12 / 12

第12話 カセットテープに残されたもの

 夕暮れが、街の輪郭をじわりと紅く染めていく。  ビルの隙間から差し込む西陽が、ウルフネストのリビングに長い影を伸ばしていた。  ソファに腰を沈めた史狼は、両手に握ったカセットテープを見つめ続けている。  小さなプラスチックの箱に、“あの声”が眠っていると思うと、胸の奥がざわついた。 「……今すぐ、聴きたいのに……」  ぽつりと漏れた呟きに、焦燥と熱が滲む。  だが、目の前にあるのはテープ。そして、肝心の再生機器は——この部屋のどこにもなかった。 「なんで今どき、テープなんだよ……っ」  思わず情けない声が出る。スマホを握り直し、検索を繰り返す。  家電量販店、通販、中古サイト——出てくるのは「取扱終了」や「在庫なし」ばかり。  指先にじわじわと力が入る。  追い詰められるほどに、胸の鼓動も強く速くなっていった。  そのとき。 「リサイクルショップなら、まだ望みはあるよ」  静かに降ってきた声が、張り詰めた空気をやわらかく切り裂いた。  史狼が振り返ると、キッチンからマグカップを手にした海都が歩いてくるところだった。  柔らかな照明が彼の横顔を照らし、その輪郭が一瞬、頼もしく見えた。 「徒歩圏内に三軒。電車で行ける範囲にも、音響に強そうな店がいくつかあった。PCに変換できるケーブルも、扱ってるかもしれない」 「……マジで救世主だよ、海都さん」  思わずもれた感嘆の声に、海都は小さく笑った。 「調べごと、得意なんだ。君が困ってると、つい張り切っちゃうんだよね」  その言い方があまりに自然で、史狼は少しだけ視線を逸らした。  それから二人で、タブレット片手に街を歩き回った。  夕暮れが夜に溶けていく中、ようやく見つけたのは、年季の入ったラジカセ。通電を確認してくれた店主に感謝しつつ、それを手に帰路を急ぐ。  ウルフネストに戻ると、史狼はひとつ息をついた。  慎重に一本のテープを選び、ラジカセに差し込む。指先がわずかに震えた。  小さく深呼吸して、再生ボタンを押す。  機械が唸りを上げ、ゆっくりとテープを巻き始めた——。     《ピピッ……こんばんは。星のラジオのお時間です! 今夜のメッセージテーマは……!》  不意に響いたアナウンスが、史狼の胸を揺らす。  勢いのある声と、BGM。それに混ざるノイズ。  懐かしさに似た感覚が、一瞬、史狼の記憶を撫でた。  けれど——違った。 「……え、何これ……昔の……? ラジオ番組?」  再生が終わる前に、次のテープを入れた。  そして、また次。  それでも、どれも同じようなラジオ番組の録音ばかりだった。  ——“あの声”は、どこにもいない。 「……違う……これじゃない……」  力が抜けて、史狼はソファに沈み込む。  焦がれて、探して、ようやく辿り着いたはずなのに——この虚しさは、なんなんだ。 「……オレ、なにやってんだよ……」  自嘲まじりに漏らした声が、静かな部屋に吸い込まれていく。  そのとき。  となりに、そっと置かれたのは温かなマグカップだった。 「少し、休もうか。……焦る気持ちはわかるけど、無理はよくないよ」  海都の声が、優しく耳を撫でる。  ふと、目が合った。  あたたかい。けれど、どこか儚さも宿す瞳だった。 「……海都さんは、焦ってないの?」 「焦ってないわけ、ないよ。でも——信じてるんだ。君が、ちゃんと“拾える”って」  その一言が、なぜだか、喉の奥を詰まらせた。  信じられているという安心と、信じられる存在でいたいと思う、微かな誇り。  それと、もう一つ——。  こんなふうに、自分のことをまっすぐ見てくれる人を、手放したくないと思ってしまう気持ちが、確かにそこにあった。  ——でも、それはきっと、一時的なものだ。  事件が終われば、二人の時間も終わる。  この距離感も、きっと解かれていく。  なのに、こんなふうに優しくされると、その終わりが、やけに近く感じてしまう。  だから。 「……ありがとな、海都さん」  ほんのわずか、声が揺れたのをごまかすように、史狼はマグカップに口をつけた。  熱が、舌に触れ、胸にじんわりと広がっていく。  ——海都さんのいるこの場所が、もう少しだけ続けばいいのに。  そんなことを、思ってしまった。 ◇ 「——ごめん。ちょっと、出てくるね」  キッチンから、静かな声が届いた。 史狼が顔を上げると、海都は洗い終えたマグカップを伏せ、ふきんを横に置いたところだった。 「え、こんな時間から?」  壁の時計は、すでに夜の九時を指しかけている。 「誰かと会うの?」  何気ない口調だったはずなのに、自分の声に微かな引っかかりを感じた。  口に出した瞬間、それが“気になっていた”ことを、自分自身に知らされる。  海都は、一拍だけ間を置いて、ふっと目を細めた。 「うん。少し話しておきたい人がいてね。すぐ戻るよ」  笑わなかった。  それが逆に、彼の誠実さに思えて、史狼の胸に変なノイズを走らせる。 「……気にしないで。君は先に寝てて」  穏やかな口調のまま、海都はジャケットに袖を通した。