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2 融け、積もりゆく心
ソコロフ家に仕える近衛騎士のほとんどがソコロフ城に住む中、自分は城下の自宅から通っている。一般の騎士が多く住む一帯で、騎士団に入るとともに故郷の村から引っ越してきた。
石造りの城と違い、木造の一軒家だ。半地下に貯蔵庫をつくって床を上げ、二重扉や窓に革布 を吊り、暖炉に薪をくべれば充分寒さをしのげる。
「父さん母さん、行って参ります」
務めに出るときはいつも、五年前父のもとへ旅立った母の形見である、厨子を持ち出す。
精霊王を祀るべく、親指大の人型像とそれを包む丸屋根の筒を木から削り出したものだ。戦場で弓や槍に当たらないのは、このお守りの加護な気がしている。
今日は、エリセイとの約束の日だ。
昨夜のうちにレクスから手紙を預かってある。騎士の詰所には寄らず、王城へ直行する。
暴風雪地域に入るまでは、白樺林を進んだ。騎士用の外套が白く、風除けの毛皮帽子も白、相棒のヴィトも白毛のため、目立ちにくい。
ソコロフ派の貴族が運営を任されている所領を通っていく。兎用の罠を仕掛ける狩人、凍った泉で滑氷 競争に興じる子どもたちを遠くに見た。
イスの民は、滑雪 や滑氷、罠と弓を駆使し、狩りをして生活する。獲物の肉を食べ毛皮を纏う。骨は武器に、革は鎧にも活用する。
雪も二大貴族の戦いも日常化しており、みなあるもので工夫して生きているのだ。
(わたしが、この戦いを終わらせるかもしれない手紙を運んでいると知ったら、彼らはどう思うだろう)
自分たちの領主の勝利でないと納得しないか。民はそれだけたくさんのものを失った。大切な人、住み慣れた家、豊かな地……。
(いけない。切り替えねば)
領境のプナイネン家領に差し掛かる。ほどなく敵方のエリセイに会うのだからと、前回から引き摺っている胸のつかえを、強まる吹雪に塗り込めた。
今回は刻も指定したのに、書庫でまたも待ちぼうけを食らう。
「あー、合図決めてなかった。俺だ、俺だって」
ようやく現れたエリセイは、巡回隊の控室から廊下を辿ってくるだけのはずが、靴に雪がついていた。遅刻を咎める剣を下ろし、小声で尋ねる。
「何か異状があってアナトリエ城へ戻っていたのか?」
状況は日々変化する。二通目だからといって、レクス直筆の手紙を簡単には渡せない。指先に力がこもる。
「いんや。窓の向こうに可愛い白毛の馴鹿がたまたま見えたんで、ちょっともふってた」
「……わたしの馴鹿に何をする」
もふっていた、だと?
そんな理由で大事な約束に遅れるとは緊張感がなさ過ぎて、怒る気が失せた。とはいえ聞き捨てもならず、じとりと睨み上げる。立っていると、だいぶ見上げる形になる。
「へえ、スフェンの相棒か。どうりで癒されるし、かわ……が立派なわけだ。俺以外の目には雪に紛れて見分けられないから安心しな。おまえさんの、アレが、台無しな目してないで」
しかもまた「可愛い」と言い掛けた。ますます睨みを利かせてやる。
冬毛の馴鹿の触り心地は最高ではあるが――そこでふと、レクスの機転が思い浮かんだ。
「まさか、合議のとき聖堂の馴鹿舎で居眠りしていたのは君ではあるまいな」
「おっ? どうして知ってるんだ。貴族に手入れされて質のいい毛皮をもふらせてもらううちについ、な」
当たってほしくない推理が的中し、さすがに頭がくらりとした。馴鹿牧夫でもないのに何をしている。
「それでよく近衛騎士になれたものだ」
「公子と親戚で幼馴染のよしみだろ。うちの坊っちゃんは頭の回転が早いぶん、なかなか人を信用できないが、いちばん遊んでやった俺がいちばん懐かれてる」
エリセイは皮肉とも知らず、胸を張る。
この無駄話も彼の「遊び」の一種か。目的の手紙を出せとすら言わない。むしろもっと話したいとばかりにいそいそ階段梯子に座り、大きな手で手招きしてくる。
それでいて無視したらしたで、
「おまえさんを殺す気があったらとっくに殺してるよ」
と真理をつく。その一言の前後で笑顔の種類が変わらないのが、必須ならば会話の延長で命を奪うこともできると示していた。強いから呑気にしていられるのだ。
今のところは、殺気を向けられていない。
(引き出せる情報は引き出しておこう)
そう理由をつけて、別の階段梯子を椅子代わりにした。エリセイは残念そうな顏になったが、暑苦しい彼に密着する必要性はない。
それに彼に主導権を握られがちなのも悔しい。こちらからひとつ仕掛けてみる。
「君のソコロフへの敵意が薄いのは、昔からなのか」
「遺伝かな。俺の父もアルファにあるまじき鷹揚さで、近衛騎士だがこれといった戦功がないんだ」
