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3 密会計画とヒールオメガ
三月になっても、王城付近の風雪が和らぐ兆候はない。
外套や靴に付いた雪が融けて廊下に足跡を残してしまうことのないよう、念入りに拭いてから地下へ降りていく。階段は建物正面と端のほか、裏庭につながる使用人用と思しきものもあるが、今は出入口に雪がみっしり載っていて使用できない。
足取りは早くも遅くもない。平常心を保つべく、頬の雀斑をぽんと叩く。
父の小屋で芽生えた疑問はひとつも解けなかったが、いつもどおりに。
「『勝利を収められるなら』」
「王位は要らん要らん、それよりこれを見てくれ」
合言葉もそこそこに、書庫からエリセイが飛び出してきた。なぜ中へ入らないのかと訝しむと、数日前預けた厨子を突きつけられる。
元の持ち主はこちらなのに何を今さら……?
「この像、扉の彫刻の真ん中のやつにそっくりじゃないか?」
目を瞠った。厨子と扉を見比べる。今まで出入り時に周囲を警戒はすれど、彫刻をまじまじ鑑賞したことはない。
確か真ん中には人型の精霊が彫ってあり――木に寄り掛かって木の実を摘まむ彼と、また目が合う。ずっと前から知っている気がした。
「本当だ。では扉の人型の精霊は、精霊王だったのか」
「おっ、厨子の像も精霊王ってことならますます納得だ」
何がだ? と訊くより早く、扉の内側に移動する。まったく、忙しない。
「こいつは扉の割に、やたら重くてやたら厚いよな」
エリセイがすぐ振り返って言う。これには首肯できない。重いと感じるのは、自分が非力ゆえかもしれないから。
「どうしてかなと思って、ちょっと検分してみた。そしたら、」
だがエリセイは共通認識という体 で話を進める。ずいぶん上擦った声だ。
「扉の中にも本があったんだ」
角灯を点し、扉の上部を示した。暗闇に小さな丸い穴が浮かび上がる。そこから扉の内側を覗き、「ほら」とこちらにも見せようとする。
前回小屋で興奮まじりに言及した史料とは、これのことか。
得意げなエリセイを、黙って睨み上げた。
「……ああ、すまん」
たっぷり五拍は見つめ合ったのち、エリセイはやっと思い至ったようだ。こちらの背丈では、踵を上げても目線が穴の高さまで届かないことを。
別に、扉板を外して、いかにも重要史料とばかりに守られている本を取り出せば問題ないが――エリセイはあろうことか、こちらの腹に腕を回し、ひょいっと抱え上げた。
「なっ、何をする」
「見えたか?」
足先をばたつかせても、びくともしない。背後から呑気に問い掛けてくる。まるで子どもに良い景色を見せてやろうとする父親だ。
(離せ……、離すな。いや離すなとは何だ?)
おせっかいによって扉内部を確認できたが、それどころではない。
小屋で話して以来、エリセイに対する自分の感情が理解不能なのだ。彼の体温を意識したせいか、顔に血が上って熱い。平常心がほどけてしまう。
無性に、触れていたい。
もしや――彼に抱くのは敬意ではなく、恋だというのか?