その動作は落ち着いているのに、どこか“迷い”の匂いがあった。 「いってきます」 「……いってらっしゃい」  ドアが閉まる音だけが、静かに残った。  部屋に、しんとした静けさが戻る。  史狼は深く息を吐いて、ラジカセの前に座り直した。  繰り返しになることはわかっていた。それでも、まだ希望を捨てきれなかった。   ◇  坂道を歩きながら、海都はスマートフォンを胸ポケットに滑り込ませた。  壱狼からのメッセージは、たった一文。  ——《時間あるか。ちゃんと話したい》  簡潔で、重い。  どんな複雑な設計図を書くより、ずっと難しく感じる言葉だった。  理由は、わかっている。  史狼はあの夜、壱狼との電話のあと、距離を取っている。その間に、自分と史狼との関係も変わり始めている。  それを、壱狼が察していないはずがない。 (聞かれるだろうな……色々)  かつて、自分は言った。  “シロくんは弟みたいな存在だ”って。  それが、どれだけ彼を傷つけ、遠ざけたのか。  いまなら痛いほど、わかる。  守るつもりだったのに——。  それは、今から思えば自分が傷つかないための方便だった。  きっと、壱狼は真正面から切り込んでくる。 『シロのこと、まだ“弟”だと思ってるか?』  そんなふうに。  ……もう、違う。  いつからだっただろう。  まっすぐで、不器用で、誰かの言葉を必死に追いかけてる史狼を、ただ見ていたくなくなったのは。  気づけば、ずっと隣にいてほしくなっていた。 「ごまかしても、きっと見抜かれるだろうな……」  歩きながら、小さく独り言を漏らす。  触れたくて、近づきたくて、でもまた傷つけるのが怖くて——。  それでも、もう曖昧にしてはいけないと、心のどこかでは気づいていた。  海都は、薄く息を吐きながら、暗がりの中を歩き続けた。   ◇  ラジカセから、カチリとテープが止まる音がした。  史狼は、目を半分閉じたまま、ゆっくりと再生ボタンを押し直す。  いつの間にか、日付が変わりかけていた。海都はまだ帰ってきていない。  ——今頃……誰と会ってるんだろう、海都さん。  そんなことを思ってしまった自分に、少し自己嫌悪があった。 「べつに、気にしてるわけじゃねぇし……」  呟いた声は、ラジカセの再生音にかき消される。  ヘッドホンの中で、ザザ……とテープのノイズが鳴った。  そのあとに流れてきたのは、やわらかな声だった。   『えーっと、今日のお便りは、ペンネーム“さくらもちさん”から……!』  女の子の、楽しそうな声。  もうひとつ、笑いをこらえるような声がかぶさる。 『おねえちゃん、それ名前テキトーでしょ!』 『いいじゃん、可愛いもん。ほら、“今日も聴いてくれてありがとう。星のラジオ。お悩み相談室のお時間です”って言って』  懐かしいジングルの真似。カセットに録音された、姉妹の“ごっこ遊び”。  音はそのまま、史狼の脳裏にノイズ交じりで響き、ゆっくりと現実を遠ざけていった。 ◇ ——夢を見ていた。 けれど、今までのどれよりも、ずっと鮮やかだった。 そこには、二人の少女がいた。 場所は、あの古びた部屋。木の床と、低い天井。ちゃぶ台にはマイク代わりのリモコン。 姉らしき子が、背筋をしゃんと伸ばして言う。 『えっと……“うちの妹は、朝になるとおねえちゃんのベッドに潜り込んできます。どうしたらいいでしょうか?”』 『も〜それ、絶対わたしの話じゃん!』 『では、みお先生、お答えをどうぞ!』  笑い合う声。その響きが、史狼の胸にどこか懐かしく染み渡る。  そして——夢の色が、ふいに変わった。  姉の姿がすっとかき消えて、みおと呼ばれた少女がひとりきりになる。その子は、リモコンを両手で抱きしめるようにして言った。 『……ねえ、おねえちゃん、けんかしたまんまで遠くに行っちゃった』 『でも、大丈夫。テープに、ちゃんと録ってある。聞いてくれたら、きっと仲直りできるって信じてる……』  声がかすれる。  それでも笑おうとする、強がりな少女の表情が痛いほど胸に刺さった。 『おねえちゃん、だいすき。だから……ちゃんと、聞いてね』  ——そこで、夢は、ふっと終わった。    史狼は、ソファの上で息を呑むようにして体を起こす。リビングの時計は、さっきよりも少し遅い時刻を指していた。  喉の奥が、妙に乾いていた。  夢で聞いた少女の声が、どこか、自分の中の何かをやさしく、けれど確かに引っかいている。   「……“録った”って……カセットか……?」  そう呟いたとき、史狼の目に、テーブルに積まれたテープの山が映った。  ——まだ聞いていないテープは何本か残っている。  夢の中でふたりが遊んでいた“星のラジオ”ごっこ。  それがもし、ただの空想じゃないとしたら——。   「……頼む。どっかに残っててくれ……」  史狼は、ゆっくりとテープに手を伸ばした。  その中の一本に、あの少女が最後に録った声があるかもしれない。  自分が、ここにいる意味を問われているような気がして——指先に、そっと、力がこもった。

ともだちにシェアしよう!