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1 密令と敵騎士

 慈悲深き王の子どもたち、互いに癒し合い、豊かな大地を愛し栄えよ。  かつて精霊と共に在り、今は二大貴族の王位争いが絶えない、雪と氷の国イス。  二大貴族のひとつ、ソコロフ家の近衛騎士スフェンは、主人から直々に賜った密令のため、二月最初の王城巡回隊に加わった。 「必ずや果たして参ります、公子殿下」  [オメガ]でも務め上げてみせる、という意気は碧眼の奥に秘め、凛とした表情を崩さない。ただでさえ近衛騎士の中では小柄で細身なうえ、ゆるく波打つ淡茶色の髪と頬に浮かぶ雀斑(そばかす)のせいで、実年齢の二十歳より頼りなく見えがちなのだ。  私情も、決して挟むまい。  ソコロフ派の騎士数名とともに、雪に覆われた荒廃地を馴鹿(トナカイ)ソリで進む。  王城は、イスを二分するソコロフ公領とアナトリエ公領の中間にそびえる。  近づくにつれ吹雪が強まった。毛皮を裏打ちした白い外套の襟を掻き合わせる。 (城の精霊が、血なまぐさいわたしたちを拒絶するかのようだ)  百年前は、王が居た城。あらゆる精霊の加護を受けた地。  精霊は大自然から身の回りの品にまで宿り、豊穣などの加護を授けてくれたという。国の礎となる大地には、精霊王が宿ったとか。  空位の現在は、無人の緩衝地帯となっている。元来穏やかな地域のはずが、暴風雪に閉ざされ、まだ午後早いのに昼とも夜ともつかない。  雪まみれになりながら入城した。  石造りの城内は、外の吹雪ぶりに反して静謐だ。 「ご苦労だった」  五日前から駐在している別隊と交替する。一杯の蒸留酒で身体を温める。  早速、定められた手順で巡回に取り掛かった。  二大貴族のもう一方、アナトリエ派の騎士(いぬ)に、王冠や玉印を奪われていないか――いざ持ち出そうとすれば吹雪が信じられないほど強まり、一歩も進めないという流説もあるが。  補修すべき損壊がないか。暴風雪はもとより、人の営みがないことでも城は傷む。そして、両派の騎士が出くわした際の戦闘によっても。  緩衝地帯でも、不戦ではない。あちこちの床に冷えた血が染み込んでいる。両派とも巡回隊を常駐させ牽制し合うゆえだ。  とはいえ、地上二階・地下一階に及ぶ城の部屋数はゆうに百を超える。暗黙の了解で巡回隊は少数編成にとどめ、巡回の区画や刻もずらしているが―― (この部屋にもいないか)  むしろアナトリエ派騎士を探して歩く。  剣を振るいたいわけではない。密令のためである。 (……っ? 今のは)  割り振られた地下階を四半刻ほど回ったところで、ぴくりと耳をそばだたせた。  鍵の開くような音がした気がする。  誰かいる。仲間は他の区画を巡回中だ。と、すれば。  気負って頬が紅潮するのも構わず、歩を速める。  突き当たりの彫刻扉が少し開いていた。廊下の燭火を頼りに目を凝らす。  壁一面書棚になっている。書庫のようだ。  その中ほど、木の階段梯子に、濃灰の外套を纏った男が腰掛けていた。  濃灰はアナトリエ派騎士の服の色。好都合だ。  白い外套の上から、お守りの厨子(ずし)ごと手紙を握り締める。主人に預かった、大事な手紙を。 「覗かないでほしかったなあ」  息を潜めていたにもかかわらず、男に気配を察された。  呑気な声だが、立ち話にはならない。想定内だ。何せソコロフとアナトリエなのだから。  男が抜き身の剣を手に、大股で向かってくる。こちらも広い室内に飛び込み、迎え撃った。  キィン、と鋭い金属音が冷気を引っ掻く。白い息が混ざり合う。 「たいした腕だな」  男の外套がめくれ、騎士服の銀糸の飾りが垣間見えた。この飾りの意味するところは――。 (ふん、君も近衛騎士か。それもアナトリエ家の。ならばますます好都合)  交渉に持ち込みたい。剣技は互角だ。ただ男のほうがひと回り体格がよく、力も強い。じりじり押され、書棚に背中をぶつけた。本が何冊かと、手持ち角灯(ランタン)まで落ちてくる。 (これしきでは屈しない……、え?)  決着はついていないのに、男は「おっと」と屈み、自前らしき角灯を起こした。  蝋燭に顔が照らし出される。  暗褐色の髪は短く、直線的な輪郭がよくわかる。いくつか歳上だろう。彫りが深く整っているが、表情はどこか覇気に欠けた。頬を走る傷痕も逃げ遅れの不名誉なものか。  その双眸は、今のイスではとんと見られない、みずみずしい緑。  目が合うやいなや、指先がちりりと痺れた。呼吸も乱れる。熱でぼうっとする。視界が明滅して、立っているのがやっとになる。 (なん、だ……こんなときに、オメガの発作か?)  