敬愛するレクスに運命の相手が見つかり、「アナトリエの人間」という偏見を取り払うやいなや。
「スフェン」
エリセイもエリセイで、こちらを床に下ろした後も抱き込んだままでいる。
「三度続けて勘違いってことはないよな。おまえさんが腕の中にいるとしっくりくるし、癒される。待て待て剣を下ろせ……、あれ?」
ぎこちなくエリセイに剣を突きつけた。下ろせと言われてからの後出しだ。
巧まずして抱擁したとき、エリセイも自分と同じように感じていたらしい。
すなわち、暖かくて、安心する。
この心地よさはやはり――。
いったん考えるのをやめた。頭がぼうっとしてきて、正常な判断ができそうにない。これでは史料調査も覚束ない。
頬の雀斑をいつもより強めに叩く。
「これは遊びではないぞ」
こういうとき、どう振る舞えばよいのかわからない。だから唯一知っている、自分を律することに努めた。折しも密令続行中で、まだ近衛騎士として務め上げられていない。恋の芽生えに浮かれている場合ではない。
エリセイも改めて「今はこれ以上何もせん。おまえさんの使命はわかってる」と両手を挙げる。こちらに向けた緑眼も口もともゆるんでいるが、見逃してやることにする。
(主人たる公子のためにこうして何度も書庫に足を運んでいるのだ)
自分に言い聞かせた。
刻は限られている。この扉内の史料が状況を打開してくれるものかどうか、調べたい。
「それはそうと、扉板を剣で壊すのか? せっかく隠されているのをもとに戻せなくなるが」
「前回はそれもやむなしと思った。そこに、この厨子だ」
エリセイは再度、母作の厨子を眼前に翳した。
「これをこうして、こう」
扉裏上方の穴へと持っていく。ちょうど同じくらいの径だ。嵌め込み、厨子の底を摘まんだまま手首を回す。
かちりと、鍵の開くような音がした。
(まさか)
驚愕する間に厨子を抜き取り、代わりに指を穴に掛けて手前に引けば――二重扉のごとく扉板が動く。
六段の棚と、ひっそり収められた書とが現れた。
「これ、丸屋根に鷹が留まってるだろ。その出っ張りが鍵穴に嵌まると、二重扉が開く仕掛けだ」
説明するエリセイはわくわくすらしているのが伝わってくる。
扉の穴に嵌めてみようなどという彼の発想がなければ、厨子は一生個人のお守りでしかなかった。ただ。
「母は、王城に関係がある素振りは何も……」
母が何者だったのか、急に心許なくなる。
小動物を狩って衣食をしのぎ、木彫りで日用品をつくり、氷雪地で命を削るように生活していたのは、他の村人と変わらない。
父を亡くして以降生活に精一杯で、命の灯を燃やしきる間際くらいは安らかでいてほしいと、その頃判明した体質も床の母には教えなかった。
もし息子がオメガとわかったら、伝えたいことでもあっただろうか。
「聖堂の意匠を倣ったものなら、他の木彫りでも、木彫りでなくとも鍵になるさ」
エリセイはこちらの微少な動揺を感じ取ってか、そう補足した。
でも、オメガを生んだ母が聖堂の意匠を使ったのは、何らかの意味がある気がする。
「……そういうことにしておこう」
それを解き明かすためにも、と自分たちを待っていたかのような本に手を伸ばした。
「こっちは歴史書だ。ただ戦いの記録が主だな。各戦役での戦術とか」
「こちらは――告悔?」
黒く染めた革表紙に綴じられているのは、貴族の私書らしい。以前王の愚痴を読まされたのを思い出し、次の本へ移ろうとした。扉の中には数十冊ある。
だが、エリセイの大きな手に止められた。指先が触れて無駄に心臓が跳ねる。
「読もう。『イスの分裂を止められなかった後悔と次世代への謝罪に代え、真実を書き残す』とあるぞ」
自律、と口の中で唱えてから、改めて前書きを見た。九十年前の日付が入っている。
王が居た時代も、ソコロフ家とアナトリエ家の戦いの始まりも、その後の空位の混乱も自身の目で見てきた者による記録ということになる。
二大家の争いの本当の理由がわかれば、手を取り合う糸口になるかもしれない。
貴重かつ知りたかった情報に辿り着けた予感に、エリセイと頷き合う。
頁をめくり出してほどなく、「ソコロフ」と「アナトリエ」の文字を発見した。
「『×××年の夏、若き[アルファ]であったソコロフ家公子とアナトリエ家公子が、同じ一人の[オメガ]に求婚した』。おっ、王位じゃないものを取り合ってたなら、うちの書庫にあった日記とも辻褄が合うな。意外と浮いた話かもしれん」
