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4 ソコロフとアナトリエ

 人も動物も寝静まった夜半、レクスとともにヴィトの背に乗り、ソコロフ城を発つ。  道中は背中にレクスの胸が触れ合う体勢になったが、過剰に緊張することも意識することもなく、護送に集中できた。  レクスの金色の瞳は、細い月の代わりに輝くかのようだ。時折後ろを振り返っているが、少なくとも自分にはヴィトの足音しか聞こえない。 「何か気になりますか?」 「……いいや、癖のようなものだ」  公子の身の安全は絶対だ。人目のない刻と道を選び、騎士と同じ白い外套で正体を隠しているが、レクス自身も警戒してくれるのはありがたい。  普段なら王城に近づくにつれ風雪が強くなる。だが、今夜は違った。 (これは――)  無人の城下町に差し掛かっても穏やかで、空中で氷の結晶が淡い月光を反射して煌めく「精霊の囁き(ダイヤモンドダスト)」に取り囲まれるほどだった。 (未来の王を歓迎しているのか?)  こんなにも美しい城下町を、巡回隊の誰も見たことがないはずだ。貴いアルファたるレクスの護送を、不利を多く抱える自分が任されているという光栄が、どこか信じられない。  アナトリエ側でも、「精霊の囁き」がエリセイたちを迎えているだろうか。あの緑眼にも美しい光景が映っているといい、なんて思う。 (いけない。気を引き締めなければ)  丘を上りきる頃には一転、城内の巡回隊の目をくらませられるくらいの風雪が起きてくれた。ヴィトにもうひと頑張りしてもらい、裏庭の使用人用階段を目指す。  一昨日整備した雪室はしっかり機能していた。周りは新雪が降り積もり、エリセイの灰毛の馴鹿が到着済みかどうか、足跡からは判断できない。もちろん容易に見つかるところにつないでもいない。  ヴィトも城壁沿いの白樺林に向かわせた。 「ここから地下へ下ります」  レクスと縦一列になり、狭く暗い階段を先導する。  地下出入口に続く廊下は、燭火を消しておいたままになっていた。巡回隊の誰も変化に気づいていないということだ。  実際、滞りなく書庫まで辿り着いた。 「『勝利を収められるなら』」  合言葉を唱える。扉の彫刻を見ると、精霊王は顔の前で腕を交差させている。 (こんな姿勢だったか……?)  少し引っ掛かったものの、「『王位は要らない』」と返ってきたので、庫内に注意を移した。  重く厚い扉が内側から開く。エリセイとニキータが先に着いていた。 「こちらは我が主人、」  エリセイが手持ち角灯を翳して口上を述べきる前に、彼の陰から小さな塊――黒い起毛革の短外衣(ケープ)を羽織ったニキータが飛び出してきた。レクスも横をすり抜ける。  ソコロフとアナトリエに生まれたふたりは、言葉を必要とせず、ひしと抱き合った。  紛れもなく、立場を越えた、運命の番だ。  レクスが愛おしげにニキータの黒髪を梳く。ニキータもレクスの胸に強く顏をうずめる。 「……俺たち、お邪魔か?」  エリセイが腰に手を当て、面白くなさそうに耳打ちしてきた。  自分は当初より複雑ではない。ニキータがどれだけ安心しているか想像がつく。  ただ、達成感ばかりでもない。むしろエリセイの反応に思うところがある。 (ニキータ殿下がレクス殿下と睦まじくするのを見たくはないのだな……)  かと言って、警護を放棄して廊下に出てしまうわけにもいかない。  扉の外に異変がないか気を配りつつ、主人たちが満足するのを待つ。 「済まない。いったん離れておこう」  長くは掛からず、レクスが腕の力をゆるめた。ニキータもこくんと頷いて一歩引いたものの――上気しており、呼吸が浅い。発作だろうか。  レクスが心配げに背を支えてやろうとして、誘発を懸念してか躊躇う。  エリセイが踏み出すも、ニキータは手で制し、習慣のように顰め面をつくった。 「こちらこそすみません。普段はアルファに囲まれても何ら問題ないですが、貴殿の前ではなぜか発作周期が狂うようです」  やはり発情発作だった。そのせいか、彼の掠れ声には色気がある。それに顰め面でも帽子を取り前髪が分けてあると、艶やかな成長が約束されている容貌だ。