気取らない声が返ってきた。のらりくらりしている自覚があったらしい。血筋かと得心しかけて、別の可能性が閃く。
「もしや、父君も百年前のアナトリエ公子の日記を見たのでは?」
日記はエリセイの居城にあったと言っていた。目を通した結果、エリセイと同じくソコロフ派との戦いに疑問を抱いてもおかしくない。
しかし、「どうだか」とかわされる。肝心なことは一度では明かさない男だ。
「父に威厳がないために、俺も傍系ながら公位継承権があるのに坊っちゃんが継ぐもの、ってうちの連中はみな思ってるくらいさ」
などと、てらわず笑う。
その横顔に目線のみ向ける。それは、ニキータの権利を脅かさないよう怠け騎士を演じているとも言えるのではないか。真意を量り始めたらきりがないが。
「まあ、おかげで権謀術数に巻き込まれることもない。家や昔からの所領を守るにはちょうどいいんだよ」
「百歩譲ってそうだとしておこう」
肩を竦めた。エリセイと組む上で、侮らず買い被らずの対応がちょうどいい。
ともあれ、異状はなさそうだ。
「受け取れ」
本題を忘れるなと、腕を伸ばして手紙を渡す。
エリセイは息子の婚約者をじろじろ見定めるみたいな表情で手紙を確認したのち、また胸板に押しつけるようにして仕舞った。
「それで、史料調査のほうは進んだのか? 五日もあったことだし」
ついでに、もうひとつの取り組みの進捗も問う。途端、エリセイは大げさに両腕を広げた。
「あのなあ、この書庫の広さに対して俺一人だぞ。空位が長くて戦いの形骸化を感じる者が他にもいたとて、大っぴらに言うのは憚られるから、誰も巻き込めないし」
「わたしには戦う必要がなくなればよいと話し、調査を手伝わせようとしたのに?」
百年前のアナトリエ公子が書き残した一文。思いがけず打ち明けられたことで、どれだけ悩まされたか。
実は前回ソコロフ領に帰った後、「王位を擲っても手に入れたい何か」なんてあるはずがない、エリセイの思い違いだと一度は結論づけた。しかし夜中寝つけずに厨子の像を眺めていたとき、まさに今のレクスの状況に似ていると思い至り、一蹴できずじまいである。
その苦情も兼ねて、言葉じりを捕らえる。
「そりゃスフェンだから。口が堅くて信用できる騎士だろ」
「……わたしにしか話していないのか」
「ああ、おまえさんだけだ」
だが率直に返され、気勢をそがれた。頬が火照る。この男とはとことん相性がよくない。
気持ちを落ち着かせるため、立ち上がってエリセイの正面、ただしぴったり間合いの外に立った。
「致し方ない。今日は少し手伝おう」
エリセイも腰を上げる。心から楽しげに。
見下ろされる恰好になり、むっとしながらも、どの棚を見ていけばよいか指示を仰いだ。「この辺」とざっくり手で囲われる。非効率という単語が頭を過ぎったものの、あくまで手伝いなので気に留めないことにする。
埃を被った本を数冊棚から引き抜き、エリセイが持参した角灯のもとに抱えていく。淡い光を頼りに、羊皮紙に手書きで記された文章を、つっかえつっかえ目で追う。
物語調の本は、伝承か創作か判断がつかない。
王の日記かと思いきや、ひたすら家臣の愚痴を連ねたものもある。免職の根拠の記録用か。
(客観的に歴史を書き残した史料はないのか……)
「スフェン! 面白いのを見つけた」
向かいで胡坐を掻くエリセイが小さく叫んだ。
角灯越しに、彼が大きな手で押さえている頁を覗き込む。
丘で人間と小動物たちが輪になって、木の実を摘まむ様子が描かれていた。色はついていないが緑豊かなのが伝わってくる。
「この本、絵入りなんだよ。昔は春と秋がちゃんとあったんだな。こっちの頁は育てた芋を調理してるんだが、でかくて美味そうだ」
今のイスは、一年の半分が冬だ。短い夏は陽光を楽しむ暇もなく、食料の貯蔵など越冬の準備に追われる。冬の降雪も苛烈で、大地は作物を植え付けるのに向かない。
涎を啜るエリセイを「子どもか」と見遣って、弾かれたように身を引く。
緑眼が、思うよりずっと近くにあった。自然に頭を寄せ合っていたようだ。
「……関係ないことを調べているなら帰らせてもらう」
こちらは遊びではない。立ち上がって外套を翻した。目の前がちかちかするのは、しばらく角灯のそばにいたせいだろう。
エリセイが追いすがるように手を伸ばしてきたが、白い外套の裾を掴めず空振りする。
「待て、次の日取りだけ。俺も相棒と来ることにするから、五日毎に王城書庫に集合としないか。扉を開けるときの合言葉も決めたい。たとえば『慈悲深き王の子どもたち』『豊かな大地を愛し栄えよ』とか」
足を止めた。エリセイの提案はめずらしく一理ある。
通常、書庫の中までは巡回しない。だが書棚の有り様を見るに、金箔を施した本を盗りに入る者がいないとも言いきれない。ただ合言葉はいまいちだ。