オメガは男でも子を孕める不思議な体質で、発情発作まである。発作は数か月に一度の周期で、突然やってくる。  前回の発作からまだひと月半ほどなのだが。なにも人生で最も重要な任務中に起こらなくとも、と唇を噛んだ。  厚く重い彫刻扉までの距離を、かろうじて目算する。  発作が原因で打ち破れようと自業自得だ。ただ今日に限っては、懐の手紙を命に代えても守らなければならない。不本意でも退避せんとする。 「ちょっと待て」  だが、男の長い腕に阻まれた。  とどめを刺される、のではなく、抱き留められる。額が男の肩に当たった。  まさか襲おうというのか。オメガが発作中に分泌する[芳香(フェロモン)]は、オメガを孕ませられる[アルファ]の男はもちろん、それ以外の雄の本能をも刺激する。  務め上げるまで純潔を貫くと決めたのに―― 「(あつ)っ。熱を押して巡回してたのか。忠実なことだ。一時休戦としよう」  絶望と裏腹に、階段梯子に座らせられた。  そう言う男の手も熱い。暖炉に火もない部屋にいたのに、もともとの体温が高いのか。 「寒くないか。これ使え」  大きな手で背中をさすってくれ、さらには自分の外套まで着せかけてくる。 (……この男、本当にアナトリエの人間か?)  直前まで命のやり取りをしていたと思えない男の様子に、何だか拍子抜けした。行き場をなくした剣気ごと、二重の外套にもふりと埋まる。 「解熱用の煎じ液も持ってるぞ。手の掛かる子が近くにいるんでな」 「……遠慮する」  男が差し出してきた小瓶はさすがに断った。敵に勧められたものを易々と口にはしない。  それに、オメガの発作にはどんな薬も効かない。それより気の持ちようだ。男に調子を狂わされたが、お守りに手を当ててだいぶ持ち直す。  十五歳で発作によって体質が判明して以来、鍛錬を重ねて自身を律してきた。普段は体調の変化すら勘づかせない。  片膝を突き、まっすぐ見つめてくる男も、目の前の敵がオメガとまでは気づいていなさそうだ。どうものんびりしている。 「それで、おまえさんの目的は? 用があって近づいてきたんだろ」  いや。単なる間抜けではない。話せるとわかるや、核心をつく。  敵でも体調不良とみたら手を差し伸べもした。そういう清廉な精神の持ち主なら――賭けてもよいか。図らずも見極めになった。  冷気を短く吸い込む。 「アナトリエ家公子ニキータに、個人的な手紙を渡したい」 「ふむ。レクスからなら受け取ろう。それと、俺が巡回をさぼってたのを秘密にしてくれるなら」  決死の覚悟で切り出したのに対し、男の口調はずいぶん悠長だ。  それでいて食えない。レクスはソコロフ家公子にして、忠誠を誓った主人の名である。いつの間にか近衛騎士だと見抜かれたか。 (手紙の内容に言及しなければ、レクス殿下の不利益にはならない……だろう)  何かひとつをやり抜くのは得意だが、駆け引きは苦手だ。必死に考えた末、密令の達成につながるのならと頷く。 「いかにもレクス殿下からだ」 「ほんとか? 連絡取れたらなあと思ってたんだ。言ってみるもんだな」  目を丸くする男に、再び拍子抜けした。鎌を掛けただけだったか。  ソコロフ家とアナトリエ家の敵対は根深く、私的な連絡手段はない。だからこそ、貴人護衛が主の近衛騎士でありながら、戦場以外で唯一アナトリエ派騎士に近づける王城巡回隊に紛れた。  一日目にして、公子にまみえる機会の多い近衛騎士と接触でき、幸いだった。  さらには利害も一致した、のか? 連絡が取れたら、とは――。  首を傾げつつも余計なことはせぬよう黙し、蝋で封じた手紙を懐から取り出す。男がひらりと受け取る。 「アナトリエ家近衛騎士エリセイが承った。おまえさんは?」 「……ソコロフ家近衛騎士スフェン」  万一受け渡し前後で態度を変えられたときのため、外套の下で短剣の柄を握る自分と対照的に、エリセイと名乗った男は「おかげでうちの坊っちゃんにいい報告ができる」と笑う。 「なぜ、わたしを信用できるのだ?」  思わずじとりと見上げた。いきなり手紙だなんて怪しいと感じないのか。所属も名も嘘かもしれない。  エリセイは、大麻(ヘンプ)製の固い騎士服と胸板の間に手紙を押し込みながら答えた。 「封蝋の紋章、本物と見受けた。それにこの時期は喧嘩できない」  確かに、晴れ間が少なく実質休戦状態の冬季に火種を撒いても、騎士や兵が疲弊するのみだ。 「熱があっても仕事してる。ソコロフ家に迷惑のかかることはすまい。おまえさんはレクスからの信頼がいっとう篤い騎士なんだろうよ」  つまり姦計などではなく、純粋で切実な頼みに決まっている。とばかりにまた笑う。  自分で訊いておいて何とも言えない顔になった。