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第1話 ヒールしか使えない無能と言われて家を追い出されました
俺の名前は朝倉悠真 。
趣味は読書と育成ゲーム。あと、ショタ──もとい、可愛い子供キャラを愛でることだった。
もちろん、「YESショタ!NOタッチ!」が俺の鉄の掟。尊さで床を転げ回ろうとも、理性の蓋は固く締める。
ついでにもうひとつ、囲碁もちょっとかじってた。
小学生の頃、漫画で流行ってて、「なんかかっこいい!」って勢いで始めたやつだ。
プロどころか対局相手もいないから、ひとりでAIと打ったり、詰碁解いたり、まぁ完全に自己満足の世界。
でも、白と黒の石が並ぶ盤面を見てると、不思議と心が落ち着いた。
局面全体を見て、次の一手を考える──そんな感覚が、なんとなく好きだった。
そんな俺の隣の部屋から、最近、たびたび物音や子どもの泣き声が聞こえてくるようになった。
最初は、気のせいだと思った。
でも、日に日に頻度は増えていき──それでも俺は、声をかけることができなかった。
怖かったのだ。
変に干渉して、トラブルに巻き込まれるのが。
「きっと、誰かが通報してるはずだ」
「俺なんかが口を出したら、もっと悪くなる」
……そんな言い訳で、自分を納得させた。
一度だけ、児童相談所の番号──“189(いちはやく)”を検索した。
でも、結局、通話ボタンを押すことはなかった。
その画面を閉じたとき、もう一度だけ、子どもの泣き声が聞こえた気がした。
それが、最後だった。
──数日後。
夕方、サイレンが近づいてくる。
パトカーの赤色灯が、建物の壁に反射してちらつく。
インターホン越しの、制服姿の警官が告げた。
「お住まいの隣室で、事件がありまして……
……男児の遺体が発見されました。
……子どもが、一人、息絶えていたんです」
その瞬間、
頭の奥で何かが砕ける音がした。
胸の奥に沈んでいた「もしも」が、いくつも浮かび上がる。
あの時、声をかけていれば。
電話を、していれば。
“あの子は、まだ生きていたかもしれないのに”
──人は、死ぬとき、何を思い出すのだろう。
身体の芯から冷えていく中、俺の脳裏に浮かんだのは、隣の部屋からよく聞こえていた、あの泣き声だった。
助けられなかった子ども。
知らないふりをして、目を背けて、それでもずっと、胸の奥に引っかかっていた。
もしかして、あの子も──
今の俺と同じように、
ひとり、寒くて、寂しくて、誰にも気づかれずに……
死んでいったのだろうか。
もし、もう一度やり直せるなら。
今度こそ、あの手を取ってやりたい。
──誰かの“最期”が、“誰かの始まり”であってくれたら。
せめて、そんな風に願っても、いいだろうか。
***
次に目を覚ました時、俺は見知らぬ世界にいた。
異世界ファンタジーそのものの風景。
そして、偶然にも前世と同じ名前──【ユーマ】として生まれ変わっていたのだ。
しかも、魔法貴族の名家に転生したって知ったときは、正直、勝ち確だと思った。
チート人生きたわコレ!って、天井仰いで小躍りしたくらいだ。
だって、貴族だよ?魔法だよ?チート設定大集合じゃん?
……なのに。
俺が使えるのは、ヒールのみ。
それも、「切り傷・擦り傷・ひびあかぎれ、目の疲れに効くよ!」系の地味〜なやつ。
なにそれ、オ◯ナイン軟膏でよくない??
いや、あっちのほうがたぶん効くまである。
そのうえ、三歳年下の弟、リセルが既に火や風の術式を習得していて、親からの期待も賞賛も、いつの間にか全部あいつに持っていかれた。
(なんだよ、それってズルくないか……)
でも、リセルのことは、ずっと可愛いと思っていた。
あいつは、俺とは違って、魔法の才能に恵まれて生まれてきた。三歳にして火花を散らし、四歳で火球を浮かせ、五歳には父さんと模擬戦をして勝った。
なのに、それでも俺の後ろをついて回って、「兄さんみたいになりたい」なんて笑うから、参ってしまう。
──いや、ほんと、可愛いんだよ。顔も性格も、全部。
くりっとした目に、いつも眠たげな口元。俺の袖をきゅっと掴んで離さない癖も、小動物みたいな声で「ねぇあのね」って話しかけてくるのも、全部。
前世の俺は「YESショタ!NOタッチ!」を貫いた信仰者だったが、こっちの世界でもそのスタンスは変わらない。
愛でるだけ。触れない。ただ、ちっちゃくて可愛い存在を尊ぶのみ。
でも──俺の中に、ちょっとだけ寂しい気持ちがあったのも確かだ。
あいつは才能がある。家族に愛されている。
つまり、俺と違って、ちゃんとここに“居場所”がある。
冷たくなっていく家族の態度に耐えきれなくて、俺はよく森に逃げていた。
魔獣が出るから行くなって、何度も言われたけど、だからって何だっていうんだ。
ヒールしか使えない俺に、未来なんてあるのか?