「それはよく知られた伝承だ。誰でも応えられる」
「あ、そうか。じゃあ俺たちしか知らない『勝利を収められるなら』『王位は要らない』は?」
「……了解した」
懐疑的なままその一文を発したくはない。しかし他に良案もなかった。
「またな、スフェン」
おおらかに手を振るエリセイを置いて、改めて廊下にすべり出る。
(何だろう、視界の明滅が収まらない)
廊下の先にソコロフ派巡回隊員の姿を見つけて身を隠しつつ、もはや癖のように頬の雀斑を叩いた。
ニキータがオメガだと確証を取れたこと、手紙が定期便となったことをレクスに深く感謝され、アナトリエの使者と良好な関係を築くよう要請されもした、のだが――。
「小腹空かないか」
「うぐ、やめろ」
鮭の燻製肉を口に押し込まれそうになり、任務用の外面を保てない。
書庫で落ち合うや、エリセイは手紙でなく保存食を引っ張り出した。
「港の少ないそちらさんじゃ、魚はあんまり出回らんだろ。しかも俺は燻しの達人だ。あ、毒の心配か?」
安全だと証明してみせるかのように、肉を細く割いてもぐもぐ頬張る。吹雪の中を移動してきて腹が減ったのは彼のほうとみた。
なおも唇を引き結んでいると、あろうことか半分齧った燻製肉を近づけてくる。あーんと口を開けろというのか? あり得ない。
「わたしが欲しいのは手紙だ」
燻製肉を通り越し、エリセイの外套に食指を伸ばした。容赦なく前を開き、濃灰の騎士服をまさぐってやる。
「お、積極的だな」
じゃれたと思われ、眩暈がした。エリセイは悪びれず笑っている。もしかしたら、他人の呆れ顔を好む悪趣味な男なのかもしれない。抗うだけ無駄か。
「もう終わりか? 残念。じゃあ今日はこの辺を調べよう」
さらには手紙と引き換えかのごとく、史料調査にも参加させられる。
言い合って気力を浪費するくらいならという諦念で、本を手に取った。前回の失敗を繰り返さぬよう、角灯の前でなく階段梯子に陣取る――のだが。
「なあ、子どもの頃は滑雪遊びと滑氷遊び、どっちが得意だった? スフェンは体重が軽そうだから滑氷かな」
エリセイは黙って文章を読むという技能を持たないらしい。取り留めない話ならともかく、今のは聞き流せない。
「滑氷だったら何だと言うのだ」
「……すまん、これも地雷か」
座ったまま剣の切っ先を向ければ、さしものエリセイも縮こまった。ちっとも小さくなれていないが。
騎士として戦うに当たり、オメガは発情発作に留まらず、小柄で華奢な身体つきも不利になる。武器を振るうにも、雪上を移動するにもだ。恵まれた体躯のアルファに生まれついたエリセイにはわからないだろう。
ただでさえソコロフとアナトリエだ。本来、共感できることは何ひとつない。
それでもエリセイは取り成そうとか、
「そういや、『オメガには弓も槍も当たらない』って流説、そちらさんでも同じか?」
と話題を変えた。
小首を傾げる。馴染みの言い回しだが、個人の特質を表すものである。そもそも戦場にオメガは極少ない。
「確かにわたしは弓も槍も当たらないから、レクス殿下を狙う黒曜石の矢を身体で逸らしたことがあるが……。小柄ゆえ的が小さいと言えば小さいか」
「身体で逸らしたって? スフェンはレクスにとっちゃ百人の盾兵より頼もしいなあ」
また大げさに褒められ、苦笑いした。白兵戦ともなれば剣は普通に当たる。
「矢より早く駆けつけられたのも、滑雪の特訓の賜物だ」
エリセイがまるで見てきたようにうんうん頷く。事実、周りとの差を埋めるべく努力したが、彼には想像できないと思っていた。不躾なんだか敏いんだか。
努力の結果だけでなく過程も認められ、口角がほんのり上がってしまう自分も自分だ。相手はアナトリエの人間なのに。でも、エリセイは世辞を言う男ではない。
「ただ黒曜石の矢じりは、山の少ないこっちではあまり使わんが……」
むしろ、すぐ違うことを考えている。
こちらも、いつもの凛とした表情に戻した。
「そろそろ手紙をもらって帰りたいのだが。よもや忘れてはいまいな」
「いないとも。だが、オメガの宿命をはね返すためにそれだけ頑張れるスフェンに感服したから、もう少ししゃべらせてもらいたい」
大きな手を合わせて「もう少し、な」と拝まれ、表情の維持に手間取った。こういう人間はソコロフにはいなかったのだ。オメガ相手に感服だなんて。
その間にエリセイが、自分が読んでいたのと別の本をこちらの前に積み上げる。
「それに、オメガの体質についても何か記録があるかもしれん。不思議な特徴のいくらかでも解明できれば、より働きやすくなるだろ」
「ふむ。そうしてわたしに見つけさせ、自分の手柄かのごとく主人に報告しようという魂胆か」
積まれた本をエリセイの膝先に押し戻した。