エリセイは文章を読むのが早いが、音読してくれるのでついていける。
果たしてエリセイの推理は当たっているのか。
もし「王位」でなく「恋」をめぐる話なら、主人に貢献する意味でも、自覚したものを律するためにも、以前より興味が引かれる。
「『オメガの公子の家格は二大家に比べれば高くないが、「精霊王を宿す」と称されるほど魅力的な人物であった』か」
エリセイの顔がうっとりとゆるむ。
数々の加護を授ける一方、可愛らしい悪戯もする精霊たちの王に喩えられるとなると、気品と親しみを併せ持ち、恋せずにはいられないオメガだったに違いない。
(わたしとは違う。……いや、わたしはそもそも貴族でさえない)
無意識に自分と比べ、慌てて否定する。百年前の人間に引け目を感じてどうする。
「『オメガはどちらも丁重に断った』、『二大家の公子は承服せず』、『戦いにて勝利を収めたほうがそのオメガを得ると取り決めた』だと? 一気に雲行きが怪しくなったぞ」
エリセイは飛ばし飛ばしで要点を拾っていった。オメガの意思が尊重されないのは今も昔も同じか、と義憤まじりの溜め息を吐く。
「『戦いはさながら王位争いの様相となり』、『終息したと思いきやオメガの身柄を奪還すべく再開が繰り返され』……、『民や地が傷つくことを憂いたオメガは、四季がひとめぐりする前に、自死でもって戦いを終わらせることにした』」
最悪の展開に、エリセイが唇を引き結ぶ。近衛騎士として、公子の命を守れなかった痛恨を自分ごとのように感じてしまうのだ。自分も同じ気持ちだった。
浮いた話どころか、冷気が重くわだかまる。
後悔ゆえ筆を執ったという記録者の文字も、だいぶ乱れていた。
書はまだ続いている。音読役を交替する。
「『しかし、オメガの死の原因は相手にあると恨み合い、むしろ戦いは激化した。地は荒れ果て、直す民も耕す民もない』」
自らを犠牲にしたオメガの葬送もままならなかった、とあるのを横目に見る。
「×××年の冬、子を窘めんと介入したアナトリエ公にして当代王、そして王に匹敵する力を唯一持つソコロフ公もが相次いで戦死した。王の死を受け、戦いの勝者が新たな王位に即 くとされたが、二大家の公子は決闘の末、相討ちとなってしまった。なおも彼らのきょうだいが戦い、決着がつかぬまま幾度も冬が過ぎた。イスは完全に二分され、冬は長く厳しくなり、王城は風雪に閉ざされ始めている』。他家から王を出して仲裁することはできなかったのか?」
やるせなさいっぱいで呟いた。歴史は覆らないが、言わずにいられない。
二重扉を開けたときと一転して消沈するエリセイは、ゆるゆる首を振った。
「当代王すら戦死したとなると、他家も当主や公子を喪ってたとておかしくない。そちらさんのプナイネン辺りの家格でも、王を立てる余力があったとは思えんな」
プナイネン。あまり聞きたくない家名を、眉を顰めて聞き流す。
「その上、戦いの中でどの家もどこの所領も恨みの連鎖が起きてたろうから、簡単に和平とはいくまいよ」
つまり現在と同じ膠着状態である。記録者も新王を立てられず、せめてと書を残したのだろう。以降が白紙なのは、戦いに出て生還できなかったためかもしれない。
戦いを始めた当のソコロフ公子とアナトリエ公子は、恋も王位も手に入れられずじまいになった。
レクスとニキータは、彼らのきょうだいの子孫に当たる。その間の王位争いを引き継いだ面々も、積もり積もった恨みの清算はできずにきた。
そんな百年の対立の原点は、たった一人のオメガだった。
愛するオメガを喪ったのは同情もしよう。しかし、そのために失ったものが大き過ぎる。
エリセイを見上げ、力ない声で問う。
「『玉座を擲っても手に入れたい何か』が、土地なら分割するなり、財宝なら発掘するなり、名誉なら合議で双方に付与するなりすればよかった。だが、死人ではどうにもならないのではないか?」
「何か」を突き止めて解決できれば、レクスとニキータのためにも、ひいてはイスのためにもなると期待していた。それが潰えてしまい、徒労を感じざるを得ない。時代を遡って、精霊王を宿すと言われたオメガを生き返らせることは不可能だ。
だが、エリセイの緑眼はまだ光を失っていない。
「いんや、挽回の余地はある。百年前の争いはオメガが鍵だった……、体質について書かれてる本はないかな」
情報が足りないだけときた。扉内の棚に再び目を遣る。
(おや?)
