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第11話 忘れられた痕跡
「スケッチ、お願いしてもいい?」
朝食を片付けた後、史狼は照れくさそうに言った。
「……オレ、頭ん中にある景色はなんとなく浮かぶけど、絵にできる気はしねぇし」
海都は快く頷いて、リビングの棚からスケッチブックと鉛筆を取り出す。
「思い出したままでいいよ。床の色、廊下の幅、窓の高さ……全部、細かく教えて」
「……うん」
史狼はソファに腰を下ろし、少しずつ夢の中の情景を言葉にしていった。
木造の細い廊下。天井は低く、電球が一つだけぶら下がっていた。
雨の音。窓のガラスはくもっていて、外はほとんど見えなかった。
床板は軋んで、どこか冷たかったけど、寂しいだけじゃなかった——どこか、懐かしさもあった。
海都の鉛筆が、紙の上を静かに走る。
プロの手が、史狼の断片的な記憶を元に少しずつ形にしていく。
描かれていくのは、木造アパートの一角のような空間。
今はもう取り壊されていてもおかしくない、昭和の香りを残す建物だった。
「……こんな感じ?」
見せられたスケッチを見て、史狼は息をのむ。
そこには、自分が夢で見た“あの場所”が確かに描かれていた。
「……すげぇな、海都さん」
ぽつりと漏らしたその言葉に、海都は軽く笑って肩をすくめる。
「僕の仕事、こういう時にも役立つからね」
そして、描き上がったスケッチをデジタル化し、すぐにタブレットで資料と照らし合わせ始める。
地図アプリ、再開発情報、古い住宅台帳。
次々と開かれるウィンドウの中、ひとつの記録に海都の手が止まる。
「……これ、かもしれない」
「え?」
画面に映し出されたのは、数年前に取り壊すことが決まった旧・神泉台長屋という木造集合住宅の記録だった。
「構造も位置も、君の話にかなり近い。ここからだとバスで10分弱。立地的にも、僕の案件の建物とそう離れてない」
「そこ、今はもう無いんだよな?」
「うん。取り壊しの決定は三年前。ただ……工事の記録に、少し気になることが書いてある」
海都は、記録の中にあったメモ欄を指差す。
『作業者から、“こどもの声がする”という訴え。深夜に話し声や音楽が聞こえるという報告あり。該当部屋は空室のはずだったが、確認時には異常なし』
「……それ、まさか」
「断言はできない。でも、工事は中断されていて、一部だけど建物は残っているみたいだ。もしかしたら、まだ——」
海都は史狼の方を見た。その目には、慎重な光と、ほんの少しの期待が宿っていた。
「君の夢が、“その建物にいた誰か”の記憶だとしたら——そこに、“何か”が残ってるかもしれない」
史狼は黙って頷いた。
あの夢で聞こえた少女の声。ただの幻じゃなかった。
彼女の“声”は確かに、この街のどこかにあって——。
“誰かに聞いてほしい”と願っていた。
「……行ってみたい。そこ」
静かにそう言った史狼の声に、迷いはなかった。
◇
午後の陽射しが、静かに傾きはじめていた。
旧・神泉台長屋——今はすでに住人のいないその場所は、再開発の準備で囲いが立てられ、資材置き場として使われているだけだった。
けれどその敷地の一角に、まだ取り壊されていない一棟だけの古い平屋が残されていた。
「——ここだよ」
海都がスマホを耳に当てながら、低く呟く。
管理会社との電話はスムーズだった。
海都の名前を出すと、担当者は驚くほど丁寧に対応し、すぐに現地担当を手配してくれた。
「業界の有名人って、便利なんだな……」
史狼が感心したように言うと、海都は苦笑しながら肩をすくめる。
「君の耳と感覚の方がずっと特別だけどね」
ほどなくして現れた現地管理者の男性は、地図と鍵束を持っていた。
簡単な身分確認と同意書の記入を終えると、古びた木造の建物へ案内してくれる。
「こちら、取り壊し直前の一室です。設備は外されていますが、建物自体はまだ手付かずで……」
「ありがとうございます。中を拝見しても?」
「ええ、もちろん。ご自由に」
海都が鍵を差し込む。史狼が木製の引き戸に手をかけると、ゆっくりと重たく開いた。
中に入ると、空気はひんやりとしていて、わずかに埃の匂いがした。
けれど、どこか湿気を含んだこの空間は、夢で見た記憶に限りなく近かった。
古びたフローリング。裸電球。雨染みのある白い壁。
そして、窓から差し込む光が、ほんのわずかにゆらめいている。
「……ここ、だ……」
史狼が小さく呟いた。
夢の中で、あの声が導いた場所。
心臓が、少し早くなる。
何かが、ここにあるはずだ——。
そう感じて、史狼はふと、部屋の隅に目を向けた。
古い木の棚。積まれた段ボール。その上に、埃をかぶった小さな箱があった。
手を伸ばしてそっと蓋を開けると——中には数十本のカセットテープ。
そして、一枚の紙が添えられていた。
折り畳まれたその紙を広げると、幼い文字でこう書かれていた。
《おねえちゃんへ。またいっしょにラジオごっこしようね。やくそく、わすれてないよ。みお》
——最後に書かれた二文字は、少女の名前のようだった。
史狼の手が、わずかに震える。
幼い文字。丸く素直な筆跡は、昨日夢で聞いた声のトーンと、不思議なほどぴたりと重なる気がした。
「……これ、たぶん……」
史狼は、そっと紙を胸に当てながら呟く。
「あの子の書いたものだ」
「見つけたんだね」
隣で海都がそっと声をかける。
史狼は頷き、管理者の方に向き直った。
「これ……ここにあったものですよね?」
「ええ。かなり前に見つかったもので。持ち主も使い道もわからないので、正直、処分する予定でした」
「……これ、オレに引き取らせてもらえませんか」
「え?」
「大事な“声”の記録なんです。誰かが、きっと……伝えたかったことなんだと思う。だから、オレが……ちゃんと、その人に届けてやりたい」
管理者は一瞬驚いたようだったが、海都がそっと口を添える。
「この子は、僕が今進めている案件の大事な関係者です。僕が責任を持って扱いますので、ご理解いただけますか?」
「……そういうことなら」
管理者は小さく頷き、同意してくれた。
史狼は、胸にあったわだかまりがひとつ、ほどける音を聞いた気がした。
カセットテープと、小さな手紙。
これはきっと、“みお”が彼女の姉に届けたくて……でも誰にも見つからずに忘れられていたもの。
そしてそれを、今——自分が預かっている。
「……見つけた」
そう呟く史狼の隣で、海都は優しく目を細めた。
「——君だけが知ってる声。そこに入ってるかもしれないんだね」
差し込む西日のなかで、ふたりはそっと顔を見合わせた。
言葉にしなくても、心が通じ合う気がした。
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