わずかな剣と会話のやり取りでそこまで読まれた戸惑いと、信頼が篤いと言われた嬉しさが入り混じる。 「……敬称をつけろ」 「それはお互い様」  敵の言葉に喜んでしまった。指摘でごまかす。  ともあれ、そろそろソコロフ派巡回隊の控室に戻らねばならない。エリセイに濃灰の外套を返却し、忘れずに注文をつける。 「手紙の返事をもらいたいのだが」 「俺が持ってこよう。次に王城巡回当番になるのは七日後だ」  一方的に日付を指定された。託す側ゆえ下手に出るしかないかと了承する。  これで、密令は果たせた。先に書庫を出る。 「熱、お大事にな」  エリセイの声が背中に届いた。振り返りはしないが、つくづくアナトリエ派らしからぬ男だと思った。  五日後、巡回隊の任務も終えて、王城より帰還した。  その足でソコロフ城へ向かう途中、ふと思う。 (発情発作ではなかったのだろうか?)  オメガの発作は五日ほど続く。だがエリセイに手紙を託して以降、つつがなく過ごせた。密令を果たせて気力が漲り抑えこめたか、もしくは本当に発熱だったか。 (発作と発熱を取り違えたことは一度もないが……)  それより、レクスへの報告だ。  ソコロフ城に入り、王城に劣らず長い赤絨毯の廊下を進む。自然と早足になる。  壁には、歴代のソコロフ公の肖像画が並んでいる。みな端整で威厳があるが、新しい数枚は眼差しに未練も感じられた。  就くべき玉座に就けなかった――という未練。  イスはもう百年近く空位である。  王は世襲でなく、合議にて貴族の公子から選ぶ方式だが、ソコロフ家とアナトリエ家がほぼ交替で寡占してきた。  その両家の公子が、どうしてか決闘し、相討ちになった。  それを発端に弔い戦が繰り広げられ、血で血を洗い、現在に至る。中小貴族五十家は半数ずつどちらかに与し、両派の力は拮抗している。ゆえに王城に入って既成事実もつくれない。  主人であるレクスは、この長引く戦いに終止符を打ってくれるのではないかと目されている。  まだ二十二歳ながら、上級学校時代から指導力があり、剣技に長け、人柄もよい。そして、ソコロフ家のきょうだいでただひとり[アルファ]なのだ。  古い肖像画の面々のみならず、伝承の善王は決まってアルファだったという。 (わたしも、殿下には王の資質を感じる)  レクスの私室は、ソコロフ公の期待の表れか、城でいちばん見晴らしのよい――今は月に照らされた雪一色だが――二階中央に位置する。  金糸の飾りのついた騎士服の裾を伸ばし、両頬の雀斑をぽんと叩いてから入室した。 「ただいま戻りました」 「待ちわびていたよ、スフェン」  窓際の執務机に向かっていたレクスが、たちまち身を乗り出してくる。  巻き毛も聡明な瞳も金色の、高貴な面立ち。白地に金糸で刺繍を施した上衣が映える均整の取れた身体も相俟って、いつになっても見慣れず、崇敬の溜め息が漏れそうになる。  ……彼が待ちわびていたのは、自分でなく密令の結果だ。しっかりわきまえ、謙虚に続ける。 「無事、先方の近衛騎士に渡しました。御返事も後日受け取る手筈です」  私室にふたりきりだが、念のため具体的な名詞は避けておく。 「おお、返事まで。個人的な依頼なのに、身の危険を顧みず動いてくれてありがたい。貴公なら支障はないと見込んでいたよ」  輝くような笑顔で労われ、少し複雑な思いがこみ上げた。  密令に当たり、「オメガでも大丈夫か」という心配をあえてせず、他の騎士と同等に扱ってくれるのは嬉しい。だが無事に手紙が届くとはすなわち、レクスの瞳がますます敵方のニキータのみを映すようになるということ。  個人的な手紙とは、恋文である。 (ただし御二人の立場上、国全体を巻き込み兼ねない、命懸けの恋だ)  王不在のイスでは、稀に自領内で完結できないこと――領をまたがる事件などが起きた場合、両派の裁定人が聖堂に集って合議する。  先の十二月、領境の村のオメガと馴鹿をめぐって二年ぶりに開かれた席で、レクスとニキータは出会った。  アナトリエ公の唯一の男子ニキータは、成人の十六歳を迎え、はじめて合議に出席したのだ。  薄灰色の瞳にかかる長さの黒髪と顰め面は、繊細な女顔を隠すためだろう。自分も幼く見られがちなのでわかる。間近で見ると骨のひとつひとつが小づくりな印象で、(テン)毛皮の帽子を取ったら、自分以上に小柄とみた。  そんな彼が過緊張で気分が悪くなったらしいのを、レクスだけが見抜いた。 『ニキータ殿。貴殿の近衛騎士が、馴鹿舎で居眠りしているようだ。今日は音を消してくれる雪も降っていないから、いびきが大きくなる前に起こしてやったほうがよい』  と機転を利かせて耳打ちし、別室で休ませた。  