ちょうど真ん中の段の真ん中の本が、コトッと押し出された。
久しぶりに二重扉を開け、他の本を出し入れしたからだろうか。導かれるように手に取る。
大判で、表紙は金銀の箔押しが薄っすら残っていた。最初の頁には、「慈悲深き王の子どもたち、互いに癒し合い、豊かな大地を愛し栄えよ」とある。
「有名な伝承の原典みたいだ。医学書ではないが、王に[アルファ]、大地に[オメガ]と付記されているのが気になる」
不思議と引っ掛かった。抱え直さんとしたのを、エリセイが引き取る。彼には重くもなさそうだ。
「ふむ?」
百年よりずっと前の本らしく、古語のような言い回しで読みにくい。エリセイが知識を動員する。
「『王の器たるアルファを選び、愛し合い、末永く繁栄をもたらす伴侶が、オメガである。すなわち両性具有の精霊王が、自らの化身として加護を授けた存在』――?」
同時にがばりと顔を上げた。
オメガの体質には、意志が込められていたのか。想像を超える大いなる意志が。早く続きを、とエリセイの脇腹をつつく。
「『その発情は新たな王の器を遺すため、慈悲深き王を癒すため』。『その芳香はアルファを導くため』。『なお番 となれば、芳香は相手のアルファにしか甘く香らない』」
「番となるとは、結婚か? 現状、平民のオメガはなかなかアルファと結婚できないが」
勢い込んで尋ねた。芳香が誰彼構わず誘わなくなるなら、オメガは生活も仕事も自由になる。是非とも詳しく知りたい。
「具体的には書いてないな」
エリセイももどかしげに頁をめくっては戻る。
「それにしても、先の合議で取り沙汰されたソコロフの村に、オメガを精霊の化身と見做して大切にするって風習があったよな? 王城ですらこんな古い史料しか残ってないのに、よく口承したなあ」
「しかし精霊王が両性具有というのは初耳だ」
言われてみれば厨子の像は男とも女ともつかない。小さな木彫りゆえだと気に留めていなかった。
「まさにオメガっぽいな。ん、逆か、オメガが精霊王っぽいのか。けど、この一冊がすべて正しいとは限らんよ。アルファとオメガの夫夫 は何組もいるが、どのオメガからも芳香は出続けてる」
「確かに……」
そう都合よくはいかないようだ。
萎れていたら、エリセイが「ただし」と大きな手で背中をさすってくる。
「『王の器を選び』ってことは、王と伴侶はアルファとオメガであるべき、と解釈できる。こういう史料こそ欲しかったんだ。百年前の公子たちがオメガをめぐって『王位争いの様相』になった説明がつくし、坊っちゃんたちが正式に交際する根拠にもなるから、この部分は信じよう。俺にとってもありがたいし」
彼の気楽で思わせぶりな笑みに、これまでなら呆れたが、今は励まされた。背中も暖かい。
アルファとオメガが番うのは、善王にあやかる以上に重要らしい。
気持ちを切り替え、後半の記述も解読せんと、エリセイに本を持たせたまま頁の端を持ち上げる。
「オメガが小柄なのにも意味があるのではないか」
「可愛いとか? ……おいおい、一般的な話だ」
「ふん、何が一般的――待て」
もはやお決まりの流れで剣を突きつけながら、エリセイの言い分の足りない点に気づいた。
「『王と伴侶はアルファとオメガ』のみだと、まだ弱い。ニキータ殿下以外にもオメガはいる。百年前の公子たちだって、件のオメガを亡くした後、他のオメガと結婚する形でも王位と繁栄を得られたと言える」
有用な考察のはず。だがエリセイは急に笑顔を引っ込め、じっとこちらを見下ろす。
「恋心がわからんやつだな。……っ」
無言で横腹に拳をお見舞いした。自律できると言ってほしい。
「『オメガには特別な力がある気がする』と言ったのはエリセイだろう」
つんと顎を上げる。前に書庫で彼が語った言葉は耳に残り、支えになってくれた。単なる思いつきで片付けたくない。
そんな願いめいた指摘が効いたのか、エリセイは大げさに痛がってみせつつも、頭を働かせた。
「そのとおり。この争いのもととなったオメガだけの、もしくは王の伴侶だけの力があると踏んでるよ。今ちょうど探してて――これか? 『[ヒールオメガ]は、王に相応しいアルファの運命の番であり、互いを癒すことができる』」