彼の行動原理がすべて愛しい従弟なのはお見通しである。
「違いな……、違うぞ」
白状しかけたエリセイが頬を叩く。まったく。
「数の限られたオメガには、子を孕むだけじゃない特別な力がある気がするんだよ。その体質に生まれた意味がある、って言うべきかな」
と思いきや、何度目かの慧眼を披露した。
発情発作があるのも芳香を発するのも、何か大きな意志を秘めているというのか。これまで、そういうものと思って対抗するのみだった。
それを言えばアルファの存在にも意味がありそうだ。現在は貴族にしかおらず、あたかもオメガと対を成す特徴を持ち――
「[運命の番]とやらも、本当に存在すると思うか? [番う]とどうなるというんだ」
掠れ声で問うた。四分の一はエリセイに、四分の一は未知の意志に。
四分の一はその存在を感じたというレクスに、そして最後の四分の一は自分自身に。
「さてな。それも史料にあるんじゃないか。坊っちゃんたちの役にも立ちそうだし、地道に解読しよう」
エリセイは明快な答えは避けた。だが、真面目な顔で大きな手を差し出してくる。
今さらともようやくとも感じるが、握手に応じた。近衛騎士の使命に燃えているからか同じように熱い。なぜか緑眼を直視できない。
懐に収めた厨子を打つくらい強い心音を紛らわせんと、再度本に手を伸ばす。
だが手当たり次第なのがよくなかったか、結局これといった収穫は得られなかった。
今日は引き上げることとし、目を伏せたまま手紙を要求する。
「ん」
エリセイは手紙を出すも、なかなか手を離さない。破けないぎりぎりの力で引っ張り合い、最後まで彼の「遊び」に付き合わされる破目になった。
冬季のイスは、瞬きする間に陽が沈む。
長い夜のさなか、レクスの私室に手紙を届けた。事務的な報告のみだが、彼の表情からしっかり恋が育まれているのが察せられる。こちらまで気持ちがほころぶ。
この気持ちのまま帰りたかったのに、私室が並ぶ二階の廊下で、また会いたくない男に鉢合わせた。
「お高いオメガ、夜遅くまでご苦労なこと」
ルドルフである。ソコロフ派はみな白を身に着けるにもかかわらず、家名に由来する赤色の上衣を纏っている。
(所領運営を家臣に丸投げし、自分はオメガが出入りするソコロフ城に入り浸りとは)
妾とよろしくやっていたのか、端々に事後の気怠さを漂わせている。欲は充分満たしたろうに、前を遮る形で壁に寄り掛かった。
なぜ発作中でもない自分にこうも構うのか。
「貴殿こそ早々に除喪され、ソコロフ公のために熱心でいらっしゃる」
今度は一歩も退かずに切り返す。言われっぱなしでは余計軽んじられる。
最高指揮官であるソコロフ公の執務室には、戦況報告や戦術検討せんと、ソコロフ派の貴族が常に誰かしらいる。しかしルドルフの姿はほとんど見ない。今は真冬で大がかりな戦いこそ進行していないものの、貴族の本分を疎かにしていることをちくりと刺してやった。
皮肉な挨拶以外用はないと、彼の広い肩を回り込み、再び進もうとする。
「お前、最近よく緩衝地帯に出掛けているな?」
だが、思わぬ追撃が飛んできた。淡茶色の癖毛がかすかに揺れてしまう。
ルドルフの紅眼が、たちまち酷薄にぎらつく。
自分は小柄で線が細いぶん存在感も薄い。いないと近衛騎士の活動が立ちゆかないわけでもないので、詰所に不在の刻があっても見咎められない。悔しくはあるが、密令に利用していた。
それが、オメガを物色するルドルフにだけは気づかれた。行き先まで割れている。プナイネン家の所領を通っていたせいか。
「巡回隊の補佐をはじめ、騎士の任務は多岐に渡りますゆえ」
それらしくごまかし、ルドルフがつくる大きな影を避けた。声は震えなかったはず。
(わたしとしたことが……)
屋外は氷点下だが、頭を冷やそうと、あえて毛皮帽子を被らず相棒を走らせる。
思う以上に順調に手紙のやり取りを進められて、少し浮かれていたのも否めない。
近衛騎士が隙を見せてはいけない。自分が王城に通う目的を、ルドルフや他の貴族に知られればどうなるか――。レクスの求心力が下がるのみでは済むまい。
(あの男に調子を狂わされていたせいもある。それに)
こちらが気を引き締めても、エリセイから情報が洩れるかもしれない。いつでもこれを材料に戦いを仕掛けられるのだ。何せソコロフとアナトリエなのだから。
つい雑談なぞしていたが、警戒すべきと思い直した。
「『勝利を収められるなら』」
「……『王位は要らない』」
そんな決意で迎えた五日後。書庫に入るなり、エリセイに「どうした?」と顔を覗き込まれた。
彼のほうは毎回抜け目なくこちらの様子を窺っている。自分に手落ちがあった、という自責が強くなる。
剣の柄に手を掛けた姿勢で、端的に尋問した。