つい見入った。  ニキータもニキータで、こちらに興味深げな一瞥を投げてくる。 「十二月の合議は、発作を終えた直後だったから裁定人として出席したんだ。ちなみにこの密会も同じく」  そこにエリセイが割り込んだ。  いくらこの場の最年長でも、公子に対してその言葉遣いはどうかと思うが、主人に誘発発情せず律しているのは近衛騎士としてさすがである。 「どうして周期が狂ったのか解明したくて、ここの史料や文献を調べた。それでまた新たにわかったことがある」  弾かれたようにエリセイを見上げた。一昨日持ち帰った書による収穫か。  ニキータもレクスも、視線で発言の続きを促す。密会は果たされた。次は運命のふたりの交際を周囲に認めさせる上で、材料になるものは多いほうがいい。  エリセイはもったいぶった表情で、指を三本立てた。 「オメガが[運命の番]を見分ける条件が、三つある。まず、相手のアルファを守りたいと強く思うか。次に、相手のアルファに近づいたとき、周期に関係なく発情発作が起きるか」  四人は顔を見合わせた。まさしくレクスに対するニキータではないか。密会に当たってレクスの安全を願い、抱き締め合うや発作が起きた。 (……ひとつ目はわたしにも当て嵌まる?)  密かに自身を振り返って当惑もする。エリセイが無防備な背中を見せてくれたとき、「守りたい」と感じた。不思議なほど強く。  エリセイも「王の器」たるアルファだ。レクスを差し置いて戴冠するのは現実的でないが、自分にとって運命の相手ではあるのか……? 「運命の番は、オメガ側にしか見分けられないのか? エリセイ」  頭を捻る間に、ニキータが冷静に質問した。  以前目を通した史料には、オメガは「王の器たるアルファを選び」とあった。百年前の二大家の公子の一件も、アルファ側には運命の番を見分けられないゆえの悲劇かもしれない。 「というのも、合議の際も今も、発作めいた状態にはなりました。しかし解熱用の煎じ液を飲むなり気をしっかり持つなりすれば、ほどなく収められたのです。ゆえに、貴殿と僕が運命の番である自信を持てません……」  レクスに向き直ったニキータは、そう釈明するや俯いてしまう。レクスが思わずといったふうに彼の華奢な肩を抱き寄せたが、確かに発作中のオメガにしては落ち着いている。彼の顰め面が自分の雀斑叩きと同じ、自律のおまじないだとしてもだ。  レクスにもう一度会いたいというのは、運命だと確信したかったのもあるようだ。  だが会ってみても自信がないという。  ただ、自分とエリセイに比べれば明らかに違う。運命の番でないなら、何度会っても周期外の発作は出ない。 (出ていない……よな)  そう進言したいところだが、自分たちは主人たちと異なり結ばれる運命ではないのだと突きつけられ、喉が詰まった。  そんな都合のよいことはないし、恋より使命が、命より主人が大切なのに。 「仮に運命でなくとも、ニキータ殿がオメガに生まれてくれただけで嬉しい。私が必ず両家とも説得しよう」  代わりにレクスが力強く励ました。ニキータがほんのり微笑む。もし体質を持たない男同士だったら結婚できないし、跡継ぎも残せない。オメガならどちらも叶う。  エリセイはその様子を唇を噛みながら見ていたが、はっとしたように、 「待て待て。条件があとひとつ残ってる。相手のアルファを癒すことができるか、だ」  と続けた。 「盾になれるか試せというのか?」  これには非難を表明する。騎士ならまだしも公子を戦いの前線には出せない。ニキータのような体格のオメガならなおさらだ。何よりずっと守ってきた主人を危険に晒すなど、エリセイらしくもない。 「盾?」  エリセイはきょとんと訊き返してきた。そう言えば「癒し」が「盾」のような力であるという推説をまだ共有していない。  話を続けようと息を吸い込んだそのとき、 「いたぞ、アナトリエの雌が」  耳障りな声が降ってきた。  瞬時に剣を構え、エリセイと背中合わせで声の出どころを探る。すぐそばの彫刻扉ではない。歯欠けの書棚でもない。 (上、か?)  なんと、天井の一角が、人ひとり通れるぶんだけくり抜かれていた。その穴から階段梯子の最上段に降り立つ人影がある。  