エリセイが本をぐっと引き寄せる。こんなにすぐ見つかるとは思っていなかった表情だ。
背伸びして頁を覗き込む。やはり運命の番に収束するのか。他の夫夫と何が違うのか。何より、
「ヒールオメガ……癒すとはどういう意味だ?」
百年前の公子たちは、特別なオメガを、癒す力を求めていたのか。
運命の番は出会うや互いにそう感じるとすれば、当のオメガにとってどちらの公子も運命ではなかったから断った、とも言える。だが両公子はなおも癒しの力を求めた。
「『アルファのみならず、オメガもまた精霊のように不死身ではない。ゆえに加護を番に』……」
エリセイが読み上げる途中で黙り込んでしまう。じれったくて彼の視線を追う。
頁が途中で破れていた。
経年劣化のようだ。天を仰ぐ。エリセイは屈み込んで唸る。
「まあ、順調過ぎたよ。これの写本がソコロフ城の書庫にないか、探してみてもらえるか。ついでに百年前のソコロフ公子の日記なんかも」
「……了解した。ニキータ殿下がヒールオメガとやらかはともかく、わたしたちの主人が未来の王と伴侶に相応しいのは確かだ。レクス殿下は両家の和解を模索している」
「おっ、頼もしいな。『王と伴侶は運命の番』、この伝承で領主様に貴族に民まで説得しよう。ソコロフでもアナトリエでも」
「何せソコロフとアナトリエだから、とは言わないのだな」
半ば知っていたが、感心を口にした。
イスの民は、終わりの見えない戦いも、それによって失われるものも、「何せソコロフとアナトリエだから」の一言に押し込み、今日を生きている。別の見方をすれば、決めつけて考えるのを放棄している。
でも――固定観念のないエリセイがついているニキータと、自分が忠誠を誓うレクスならば、明日を変えられるという思いが強くなる。
エリセイはというと、自分の慧さに気づかない様子で瞬きをひとつして、
「スフェンはまだアナトリエが嫌いか?」
と尋ねてきた。
飾りも隠し立てもないまっすぐさに、さすがに怯みかける。
「アナトリエが嫌いでもいい、俺のことは嫌いにならないでくれ」
かと思うと、続く懇願は何とも愚かだった。
「……そこは逆に言うところだと思うが」
あまりの私情の挟みっぷりに、つい正論を説いてしまう。おかげで「嫌いではない」と返す機を逸した。
エリセイ個人は嫌いではないと断言できる。
ただアナトリエには、父を殺した者がいる。この百年の間、無念にも死んでいった者たちの恨みがある。
それを少しずつでも融かそうとすることは――、できる。
(この変化は、彼に会い続けたいがため? だとしたらわたしも大概だ)
エリセイはこちらの気を知ってか知らずか、「あれ、逆か?」などと屈託なく笑う。
「……ふん。史料調査はこのくらいにして、密会の具体的な計画を進めよう」
反射的に目を伏せ、出した本を仕舞っていった。
(まだ、抑えなければ)
レクスとニキータが安全に会えるよう、経路の検討をせねばならない。
そう言い聞かせるも、明らかになったオメガの特徴の意味について思考が割かれてしまう。
発情も芳香も子を孕めるのも、精霊王の「加護」だったとは。
加護なのに、オメガ自身の護りにはなっていない。いったい何を守っているのだろう。
守ると言えば――。
ちゃっかり巡回隊の控室で写してきたらしい、王城の地図を広げるエリセイを見上げる。
「君が守るものについては、納得いったか?」
戦う理由を把握しないと、剣を振るえないし、守れないと言っていた。史料調査は彼の信念のためでもあった。
エリセイはちらりとこちらを見遣り、また地図に……いや、地図を透かして彼の特別な存在に視線を戻す。
「坊っちゃんに密会の話をしたら、とにかくレクス殿下の安全を守ってほしいと言われたよ。自分の身の安全よりも、自分の命よりもと」
なんと健気な。ニキータの繊細な薄灰色の瞳に頼み込まれたら、のらりくらりとしたエリセイも断りきれまい。
「坊っちゃんの体質は、家臣さえ一部しか知らない。次期当主に相応しくないと思われないように、万一でも襲われないように」
踏み込んだ話ははじめてだ。ニキータを想って自然と唇から零れた印象だ。