今日も同じ。
森の中、木漏れ日の揺れる道を、ただなんとなく歩いていた。
そしたら──ふと、うめき声が聞こえた。風と一緒に、微かに。
気になって、音のする方へ近づいた。
草をかき分けた先で、俺はその姿を見つけた。
黒灰色の耳。しなやかな尾。人に近いけれど、明らかに違う。
小さな身体の足首に、古びたトラバサミが食い込んでいて、赤い血が滲んでる。
(獣人……本当にいたんだ)
ずっと本でしか見たことのない存在。初めて見た実在の獣人に、俺は興奮した。でもその子は、俺の気配に気づいた途端、ビクッと肩を震わせて、逃げようとした。
「ま、待って! 大丈夫、酷いことなんてしない!」
罠が食い込んでる足を引きずって、必死に後ずさるその様子に、俺はとっさに声をかけた。
言葉が通じるかもわからない。でも、このまま放っておくなんて、絶対できない。
「……ちょっと、足見せて。血、止めなきゃ……」
俺がゆっくり近づくと、彼は怯えながらも、動きを止めた。
この世界の人間たちは、獣人のことをどこか“蛮族”のように見ている。だからきっと、この子も、理不尽な目に遭ってきたんだ。
(それって……なんか、俺と同じじゃないか)
どこにも居場所がないって思ってた。
誰にも期待されないって、孤独に押し潰されそうだった。
そんな俺に、今、助けを求めてる誰かがいる。
「よし、外すぞ。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してくれ」
罠の金具を慎重に開きながら、俺は小さくヒールを唱えた。
その魔法は、やっぱり微かにしか効かない。けど、それでも、少しでも痛みが和らげばいいと思った。
彼は、黙って俺を見ていた。
怯えと、不信と、ほんの少しの希望が混じったような目で。
その時だった。
「兄さーん!」
遠くから、弟の声が聞こえた。
ああ、また迎えに来たんだな。探しに来たんだ。
思わずそっちを振り返って──気づいた。
さっきまでそこにいたはずの、あの獣人の少年が、もういなかった。
罠の跡だけがぽつんと残っている。赤い血の染みも、葉の揺れる音も、まるで最初から何もなかったかのように消えていた。
……逃げたんだ。
でも、当たり前だよな。あんなに怯えてたんだ。
人間なんて、信用できるわけがない。
もう一度、あの目を思い出す。
痛みと不信と――ほんの少しの希望。
あんな目で見つめられたのは、生まれて初めてだった。
結局、名前も何も、聞けなかった。
あれ以来、あの森で彼に会うことは、二度となかった。
けれど、この日から、俺の人生は、確かに変わり始めていた。
***
相変わらず、両親の態度はわかりやすかった。
俺が何をどれだけ頑張っても、「凡才」って烙印を押された時点で、もう見限ってたんだろう。
エリートが集まる魔法学院には当然のように通えず、18歳の誕生日、まるで待ってましたと言わんばかりに「そろそろ自立の時期ね」なんて言われた。
……まあ、要するに「家を出ていってくれ」ってことだ。
弟のリセルだけは、少し寂しそうな顔をしてた。
優秀すぎるリセルは、両親の期待を一身に背負って育ってる。
それでも俺を兄として慕ってくれた、数少ない味方だった。
リセルは少し唇を噛みながら、「本当に行っちゃうの?」と別れを惜しんでくれた。
頭を撫でてやった。小さくてあたたかくて、やっぱり可愛い。
……その可愛さに、少し救われたのも事実だった。
でも、両親は違った。
あの日、俺が家を出る時に見せたあの笑顔──
あんなに穏やかな顔、初めて見た気がする。
……ほんと、よかったな。やっと“出来損ない”が出ていってくれて。