馴鹿毛皮の外衣(マント)に赤い上衣を合わせた――ルドルフだ。  エリセイはその馴鹿毛皮を、「おまえさんにはもったいない」とばかりにじろじろ見る。  だが呑気にはしていられない。彼の後ろからソコロフ派巡回隊員が次々降りてきて、あっと言う間に包囲された。半数が深赤の外套を纏ったプナイネン家の近衛騎士だ。 (巡回任務中のプナイネン家騎士に、書庫に出入りする姿を垣間見られでもしたか? それで真上の床に細工を……)  先ほどまでは石材がぴったり嵌め込まれており、薄暗い中では視認できなかった。  密会を、暴かれてしまった。 (この男を色に耽っているだけと決めつけず、もっと警戒すべきだった。今さら遅いが)  もし尾行されていても入城直前の風雪で撒けただろうと判断した。廊下が無人だったのを罠とは思わなかった。  最近も、この場でも、エリセイに意識が向いていたぶん隙ができたと言えなくもない。  自分の至らなさに歯噛みしつつ、主人を守る形で前に出る。  レクスはニキータと分断されたものの、彼をルドルフの好色な視線から守るべく位置取り、片手は剣の柄にかけている。  対するルドルフは、口角を片側のみ上げて笑み、レクスに歩み寄った。 「レクス、うまくおびき出したな」  ――おびき出した? 何を言い出すのだ。 「アナトリエ家公子を討てば、百年空いていた王位に就けよう」  彼の腹づもりに、息が止まり掛けた。  レクスの本意と真逆ではないか。今までのようにきっちり反論してやりたい。  ただ、巡回隊員の耳目が気にかかる。ソコロフ家公子とアナトリエ家公子の恋を周囲に認めてもらうには、段階が必要だ。現状、ニキータを庇えば敵方に誑かされたと思われる。 (ニキータ殿下を討つだけでなく、派閥の面々のレクス殿下への期待を損なわせもして、自分が王位に就く気だな?)  レクスはソコロフ家の、イスの未来を変える存在だ。ここで失脚させるわけにいかない。 「まだそのときではない」  当のレクスが口を開く。想いを明かすか、慎重になっている。  それを利用された。 「ああ。討つ前に愉しまないとな? 雌の味を」  ルドルフがすっと目を細める。  それが今夜、自ら王城に出向いた理由か。  さっきからニキータを雌呼ばわりされている。彼の体質をいちばん知られたくない者に知られてしまった。  レクスが顔色を変えてルドルフに掴みかかろうとするも、慌てて足を引かざるを得ない。 「……そういうことか」  ここまで静観していたエリセイが、一言つぶやくや、剣を一閃させたのだ。  ルドルフの両脇の巡回隊員が応戦したが、二人まとめて吹っ飛ばされた。破格の威力だ。 「目つきの悪いアナトリエの騎士(いぬ)が噛みついてきた。オメガ、いずれ王になるおれの盾になれ」  ルドルフがやや声を上擦らせ、こちらに手を伸ばしてくる。  「盾になれ」ときた。レクスの周りを嗅ぎ回っていたらしい。だが盗み聞きが断片的だったか、いろいろ誤解があるようだ。 (たとえヒールオメガだとしても、君のような男を守りたいとは思わない。それにわたしはレクス殿下の近衛騎士だ)  エリセイも不機嫌そうにルドルフの手をはたき落とす。 「アナトリエ家公子の従兄が犬なら、おまえさんは何だ?」  ルドルフが表情を歪める。家格はエリセイのほうが上である。  エリセイはこの状況がルドルフに仕組まれたものだと酌んでくれている、と頼もしく思ったのも束の間。  今度はレクスに斬りかかった。  レクスに代わり、躊躇のない一撃を受け止める。 「っ、なぜ」 「そりゃこっちの台詞だ」  エリセイはひらりと身を翻し、ニキータを組み敷こうとする巡回隊員に剣先を向けた。  巡回隊員たちは、ニキータの芳香によって理性の箍が外れかけている。  エリセイからすれば、主人の命と貞操が脅かされている。自分以外全員、敵だ。「無益な戦闘はやめよ」というレクスの仲裁も無視する。 (エリセイ、違うんだ。君たちを陥れようなんてしていない。信じてくれ)  その広い背中は、失望と静かな怒りで満ちていた。  ……信頼は、わずかな行き違いで簡単に壊れる。何せソコロフとアナトリエなのだから。  