「そのぶん、俺がすべてを懸けて守ってきた。ずっと『守られる存在』だった坊っちゃんから、自分の命よりなんて言葉が出てくるとは……恋って何なんだろうな」
地図をくしゃりと握り潰しそうになっている。ずいぶん悩ましいようだ。
「人に恋心のわからんやつなどと言っておいて、エリセイもわからないのか?」
やや棘のある声で返した。
「スフェンが腕の中にいるとしっくりくる」と言ったのと同じ口で、いかにニキータが大切か語られ、複雑な気持ちが湧いたのだ。
主人への忠誠だと頭では理解できても、割り切れない。
それに、エリセイはアルファだ。適齢の二十五歳ともなれば、貴族のオメガとの縁談が舞い込んでもおかしくない……。
「主人の護衛ひと筋できた禁欲的な近衛騎士と言ってくれ」
エリセイは胸を反らして主張するが、ニキータへの叶わぬ恋心があったために余所見しなかったのでは、と邪推が浮かんでしまう。今まで単に親心だと思っていたのに。
恋が何か、自分にもはっきりとはわからない。だが、物事が違った見え方をするようになるのは確かだ。
「つまり君もわかっていないのだな」
「おまえさんこそ」
言い合っていても埒があかない。地図を見ながら密会の経路を決めた。
経路の実際の状況も手分けして確認すべく、書庫を出る。もちろん別々に。
音を立てずに扉を閉めた。彫刻の精霊王が、来たときに見たのより深く木に寄り掛かっているように感じる。こちらを励ますかのごとく手も挙げて……、錯覚だろう。
経路の確認を終え、ひとりきりの帰路で、おもむろにヴィトに話し掛ける。
「……わたしはいつエリセイに恋をしたのだろう。小屋で抱き締められたとき? やはり彼の背中の頼もしさと潔さに敬意を抱いたときか。レクス殿下への敬愛も振り返ると初恋めいていたが、わたしにとって敬意と恋愛感情は似ているのかもしれない」
人語を理解しないヴィトからの返答はない。ないゆえこんな話ができる。
「ならば、主人に認められたいという思いが、エリセイに褒められることで満たされるのも不思議ではないな。ただ、未知で戸惑うところも多い。エリセイの思わせぶりな言動が、わたしと同じとも限らない……何しろ、国を二分するに至るほどの激しい感情だ。慎重に向き合わねば」
ヴィトは規則的に足を運ぶ。その手綱を掴み直し、恋に惑う二十歳の青年から、任務に打ち込む近衛騎士の顔に戻った。
密会は早いほうが他の者に勘づかれまいと、三月半ばに設定した。完全な新月ではないが、両派とも巡回隊の交替がない日の夜中。場所は、ここまで差し障りなく手紙を交換できており、かつ精霊王の加護がありそうな書庫とした。
決行の二日前、予行のため王城へ出向く。
まず、裏庭から使用人用階段を用いて地下へ下りていく、のだが。
「……はあ、腰が痛い」
ただでさえ狭く暗いのに、前を行くエリセイが立ち止まるせいで、彼の濃灰の外套に鼻を埋める破目になった。
外套は冷たく湿っている。こちらの白い外套も同じ状態である。
ついさっきまで、跳ね上げ式の地上出入口の雪を退けていたのだ。すぐ風雪が襲い掛かるが、再び埋まらないよう雪を内側から固め、人ひとりが通れるくらいの雪室をつくっておいた。二日なら持つ。もちろんぱっと見はただの雪溜まりだ。
この階段を使おうという意見は一致したものの、雪室づくりは騎士ふたりでも重労働で、エリセイはしきりに腰をさすっている。途中、「やっぱり父君の小屋にしないか?」なんて弱音も吐いていた。「あんな粗末な小屋に殿下を呼べるか」と計画変更は却下した。
「俺は『あんな小屋』に呼んだよなあ」
まだぶつぶつ言っている。主人たちが無事に階段を下りきれそうか、もし下から巡回隊員が上がってきたらどう対処するか、確かめるべきことがあるのだが。
「これしきで死にはしない」
後ろから腰を撫でてやると、エリセイは「おっ、痛くないぞ?」と俄然元気になった。馴鹿のヴィトより御しやすい。
「城壁前後の経路と、城門は問題なかった。当日巡回隊が地下を見回る刻も調整した。書庫内に誰かが潜めるような隙間はない。あとは、この階段の地下出入口から書庫までの廊下だ。燭火を消してもまっすぐ歩けるようにしておこう」
