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第30話 ショタを救え! 獣人レスキュー隊〜筋肉嫁とゆかいな仲間たち〜
獣人ショタ救出のため、城門前に集まっていたベアトリス中尉とその部下4名、王宮付き魔導師1名と、俺たち一行は合流した。
現れたベアトリス中尉は、昨日のカッチリ軍装とは打って変わって、クロップド丈のタンクトップにアーミーパンツ。腹筋と背筋が惜しげもなく解放され、その背中にはバスターソード級の大剣を背負っている。
……いや、昨日は気づかなかったけど、この人の筋肉、尋常じゃない。服装が変わっただけで職業まで変わって見える。
しかも引き連れてきた部下は全員、肩幅でドアを破壊できそうな屈強な男ばかり。
「ユーマ殿。今日は私のお気に入りの部下を連れてきた。大船に乗った気でいたまえ」
(筋肉的な意味でか!? ていうか、そんな私情で人選していいの!?)
「は、はあ……あの、よろしくお願いします」
筋肉×8。いや、頼もしいんだけど……もはや筋肉製の大船どころか戦艦である。
俺は、隣に立つ唯一細身に見える白ローブの魔導師へと視線を向けた。
……いや、油断はできない。ひょっとするとこの人も、脱げば背中に翼が生えそうなレベルで筋肉が詰まってるタイプかもしれない。
そんなことを考えていたら、ふいに目が合った。
「あ……」
――この人、よく見たら俺を攫った張本人じゃないか!?
白ローブの男は、まるで待ち合わせに遅れてきた友人でも見つけたかのように、屈託のない笑みを浮かべた。
「ユーマ君、やっほー。おひさ〜♪」
……軽っ!? え、なにそのフレンドリー挨拶。
いや、ちょっと待て――こんなキャラだったの、この人!?
「あの時はごめんね〜★ ほら、王命だったからさ〜。俺っちもね〜、心を痛めてたわけよ……三秒くらいは」
(短っ!! え、秒単位!? しかも堂々と言うなよ!!)
「あ、俺っちロイドってんだ。まあ気さくにロイロイって呼んでね」
ローブの男――ロイドは、まったく悪びれる気配もなく、今度は俺の背後にいる面々へひらひらと手を振った。
「ちわーっす! ……いや〜、相変わらず皆さんお元気そうで」
――が、次の瞬間。
ギロリとガウルが睨み、アヴィが舌打ちし、クーはにこやかに……しかし目だけは一切笑っていない、底冷えするような笑みを浮かべた。
「……こっわ!! ちょっとユーマ君ちの猛獣、怖すぎるんですけど!? これ、人間食べませんよね!? ね!?」
「あの……すみません。たぶんこいつら、俺を攫ったこと、まだ根に持ってるみたいです……」
そう言った途端、三匹の視線が一斉にロイドへと集中。
その圧は、言葉よりも雄弁に「根に持ってる」と証明していた。
ロイドは愛想笑いを浮かべつつ、ほんのり後ずさる。
「いや〜……そ、そんな昔のこと、みんな忘れて……くれませんかね?」
(いや、むしろ最近だろ!)
俺の心のツッコミを無視するように、ベアトリス中尉が号令をかけた。
「よし! みんな出発するぞ、ついてこい!」
その声に、場の緊張が一瞬だけ解ける。
……けど俺の心は全然解けない。
(え、このメンツで大丈夫なのか……?
いや、絶対なんか起こるだろコレ……!)