「君は、主人以外には手紙について話していないと誓えるか」
「おいおい。何かあったのかよ」
「何かあってからでは困る」
エリセイはいつかのように両手を挙げ、敵意はないと示す。場を和ませようとか悠長な笑みも浮かべたが、こちらの碧眼がたゆまないのを見て取り、引っ込める。
表情が消えると、整った顔立ちなのが際立つ。品評は場違いだが。こうして油断させるのも彼の手管だろうか。
返答は一言でこと足りる。だがエリセイは一向に口を開かない。
(やはり企みがあるのか)
かと思うと小さく息を吐き、剣ごと帯革を外した。無造作に二人の間に置く。
あろうことか、そのままこちらに背を向けた。
(何、をして)
濃灰の外套に包まれた背中の広さに瞠目する。五歳の差でここまで違うものか? 単に骨と肉ががっしりしているという意味ではない。背負っている近衛騎士としての覚悟や責任、主人への忠誠。そしてこちらに対する信頼が溢れていた。
エリセイは自分の身を守る武器が手もとにない状態で、こちらの間合いに入っている。
剣の柄に添わせた指先に、痺れを感じた。
(わたしは、この背中を――)
「口で言っても信じないだろ、スフェンは」
適当に近くの本をめくりながら、エリセイが言う。表情はわからないが、きっと自分がいつも心掛けているような平静ぶりだろう。
この背中を、父の仇と斬り捨てることもできる。それだけの鍛錬をしてきた。
だが、なぜだか、無性に守りたいと思った。
もはや直感、もしくは本能に近い。守る必要もないほど強いのに、可笑しい。
「頼もしい」と「守りたい」が、せめぎ合う。
あの深く見通す緑眼を向けられていないのをよいことに、足音を忍ばせ、息も潜めて、エリセイに手を差し伸べた。指があえかに震えている。自分のものではないみたいだ。
ゆっくりと、肩甲骨のくぼみに触れる。やはり熱い。そしてひどく安心した。
「疑って悪かった、エリセイ」
「お? やっと俺の名前呼んでくれたな」
エリセイが鷹揚に笑い、広い背中が揺れる。入れ違いに指の震えが止まる。
彼は最初から間合いとすら思っていなかったのだ。緩衝地帯、いや、ただ一緒に居る場所。同じように主人のためにここにいるからこそ、背中も預けられる。
ルドルフなぞに惑わされた自分が恥ずかしい。跪き、自分の愛剣より長く重いエリセイの剣を拾い上げた。両手を使ってうやうやしく返却する。
向き直ったエリセイは、よほど困惑したのか、こちらと剣を交互に見ている。
「取れ。先に信じるという、単純だが最も難しい騎士道精神を体現してのけた君への敬意だ」
素直に称賛を述べた。以前の自分ならあり得ないが、ソコロフもアナトリエもない。いつ出し抜かれるかと疑ったままでは、何もできない。何も始まらない。
エリセイはますます攪乱された様子ではにかむ。
「……はは。俺をそんなふうに言ってくれるのはスフェンくらいだ。アナトリエでは『アルファなのに向上心がない』とか、『図体がでかいだけの穀潰し』だとか」
「それも事実だ」
「一言多いぞ」
同時に吹き出しつつも、エリセイは普段より自信に満ちた、洗練された所作で剣を装着し直した。
それを好ましく見守る。当初はエリセイの印象が定まらなかったが、今は彼を見ていると胸が高鳴った。
(敬意を抱ける者と共にいられるのは、よいものだ。……敬意、だよな?)
その後、ソコロフ派に自分たちの動向を探る者がいる、と包み隠さず伝える。
「ふむ。逢瀬が規則的だと怪しいかもな。五日毎じゃなく、四日とか六日とか毎回変えよう」
エリセイが頬の傷痕を撫でながら思案する。伝書鳩任務の中断は考えないでくれて、嬉しい。
「逢瀬ではないが、了解した」
「きっちり否定されたか」
次回の受け渡しは、両派の巡回隊の移動と重ならない四日後と取り決めた。
手紙を渡すのみならず、思わぬ実りの種を受け取れた気がする。形のないそれを大切に守るかのごとく、胸に手を当てた。
四日後。今日はこちらが手紙を受け取る番なので、往路は手ぶらになる。表向き「王城巡回隊のための物資を運んでいる」と見せかけるべく、ヴィトに蒸留酒を少量積んだ。口実としては弱いが、ないよりましだろう。
「さあ、行こう」
いつにも増して慎重に進路を選ぶ。プナイネン家の所領は避け、だんだんと風雪が強くなっても周囲の確認を怠らない。
前後左右、上下も白。くすんだ灰や茶がわずかに覗く。だいたい木か廃屋だ。
王城の周りには、城下町が広がっている。ただし打ち捨てられ、住民はない。強風と雪の重みで崩壊した家々の残骸の向こうに――何か動くものがあった。
今日は巡回隊の行き来はないはずだが。とにかく正規の任務だという顔をしていよう。手袋を嵌めたまま頬を叩き、気合を入れる。
もっとも、視界の悪さとヴィトの白毛によって、気づかれずすれ違うのがいちばんだ。