続けて確認点を共有した。自分の代わりにではないが、主人の恋を成就させよう、さすればソコロフとアナトリエの――イスの未来も変わると、通常任務中も段取りを考えてきた。
敬愛するレクスが戴冠する未来を、自分も望んでいる。
エリセイが小さく息を吐く。返事ではない。
「なぜ笑う?」
「いや、スフェンは顏かたちだけじゃなく頑張るところも可愛いと思って。主人は命より大切だよな」
懸命に取り組んで何がおかしいのだ。剣を突きつけてやろうとして、
「っ!」
「……おまえさん、わざと俺に抱き締める機会をくれてるわけじゃないよな?」
足を踏み外した。
騎士として不覚過ぎるが、身体を張って危ない箇所を見つけたということにする。階段は長期にわたって未使用で、ところどころ凍りついていた。
エリセイがさっと上体を捻って受け止めてくれたので、怪我はない。
「当たり前だ」
と言いつつ、エリセイを見下ろす新鮮な体勢に甘んじる。
エリセイも、緑眼を惜しげもなく注いでくる。
恋愛をしたことのない自分は、こんな甘い視線を向けられた経験がない。このままだとどんどん拍動が大きくなり、触れ合わせている胸越しにエリセイにも伝わってしまう。
とにかく何かしゃべって落ち着きたい。
「わたしたちは、戦場で出会っていたかもしれない。もしそうだったらどうする?」
絶対ないとは言いきれない、むしろ大いにあり得た選択肢が口を衝く。
「近衛騎士の職務を全うするだろうな」
エリセイは微笑み方も声もまったく変えずに答えた。
それでこそ信頼したし、惹かれた。
「逆に、同じ村で出会ってたら?」
今度はエリセイが訊いてきた。一瞬ささやかな生活を夢想するが、
「村には君のようなアルファはいない」
と笑い飛ばす。エリセイも「それはそうだ」と笑い、雀斑をひと撫でしてから抱擁を解く。
任務中、それも大事な密令のさなかに安らいでしまった。罪悪感と、同じだけの口惜しさに苛まれる。
これが紛れもなく恋だとして。自分たちは、レクスとニキータのような「運命」ではない。運命なら出会ったときにわかるはずだ。
ソコロフとアナトリエでありながら戦場ではない場所で、男同士だが子を生せるオメガとアルファとして、奇跡のように出会えたのに。
もっとも、自分には使命が、主人が命より大切だから、それでよかったとも言える。
エリセイも、ニキータにはもっと慈愛に満ちた視線を向けるに違いない。たとえレクスと寄り添う背中に向けてであっても。
それに彼も運命ではないと感じているゆえ、思わせぶりでいて、肝心なところは使命より私情を優先する様子はないのだろう。
(よぼよぼになるまで、互いの主人を通して会えるだけで充分ではないか……)
気を取り直し、点検しながら階段を下りた。
書庫への廊下を辿る。
「この角を曲がるとき、どうしても廊下の向こうから丸見えになるんだよな」
「迂回するか? 地図のここをこう」
「それはそれでだいぶ遠回りだし……、俺たちが即席の壁になろう」
各自の確認結果をすり合わせ、彫刻扉前に到着する。
エリセイはせっかくだからと、扉内の本を一冊、騎士服の下に隠した。持ち帰って解読を進めるという。そのせいで胸板がより厚く、鎧のようになっている。
こちらのほうは自覚したばかりの恋心と、それに付随する複雑な感情とで、胸も頭もいっぱいだ。密令も山場を迎えており、これ以上何かを持ち帰る余裕はなかった。
ソコロフ城の書庫は、二階中央――レクスの私室の奥にある。
今日も城壁警備の任務後、レクスに許可を得て私室を突っ切らせてもらった。
踏み入るなり、荘厳な雰囲気に圧される。夜の冷気が頬を刺した。王城書庫ほどでないが広く、四方の壁を書棚が埋め、中央は吹き抜けになっている。真下にあるソコロフ公の執務室にもつながっている。
気軽に立ち入れない配置、そして戦時なのもあって、人ひとりいない。
ちなみに扉は特に重過ぎも厚過ぎもしない。厨子が嵌まりそうな穴もなかった。
(さて、今日はどの棚を調べよう)
王と伴侶たるアルファとオメガについて書かれた書の写しが、王を多く輩出したソコロフ家にあってもおかしくない。歴代のソコロフ公の手記があればなおよい、と探索しているが、空振り続きだ。