俺のそんな不安をよそに、猛獣とゆかいな仲間たち(?)の行進が始まった。
朝靄の漂う深い森の中、湿り気を帯びた空気がじっとりと肌を撫でていた。
薄暗い木漏れ日の中、うっそうと茂る枝葉をかき分け、足元の根や石を避けながら進み続ける。
鳥の囀りも遠ざかり、時折聞こえる木の葉のざわめきだけが、静けさの中に響いていた。
やがて、幾度となく続く起伏を越え、湿った土の匂いに混じる冷たい風が頬を撫でると、
目の前に切り立った岩壁がそびえ立ち、魔法省の実験施設が隠されているとされる場所へと辿り着いた。
辺りを見渡しても、人工物の影は微塵もない。大地に深く根を張った巨木が並び立ち、足元にはごつごつとした岩が無造作に転がっているばかりだ。
岩壁は一面苔に覆われ、蔦が絡みつき、まるで長い年月を眠り続けてきたかのよう――本当にこんな場所に施設など存在するのかと疑わずにはいられない。
「……この辺りだけ、周囲の音と明らかに違いますね。この音、僕が以前、施設にいたときに聞いていたのと、同じ周波数です……」
アヴィが眉をひそめ、耳を澄ませながら呟いた。
「さすがクニクルスだな。普通の獣人なら気づかないような微細な振動や音も捉えている」
ベアトリス中尉は静かに頷き、鋭い視線を切り立った岩壁へと向けた。
「――この岩壁の内部に、やつらの“巣”がある。今、アヴィが感じ取ったのは微弱な魔導音……密閉された空間に、新鮮な空気を送り込む魔導装置の作動音だろう。
空気の流れがなければ、中の連中は息がもたない……つまり、外部から完全に閉ざされた、極限状態の環境ということだ」
その言葉が重く響き、周囲の空気は一層張り詰める。
アヴィの瞳はさらに鋭さを帯び、まるで奥の闇を見据えるように燃えていた。
おそらく、発覚を避けるため、この施設は定期的に拠点を移してきたのだろう。
ここは――かつてアヴィがいた場所とは別かもしれない。
けれど、嫌な記憶というものは、場所が違ってもふとした拍子に蘇る。そんな予感が胸をよぎり、俺は彼の心を案じた。
「……アヴィ、大丈夫か?」
問いかけると、アヴィはほんの一瞬だけ視線を伏せ、そして静かに――だが確かに穏やかな笑みを浮かべた。
「はい、問題ありません。僕の中の傷は、もう全部……ご主人様が癒してくれましたから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温まる。
だが、アヴィは間を置かずに真剣な声で続けた。
「今、僕の心を占めているのは……ご主人様への愛しさと、魔法省への憎悪だけです」
「……いや、それも極端すぎだろ!」
思わず即ツッコミが口をついて出た。
(――しかし、これ、どうやって中に侵入するんだ……? まさか、筋肉嫁×3で城壁をぶち壊したみたいに、今度は筋肉×8人でド派手に突入とかないよな……?)
「ロイド、頼む」
ベアトリス中尉が声をかけると、ロイドは気だるそうに頭を掻きながら岩壁の前にやってきた。
「はいはい、ようやく俺っちの本領発揮ってわけね」
彼はじっと岩壁を見つめて、目を凝らす。
「魔法結界が張られてたら厄介だけど、そこまではしてないみたいだ。ほいじゃあ、ここに透過の魔法陣を描くから、ちょびっと待っててね」
ロイドは魔素入りのチョークを手に、岩壁に光の線をちょこちょこと描きながら、ぶつぶつ呟く。
「あーあ、この壁の向こうが女湯だったら、もっとテンション上がるのにな〜」
「……ロイドさん、普段からそんな職権乱用みたいなことしてるんですか?」
思わず呆れた声を上げる俺に、ロイドは手を大きく振って否定する。
「してないしてない! リアルに首が飛ぶからさ……“今は”ね★」
(……前科ありだこの人……!!)
俺の心のツッコミも追いつかない軽さだ。
「……ほい、これで大体OKかな」
にやりと笑うロイド。軽薄そうな態度とは裏腹に、魔法陣の線は完璧に揃い、岩壁に正確無比な光の文様を描き出していた。
光の粒子がゆらゆらと震え、岩壁の表面は水面のようにわずかに揺れ始めた。
「よし、準備完了。これでこのラインの向こうは、通り抜けられるようになったよ」
ロイドが手をかざすと、揺れる壁が小さく波打ち、手応えもないまま通過可能な状態を示した。
(……マジか。揺れるだけで、向こうが見えない……けど、これで侵入できるのか……!?)
ベアトリス中尉が険しい表情で振り返り、低くもよく通る声で号令を放つ。
「まずは私の部下が先陣を切って突入する。ユーマ殿たちは、私の後に続いてくれ」
その声音には冷静な指揮官としての判断と、仲間への揺るぎない信頼が込められていた。
「関係者は多くない。中にいる職員も少数と見ている。拘束は我々が行うが、抵抗する者や子どもたちに危害を加えそうな者は――迷わず排除して構わん」
重い言葉に、自然と背筋が伸びる。
「ユーマ殿たちは、子どもたちの保護を最優先に。躊躇せず、即座に行動してくれ」
岩壁の前に凛と立つその姿は、まるで嵐の中で揺るがぬ旗のようだった。
(――分かった。子どもたちを守る。それが俺たちの役目だ……!)