ルドルフに言葉巧みに踊らされた気がしないでもないものの、恋にうつつを抜かした自分の責任もある。レクスに「任せてほしい」と視線で伝えた。  書庫の中央で、エリセイと相対する。  「殺す気があったらとっくに殺してる」と言ってのける腕の持ち主だ。行き違いであってもレクスに剣を向けるのなら、こうするほかない。 (わたしの任務は主人を守ることであって、守られることではない)  片手で頬の雀斑を叩いても、気持ちが揺れる。エリセイと戦いたくはない。でもレクスへの忠誠を果たさねばならない。それが自分の使命だ。  密令を任された当初、アナトリエ派騎士と命のやり取りをすることも想定していた。実際、エリセイと出会った日に剣を交えた。そう言えば一時休戦にしたままだ。  エリセイが、こちらにか、はたまた自身に対してか、ひとつ溜め息を吐く。 「公子殿下にお相手願いたいんだがなあ?」  さっさと終わらせようとだろう、先んじて踏み出してきた。  ギャリリッと剣を鳴らして受ける。手が痺れた。以前のエリセイはちっとも本気を出していなかったのがわかる。  そのおかげで発作じみた状態になっても斬られずに済み、手紙の交換を始められた。ちゃっかり抱き込まれもした。  あの夜と今は違う。主人と第三者の目がある。 (やはり君も使命を優先するか。わたしを抱き締めたのと同じ手で、わたしに剣を向ける)  それでこそ近衛騎士だ。その忠誠心の強さゆえ信頼できたし、惹かれたのだ。  エリセイの構えは自然体で、無駄な力が入っていない。壮健な身体を余すことなく活かしており、一撃一撃が重く、遠くから飛んでくる。  美しい剣筋は騎士として見惚れるほどだ。なのに同時に苦いような気持ちも湧いてくる。 (もし恋心なら、わたしの邪魔をしないでくれ)  迷いを振り切らんと、攻勢に出た。素早い打撃を続けて繰り出す。  鍔迫り合いになった瞬間、エリセイの緑眼を覗き込む。エリセイはちらりとニキータを見た。  胸が痛む。後ろに跳び、間合いを取る。……押されている。 「その程度か? おまえもアナトリエに恨みがあるだろう。引き分けたりしたら密通と見做すぞ。命を懸けてみせろ」  ルドルフが口を挟んできた。自分になびかないなら死ねと言いたげな顏だ。  レクスはプナイネン家近衛騎士に牽制され、もどかしそうにしている。  巡回隊員の手前、仕方なく踏み込む。剣を止めてはルドルフに言い訳を与える。 (場を収める最善策は……)  息が上がってきた。思考しながらなせいか、いつもより早い。  エリセイもエリセイで、持ち前の慧さを発揮できていない――いや。 『俺は俺が何を守ってるのか、何のために剣を振るうのか知っておきたいんだよ。そうでないといざというとき剣筋が鈍るし、本当に守るべきものを守れない』  彼の真剣な声が耳によみがえる。  書庫にアナトリエ派はふたりきり。エリセイはニキータを守らねばならない。そのためならルドルフはもちろん、レクスを討つのも辞さない。本気なのだ。  自分たちのどちらかが使命を果たせば、もう一方の使命が果たされない。命より大切な人を守れない。 (わたしは、)  目の前が明滅する。考えもまとまらなくなってきて、ただひとつの願いに収束する。  ――エリセイを守りたい。エリセイを、殺せない。  自分で自分に驚く。命懸けで主人を守ると誓った。だが恋をして、いつしか使命より、自分の命よりエリセイが大切になっていたようだ。  命のやり取りの場面で、ようやく自覚する。 (これが……愛か。オメガのわたしも知ることができた)  使命を果たせないかもしれないのに、なぜか誇らしくも思う。  そろそろ決着をつけねばならない。共倒れはいちばん避けたい。 「くっ、」  エリセイの剣先が首筋を掠めた。 「退がってもいいんだぞ」  ちっとも致命傷を与えられない自分と対照的に、次は急所を外すまい。エリセイの剣を握る手に力がこもる。  それで覚悟は決まった。  ソコロフとアナトリエゆえどちらかが死ぬことでしか収まらないなら、自分の命を使ってエリセイを守る。 (父さん。アナトリエの人間のために命を使うことを、許してくれますか)  父に、自分の本心に確認する。一転して視界も頭も冴えた。  