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第8話 後日談 ※R描写
【君と紡ぐ旅路】
野生の鹿や猪を狩り、血抜きし、丁寧に解体する。
獣の命に敬意を払いながら、その肉と皮を街の肉屋に売ったり、交易をしながら旅の糧とする日々。そんな日常が、ふたりの旅を静かに支えていた。
かつては細く小さな身体だったアゼも、歳月を重ねた今では、見る者の目を引くほどに成長していた。
体格こそやや細身のままだが、しなやかに鍛えられた手足には無駄のない筋肉が宿り、ナイフを握る手には、一片の迷いもない。
狩りも解体も手慣れたものだ。命を奪うことに慣れたのではなく、命に向き合う覚悟が、彼の所作に静かに滲んでいた。
陽の光を受けてきらめく金の髪。
まるでアクアマリンを溶かしたような、澄んだ水色の瞳。
その美しさに、街を行く誰もが思わず振り返る。けれどその目が柔らかく細められるのは、ただひとり──ガルに向けられるときだけだった。
ある夜、焚き火のそばで。
狩りの帰り、アゼは黙ってガルの隣に腰を下ろす。
ほんのり汗の香りと、焚き火の薪が焦げる匂い。
アゼの横顔を見つめながら、ガルは不意に口を開く。
「……強くなったな」
その声に、アゼは振り返る。目が合う。焚き火の光が、金の髪を揺らし、瞳に揺れる火を映す。
「……ガルが、隣にいてくれたから」
ぽつりと、アゼはそう言った。
沈黙。だが、静かな温もりが満ちていく。
どちらからともなく、そっと手が伸びる。
指先が触れ合う。震えるように絡まる。
「……今夜は、離れたくない」
囁くような言葉のあと、アゼがそっと、ガルの胸に頬を寄せた。
アゼの頬が、ガルの胸元にふれる。
その重さは羽のように軽く、けれど確かに心に沈んでくる。
鼓動の音が近くなる。
ひとつ、またひとつ。確かめるように重なる呼吸。
「……ガルの心臓の音、好きだよ」
アゼが囁く。まぶたを閉じて、ほんの少し、唇が笑んだ。
「昔からずっと、これに守られてきた気がする。ここにいると……安心する」
その言葉が、胸の奥を深く打った。
守っていたつもりが、こんなにも、救われていたなんて。
ガルはアゼの肩にそっと腕を回す。
触れることすらためらっていた存在が、今は自分から寄り添ってくる。
「……触れても、いいか?」
問いかける声は、まるで獣がひそやかに願うような、震える低音。
アゼは顔を上げて、真っ直ぐ見上げた。
月の光が、彼の瞳を淡く照らす。
「うん。……ガルが、いいなら」
その笑顔に、もう何も迷う理由はなかった。
寝袋を並べた小さなテントの中は、ほんの少しだけ湿り気を帯びていたが、外よりは暖かかった。
胸に抱いたままのアゼがそっと手を重ねてきた。
「……アゼ、寒くないか?」
問いかけに応える代わりに、アゼはガルの手をきゅっと握る。
それはもう、幾度も繰り返してきた仕草だった。けれど今夜は、ほんの少し違う。
アゼの指が、ためらうように、けれど確かに、ガルの胸元を探る。
「……ねえ、少しだけ……」
言葉の続きを告げる前に、ガルはそっとアゼを抱き締めた。
拒む理由なんて、どこにもなかった。
壊れ物のように大切に、大切に──触れることが、愛おしくてたまらなかった。
焚き火の明かりが、テントの布越しにゆらゆらと揺れている。外では風が草を撫でていたが、この小さな空間の中だけは、別世界のようにあたたかかった。
指先がそっと、アゼの頬に触れる。
金の髪を梳きながら、額に唇を落とす。
そこにあるのは欲望ではない。ただただ、愛しさだけ。
ゆっくりと、静かに唇を重ねた。
火の粉がはぜる音だけが、夜の帳に溶けていく。
世界に、ふたりきり。
夜風は優しく、焚き火はまだ温かかった。
ガルの指先が、アゼの背をなぞる。
骨ばっていた肩はいつの間にか丸みを帯び、薄い胸板は、ほんのりと温もりを蓄えていた。
彼の成長を、手のひらで確かめる。