***
親から軍資金──いや、手切れ金をいくらかもたされたが、そんなもん、あっという間に底をつく。
とりあえず俺は街の冒険者ギルドへ向かい、冒険者として登録。
登録だけで1000ギニー。……地味に痛い。
今の俺にできるのは、せいぜい難易度Fの雑用か、薬草の採取くらい。
そもそもモンスター討伐の依頼なんて、実力がなきゃ受けることすら許されない。
冒険者ランクでいえば、俺は最下位の“アイアン”。
要するに、俺が憧れてた“勇者っぽい仕事”は、しばらく夢のまた夢ってわけだ。
せっかく夢にまで見た、獣人のいる異世界ファンタジーに転生したっていうのに──
現実は、そんな出会いとはまるで無縁だった。
あの日、あの森で出会ったあの子は、今どうしているんだろう。
まだ、どこかで生きてるんだろうか……。
ぼんやりとそんなことを考えながら、俺はギルドの掲示板を眺めていた。
掲示板に並んだ依頼の中から、アイアンランクの俺でもこなせそうなのは、荷物運びに草むしり、畑の見張り。
どれも似たり寄ったりで、内容も報酬も薄給。ため息は増える一方だ。
……そのときだった。
背後に、気配。
誰かの視線を、確かに感じた。
振り返ると、そこには、フードを深くかぶり、首元の布が口元までせり上がった小柄な影が立っていた。
子ども……?
だが、フードの隙間から覗いた金色の瞳が、鋭くこちらを見据える。
……その目に、俺は見覚えがあった。
「……っ、君……あの時の……!」
まちがいない。あのとき、森で出会った──あの獣人の子だ。
でも、変わっていなかった。
何年も経ったはずなのに、背丈も雰囲気も、まるで昔のまま。
「え、ちょっと待って。君、あの時の子だよね!?なんで見た目変わってないの?? いま何歳なの!?」
驚きと動揺を隠せず、思わずそう口にしていた。
すると、相手はフードの奥で少しだけ眉を動かし──ぼそりと呟いた。
「……18。年は取ってる」
「いやいやいや、嘘だろ!? こちとらヒゲ剃るのが日課になってんのに、君、どう見ても成長期前だぞ!? いつまでショタでいるつもり!?」
「……? それ、俺のせいじゃない」
「じゃ、じゃあこの世界の獣人て、みんな見た目は子供、頭脳は大人的なやつなの!? 名探偵なの……!?!?」
「……あまり騒ぐな。他のやつらが見てる」
低く静かな声に、ハッと我に返る。
まわりの空気が、いつの間にかピリついていた。
ちらちらと視線を投げてくるのは、冒険者ギルドのごつい面々──けど、その目は明らかに、俺ではなく。
「ガウルさんだ……」
「マジかよ、あの“プラチナランカー”の……」
「この街にいるなんて噂だったけど……本人だったのか」
ざわ、っと空気が波打つ。
戸惑っているのは俺だけで、まわりの冒険者たちは、目の前の“少年”を――まるで伝説でも見るような目で見ていた。
「……は?」
言葉が出ない俺をよそに、ガウルは目だけで周囲を睨み、低く唸った。
「面倒になる。外に出るぞ、ユーマ」
(──えっ、なんで名前知ってるの?)
「……なんで俺の名前」
「……調べた」
短く返された言葉に、思考が一瞬止まる。
「え、ちょ、え?」
「……あんたが、あの家から急にいなくなるから。ここにも、匂いを辿ってやってきた」
「どういうことだ……?」
「礼がしたい。香木も、レッドスピネルも、兎も──あんたに気に入ってもらえなかった」
「…………???」
完全に置いてけぼりだ。でも、なんか、重い。真剣な目をしているのに、見た目はちっちゃい。ちぐはぐすぎて、現実味がない。
香木……? 兎……?