これまでエリセイがくれた言葉、笑顔、体温が、脳裏に浮かんでは消える。  たとえ運命の番でなくとも、エリセイの温かさに恋をし、真の強さを愛した。だから。 (愛している)  次のエリセイの一撃を、避けなかった。剣を構えもしない。以前、武器を置いてこちらに背中を晒したエリセイのように立つ。  ただのオメガでも盾になりたかった。主人を、未来を、愛する人を守る盾に。  エリセイの剣は、外套の毛皮も硬い騎士服も切り裂き、肉と骨に届く。左の肩口から右の脇腹に掛けて、鋭い痛みが走った。 (ああ、武器で抉られると、痛いと言うか、熱いのだな)  弓も槍も当たったことがない。最初で最後の痛みだ。胸の辺りで少し引っ掛かりがあったのは、形見の厨子ごと斬られたゆえか。  その場にがくりと膝を突く。 「スフェ、ン……!」  硬い床に倒れ伏す前に、すべり込んできたエリセイが支えてくれた。見開かれた緑眼は「どうして」という疑問でいっぱいになっている。  どうしても何も、これが自分たちの使命ではないか。 「愛する、主人を、守り抜け」  かろうじてエリセイに聞こえる声で、切れ切れに言い遺す。使命を託すくらいいいだろう。本当は共に在りたかったが、彼を喪うよりましだ。  エリセイがひょうひょうとした普段とは似ても似つかない、すべての感情が入り混じった顔をした気がしたが、もう目を開けていられない。  最後に見たのがエリセイの緑でよかった、なんて思う。  これでルドルフは何も言えまい。ニキータを討つのは諦めて逃げ帰れ。  レクスには「スフェン……」と掠れ声で呼ばれた。いつか戴冠する日まで仕えられないのは残念だが、彼なら必ず実現すると信じている。ニキータもそばにいてくれる。  傷口からどんどん血が流れていく。胸の紋章も真っ赤になっているに違いない。呼吸が弱くなる。痛みが麻痺するとともに、今度は寒くなった。すごく寒い。毛皮でも暖炉でも癒えない寒さだ。  かと思うと、何か暖かいものに包まれた。 「公子方の目汚しにならないよう、遺体を埋める」  エリセイに抱え上げられたらしい。厳粛な声で「遺体」と呼ばれ、じきに死ぬのだなと他人事みたいに思う。アナトリエの中でもエリセイの剣を受けて死ぬなら悪くない。  務めを途中で放り出す形になったが、エリセイを守れたことに自分が生まれてきた意味を感じて、不思議と安らかだった。  かすかに目を開けると、真っ白な氷霧に取り巻かれていた。 (精霊界も冬なのだろうか)  死後の世界はしんとして、寒くはないものの、もう少し賑やかで緑豊かでもいいのに、なんて思う。  ふかふかしたものに寝転がっていて、手脚を動かせない。 (エリセイがわたしを埋めると言っていたっけ。そのせいかな……) 「スフェン! スフェン、俺だ、わかるか?」  緑を求めたためか、はたまたエリセイのことを考えたためか、エリセイのみずみずしい緑が唯一の色として目に飛び込んでくる。 (ふふ、合言葉を決める前のような台詞だ)  懐かしさに笑みを浮かべる。死んで最初に好きな人の幻を見せてくれるとは、精霊王はなかなか粋だ。  ただエリセイの声色は生前みたいにのんびりしておらず、必死で、悲愴ですらある。  せっかく守れたのだからそんな顔をするなと、重い腕をぎしぎし持ち上げ、頬の傷痕を撫でてやった。 「低温で運んだからうまくいったか? 待て、目を瞑るな」  すかさず大きな手を重ねられ、暖かさを感じた。心地よくて瞼が落ちる。 「スフェン――スフェン。どうしてこんなことになった。坊っちゃんたちをくっつける任務が完了したら、大っぴらにおまえさんに愛してると言おうと思ってたのに……のんびりしてた俺のせいだ」  エリセイの頬に当てたままの手に、水滴が伝った。  まさか泣いているのか? 死後の世界でもエリセイに調子を狂わされ、困惑する。  自分はエリセイにとって特別ではないはず。  だから「愛してると言おうと思ってた」というのは、願望の投影だろう。なんて、もうない胸の中心をぎゅっと握り潰されたみたいに感じていたら。 「本当に最期なら、誓いたい。俺の人生唯一の愛は、永遠にスフェンのものだ」  唇に熱くやわらかいものが押し当てられた。