それからひと月半経ち、しんしんと雪の降る夜、レクスの私室に呼び出された。 『義に篤い貴公ゆえ話すが、』 「――『彼に運命を感じた』のでしょう? ならば事はうまく運ぶはずです」  あの夜レクスが思い詰めたような声で発した一言をなぞり、請け合ってみせる。  オメガとアルファには[運命の番]が存在し、出会うや互いにそう感じるのだという。  この体質は、男でも孕めること・男を孕ませられることの他にも、不思議な特徴が多い。  たとえば、運命の番。たとえば、アルファはアルファとオメガの組み合わせから生まれやすい。たとえば、アルファはみな貴族である。  オメガは自分のように平民にもいるが、少ない。貴族でもアルファの半数程度しかいない。  伝承の善王にあやかりアルファの子を生そうと、アルファ-オメガ間の政略結婚がよくある。とはいえ――。 「いいや。彼がオメガと決まったわけではない」  レクスは浮かれもせず、小さく首を振った。  ニキータを別室へ連れ出す際、甘く癒される芳香を嗅いだ気がしたが、ニキータは何ごともなかったようにすぐ合議に復帰したそうだ。発作ならそうはいかない。  オメガ同士は芳香を嗅ぎ取れず、役立てない。  跡継ぎの男子をオメガと断じるのは失礼でもある――王の資質がないと取れる――ため、直截に「運命を感じなかったか」とも訊けない。そこで手紙に「互いを知っていかないか」としたためたというわけだ。 (何をもって、運命なのか)  オメガである自分にもわからない。運命を感じたことは……ない。  史料を頼ろうにも、戦闘で散逸しがちだ。  もしもレクスの思い込みに過ぎなかったら、末代まで笑い者だ。よりによってアナトリエの男に骨抜きにされて、と。手紙を篭絡と取られ、文でなく剣を返されるおそれもある。 「もっとも、私はどちらでも構わないのだけれどね」  いや。レクスの真心が伝わらないはずがない。彼のように立派な人間に好意を寄せられて、ニキータも悪い気はしないだろう。 「先方がオメガかどうか、わたしのほうでもできる限り探ってみます」  たとえニキータがオメガであっても、結ばれるまでに障壁はまだある。何せソコロフとアナトリエなのだから。  それでも近衛騎士として忠義を尽くしたい。  決断力のあるレクスが、ひと月半も熟慮したのだ。自身と相手の出自を考慮してもなお諦められないのならと、胸の(ソコロフ)の紋章に手を当てる。 「頼む。貴公に甘えてしまうが、引き続き手を貸してくれ。彼と心を通わせられたら、両家の雪融けにもつながると思うのだ」 「……御意」  鷹と同じ金色の、ひとたび言葉にしたことはすべて実現してみせそうな瞳が眩しい。  跪礼するので精一杯で退出した。 (私情は挟まなかった、よな)  廊下に出て、胸を押さえる。はじめてレクスと話した二年前と同じように。  騎士団の一員として、山間での戦闘で馴鹿から下りて戦っていた折。背後の白樺林に潜んでレクスを狙う弓兵に、自分だけが気づいた。すぐさま滑雪(スキー)板を駆り、射線に身を投げ出した。  射手は動揺したのか、矢じりは淡茶髪を掠め、レクスの足下の雪に埋もれた。 『わたしには弓も槍も当たりませんので』  と退がった(本当に当たったことがないのだ)が、後日私室に呼ばれた。  平民相手に感謝を示した上、近衛騎士に取り立ててくれた。騎士団は出自を問わないとはいえ、この体質を知る当時の上長は固辞したが、レクスは「関係ない。忠義を買ったんだ」と短く、だが重々しく微笑んだ。  そのときから抱いているレクスへの想いは――恋ではない。と、思っていた。  貴族のオメガはアルファを生むという使命を持つが、平民の自分には分不相応だ。それより騎士として務め上げることで、レクスの信頼に応えたいと思った。  もともと、戦死した父の仇を取りたい、オメガの宿命をはね返したいと騎士団に入ったのだ。今よりさらに小柄だった少年時代の自分を思い返す。  平民は十歳頃から大人を手伝い始めるが、オメガは発情発作中は隔離されてやり過ごすほかない。貴族の妾をもくろむ者もいるものの、媚を売るのは柄ではない。だいたいアルファだからといって何が違うのか、そうそう心奪われまいと高を括っていた。  それが一度話したのみで、レクスに忠誠と敬愛を捧げていた。  やはり初恋も含まれていたかもしれない。レクスとニキータの仲が進展しないでほしいと思ったりせず全力で密令を果たすこと、と自戒する時点で。  レクスは他に運命を見つけた。  この初恋にして敬愛は、運命とは違うものだった――と噛み締めていたところ、 「おい、オメガ」  オメガ呼ばわりされた。  