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第10話 夢が描く場所
夜の静けさが、ウルフネストを優しく包んでいた。
史狼はベッドに横になり、静かに目を閉じていた。
昼の疲れが体の芯に残り、まぶたの裏には光と音の残像が滲んでいる。
そして——やがて、意識がゆっくりと沈み始めた。
◇
足音が、吸い込まれる。
目を開けた、はずだった。
けれどそこは、見知らぬ場所だった。
古びた木造の廊下。天井は低く、床板がわずかにきしむ。
裸電球がぽつんと揺れており、壁には雨の染みがじんわりと広がっている。
窓の外には、静かな雨。
細い雨粒が、曇ったガラスをつたっては落ちていく音が、妙に耳に残った。
史狼は、自分がなぜここにいるのかもわからなかった。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
懐かしさのような、寂しさのような。
それでいて、誰かの感情が染みついているような空間。
——その時だった。
「……あのね」
幼い少女のような声が、どこかから聞こえてきた。
はっきりとは聞き取れない。けれど、その声は確かに、何かを伝えようとしていた。
「……ここ、ちょっとだけ静かでね。だから……きっと、大丈夫って……」
史狼は、ゆっくりと声のする方へ歩き出す。
けれど廊下の奥は暗く、どれだけ進んでも声の主は見えない。
「ねえ、君は……だれ?」
問いかける声は柔らかく、けれど寂しげだった。
言葉が霧のように漂い、空気に混ざって溶けていく。
足音も、呼吸も、どこか遠くで反響しているようだった。
「わたしね、ずっと、だれかと話したくて……ここにいるの」
「でも、みんな、どこにもいなくなっちゃって……」
史狼は言葉を返そうとする。
けれど、声が出ない。
喉が閉ざされたように、言葉にならない。
手を伸ばす。けれど、何もない。
ただ雨の音だけが、ぽつ、ぽつ、と静かに続いていた。
「ねえ、聞こえる?」
「……わたしの声、きこえる?」
それは問いかけであり、願いのようでもあった。
返せなかった。その言葉に、何も応えられなかった。
けれどその瞬間、史狼の胸に、何かが小さく灯った。
——あの場所で感じた気配だ。
あの空間に、残っていた“誰か”。
まだ名も知らぬ誰かが語りかけてきてる。
そんなふうに感じた次の瞬間、目が覚めた。
薄明の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
史狼はゆっくりとベッドから身を起こし、胸に手を当てる。
さっきまで聞こえていたはずの“声”が、まだ耳の奥に残っていた。
「……夢、だよな……」
けれどその“夢”は、あまりに生々しく、現実のように確かだった。
史狼は、ブレスレットにそっと指を添えた。
無意識の癖。何かに触れていないと、現実に戻ってこられないような気がした。
起き上がってキッチンに向かい、コップに水を注ぐ。
冷たい水が喉を通っても、胸のざわつきは消えない。
「……聞こえたんだよな」
ぽつりと漏らした声が、空っぽのリビングに溶けていく。
“誰か”がいた。
名前も、顔もわからないけど——。
確かに、自分に話しかけていた。
どこかで、誰かが“待っている”。
(なんなんだろ、あの子……)
ぼんやりしたまま、食卓の椅子に腰を下ろすと、海都の部屋の方から足音が聞こえてきた。
海都が、白いシャツの袖をまくりながらダイニングのカーテンを開ける。
差し込んだ光が、ふたりの間に朝を告げるように広がった。
「……おはよう、シロ君」
優しい声だった。
けれど史狼は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まり、曖昧に「……おはよ」と返す。
目が合うと、何かを見透かされそうで、視線をそらした。
夢だったのか、現実だったのか——。
でも確かに“あの声”は、オレに届いていた。
そう、思ってしまったのだった。
◇
朝の光が、ウルフネストのダイニングをやわらかく照らしていた。
カーテン越しに差し込む陽射しと、かすかに香るトーストの匂い。
テーブルの上には、ミネストローネとスクランブルエッグ、焼きたてのパン。
けれど史狼は、手元のスプーンを持ったまま、どこか浮かない表情をしていた。
海都がコーヒーを注ぎながら、その様子にそっと視線を向ける。
「……変な夢、見た」
静かに、史狼が口を開いた。
「夢……?」
海都はカップをテーブルに置き、話を遮らないように頷いた。
「うん……ただの夢かもしんねぇけど、……でもなんか、やけにリアルで……もしかしたら、昨日行った場所とも関係あるのかなって」
そう言って、史狼は少しうつむく。
「どんな夢だったの?」
促すように、けれど焦らせない声で海都が尋ねる。
史狼は、記憶をたぐるようにゆっくり言葉を選んだ。
「……古い建物の中だった。木造で、廊下が細くて、天井も低くて……。裸電球が一個だけ吊ってあって。窓の外は雨でさ。……その音が、やけに印象に残ってんだ」
「結構鮮明に覚えてるんだね。床は? 歩いた感じ、どんな素材だった?」
「たぶん……木。古くて、軋んでた。足音が、響くっていうより、吸い込まれてくような感じだった」
海都は軽く眉を上げ、思案するように顎に手を添える。その表情があまりに真剣で、史狼はなぜそんなことを聞くんだと尋ねようとしてやめた。彼はさらに細かく聞いてきた。
「じゃあ、壁は?」
「うっすら汚れてて、白っぽかった……ってか、全体的に古びててさ。なんつーか、今じゃあんま見ない感じだった」
海都は頷きながら、空になったカップを指先でなでる。
「照明が裸電球、廊下が細くて低天井。すりガラスじゃなく、単板のフロートガラスっぽい窓……。うん、昭和中期〜後期に建てられた中規模集合住宅か、木造の簡易施設かも。戦後の応急住宅に近い雰囲気かな」
「は? そんなにわかるの?」
「構造のイメージって、素材と光の取り方でけっこう判別できるんだ。……君が見たの、空想の風景じゃないかもしれないよ」
史狼が驚いたように目を見開く。
「まじで? じゃあ、どっかにあんの? オレが見た場所……」
「可能性はある。君に心当たりがないなら——」
海都は、ふっと視線を伏せ、それからまた静かに史狼を見つめる。
「それは、“君じゃない誰かの記憶”かもしれない。たとえば、その夢の中で聞こえた声の持ち主の記憶とか」
史狼は思わず、ブレスレットに指を添える。
——ねえ、きこえる?
その声が、耳の奥にまだ残っている気がしていた。
「……オレに、何か見つけてほしいのかな。その子」
「うん。君がその声を“感じた”ってことは、何かしらの意味があるはず。……気配や情景は、意外と記憶の中に正確に残ってる。後で、スケッチに起こしてみようか。もしかしたら、似た建物を探せるかもしれない」
「スケッチって……絵とか、オレ得意じゃねぇけど……」
「大丈夫、僕が描くよ。君は思い出したままに、さっきと同じように語ってくれればいい」
ふわりと笑う海都のその声に、史狼の胸がわずかに熱くなる。
さっきまで夢だと思っていたものが、少しずつ“手がかり”に変わっていく。
そして同時に、それを一緒に拾い集めようとしてくれる人が、すぐ隣にいる——。
その事実が、なぜか少しだけ、こそばゆかった。
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