誰よりも近くで見守ってきた時間が、触れた肌に刻まれている気がした。
アゼは微笑みながら、ガルの首元に頬をすり寄せる。
「……こんなに近いのに、昔は遠いと思ってたんだ」
囁きながら、ガルの胸の毛並みにそっと指を絡めた。
「でも、今は違う。今は……ちゃんと、ここにいられる」
ガルはその言葉を、胸の奥に刻みながら、そっと彼の顎を持ち上げた。
ふたたび唇が重なる。今度は、少しだけ深く。
ガルの逞しい腕が、そっとアゼの背へと回る。
だが、その「そっと」は、思いとは裏腹に力を込めすぎていた。
爪がわずかに肌をかすめるほど強く抱きしめてしまい、高ぶる感情のままに、彼の制御のきかぬ想いが滲んでいた。
「……痛くなかったか?」
低く問いかける声には、戸惑いと、それ以上に深い愛しさが宿っていた。
アゼは小さく首を振った。
「ガルの全部が、あたたかいから」
その一言に、ガルの理性が揺らぐ。
だが、乱暴になどできるはずもない。彼を傷つけるものは、何ひとつ触れさせたくなかった。
指先で胸元を開くと、アゼは目を細め、かすかに身を震わせた。
けれどそれは、恐れではない。
「……見て、ほしいんだ。ちゃんと、ガルの目で」
癒しの力を持つガルのその目に映してほしかった。
もう、傷跡は残っていない。ガルが癒したから。
けれど、心に刻まれた痛みは、簡単には消えない。
だからこそ――今、愛する人の視線で、自分の存在ごと確かめたかった。
ガルは、うなずいた。
その瞳が、アゼの白い肌をゆっくりと辿っていく。
今、この光に映っているのは、傷跡ではない。
──たしかにここに生きている、愛しい人の姿だった。
ガルの腕に抱かれたアゼは、まるで小動物のように胸に顔をうずめる。
細くて白い指が、そっとガルの上着を摘み、迷いながらも自分から寄り添ってきた。
「ガル……」
その名前が、息のように唇からこぼれる。
ガルは答えず、アゼの金の髪に口づけた。ふわりと香る、乾いた草と木の匂い。そして、彼自身の体温がすぐそこにある。
「……怖くないか?」
ようやく問うたガルの声は低くて優しく、いつになく緊張していた。
アゼは小さく首を振った。
「ガルだけは、怖くない……。ずっと……ガルになら、って思ってた」
その言葉に、ガルの喉が震える。ずっと、この日を夢に見てきた。けれど、手に入れてしまうのが怖かった。失うことが、怖かった。だから──こんなふうに差し出された想いが、愛しくてたまらない。
震える手でアゼの頬を撫で、瞳をのぞき込む。見開かれたその目は、もう何も恐れていなかった。
「……お前が、愛しい」
たったそれだけの言葉に、アゼが微笑んで、そっと目を閉じた。
唇が触れる。
それはどこまでも優しく、深く、静かだった。
互いの傷を包み、孤独をあたため、過去を赦し合うように──
アゼの指が、そっとガルの頬に触れる。
獣のような逞しいその体を、まるで壊れ物に触れるような手つきで撫でながら、微笑んだ。
「こんなふうに触れ合うの、夢みたいだね」
その瞳には怯えも影もなかった。ただ、深く、透きとおるような想いだけが灯っている。
ガルはそっとアゼの手を取り、自分の唇に押しあてる。
その仕草はまるで誓いのようで、ただの愛撫以上に、強く、優しい。
「夢じゃない。ずっと……こうしたかった」
ふたりの距離が、静かに、けれど確かに縮まっていく。
指先で髪を梳き、額に唇を寄せ、喉元、肩先──丁寧に確かめるように、時間をかけて触れてゆく。
「……っ、アゼ……」
「……んっ……ぁ、……ガル……」
触れられるたびに、アゼの身体がほどけていく。
愛されていると、何度も何度も伝えられている気がした。
やがてその優しさは、名もない熱へと変わっていく。
言葉はもう要らなかった。
ふたりの体温が混ざり合うように重なり、過去の傷も痛みも、すべて溶かしていった。
ふたりの体が、ゆっくりと重なる。
アゼの肌に触れるたび、微かな吐息が漏れた。
