元で囁く。 その声音だけで、涙がこぼれそうになる。 少しだけ力を込めて、腕を伸ばす。 頬に触れ、指先で確かめる。これは夢じゃない。 そこにいるのは、何度も自分を守ってくれた、かけがえのない彼――ガル。 「……そばに、いてね」 かすれる声で呟くと、ガルは静かに頷き、アゼの額にそっと額を寄せた。 ゆるやかに、深く息を吸う。ガルの匂いがする。温もりが、全身を満たしていく。 まぶたが重たくなり、世界がゆっくりと遠のいていく。 どんな悪夢にも脅かされない。どんな闇にも染まらない。 ──君が僕の光だから。 アゼはそのまま、微かな笑みを唇に浮かべたまま、静かに、深い眠りへと落ちていった。 外では風がやさしく草原を揺らし、焚き火がぱちりと音を立てる。 夜は深く、静かで、あたたかい。 世界にふたりしかいないような、そんな夜に、心も体も重なり合って、やっとめぐりあえた幸福が、そこにあった。 君と紡ぐ旅路 完 ご拝読、ありがとうございました!

ともだちにシェアしよう!