「スフェン!」
そうはいかないとばかりに名を呼ばれ、目を見開く。
声の主は悪路をものともせず、まっすぐこちらに近づいてくる。その身体も、彼が操る灰毛の馴鹿も大きい。濃灰の外套に長い剣。
「いやー、合流できてよかった」
エリセイだった。
ただし城の外で会う予定ではない。ルドルフの件もあったので、「ここで何をしている」と早口で状況を訊く。
「昨日、アナトリエ側の城門前で雪崩が起きて、交替予定の巡回隊が足止めを食らったんだ。改めてソコロフ側に迂回して入退城することになったから、鉢合わせる前におまえさんを迎えに来たんだよ」
エリセイはめずらしく要領よく説明した。
先んじて王城を訪れ、忍びつつ巡回隊の情報を集めて、不測の事態に対応してくれたらしい。
王城は丘に建っている。今ふたりがいるソコロフ側の城下町跡もなだらかな坂だ。
ひとまず廃屋の陰に入り、素早く手紙を受け取ろうとする。しかしエリセイが来た方向から、
「そこに誰かいるな、出てこい!」
と誰何の声が飛んできた。
廃屋の倒壊により、ソリや馴鹿が通れる道は限られる。加えてちょうど雪が弱まったのもあって、エリセイが懸念したとおり、帰還途中のアナトリエ派巡回隊に出くわしてしまったのだ。
考えるより先にエリセイを突き飛ばした。
自分もヴィトの背から飛び降り、白い外套を裏返す。毛皮面に雪が吹きつけるのも構わず、停まったソリを見遣る。
濃灰の外套姿の騎士が四人。そのうちの一人が、いるはずのない民に尋問せんと降りてきた。城の外は巡回対象外だが、万一ソコロフ派の暗躍なら見逃せないということだろう。
「オメガには特別な力がある気がする」というエリセイの声が、耳によみがえる。そう、だから大丈夫だ。
「わたしですか……? 放牧していた馴鹿を連れ戻すところですよ。冬季は雪下の地衣 も少なく、ここまではるばる来てしまったみたいで」
馴鹿牧夫に扮して釈明する。ソコロフ派の巡回隊相手なら任務だと押し通すが、アナトリエ派騎士の前でご丁寧に身分を明かすこともない。公子の手紙を守ることが第一だ。
亡き父の手つきに倣って、相棒の横腹を撫でてみせもする。
「なんだ、迷い馴鹿か」
男は肩透かしと言わんばかりの表情を浮かべた。貴族出身の騎士らしく、「放牧中」の馴鹿が手綱や荷物をつけていても違和感を抱かない。
「もう行っていいですか」
「待て。外套の裾から見えているものは?」
ただ、武器にはきちんと目を留める。敵方ながら観察眼があるではないか。
即席の猫背をさらに丸めて答えた。
「家畜を追い立てるのと、保身のための剣です。切れ味はほとんどないですが」
剣は外套の下で肩に掛け直すしか猶予がなかった。もし柄の意匠を見られたら騎士だと露見する。
でもこちらがおよそ騎士と思えない外見ゆえか、「検める」とは言われなかった。
「とっとと……村に、帰れよ……」
男がしゃべりにくそうにする。こちらがいかにも無害、場所が緩衝地帯、おまけに急に風雪が強まったのもあって、穏便に切り抜けた。
ソリが急くように走り去ってから、くぐもった声が届く。
「……死ぬかと思ったぞ」
「君は殺しても死なんだろう」
足下の、こんもり積もった新雪を掻き分ける。指示していないのに馴鹿たちも鼻を埋め――エリセイを掘り出した。
アナトリエ派巡回隊に顔を知られている彼を、雪に隠したのだ。この豪雪なら容易である。エリセイもすぐこちらの意図を酌み、ふたりきりになるまでおとなしくしていてくれた。
新雪はやわらかいのでだいぶ埋まっている。エリセイは人型のくぼみで身体を起こし、外套や帽子についた雪を自らぽふぽふ払った。体温が高いだけあって身体に変調はなさそうだ。
「この間少しは親しくなれたと思ったんだが? 相棒から落ちたとき腰を打ったし、剣も曲がったかもしれん」
だが、これみよがしにぼやかれる。
「君の身体も剣もそんなにやわなのか」
「こう見えて繊細だから風邪引いた気がするなあ」
しつこい。ただ、手荒な策だったのも否定できない。
咄嗟にエリセイを守らなければと思ったのだ。当のエリセイにはもっと良い案があって、拗ねているのか。かと言って刻は戻らない。
(どうしろと言うのだ)
御しきれないでいたら、
「ああ、優しいのはおまえさんだけだよ。おまえさんの相棒と違って」
ヴィトがエリセイにすりすりと毛皮を擦りつけた。
いつの間にか馴れている。人懐っこい個体ではなく、背に乗せてもらうまで結構な月日が掛かったのに……という嫉妬は今は置いておいて。
エリセイは駄々を捏ねて座り込んだままだ。機の悪いことに、今回こちらが手紙を受け取らないといけない。ご機嫌取りしないと渡してもらえなさそうだ。まったく手の掛かる。
(何が望みだ?)