発作中はろくに働けず、男根を求めて周りの男も巻き込むオメガは、平民の間であまりよく思われていない。平民出身の自分にことさら効く蔑称である。 (誰だ、品位に欠ける者は)  平静を保ちつつ、碧眼に軽蔑を込めて振り返る。  プナイネン公ルドルフが、新しく仕立てたらしい馴鹿毛皮の外衣(マント)を見せびらかすように立っていた。  プナイネン家は、ソコロフ派の筆頭だ。空位前には王を輩出したこともある。ルドルフは昨秋急死した父親からプナイネン公を継いだばかり。ソコロフ公に挨拶でもしにきたのか。 「レクスに媚売りか?」  同じ金髪でもレクスより赤みがかった直毛を掻き上げ、赤い双眸を向けてくる。  くしくもレクスと同い年で、双璧の美丈夫と御婦人たちには評判だ。話術に限ればルドルフのほうが巧みらしいが、笑うと片側だけ口角が上がるのが尊大に感じられた。  まさに今、その表情になっている。 「何か御用ですか」  揶揄は黙殺し、冷たい声で問う。  ルドルフもアルファなので、レクスの前では自律したものの発情発作が疑われる今は、長々と相手をしたくない。 「ああ。暇ならおれと褥を共にしろ」  一歩踏み出され、つい半歩後退した。悔しいがルドルフはいかにもアルファな骨太の長身で、威圧感がある。滲み出る情欲もおぞましい。 (褥を共に、だと?)  彼がオメガに次々手を出している、という噂は本当らしい。  酷いのはその始まりだ。アルファかどうかは、発作中のオメガに誘発発情するまでわからない。貴族の子女は自分が体質持ちである可能性も見込んで慎み深く行動するものだが、彼ははじめて誘発発情した際、その場でオメガを組み敷いた。相手は小貴族の公子だったという。家の格の違いで不問に付されたが、オメガの尊厳を無視している。  今も性具くらいにしか思っていない。レクスとは大違いだ。だが悲しいかな、ルドルフのような価値観のほうが多数派である。  体質を持たない者が大多数ゆえ、オメガを正妻に迎えられないアルファもままいる。そこでオメガを見かけたら手をつけておき、生まれた子がのちにアルファと判明したときだけ引き取ることもめずらしくない。  そんなオメガでも責務を果たせると証明するため、ひいてはオメガに生まれた自身を肯定するため、こうしてアルファの目にも晒される騎士団に飛び込んだのだ。 「わたしを呼ばずとも、お相手は足りておりましょう」  きっちり意趣返しして、踵を返した。  そのまま玄関ホールを出る。城下の自宅へ帰ろうと、いつも乗っている白毛の馴鹿に跨った。  小柄だが小回りが利く。ヴィトと名づけて親しんでいる。相棒と言っていい。  夜風を防ぐべく外套の帯革(ベルト)を締め直したとき、ふとエリセイが思い出された。  後から思うと、面映ゆいくらい優しく抱き留められた。腕の中は暖かく、安心感があった。ルドルフと身体つきが似ているが印象は正反対だ。 (羨ましいほど壮健な肉体だったな。――それにしても)  胸板の感触からひょうひょうとした物言いまで、ひとまとめで脳裏によみがえる。  手紙の返事は王城にて七日後、という指定だったが、信じてよいものか。手ぶらで「すまん、間に合わなかった」なんて言われませんように。  今日の密令はすぐ済むので、巡回隊のソリではなくヴィトの背に乗り、単独で王城へ向かう。  ソコロフ城からは一日あれば行き来できる距離だ。足跡は横殴りの吹雪が消してくれる。 (ヴィトには少々無理させてしまうが。戻ったらいい地衣(くさ)を食べさせてやろう)  前回エリセイに調子を狂わされたせいか、刻も部屋も決めていない。行き違いを防ぐため午後早めに到着し、巡回隊員に鉢合わせないよう注意しつつ、ひとまず書庫で待つ。  書庫は十(けん)四方の広さがあり、石と木を組み合わせた天井も高い。改めて壁の書棚を見上げれば、空位とともに編纂や収集が止まったのか、歯欠けになっている。  実際、戦いと生活に手一杯で、研究や読書に勤しむ者は皆無だ。  薄闇に佇む背中を思い起こす。 (エリセイは何か読んでいたのか? たださぼっていただけか)  本は重厚な判形が多く、毛羽立つ絨毯に落ちたものもあれば、綴じ紐が解けてばらばらになったものもある。  彼のようにどれか手に取ってみる気にはならない。読み書きはあまり得意ではない。  かと言って剣の鍛錬をして聞きつけられても困ると、間を持て余す。  いや。この暴風雪なら多少の物音は掻き消される。しかし前回鍵の開く音に気づいたわけで……と首を傾げていたら、重い扉が軋んだ。 「――俺だ。俺俺」  焦っているようでまだのんびりした声が上がる。  死角に入って剣を突きつけてやったのだが。  一時休戦は無条件に継続ではない。