高鳴る鼓動が胸を叩く。緊張と昂揚がないまぜになり、心臓が今にも飛び出しそうだ。
「よし、行け!」
ベアトリス中尉の合図と共に、ロイドが描いた魔法陣へと部下たちが次々と飛び込む。続いて中尉自身も、そのまま揺らめく壁の向こうに消えた。
俺も大きく息を吸い、意を決して踏み出す――。
飛び込んだ瞬間、足元の段差に躓き、そのまま転がり落ちる。
だが、痛みはなかった。床も壁も、真っ白でふかふかした素材に覆われている。
(……クッション? こんな作り、何のために――)
顔を上げた瞬間、息を呑んだ。
すぐ目の前に、壁際に身を寄せて怯える獣人の子どもたち。みな一様に、無機質な白い服を身にまとっている。その前に立ちはだかる三人の少年――震える手で仲間を庇い、牙を剥くような目で俺たちを睨みつけてくる。
(まさか……ここ、直接獣人の子たちの収容部屋に繋がってたのか!?)
ベアトリス中尉がそっと人差し指を唇に当て、「……静かに」と囁く。
「私たちは君たちの味方だ」
短くも確かな声に、張り詰めた空気がわずかに揺らいだ。
中尉の部下の一人が、そっとドアの小さな格子窓から内部の様子を確認している。
俺の後に、アヴィ、クー、ガウルが続いて侵入してきたのを見て、子どもたちの緊張が少しずつ和らいでいくのが分かった。
状況を察したクーが優しく声をかける。
「もう大丈夫、助けに来たよ」
その一言で、警戒していた子どもたちの肩の力が完全に抜け、震えも止まった。
(……ああ、やっぱりクーはこういう時、頼りになるな)
ベアトリス中尉がそっと俺たちに囁く。
「まだ内部の連中には気づかれていないようだ。今のうちに子どもたちを魔法陣から外へ逃がしてくれ」
「はい」
すぐに返事をして、俺はクーへと視線を送る。
「クー。お前が適任だ。ロイドさんと一緒に、外で子どもたちを守ってくれるか?」
「任せて!」
クーは小さく頷き、すぐさま行動に移る。
俺は息を潜めたまま、一番しっかりしてそうな狼種の少年にそっと近づいた。
(ヤバイ……この子、ガウルが合法ショタだった頃にそっくりじゃないか!?)
……って、オイ俺!! 今はそんな煩悩に浸ってる場合じゃねぇだろ!!
「ここにいる獣人の子は、君たちで全部?」
少年は首を横に振る。
「まだ、ドアの向こう、奥の檻の中に他のやつがいる」
(……やっぱり、全員助けるには、ここからさらに奥まで行かないといけないのか……)
緊張がさらに高まり、俺は気を引き締めた。
震えて動けない子は、クーがそっと抱きかかえて外へと連れ出す。
そして――最後の一人が魔法陣に吸い込まれるように消えるのを見届け、俺は静かにドアへと視線を移した。
分厚い扉には当然のように重い鍵が掛けられ、内側は柔らかなクッション素材で覆われている。
……まるで、囚人が自傷や自殺を防ぐための独房のようだ。
「ベアトリスさん、どうします? 外で見張ってるロイドさんを呼んできますか?」
「いや、悠長に魔法陣を書いている暇はない」
ベアトリス中尉は鋭い視線をガウルへ向けた。
「君のパワーならこの扉を一撃で吹き飛ばせる。――やってくれ」
「ああ」
ガウルは一歩前に進み出ると、分厚い鉄扉の前で肩をゆっくりと回した。
その動きに合わせて、全身から野生の獣のような殺気があふれ、部屋の空気が一瞬にして重くなる。
肩の筋肉が盛り上がり、拳を握るたびに骨が軋む音がする。
低く息を吐き――地面を蹴った。
「――はあああッッ!!」
轟く咆哮と共に、拳が扉へ叩き込まれた。
次の瞬間、鉄と鋼の混じった扉は悲鳴を上げるような金属音を立て、中心からひしゃげ、破片と火花を撒き散らしながら外側へ吹き飛び、その向こうから、慌てふためく声が響いた。
「な、なんの音だ!?」
ベアトリス中尉の怒号が通路を震わせた。
「――突入ッ!!」
吹き飛ばされた扉の残骸を踏み越えて、ベアトリス中尉が先頭で突入する。
背後から4名の部下が一列で続き、黒い戦闘靴がコンクリートの床を重く叩いた。
魔導銃の銃口が一斉に室内を掃き、標的を探す。
中にいた職員たちは、一瞬、何が起きたのか理解できずに硬直していた。
しかし、その迷いは一拍で終わる。