火照るような熱が、じわじわと身体の奥から湧きあがってくる。まるで、心の芯まで解けていくようだった。
「……あ……っ、ガル……、ガル……っ……」
掠れた声で名を呼ぶ。自分でも驚くほど甘く、脆い声だった。
求める気持ちだけが先走って、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
指先が、背に、肩に、胸元にすがるように触れる。
ガルの体温を、息づかいを、もっと感じていたかった。
このぬくもりが遠くならないように。今夜だけで終わらないように。
思考がゆるやかに霞み、言葉にならない想いが胸に満ちる。
目の奥が熱くなり、ただただ、彼の存在だけを頼りに揺られていく。
何も怖くなかった。ガルの腕の中だけが、世界のすべてだった。
求めるように、すがるように、身体が触れ合う。
時間も、傷も、過去も忘れるほどのやさしさと、確かさ。
アゼは気づかぬうちに泣いていた。
安堵と、幸福と、名前もつけられない想いが、ひとつになって溢れ出していた。
どこか夢の中にいるようだった。
熱を帯びたガルの体が、自分の上に、重なるように覆いかぶさる。けれど、その重さは決して苦しくない。ただただ、安心で、やさしくて──心まで包まれている気がした。
目が合うたび、ガルは確かめるように、名前を呼んでくれる。
その声に返すたび、胸が締めつけられて、涙が滲む。
誰かに触れられることが、こんなにもあたたかいものだったなんて。
誰かを求めることが、こんなにも幸福なことだったなんて。
きっと、知らなかった。
ガルが自分を見てくれる。やさしく、深く、まるで壊れものを扱うように触れてくれる。
それがうれしくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになって、もう何も考えられなかった。
言葉も、理屈も、何もいらない。ただ、彼のそばにいられればそれでいい。
抱きしめられるたび、深く息を吸い込むたび、心がほどけていく。
「……ガル……大好き……」
小さな声で囁くと、優しくキスされる。
唇が重なり、ぬくもりが伝わり、すべてが満たされていく。
──ああ、こんな夜が、終わらなければいい。
瞼を伏せると、また静かに涙がこぼれた。
それは悲しみの涙ではなかった。ただ、あふれてしまっただけの、幸福のしずく。
やがて、嵐のような熱が静まっていく。
互いの呼吸がようやく穏やかになり、アゼはそっと目を細めた。
ガルの腕の中はあたたかくて、心地よくて、まるで安らぎの泉に沈んでいるようだった。
指先が髪を梳く。額に、まぶたに、鼻先に――静かに唇を重ねられるたび、胸が震える。
でもそれはもう、怯えではなかった。
ただ、自分がこんなにも誰かに大切にされているという事実に、心が追いつかなくて――それでも、うれしくてたまらなかった。
「……眠っていい」
低くやさしい声が、耳元で囁く。
その声音だけで、涙がこぼれそうになる。
少しだけ力を込めて、腕を伸ばす。
頬に触れ、指先で確かめる。これは夢じゃない。
そこにいるのは、何度も自分を守ってくれた、かけがえのない彼――ガル。
「……そばに、いてね」
かすれる声で呟くと、ガルは静かに頷き、アゼの額にそっと額を寄せた。
ゆるやかに、深く息を吸う。ガルの匂いがする。温もりが、全身を満たしていく。
まぶたが重たくなり、世界がゆっくりと遠のいていく。
どんな悪夢にも脅かされない。どんな闇にも染まらない。
──君が僕の光だから。
アゼはそのまま、微かな笑みを唇に浮かべたまま、静かに、深い眠りへと落ちていった。
外では風がやさしく草原を揺らし、焚き火がぱちりと音を立てる。
夜は深く、静かで、あたたかい。
世界にふたりしかいないような、そんな夜に、心も体も重なり合って、やっとめぐりあえた幸福が、そこにあった。
君と紡ぐ旅路 完
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