来訪者がエリセイであることを確認するや、素早く彼の手首を掴んで書庫内へ引き入れる。 (他にアナトリエの犬は……いないな)  周囲を窺う。エリセイが持ってくる返事が「手紙」である保証はない。たとえニキータ個人は好感触でも、アナトリエ家公子として剣を返す判断をするかもしれない。  次にエリセイに二心はないかと振り仰ぐと、首筋から血が出ていた。  外套の襟を上まで留めていなかったらしい。ぶ厚い外套は、凍てついてしまう鎧代わりでもあるのに、不用意な。自分が傷つけたのを棚に上げて眉を顰める。  エリセイも、傷をさすりつつこちらをじっと眺めてきた。 「元気になって何よりだが、可愛い顔して物騒だな」 「その言葉二度と言うな。わたしは二十歳の男だ」  反射的に剣先を突きつけ直す。冷たい空気がさらに凍てついた。エリセイは「おっと地雷か」と両手を挙げる。  その手には、手紙が収まっていた。封蝋はアナトリエ家の紋章である、地平線に昇る太陽。 「遅くなってすまん。うちの手の掛かるお坊っちゃんが、『文章におかしなところはないか』『字は読みにくくないか』って何回も読み直させるんでな」 「確かに預かった、……」  普段なら軽口には付き合わない。だが、今のエリセイの物言い――ニキータの返事の内容を知っている。レクスが書き送った文章も承知の上だろう。 (確かめておきたい)  エリセイを上目遣いに見る。レクスが求める情報を持ち帰れそうな昂揚ゆえか、頬が熱い。両頬の雀斑をぽんと叩き、鎮めてから尋ねた。 「ニキータ殿下に、脈はありそうか」  レクスが派閥の期待を背負うアルファであることは、敵方にも知られている。彼の好意を受け入れるつもりがあるか、つまり遠回しにニキータがオメガかどうか探りを入れる。 「おっ、おまえさんも浮いた話に興味が……おいおい剣を下ろせ、話せるものも話せん」  エリセイの茶化し声に腹が立った。こちらは真剣なのに。答えを聞くため、しぶしぶ制止を聞き入れる。  エリセイは手持ち角灯を絨毯に起き、近くの階段梯子に腰を下ろした。  気安い仕草ながら、澄んだ緑眼はずっとこちらが信用に足るか見極めている。  ニキータがオメガだった場合、それをほのめかすだけでも、主人の弱点を露呈するも同然だ。 (近衛騎士として当然のこと)  堂々と視線を受けていたら、やがてエリセイがからりと笑った。 「スフェンといったか。おまえさんの忠誠心を信じて話そう」  胸が震える。この男、いちいちこちらの誇りをくすぐってきてたちが悪い。ふん、と鼻息を吐いて続きを促す。 「聖堂での合議以降、坊っちゃんがどうも上の空でな。鎌を掛けてみたらレクス……殿下が気になるとのことで。そういやあの事件、不自然だったよな。ソコロフの村の代表者は『盗まれたという馴鹿はうちの村にはいない』って言うし、アナトリエの村の代表者は『馴鹿牧夫小屋にオメガが隔離されてたとは知らなかった』って言うし。両方襲った真犯人は別にいそうじゃないか」  エリセイは、合議の議題に上がった事件まで掘り起こした。 (確かに、証言は噛み合っていなかった)  領境の二村にて同じ夜に、馴鹿が盗まれ、発作で隔離中だったオメガが犯され重傷を負わされたという。互いに互いを犯人だと主張した。  家畜の馴鹿を失うのは死活問題だし、ソコロフ側の古い村に、数少ないオメガを精霊の化身と見做して大切にするめずらしい風習があったことから、議論は揉めた。  そのオメガは気の毒だが、馴鹿の世話を効率化するためであっても小屋をアナトリエと共用していたのがよくない。信用すべきでなかったと、個人的には思う。 「領境線をめぐる戦闘の呼び水とならぬよう、両成敗ということで決着したろう。それでニキータ殿下はどうされた?」  義憤を抑え、脱線した話を本筋に戻す。 「そうそう、レクス殿下となら今までと違う形でイスを治められるんじゃないか、と感じたそうだ。だが話し合おうにも手段がない。と思いきや、そちらさんから手紙が届いた。ここぞと長い返事を書いたってわけだ」  巧みに、個人の恋情でなく二家の関係という意味の答えに着地した。この男、意外に守りが堅い。 (とはいえ含みはある)  根気強く探ろう、今日のところはこれまで、と切り上げようとした。  だがエリセイに彼の隣をとんとんと示される。 「スフェンも座れ」 「……なぜ?」 「返事がほしいんだよ。で、次はまたスフェンが返事を持って帰りたいだろ? お互い伝書鳩を続けるなら、俺たちも少し仲を深めておこう」  公子本人たちは自ら動けない。家名を背負い、どこへ行くにも護衛がつく。おおやけのやり取りは合議通知くらいである。  かといって、突飛なことを持ち掛けてくるものだ。任務に情は無用。