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アイ

 1番古い記憶は、寒くて光の届かない場所で震えていた事。  一緒に身を寄せ合って震える誰かが居たこと。2人でいると、とても安心できたこと。  もう1人が段々冷たくなっていったこと。とさりと音を立てて動かなくなったこと。  その子の、触れないけれどあたたかい何かを、自分の中に繋ぎ止めたこと。  突然、刺すような光が入ってきた。腕で顔を覆う。そういえば体は、自分の意思で動かせるんだ、と思い出した。 「もう大丈夫だよ」  長身の男が近寄ってきて、抱きしめられた。久しぶりのあたたかさに、気持ちがふわふわした。 「ああ、なんて酷い。辛かったね。弔ってあげよう」  長身の男は、まだ自分の中にその一部がある、冷たくなったもう1人を大事そうに抱えた。 *** 「そろそろ名前が必要だね‥‥そうだな」  長身の男はいろいろなことを教えてくれた。教える人のことを「先生」と呼ぶのだと、本で読んだことがある。だから、先生と呼ぶ事にした。  先生が考え込んで、動かなくなった。このまま動かなかったらどうしよう。あの子みたいに。不安になって先生のローブを引っ張った。 「うん!今日から君は、ラブ、だよ」 「ラ‥‥ブ‥‥」 「昔あった国の言葉だよ。何よりも大切って意味なんだ」  自分の中のもう1人も、気に入ったようだ。 「ラブ。先生、ありがとう」  もらったばかりの名前と共に、今日は先生とマーケットに出かける。  薬の調合に必要なものを買いだめするらしい。先生は毎日難しい術式を器用に使って、いろいろな新しいものを生み出す。すごい。自分も先生から教えてもらって、知識を吸収しているけど、全然及ばない。いつか、先生に認められて、先生の助けになりたいな、と思う。  昨日は1日中雨が降り続いていたが、今日はそれが嘘みたいな快晴、という事もあり、マーケットは人であふれかえっている。  人が多いのは苦手だ。先生もそれを分かってくれていて、大通りから裏道の方に逸れた。  路地裏の狭い道を歩いていると、大きなペールに背中を預け、1匹の黒猫が寝ているのを見つけた。とても痩せ細っていて、呼吸も浅い。よく見ると毛がパサパサで、少し濡れていた。先生が言うには、もう助からないらしい。 「容れ物だ」自分の中のもう1人が言った。なるほど確かに良さそうだ。2人でいるには、この体と脳は不便な事だらけだった。  今までに先生からもらった知識の中から、使えそうなものを頭から引っ張り出す。使い魔契約の術式を基準に、そこへアレンジを2人で加えた。よし、これならいけそうだ。  出来上がった魔法陣の中心に黒猫を置いて、血を垂らす。 「ラブ?」  先生が、止めなくてはならないが、止めてはならない、と言う顔で見守っている。その気持ちがもうよく解るほどに、僕の思考回路は魔術師の端くれに近づいていた。  どうやら成功したみたいだ。僕の中のもう1人がすっと消え、同時に黒猫がむくっと立ち上がった。 「望みは何?」  ラブが黒猫を抱きあげながら問う。 「あたたかい部屋と、納得いくまでずっと一緒に居ること」  黒猫がラブの頬に擦り寄った。 「お安い御用です」  先生が、僕と黒猫を抱きしめる。「奇跡を見せてくれてありがとう!」そう言って興奮している。よかった。先生にも喜んでもらえたようだ。 *** 「そろそろ名前が必要かな」 「猫でいいよ、別に」  猫が毛繕いをしながら答える。黒がツヤツヤと輝いて、あの時とはまるで別猫だ。 「知ってる?名前をもらえると嬉しいんだ。だから呼び方は猫でよくても、名前は受け取ってよ」 「もらえるものはもらっとくか」と、猫が照れくさそうに言った。 「じゃあ、僕の名前と同じ意味の言葉で‥‥」 *** 「猫、聞いてる?」 猫が重いまぶたをあげると、ラブが目の前にいた。 「‥‥ごめん、寝てた」 「もう!夕方、リュート先輩が来るんだけど、メインは何がいいかな?」  ラブはリュートと言うたびに、とても嬉しそうな顔をする。やっと想いが通じ合ったのだ、無理もない。  あれから3年の月日が流れた。詳しい事はよくわからないけど、何もかも順調に進んでいるらしい。あの、トマトを必ず勧めてくる魔術師も、あと数年もすれば帰ってこられるそうだ。それを知った日に、ラブがすごく喜んでマグロ料理をたくさん作ってお祝いした。 「そうだな、やっぱりマグロかな」 「いつもそれじゃん!ほんと好きだね〜」 ラブが笑って、頭を撫でてくれた。 「ふふふ」  もう少し、この幸せな時間を過ごしたかったけれど、もうお別れのようだ。さっきからずっと、眠くて仕方がない。 「じゃあ、メインはマグロにするとして」 「ねえ、ラブ」 「ん?」 「ありがとう」  猫はそう言うと、重いまぶたを閉じた。深い眠りにつく前の心地よさが、猫を包む。 「……アイ?」  素敵な名前をありがとう。君の言っていた通り、とても嬉しかったよ。僕に2回目の命を与えてくれて、ありがとう。何よりも大切な日々だったよ。  ああ、ラブ。そんなに泣かないで。リュートが来ちゃうよ?かわいい顔が台無しだ。  いつまでも、君の幸せを願っているよ。

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