「動くなッ! 王命だ! 逆らえば命は無いものと思え!!」
二人の職員が顔色を変えて後ずさる――その刹那、すでに二方向から飛び込んだ部下たちが腕を極め、床にねじ伏せた。
机の上にあった書類が宙を舞い、パラパラと床に散らばった。
「確保!」
「2名拘束完了!」
ベアトリス中尉は一瞥をくれると、すぐに顎で奥を示した。
「残りは中を洗え。別室に隠れている可能性がある」「了解!」
掛け声と同時に、部下2名が音もなく奥へ駆け込んでいく。
目の前で繰り広げられる制圧劇――あまりの速さと正確さに、俺は声を出すどころか息を呑むことしかできなかった。
……これが、訓練を積んだ部隊の動きなのか。俺はただ、その背中を目で追うしかなかった。
戻ってきた兵士が、軽く胸に手を当てて敬礼した。
「中、異常なし。他に潜伏者は確認できません」
ほっと息をつく間もなく、彼は続けた。
「……ただし、奥の檻に魔獣が1頭。それと……獣人の少年が一人、別に囚われていました」
魔獣と、獣人――。
喉の奥で言葉が詰まる。
まるで隔離するように、他の子らとは別に囚われている。
その意味するところは、考えるまでもなかった。
「……ユーマ殿。共に来てくれ」
ベアトリス中尉の低い声に促され、俺は彼女の背を追った。アヴィとガウルも無言で続く。
足音が響くたび、狭い通路の空気がわずかに揺れた。奥へ進むにつれ、獣の匂いが濃くなる。鉄と血、それに湿った生臭さが混ざり合い、鼻腔の奥にねっとりと貼りつくようだ。
突き当たりには、牢のような鉄格子の檻が四つ並んでいた。
そのうちの一つで、二本の鋭い犬歯を持つ虎のような魔獣が、落ち着きなく檻の中を徘徊している。
低く響く唸り声が金属を震わせ、その瞳には獰猛な光が宿っていた。
「……オロと同じだ……」
無意識にそう呟いていた。檻の中の魔獣も、元は獣人だったのだろう。
鋼のように盛り上がった筋肉、獲物を射抜くような鋭い瞳、そしてほとんど自我を失ったかのような虚ろな気配。
それは、オロの時と同じ匂い――同じ、張り詰めた空気を纏っていた。
「やはりこの魔獣も元は獣人か……」
隣のベアトリス中尉の声に、改めて頷く。獣人だったものを、強制的に魔獣へ変え、檻に閉じ込める――そんな仕打ちが、この場所で日常的に行われているのだ。
さらに、その隣の檻には、ひときわ小さな影があった。
獣人の少年が一人、奥の隅で膝を抱え込むように小さく座っている。長い髪が顔を覆い、表情は窺い知れない。
「ここの二名、救えるか?」
「……やってみます」
俺の返答を聞くや、ベアトリス中尉は部下に向かって「鍵を探せ」と短く命じた。
檻に収容された理由を考えれば、直接中に入ってヒールなんて自殺行為だ。
足を踏み入れた瞬間、無傷では済まない――いや、下手をすれば即死だろう。
ならば――賭けるしかない。
俺の“ソウルリトリーバル”は、エクストラヒールにも重ねられるのか。
この二人の命を救えるのか。
「ガウル、来てくれ」
「……ああ」
隣にいたガウルの腕を引き寄せ、二つの檻のちょうど中間地点へと足を進める。
俺たちが近づいた瞬間、魔獣が唸り声を上げて突進してきた。巨体が鉄格子に叩きつけられ、鈍い金属音が耳に響く。
――なんとかして、助けてやりたい。
ガウルの腕を掴んだまま、俺は深く息を整える。
この緊迫した空気の中、妙にシュールな体勢だが……筋肉バフなしではエクストラヒールは発動できない。背に腹は代えられない。
「……ヒール!」
詠唱と同時に、二人の足元から光の魔法陣が展開し、魔獣の全身を柔らかな光が包み込む。
だが、檻の奥で膝を抱えている少年までは、光がわずかに届かない。――もう少し手前にいてくれたら。
その時、魔法陣の中心にいた魔獣の様子が変わった。
崩れるように倒れ込むと、やがてゆっくりと身を起こし、戸惑いを滲ませながらも光を宿した瞳で俺たちをまっすぐに見据えてきた。
俺は膝をつき、声を落として問いかける。
「……俺の言葉、分かるか?」
魔獣は一瞬、目を見開いた後、安堵したようにゆっくりと頷いた。
そして、幼さの残るかすかな声が漏れる。
「……分かる」
(……喋った! 自我を取り戻してる!!)