却下だ。 「スフェンはアナトリエが嫌いだろ」  しかしこう続けられ、言葉に詰まった。  未だ間合いを取っていたのは、騎士としての警戒に留まらない。 「ソコロフの者はみなそうだと思うが?」  切り返しながらも胸がざわめく。  思い出してしまう。父を。  馴鹿を放牧させる馴鹿牧夫だった父は、アナトリエ派との戦いに駆り出されたきり、帰ってこなかった。敵兵に殺されたのだ――弓や槍に当たって。遺体はどこか雪の下深くに埋まっているだろう。父との記憶は、「精霊を宿す大地の子ども」と呼んで抱き締めてくれたひとつのみ。 「戦場で家族を亡くしたか。大変だったな」 「わかっているなら訊くな」  あっさり言い当てられるくらい、よくある話だ。なのにらしくもなく感傷的になり、そっぽを向く。 「……っと」  その隙に腕を引っ張られ、並んで座らされた。階段梯子の幅が狭く、体温の高いエリセイと密着する形になる。暑い。慰めにか、またも大きな手で背中をさすられ、居たたまれない。 「君はどうなんだ。主人がソコロフ家公子と交流することをどう思っている」  こちらだけ話すのは公平でないと、問い質す。 「同じイスの民だから、戦わないに越したことはないと思ってる」  エリセイは事もなげに開示した。  恨みを否定しなかった自分と違い、平和志向らしい。  アナトリエの人間がこういう考えの持ち主ばかりだったら――と、あり得ないことを夢想する。実際はどちらの民も自分のような禍根を持ち、後戻りできないところまで来ている。 「だから坊っちゃんにもできる限り協力してやりたいんだが。スフェンの目から見て、レクスは坊っちゃんに見合う男か? 善王の面影があるってのは、中小貴族の御世辞じゃあるまいな」  訂正、ただ失礼な男だ。敬称も抜け落ちている。  怒気を隠さず返す。 「殿下は君の百倍思慮深く、かつ決断力のあるお方だ」 「ああ、うん。それより、女や他のオメガを食い散らかしてるとかの問題はないかって話」  ……女や他のオメガ。  毒気を抜かれた。お互い目を見合わせる。  今のは――個人の恋情としても脈ありと明言したようなものでは? それも。 「ニキータ殿下は、オメガなんだな」  妙な間ののち、エリセイは大きな身振りつきで言い訳し出した。 「心配なんだよ。坊っちゃんは九つ下の従弟で、おしめも替えてやったし、この顏の傷だって坊っちゃんが発情期の雄馴鹿の角につつかれそうになったのを守った痕だし、俺にとってもはや可愛い息子なんだ」  ……翻訳すると、こちらとは異なった方向ながら、主人たる公子に対して近衛騎士以上の想いがあるようだ。可愛い息子がはじめての恋、それもオメガとなれば、一度はうまくくらましたのに墓穴を掘ってしまうのも無理はない。  彼の向こう傷を不名誉なものと決めつけていた反省も込めて、 「我が主人は、御婦人方には礼儀正しいと評判だ。適齢期だが、他に婚約者や恋人がいるということもない。それと、わたしは義に篤く口が堅い」  と保証してやった。  みるみるエリセイの顏が晴れる。活き活きとした表情を浮かべれば、なかなか品のある好青年ではないか。  それもそのはず。ニキータの従兄ならば、貴族にほかならない。念のため追加で訊く。 「君はアルファか?」 「……ああ、アルファだ」  エリセイは一転して静かな声色で認めた。王の資質があるとひけらかすためでなく――こちらの身の安全のために。 (そうだったのか)  気遣いに満ちた緑眼を覗き込む。 「わたしの体質を察していたろう。いかにもわたしはオメガだが、自律できる。発作中も君に迷惑をかけたりしない」 「いんや、半信半疑だった。その体質で近衛騎士に登用されるとは、よほど努力したんだな」  公平に告白すれば、エリセイはしきりに感心した。  人並みに働くには当然と思って鍛錬してきたし、まだ満足していないが、少しだけ報われた気分になる。  それに前回、発作も疑われる中で、かなり騎士的対応をしてもらったようだ。優しい抱き締め方を思い返す。 「じゃあ、発作中だから雑談せず帰らせてもらう、とは言わないな?」 「その手があったか」 「待て待て」  慣れない扱いに、半ば照れ隠しで憎まれ口を叩いた。  アナトリエの人間とまとまった話をするのははじめてだが、やはりエリセイはアナトリエの人間らしくないように感じる。おかげで、父の件とは切り分けて考えられそうだ。  懇親としては充分過ぎるほど話した。エリセイもこれ以上は踏み込んでこない。手紙の返事も受け取ったし、と席を立つ。 「またな」  エリセイはにかっと笑い、見送りの(てい)だ。 「巡回に戻らないのか。