窓がないので角灯を手に、棚を端からざっと見ていく。何となく緑色の表紙に目が行った。いや私情を挟むな、と騎士服の胸の紋章に手を当てる。
二階を半周したところで、ふと足を止めた。
目線より頭ひとつぶん上の段に緑色の本があったからではない。その背表紙に施された金箔が、王城で手にした伝承書と同じだったのだ。
引き抜いて埃を払い、頁をめくってみる。この本にも「慈悲深き王の子どもたち、互いに癒し合い、豊かな大地を愛し栄えよ」の一節があった。
エリセイを喜ばせてやれそうだ、と意気込んで読み始める。
「『ある実り多き秋、精霊王は人間の男と運命の恋に落ちた』……イスが精霊と共に在った頃の伝承か」
精霊たちは人間を見放して去ったわけではない。棲み分けたに過ぎず、今も加護は続いているとされるが、ここ百年のイスはこの有り様である。溜め息を噛み殺して続きを読む。
「『番となった男が戦いに出る度、精霊王は……癒した。そのおかげで男は膝を折ることなく、王冠を戴き、善き王となった』。ううむ、『癒し』とは盾という意味だろうか?」
一文ごとに反芻する。読み書きも剣と同じくらいしっかり習っておけばよかった。まさか古語が密令に必要になるとは。
「この男は『善き王』と記されるだけあり、イスを豊かにしたようだな。『善き王はその後、子どもたち――[アルファ]に王冠を譲り、精霊王とともに末永く精霊界で暮らした』」
首を傾げ、前書きの一節と並んでよく知られた伝承を思い起こす。
いわく、「善き王は末永く精霊界で暮らした」。どうやら真ん中の詳細が抜け落ちた状態で広まったらしい。
アルファは古き王の子孫であるなら、現在の貴族ばかりなのも頷ける。
(精霊王は善き王を伴って精霊界に移る際、人間に加護を授けたのかもしれない)
その中でも、王位に即くアルファの運命の番であるオメガ――ヒールオメガは、善き王と番った精霊王とほぼ等しい力を持つはずだ。
自分の推理のとおり、盾のような力だとしたら。
百年前の公子たちが一人のオメガにこだわった理由にも通じる。何せ戦いで決して屈しない力が手に入るのだ。
(「オメガには弓も槍も当たらない」というのも、その力の一部と思えば齟齬はない)
ひとつひとつ情報を照らし合わせ、確信を強めていく。
すなわち、運命の番と思われるニキータと結ばれれば、レクスが志半ばで倒れることはない。
昂揚で手が震えた。エリセイだけでなくレクスにも報告したいと気がはやる。レクスの私室に取って返す。
「お目当ての史料は見つかったかな、スフェン」
ちょうどレクスも、戦いが本格化する春に向けた戦術検討会を終え、私室へ戻ってきたところだった。ソコロフ公の執務室での検討会にはルドルフも来ていたようだ。前回の指摘で心を入れ替えたか。それはさておき。
「はい。殿下と先方が結ばれるべき根拠がございました」
声高に、オメガの特別な力についての推説を披露する。
レクスは徐々に口もとがほころんでいった。王城で集めた「王と伴侶は運命の番」などの情報は、既に伝えてある。
「きっと彼は私の運命の番で、イスの未来をも握る存在だろう。ソコロフ家公子に生まれたからにはアナトリエ家との戦いは宿命だと思ってきたが、彼と手紙を交わすうちに考えが変わった。私の剣と彼の盾は、互いに向け合うものではない」
レクスの高潔な金の瞳が、イスの未来を映している。その眼差しに善き王の面影を見て取り、彼に仕える誇らしさを改めて感じた。
これまでの尽力に報いるように、レクスが微笑みかけてくる。
「貴公には、緩衝地帯とはいえ戦闘と隣り合わせの中、相手方の使者と何度も会ってもらった。恩に着る。今こそ自分で確かめねば。再び会えば、彼も私を運命の番と思ってくれるに違いない」
「明日、先方のもとへ確実にお連れします。お任せください」
運命の番は互いに互いがわかる。
レクスとニキータの密会は明日の夜遅くだ。段取りを最終確認して、私室を後にした。
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