暖かい場所でゆっくりしたいのだろうか。でも王城へ向かうのは気が進まない。雪崩により、両派の巡回隊とも手順と違う動きをしている可能性が高い。
考えをめぐらせながら、なおもヴィトと戯れるエリセイを見るともなく見ていて、閃いた。
「ならば、わたしの隠れ家で休むか。そう遠くない」
「隠れ家?」
エリセイの緑眼に好奇心が灯る。そこまで大層なものではない。自分自身、記憶の箱に仕舞ったきりになっていた。
「昔わたしの父が使っていた小屋だ。ここで座り込むよりはいいのではないか」
騎士団に入る前、晴れた日は丘の上の王城を望める村に住んでいた。雪原に囲まれ、住民以外はまず訪れない。住民より家畜の馴鹿のほうが数の多い、小ぢんまりとした村だ。
懐かしさと、もうあの日々は戻らないほろ苦さとが胸を通り過ぎるのを、しばし待つ。
「それとも貴族様は平民の小屋など願い下げか」
今は廃村になっているかもしれない。馴鹿の世話用の小屋が朽ちていない保証もない。小屋に暖炉はあったが火が点くかわからない。
でも、「そんな小屋嫌だ」と言われないよう黙っておく。最悪、蒸留酒でどうにかしよう。
エリセイはこちらの思惑も知らず、灰毛の馴鹿にひらりと飛び乗った。
「いやいや、行くとも。相棒よ、もうひと走り頼む。あとで美味い地衣 と燻製肉をたらふく食わせてやるぞ」
ソコロフ領とアナトリエ領の境界線にほぼ平行に、北へ四半刻。
獣道すらない白樺林を分け入っていく。早くも夜の入りで、村方面に人の気配もしない。十数年ぶりなのであさってな方向に案内してしまっているかもと焦り始めた頃、氷を纏った枝の合間に、木造の三角屋根が現れた。
霧が立ち込め、違う世界に迷い込んだような、幻想的な雰囲気だ。
「到着した」
戸を開ける。中は二間四方もない。隅に張った蜘蛛の巣が凍っている。
「何だか癒されるな。周りはあの仔たちの主食の地衣 が多そうだし」
エリセイはいそいそと小屋を見回した。仮眠用の寝台の板が抜けないか、手で確かめてから腰掛ける。さらに濃灰の外套を敷布のように置き、目くばせでこちらを呼んだ。
「……それだと君が寒いだろう」
さすがに固辞し、寝台の向かいの暖炉に、今刈ったばかりの白樺の枝を入れる。しかしろくに乾かせていないので、火打石に反応しない。予想はしていたが唸らざるを得ない。
「だからスフェンにこっちに来てほしいんだよ。人肌に勝る暖房具はない」
「妙な言い方をするな。いざとなったらヴィトを中に入れる」
「白 か。またもふらせてもらうのも悪くない」
脚を投げ出してくつろぐエリセイは楽観的だ。実際にヴィトを入れたら身動きが取れなくなるのに。一気に徒労に思えて、暖炉を離れ、荷から蒸留酒の小瓶を二本掘り出す。
「身体の中から温まれ」
エリセイは、こちらの手ごと瓶を受け取った。引き寄せられ、結局隣に座らされる。してやったりの表情を向けてきたが、寝台が派手に軋むや真顔になった。
一拍遅れの吹き出し笑いを乾杯代わりに、酒を煽る。
(毒の心配はしないのだな。本当にわたしを信用してくれている……)
蒸留酒は度数が高く、ひと口で喉から腹にかけて熱くなった。同じく酒を流し込むエリセイの喉仏に、つい目が吸い寄せられる。
「これ何かで燻してるか? 甘い匂いがする」
「いや、典型的な製法だ」
はっと前に向き直った。この間彼の背中に敬意を感じて以来、どうも過剰に目で追ってしまう。
「うーん、燻しの達人を自負してたがまだまだか……?」
エリセイはこちらの気も知らず、熱い息とともに疑問を零す。
自分も視界がとろんと滲んだ。酒の回りが早いようだ。城の食料庫にあったのを積んだだけだが、たまたまひと手間加えたものだったのかもしれない。
酔いを醒まさんと軽く首を振る。隅の小さな棚が目に入った。
寝台と暖炉の他は、この棚があるきりだ。器などの日用品が残っていて、父がふらりと放牧から帰ってきそうだ、なんて思う。父が育てていた馴鹿は生活のために一頭また一頭と売り、父も母も精霊界に旅立って久しいにもかかわらず……、やはり酔っている。
「あの置物は何だ?」
エリセイが、こちらの視線を追ったのか棚を指差した。
薄暗い中、再度目を凝らすと――今の家にあるのと同じ、木製の厨子だ。ここにも母の形見があったとは。腕を伸ばして手に取る。
「母がつくった、お守りのようなものだ」
エリセイは「へえ」と掌を覗き込んできた。肩で押されて寝台から落ちかける。無言で踏ん張る。
「これ丸屋根に鷹が留まってるな。聖堂の意匠と同じだ」
「そう、なのか?」
「ああ。ちなみに丸屋根は太陽を表してる」
知らなかった。エリセイはたまにこうして貴族の教養を見せてくる。こちらは建築には詳しくないし、聖堂は緩衝地帯の南、アナトリエ領にある。
とはいえ厨子も聖堂も精霊王を祀るものだから、同じ意匠でもおかしくはない。
「中は人型像か。母君は手先が器用なんだな」
エリセイが感嘆を口にした。像の顔立ちや身体つきは、男とも女ともつかず、絶妙に「人間」でなく「人型」だと感じる。
「よく村の女たちに装身具をつくってくれとせがまれていた」
「俺もこのお守りが欲しい。アナトリエにはこういう型のものはない」
「ひと足遅かったな。母はもう精霊界へ旅立っている。寿命が並より少々短かったんだ」
熱烈にねだられたが、さらりと却下した。母の場合は枕もとで見送れたから、父のときより気持ちの整理がついている。
「……っ!」
ただエリセイにはそう見えなかったのか、酒瓶を床に置き、大きな手でこちらの膝をさすってくる。摩擦熱で火がつく勢いだ。さらに真剣な顔で「よければこの御形見を俺に貸してくれないか」と頼み込みもする。
そんな芸術品でもないのに。でも廃屋に等しいこの小屋に置いておくよりは、と了承した。
「それで、わざわざ移動してまで話したいこととは?」
これ以上湿っぽくならないようにも兼ねて、話題の転換を促す。そうしないとエリセイはいつまでも本題に入らない。
エリセイは厨子の精霊王像を両手で包み、しげしげと眺めたまま、
「ご主人様たちの恋が確実に進展してるのは、スフェンも感じてるだろ?」
と切り出した。
落差に面食らいながらも、頷く。異論はない。
「うちの坊っちゃん、想いが募って、レクスにもう一度会いたくて仕方ないみたいだ。まあ、よぼよぼになるまで手紙の交換だけで我慢できるなら、最初から手紙自体書いてないよな」
エリセイは憮然とした顔で続けた。他の話をしているときは決してしない顏だ。
彼にとってニキータが、ニキータだけが、特別心配で特別愛する存在なのだと改めて思わされる。途端、胸の中心をぎゅっと握り潰されたように錯覚した。
この痛みは何だ……?