「今、檻から出してやるから……少しだけ待っててな」
「……うん」
オロの時と同じだ。時間が経てば、きっと変身も解けるはず――。
だが、問題はもう一人。
「おい、君! 聞こえるか? おーい!」
……ダメだ。呼びかけても、少年は微動だにしない。檻の外からでは、俺のエクストラヒールは届かない。
危険を承知で、中に入るしかない――そう覚悟を決め、檻の奥を見据えた、その時だった。
ふと、横にアヴィが立つ。
その瞳は悲痛に歪み、かすかに震えている。息を呑む音さえ聞こえそうだった。彼は鉄格子に手を掛け、ゆっくりと、まるで過去を確かめるように呟いた。
「……リーヤ……」
そのか細い声に、思わず振り返る。
「……アヴィ、もしかして……」
アヴィは小さく頷いた。その瞳は、過去を掘り起こすように揺れている。
「あの頃は……まだこんな状態じゃありませんでした。僕を“お兄ちゃん”と呼んで……訓練も、よく一緒に受けていたんです……」
「じゃあ……お前と同じように、何年も……こんな場所で……」
言葉が胸に重く沈む。俺は改めて、牢の奥で小さく膝を抱える彼を見据えた。
――絶対に、見捨てるわけにはいかない。
胸の奥で、固く決意が結ばれる。
ベアトリス中尉は、部下から受け取った鍵を迷わず俺に差し出した。
「ユーマ殿、これが鍵だ。判断は君に委ねる。私にできることがあれば言ってくれ」
「……ありがとうございます」
深く息を吸い込み、手にした鍵を握る。緊張で指先が少し震えるが、決意は揺るがない。
俺はアヴィへ向き直った。
「俺が中に入って、彼に直接ヒールをかける」
しかし、すぐにガウルが制止する。
「……待て。あの状態じゃ、なにをしでかすかわからん。俺が行く」
だが、アヴィは一歩前に踏み出した。
「いえ、ここは僕に任せてください。彼の戦闘スタイルは熟知しています。万一暴れた場合も、僕の方が対処しやすいかと――」
視線をまっすぐガウルに向け、続ける。
「ガウルさんは、ご主人様の護衛を」
短く頷くガウル。
アヴィは今度は俺に視線を向け、真剣な声で告げる。
「……ご主人様。僕がリーヤを保定したら、すぐにヒールをお願いします」
俺はアヴィの目をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。――きっと、アヴィなら大丈夫だ。上手くやってくれる。
深呼吸して気を落ち着け、鍵を慎重に回す。扉がわずかに軋む音を立てて開き、アヴィはまるで影に溶け込むように、静かに牢の中へ滑り込んでいった。
「……リーヤ」
呼びかけに応える声はない。
赤錆びた鉄格子の隙間から、俺は息を殺して見守る。アヴィは檻の中央へと歩を進め――その瞬間、空気が一変した。
カッと、闇に赤い光が走る。
「……っ!」
膝を抱えていたはずのリーヤが、床を蹴ったかと思った次の瞬間にはアヴィの腰の短剣を奪い取っていた。動きは残像のようで、奪われた感触すら掴めない。
「――!!」
リーヤは一気に跳躍し、四肢で天井に張り付いた。
逆さまの姿勢からアヴィを鋭く見下ろすその瞳は、もはや人のものではなく、完全に獣のそれだった。
次いで、上と横と斜めから――まるで一度に三方向から攻めかかるような錯覚を覚える速度で襲いかかる。
閃く刃。視界が切り裂かれる。
アヴィは鞘からもう一本の短剣を抜き放ち、紙一重で受け止める。火花が散るたび、腕に痺れる衝撃が走った。