俺は記憶の糸を辿った。
そこでふと思い出す。
ある日、俺の家の玄関前に、ふんわりと甘い香りのする木の枝が置かれていたことがあった。
「……なにこれ、ただの棒? あ、でもちょっと良い香り? まいっか」
結局そのまま、庭へポイ。
また別の日には、小さな宝石みたいに透き通った赤い石。
「兄さん、玄関に綺麗な石落ちてたよ! 僕もらって良い?」
「ああ、いいよ」
そして──とどめは。
「うわっ!? な、なにこれ!?」
玄関先に、ぽつんと横たわっていたのは、丁寧に狩られたらしい野ウサギの死骸だった。
「ヒィィ……! 可哀想に……っ」
俺は震えながらも庭の隅に小さなお墓を作り、静かに手を合わせた。
……。
…………。
「あれ全部……お前の仕業だったのか!?」
ガウルは小さく、でも確かに頷いた。
(マジか! 棒は捨てたし、石は弟が持ってったし、兎は埋めちゃったよ!?!?)
心の中で思わず頭を抱える。よりによって全部、スルーどころか供養までしてるとは……!
「……すまん……いや、ありがとう……!いや、ほんとごめん……!」
わけのわからない謝罪と感謝が口から溢れる。
「あんたも冒険者になったんだな。ギルドの依頼受けるのか?」
「え、あ、ああ……。受けたいんだけど、俺じゃFランクの採取くらいしか──」
「手伝ってやる。あの時の礼に」
(……え、Fランクの採取を、プラチナランカー様が手伝ってくれるってこと?)
脳内で一瞬、野草を摘みながら無言で背後からガウルがついてくる図がよぎる。 そ、それはそれで……ちょっと可愛いかもしれない。けど。
ガウルはすたすたとギルドカウンターへ戻ると、掲示板をざっと一瞥し──一枚の依頼書をビリッと引き剥がした。
そのまま、受付のお姉さんに無言で差し出す。
「これ。報酬もいいし。狩った素材も高く売れる」
俺は思わず目を見開いた。
(え、待って、それ……)
掲示板に残された依頼の枠には、でかでかと書かれていた。
──【Sランク依頼:赤眼のドレイク討伐】報酬:150,000ギニー+素材売却分
(いやいやいや!!!)
「ちょっ、ちょっと待って!? これ、なんかの間違いじゃ!?」
「間違ってない。あんた、金いるんだろ。ギルドの登録料でもう痛いって、さっき呟いてた」
「聞いてたのかよ!?」
「聞いてた。全部」
(聞き耳たてられてたのも地味に怖いし、なによりSランクモンスター!?俺即死では!?)
***
翌朝。
装備を整え──といっても、家を出たときに持ってきた数少ない私物に、拾い物のマントを羽織っただけだ――ガウルに指定された集合場所へと向かった。
街外れの石壁の前。
そこには、昨日と変わらぬ出で立ちで、静かに腕を組み、壁に凭れて佇む少年の姿があった。
背筋を伸ばし、風に揺れるフードの影から、冷たい眼差しだけがこちらを見据えている。
一瞬、呼吸を忘れそうになった。
(……クール系ショタ……尊い……ッ!!)
なんだあの立ち姿。まるで神絵師の一枚絵だ。フィギュアで欲しい。保管用と観賞用と布教用で三体くれ。
ふつう、子供ってもうちょっとこう……無防備というか、ふにゃっとしてるものでは!?
中身18歳だからなの?
合法ショタの暴力なの……!?
なにその無駄のないラインと完成された無表情……っ!!
「……お、はよう」
なんとか声をかけると、ガウルはちらりとこちらを見て、ひとつ頷いた。
それだけなのに、俺の胸の奥が、ズキュンと鳴った。
やばい。クール系の破壊力、予想以上に高い……。
「……行くぞ。時間が惜しい」
ガウルは壁から離れると、躊躇なく歩き出す。
その歩幅も、足音も、どこまでも均整が取れていて。
(……待って、マントの裾から尻尾見えてる! しかも先っぽだけ白いの、反則じゃない!?)
思わず内心で叫んでしまう俺をよそに、ガウルは一度も振り返ることなく、一定の速度で先を行く。
その背中に、ゆらりと揺れる尻尾。さっきまでの冷ややかな表情が頭をよぎって、変な汗が出てくる。
慌ててその後を追いながら、俺は胸の内で深く息を吸い込んだ。
(落ち着け、俺。あれは尻尾。かわいいけど、ただの尻尾。……でもあれ、絶対ふわふわだよな?)
ヤバい。この依頼、絶対まともな精神じゃ終われない気がする。
俺たちは、赤眼のドレイクに襲われたという行商人の証言を頼りに、街から少し離れた丘陵地帯へと足を運んでいた。
そこは、岩場と草原が入り混じる開けた場所で、遠くの方には、さっきまでいた街の屋根が小さく見えていた。
本当に、こんなところにあの大型魔物がいるのか……?