「坊っちゃんのためとはいえ、スフェンと定期的に会ってる俺が羨ましいのもあるんだろう。ちょっとやましいのは事実だから、ふたりを引き合わせる相談ができないかと思ってな」
「……ふむ」
眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
ただでさえ謎の胸の痛みに驚いているのに、エリセイの話は引っ掛かるところが多過ぎる。
ニキータがエリセイを羨む? ソコロフとアナトリエの垣根を越えて会っているからか。
やましいとは? エリセイはニキータにこちらのことをどう説明しているのだろう。
さておき、レクスも会えるものならばニキータと会って話したいに違いない。彼らの恋を次の段階に進ませるには――。
「案があるのか」
さっきは有無を言わせず雪中に隠したので、今回はエリセイの意見を聞こう。
「聖堂で合議が開かれるような事件でも起こすか」
「ないのだな」
「だから相談したんじゃないか。言っとくが雪に埋めて隠す案もなかなかだぞ」
エリセイは口を尖らせた。根に持っている。
それは置いておくとして、公子本人同士を直接会わせるとなれば、冬季であっても難易度は跳ね上がる。自分はレクスの、エリセイはニキータの願いにはできる限り応えたいのだが。
「場所は緩衝地帯で……夜中に行き来するとか?」
「やっぱりそうなるよな。よし、王城を密会の場として整えよう。俺たちなら多少暴風雪に巻かれようが、廊下で巡回隊員に見られようが何とかなるが、坊っちゃんたちは安全かつ秘密裡に守り抜かねばならん」
捻りのない提案に、エリセイも頬の傷痕を掻きつつ乗った。奇をてらわない正攻法は、正攻法ゆえの手堅さがある。
それにたとえ危険に直面しても、自分たちが代わりに引き受ければいい。背筋を伸ばした。
「わたしはオメガでも主人を守り抜けると証明すべく鍛錬してきた。いざというときは命懸けでレクス殿下を守る。エリセイも同じようにニキータを守れるなら支障はない」
「はは、勇ましいな。そのとおりだよ。俺は坊っちゃんを……守る」
エリセイも緑眼を冴え渡らせる。今なら、互いに互いの忠誠心を絶対的に信じられる。
ただ――と思う。
「一度会ったら、今度は『よぼよぼになるまで密会だけ』とはいかなくなるのではないか?」
レクスはいつか、表立ってニキータと会う機会を設けてのけそうな気がした。
そのとき、自分とエリセイの伝書鳩役も終わる。少し残念に感じる。
(残念、だと?)
またも自分で自分に驚いた。
レクスの恋が叶うなら喜ぶべきなのに……いや、私室でニキータからの手紙を宝物のように受け取るレクスを見て、我がことのように喜んだ。
では、何が残念だというのか。混乱していたら、眼前いっぱいに緑が広がる。
「それなんだが。坊っちゃんたちがこそこそしなくて済む、重要な史料を王城で見つけたかもしれん! 次回、一緒に見てくれ」
「わかった、わかったから押すな、~~っ!」
エリセイはもうひとつ話したいことがあったらしい。あまりの勢いに、ついに寝台の縁から押し出された。
木床に身体を打ちつけそうになるが、すかさずエリセイの腕が追ってきて抱き寄せられる。
厚い胸板に頬を押しつける恰好になった。
(何だ――これは)
火より酒よりずっと暖かく、全体重を預けられるほど頼もしく、隙間はないのに楽に呼吸できる。すう、と深呼吸すれば、自分が自分らしくいられるような気さえする。
「すまん。怪我しなくてよかった」
「……そんなにやわではない」
エリセイはばつが悪そうに座らせ直してくれた。離れていく体温が名残惜しく、掴まっていたエリセイの背からゆっくり手を離す。
エリセイはその間じっとこちらの顏を見つめ、何か言い掛けてやめる。
――まさか。自分は、この怠け者で奇怪な男に会う理由がなくなるのが残念なのか?
時間差で降ってきた考えに、絶句する。
本来、手紙を受け渡したら怪しまれないために即別れるべきなのに、情報を引き出す口実であれこれ話し続けたのは、無意識の名残惜しさがあったから?
密令を果たしてレクスの信頼を得たいのではなかったか?
そのレクスの私室を訪ねたときはいつも、敬愛で胸が詰まるから早く退がりたいと思っていたが、今は帰路に就くのを少しだけ延ばしたい。これは、レクスとニキータが互いに会いたいと思うのと同じ……?
「そろそろ出ないと、帰り道が真っ暗になるな。また王城で会おう」
芽生えた疑問だらけで小屋を出て、ヴィトの背に揺られた。
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