足元を狙う刃を弾けば、次は背後からの突き。受け流す間もなく横薙ぎが迫る。防戦一方――一度でも遅れれば喉を裂かれるだろう。
息が詰まる。檻の中は十畳ほどだというのに、逃げ場はどこにもなかった。
「アヴィッ!」
思わず叫んだ俺の声に、リーヤの視線がギロリとこちらを射抜く。
そうだ――今ならリーヤにエクストラヒールが届く。
そう思った刹那、アヴィを飛び越え、しなやかな跳躍でリーヤが俺へ飛び込んできた。
鉄格子の隙間から突き出された短剣が、冷たい光を帯びて俺の顔めがけて一直線に迫る。
「――ッ!」
反射的にのけぞろうとした瞬間、背後からガウルの腕が俺の襟をつかみ、ぐいと引き寄せられる。
それでも、刃の切っ先は頬をかすめ、熱い痛みが走った。
血の匂いが鼻を突く。
だが、その一瞬の隙を突き、気づけばアヴィが背後からリーヤを羽交い締めにしていた。
獣のように狂った唸り声をあげ、手足を激しくばたつかせるリーヤ。
次の瞬間、逆手に構えた短剣が閃き、アヴィの脇腹に深々と突き立つ。
「……ッ!!」
短剣が刺さったまま、鮮血がにじむのも構わず、アヴィは力任せにリーヤを地面へ捻じ伏せた。
「ご主人様!! 今です!!」
呼び声に反応し、俺は檻の中へ飛び込み、リーヤの肩へ手を置く。
その温もりを確かめる間もなく、ヒールの詠唱を放つ。すると、リーヤの抵抗が徐々に緩み、「う……」と小さく唸った。
アヴィは背後からしっかりと彼を押さえつけたまま、名前を呼ぶ。まだ瞳の焦点は定まっていないが、俺でもはっきりと感じ取れた――先ほどまでの殺気は完全に消え去っている。
リーヤはまるで眠るかのように、静かに意識を手放していた。
俺は思わず息を吐き、肩の力を抜く。
――だが、アヴィの脇腹には、リーヤが奪い取った短剣が深々と突き刺さったままだった。
「アヴィ……剣を抜いた瞬間に、俺がヒールするから」
アヴィは小さく頷き、慎重に自ら短剣を引き抜いた。
カラン、と乾いた金属音が牢内に響き渡る。
裂けた衣服から血が滲み、勢いよく流れ出している。
俺は慌てて手を当て、ヒールを唱えた。
――しかし、魔力はまるで反応しない。
(なんでだ……!? エクストラヒールになるはずじゃないのか……!?)
「……ッ、ヒール! ヒール、ヒールッ!!」
必死で声を張り上げても、指の隙間から滴る生暖かい血を押さえるだけで、魔力は全く反応しなかった。
「……嘘だろ……!?」
思わず漏れたその声は、震えを伴っていた。いつものヒールすら、完全に効力を失っている――。
状況を察したガウルとベアトリス中尉が、瞬時に動く。
「止血だ。そのまま押さえておけ」
ガウルの低く確かな声に、俺は震える手でアヴィの脇腹を押さえた。ベアトリス中尉は手際よく処置を施していく。
「……すみません、ご主人様。顔が……」
処置を受けながら、アヴィが俺の頬に固まりかけた血を指先でそっと拭った。
「いいんだよ。こんなかすり傷。それより……ごめん、俺……ヒールが……」
アヴィは少し考え込むように目を伏せ、やがて答えた。
「……魔力切れを起こしたのかもしれません。エクストラヒールは、1回で相当量の魔力を消費するはずですから」
「魔力切れ……?」
そんな可能性、これまで一度も考えたことがなかった。
胸がざわつき、焦りが全身を駆け巡る。
――じゃあ、もしあの時。俺が焦って、もう一度エクストラヒールを試みていたら。
不発に終わるどころか、残りの魔力は触れていたガウルに注がれるだけで、檻の中のアヴィにも、リーヤにも届かなかったってことか……?