半信半疑であたりを見回していると、ガウルが不意に足を止めた。
「……見ろ。ドレイクが食べ散らかした痕だ。まだ近くにいる」
指差す先には、砕けた骨のようなものが点々と転がっていた。
白く風化しかけたものもあれば、まだ生々しい血の跡が残っているものもある。
「ひえっ……」
思わず声が漏れたその瞬間だった。
「伏せろッ!!」
ガウルの鋭い叫びと同時に、空から影が落ちた。
厚い雲の切れ間から、巨大な飛竜が音もなく急降下してくる。
目が赤い──あれが、ドレイク……!
動けない俺に、ガウルが叫ぶ。
「そこを動くな!」
彼は地面を蹴り、すばやく間合いを詰めると、腰から何かを引き抜き、空中に向かって放り投げた。
投げられたそれが爆ぜた瞬間、辺り一面が眩い閃光に包まれる。
「うわっ……!」
反射的に目を閉じた。
直後、鋭く空気を裂くような斬撃音が響き、俺のすぐ目の前に、何か巨大なものが落ちてきた。
──ドサッ。
目を開けると、そこには、血を流しながら転がるドレイクの首。
赤い眼が、こちらを睨むように見開かれていた。
「ひいっ!!」
目の前で転がるドレイクの首。
地面には赤黒い血が広がり、風がその匂いをかすかに運んでくる。
動悸が収まらない。
頭では理解してるのに、体がまだ現実を受け入れてくれない。
だって──だって、あんな巨大な魔物を、あの小さな身体の少年が……たった一撃で!
呆然と立ち尽くす俺の前で、ガウルがすっと立ち上がった。
彼は足元の血の海に一切触れることなく、すっと岩場へと歩み寄る。
そして、やや高くなった岩に片足を乗せると──
風が吹いた。
その拍子に、彼の頭を覆っていたフードが、はらりと落ちる。
月明かりを帯びたような銀髪がさらりと揺れ、露わになった横顔が、振り返る。
「……終わった」
その瞬間、彼は、ふっと微笑んだ。
その笑顔は、どこか誇らしげで、嬉しそうで……
なのに、俺は、それを正面から直視できなかった。
(……無理……死ぬ……この尊さはzipでくれ……!!)
俺は思わずしゃがみ込み、膝を抱えて悶絶した。
いや待て、これは違う、そうじゃない。
今のは、純粋に命の恩人への感謝であって、決して何かこう、性癖の再確認的な意味じゃ──
「……ユーマ?」
「はい、元気です、生きてます。尊さに圧死しかけました」
返事になってないけど、仕方ない。
今の俺に、理性的な判断力を求めないでくれ。
俺は、今──ドレイクの首を抱えていた。
ずしりと重い。ぬるぬるしてるし、ちょっとあったかいのが逆に怖い。
夢だった。こういうの。異世界転生して、でっかい魔物を倒して、華麗にギルドに報告して、「すごいね!」って言われるような……。でも実際やってみたら、想像の十倍くらい生々しいし、クサいし、なんならグロい。
いや、首持ち帰るってどういうことだよ!?ってツッコミたい。丸ごと全部じゃなくてよかったけどさ!
ギルドに着く頃には、手がすっかり血で汚れて、受付嬢のお姉さんが一瞬引いてた。
いや、俺だってドレイクの首持って受付行くとか思ってなかったよ!?
ガウルが「これでいい」って言うから……。いや、うん、まあ、間違ってなかったけどさ。
現物見せた瞬間、お姉さんの目が見開いて、「確認班、すぐ呼びますね!」って裏手に消えてった。
それからバタバタだった。
係の人が数人で来て、場所を聞かれて、ガウルが淡々と説明して、俺はというと──ただ突っ立ってた。疲れ果てて。
結局、素材の回収はギルド側がやってくれるって話で、俺たちは報酬を待つだけってことになった。
俺は椅子に座って、ぐったりしながら思う。
なんだこれ、夢じゃなかったんだなって。
すげえ強いドレイクを倒して、証拠持って帰って、ちゃんと認められて──
横では、ガウルがいつも通り無口で、でも、たまに俺の方を見ては小さく頷いてて。
……そうだよな。始まりはあの日、森で出会った、あの子だった。
俺の物語は、たぶん今、始まったばかりだ。
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