そう言えば先日もさぼっていたな」 「個人的にし……ちょっと、やることがあるんだよ」  釘を刺してやると、ゆるんだ顔のエリセイがまた口をすべらせかけた。 (し?)  これはソコロフとアナトリエの、レクスとニキータの、そして自分とエリセイの駆け引きである。有利に越したことはない。白い外套の裾を払って座り直す。 「お互い伝書鳩として隠しごとは極力減らしたい。何か企みがあるなら話せ」 「そうきたか。別に企みでもなんでもないが」  エリセイは頬の傷痕を指で掻いた。単に言いたくないだけか。なおさら言え。  無言の圧に押されたエリセイが、「わかったわかった」と弁明する。 「もともとは、古い法でも伝承でも、坊っちゃんがそちらさんと連絡を取る口実を探してたんだ。王城の書庫は文献や史料がまだ残ってるほうだからな。幸い、こうして手紙を交換できることになったが、障壁はまだある。何せソコロフとアナトリエだ。じゃあ、俺たちはなぜ争ってる?」 「なぜって、王位をめぐってだろう」  何を自明のことを、と即答した。しかしエリセイは含みありげに声を潜める。 「と、みな思ってるが。当の百年前のアナトリエ公子は、『勝利を収められるなら王位は要らない』と言ってたんだ」 「王位は、要らない?」 「ああ。うちの城の、ほぼ倉庫な書庫を漁って見つけた日記の一文だから確かだ。つまり、玉座を擲っても手に入れたい何かのために争ったんじゃないか」  玉座を擲っても手に入れたい何か――。  息を呑む。もしそれが事実なら、自分たち騎士が命懸けで戦う理由の根幹が揺らぐ。父だって命を失わずに済んだかもしれない。  俄かには受け入れられない。だが、エリセイの緑眼は一切の濁りがない。 「坊っちゃんのためはもちろん、俺は俺が何を守ってるのか、何のために剣を振るうのか知っておきたいんだ。そうでないといざというとき剣筋が鈍るし、本当に守るべきものを守れないから」  白い息を吐くエリセイの横顔に、目が吸い寄せられる。覇気がないとはもう思わない。単純な平和志向でもなかった。漫然とは戦わないだけ。 「何か、とは……」 「それを調べてる。王にまつわる伝承と照らし合わせるにも、この有り様だろ。かろうじて口伝えされてるのは『慈悲深き王の子どもたち、互いに癒し合い、豊かな大地を愛し栄えよ』くらいだし」 「それと、『善き王は末永く精霊界で暮らした』か」  この「慈悲深き王」「善き王」がアルファだったと言われている。また、イスでは「精霊界」は死んだ人間が向かう世界という認識だが、詳細は不明だ。  エリセイが立ち上がり、凝った腰をぱきぱき鳴らしながら、書棚を見上げる。 「とにかく、その何かを突き止めて、分け合うなり発掘するなりして戦う必要がなくなれば、俺も坊っちゃんもイスの民も願ってもない。一緒に調べるか?」 「……遠慮しておく」  この誘いには首を振った。読み書きは苦手だし、思考も感情もすぐには整理がつかない。  生まれたときから戦うのは当たり前で、戦いが終わるとしたらアナトリエ派を打ち倒したレクスの戴冠によってだと信じてきたのだ。  それが、レクスは敵方のニキータに運命を感じ、自分はニキータの近衛騎士とともに密令を担うことになった。数か月前の自分には想像もできまい。  初恋は叶わずとも、忠誠を誓った主人に貢献する――正直、今はそれで手一杯だ。調査まで手が回らない。 「そうか」  エリセイは無理強いはしてこなかった。 「なら次は五日後、同じ場所同じ刻でどうだ? うちの巡回隊は七日交替だから、アナトリエ領に帰る前だと助かる」 「ああ」 「スフェンは今日手紙を受け取るためだけに来たんだろ。気をつけて帰れよ。馴鹿の精霊の加護あらん」  さらには跪き、馴鹿革の靴を大きな手で撫でてくる。  気をつけてなど、誰に向かって言っているのか。狼狽を気取られたか?  それでいてこちらが書庫を出る間際には、「あれ、血が止まってる。と言うか傷が塞がってる……?」などと独りごちていた。どうも掴みきれない。  廊下の蝋火が揺れる。書庫の扉には、かつて精霊界との垣根がなかった時代にイスに在ったという精霊たちが彫られている。  真ん中の人型の精霊と目が合った気がした。……錯覚だろう。  巡回隊のソリとは違うところにつないでいる相棒のもとへ向かう。  靴が視界に入るや、じわじわと頬が熱くなった。 (まったく、何なんだ)  ふとしたとき、レクスともまた違う尊重の仕方が思い出される。だが怠け者で奇怪。  アナトリエらしくない。その実、アナトリエの貴族。  印象が定まらないが、密令のためには彼とうまくやっていくしかなさそうだ。

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