そう気づいた瞬間、ゾッとした。
……俺の無知のせいで、仲間どころか子どもたちまで危険にさらすところだったのか。
もし今よりもっと、取り返しのつかないことになっていたら――そう考えただけで、足元が揺らぐ。
目の前に広がる光景が、一瞬で恐怖そのものに見えてきた。
「……動けるか?」
「はい、問題ありません」
アヴィの処置を終えたベアトリス中尉がすっと立ち上がり、鋭く声を張り上げた。
「……よし、全員よくやった! 恐らく今頃は第一班が魔法省の首謀者を拘束しているはずだ。だが、安全が完全に確認されるまでは油断は禁物――一度外へ退避するぞ!」
その声に従い、中尉の部下が魔獣を檻から誘導し始める。ガウルはアヴィに肩を貸し、俺は気絶したリーヤを抱えて外へ向かった。
外へ出ると、待っていたクーが、血塗れのアヴィと、血で汚れた俺の顔を見て血相を変えた。
だがその後ろでは、子どもたちが取り乱すこともなく、静かに座って待っている。
その光景に、胸の奥からほっと息が漏れる。
――けれど、アヴィのあの生暖かい血の感触が、まだ手に残っていた。
あの時、俺なら治せるはずだった。
だが魔力切れで、ヒールを使うことすらできなかった。
判断を誤った。守るべき存在を目の前にしながら、何もできなかった――
その事実が、胸を押し潰すような罪悪感となって、体の隅々まで重くのしかかる。
アヴィは肩を貸されながらゆっくりと岩壁を背に腰掛け、少し落ち着いた表情を見せている。
申し訳なさを噛み締めながらも、無事でいてくれたことに心底救われた。
リーヤもまだ気絶したままだが、かすかに呼吸を感じる。救えた――でも、ヒーラーとしての責任を果たせなかった自分を責めずにはいられない。
そんな俺の胸中を察してか、アヴィが静かに口を開いた。
「ご主人様、僕は平気です。これは僕の落ち度ですよ」
「……アヴィ、ほんとにごめん。俺がもっと、自分の限界を分かっていれば、こんなことには……」
俺の言葉を、アヴィは小さく首を振って遮った。
「いえ。僕がもっと上手く立ち回っていれば良かっただけの話です」
そこにガウルも口を挟む。
「全くだ。ユーマに無駄な責任を負わせるな」
「それは認めます――ですが、ガウルさん」
琥珀色の瞳がわずかに細められる。
「貴方にご主人様の護衛を任せたはずなのに……どうして、その顔に傷がついているんですか?」
ガウルが眉をひそめ、即座に返す。
「……あ? お前が大見得切ったくせにモタモタしてるからだろ。俺ならあんなヘマはしない」
「論点を逸らさないでください。“無傷”で守るのが護衛の務めでしょう」
「そうか。じゃあ今度から鉄の箱にでも閉じ込めといてやるよ――誰かさんが信用ならないからな」
「だから、自分の落ち度を認めてくださいって言ってるんです」
「ああ、認める。お前に任せたのが最大の落ち度だ」
「今、完全に喧嘩売りましたね?」
「先に売ってきたのはそっちだろう?」
「ちょ、ちょっと二人とも……」
力なく声を上げるが、結局は二人の言い合いを止められず、俺はただ呆然と眺めるしかなかった。
「そんな性格じゃ、ご主人様に愛想尽かされますよ」
「お前ほど悪くないから安心しろ」
殺気立つ二人をよそに、クーが小首を傾げ、にっこりと笑う。
「なんかよくわかんないけど、元気そうでよかったね〜♡」
その何気ない一言に、場の空気が一瞬だけ緩む。俺も口元を引きつらせつつ、ほんの少し苦笑いを浮かべた。
そこへ、一部始終を見ていたロイドが同情するように俺の肩に手を置いた。
「……なんか顔色悪いけど大丈夫? ユーマ君ち、なんかいつも大変そうだよね〜……」
瞬間、ガウルとアヴィとクーが同時にロイドを睨んだ。
「何ッ!? こわッッ!! ちょっと肩に手を置いただけじゃん!?!?」
そんな穏やかな喧騒を横目に、俺はアヴィの血に染まった手を、決意を込めて強く握りしめた。
――みんな無事。それだけでいい。
胸の奥の冷たい影は消えない。
それでも、俺は自分に誓う――。
誰も失わないために、これから何をすべきか。
後悔しないための道筋を、その輪郭を、そっと胸の奥で確かめた。
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