エリセイの唇だ。  まるで加護を、命を込めるかのような口づけ。  熱が唇から全身へゆるやかに拡がり、つま先がぴくりと動く。感覚も復活し、身体の下に敷いてあるのが毛皮だとわかった。 「……出血が、止まった? これは、そうか! ちょっと失礼する」  エリセイは何やら口早に言うと、それまでの触り方と一転、こちらの騎士服をごそごそ剥ぎ出す。  そう、死後の世界でも騎士服を着ている。 「スフェン、」  抵抗できないのにかこつけ、左の肩口から右の脇腹に掛けて、エリセイの熱い唇が辿った。時折舌も這わされる。 (何、を)  エリセイは常に騎士的対応をしてくれた。ちゃっかり抱き締めたりはしても、こちらの意思を無視することはなかったのに。  いや、願望の投影ならば、彼にこんなふうに触ってほしかったということか。 「……ん、……は、ぁ……っ」  死後はじめて声が出た。ただし甘ったるくて、自分のものとは思えない。 「よしよし。後で好きなだけ剣を突きつけていいから、こっちも可愛がらせてくれ」  エリセイは喜ぶ様子で、深く息を吸う。傷以外のところも触り始める。 「ぁ、」  胸の小さな突起にかぷりと吸いつかれ、また声が出た。執拗に舌で転がされるうち、くすぐったいような、経験したことのない痺れを感じる。それでもやめてほしくはなくて、エリセイの唇に胸を押しつけるみたいに身じろぐ。 「可愛い。ほんとに」  エリセイはこちらの身体をしっかりと支え、下腹部にまで指を忍ばせた。  やがて、暖炉の木が爆ぜる音に紛れて、粘ついた水音が聞こえてくる。  身体が熱い。頭がぼんやりして、瞼の裏でちかちかと「精霊の囁き」が起こる。 (発作と、似ている。死後まで発作があるとは。ずっと律してきたが、幻のエリセイになら、身を任せてもいい、よな……)  自分に言い訳して、生きている間は知らなかった快感に浸る。エリセイの手つきはやや早急だが丁寧で、情愛に満ちていた。  大きな手に愛撫されながら、先ほどの「愛してる」の響きも思い返して、噛み締める。 「……エリセイ。わたしも、愛していた。君を守れて誇りに思う」  どうせ死んでいるし、本物のエリセイは当分精霊界にはやってこないからと、秘めていた恋心を打ち明けた。エリセイに触れられる度にふくらんで、抑えられない。 「君がアルファだからでは、ない。わたしの騎士としての、オメガとしての努力を褒めてくれて、嬉しかった。君は自分が思うより慧く、いざとなったらやる男だ。容貌も悪くない。それと、その大きくて暖かい手が、とても好きだった……」  言葉にしてみるとべた惚れだ。実際に伝えたら、エリセイはどんな反応をしただろう。その機会はもうないが。 「スフェン」  幻のエリセイはいつの間にか騎士服の前をはだけていて、胸板をじかに傷に触れ合わせてきた。やはり安心する。熱い肌の感触が気持ちよくて、にじり寄る。 「まったく、おまえさんは」  唇で髪を掻き分けられた。耳に息が吹きかかる。 「俺のほうが愛してる。スフェンを可愛いと思ったのは、オメガだからじゃない。一本気に頑張るところが健気で可愛いし、尊敬もしたんだ。何よりスフェンだけが俺の忠誠心を掬い上げて称えてくれた。それに、俺の手にこんなに可愛く応えてくれる。上目遣いで見られる度、早くこうしたい、よぼよぼになるまで我慢はできんって思ってた」  エリセイも、どこが好ましいと思っているか教えてくれた。いい勝負ではないか。 「ソコロフとアナトリエなのにな」  小さく笑う。ソコロフとアナトリエでなければ斬り合わずに済んだ。でも、ソコロフとアナトリエでなければこの形で出会えなかった。  身体に回されたエリセイの腕に力がこもる。 「二大家の戦いは、無益だ。それでも俺はアナトリエ家近衛騎士に叙されたとき、坊っちゃんを、うちの連中を守ると誓ったが。一人の男として守りたいのは、本当に守るべきものは、スフェン、おまえさんだ。覚悟が足りなかった罰は俺が受けるものなのに、こんな傷をつけちまって……。スフェンを精霊界から連れて帰れるなら、地位も名誉も何もいらない。生涯俺が守るから、どうか癒えてくれ」  まるで運命みたいに言い募られ、ずいぶん都合のいい死後の夢だと思った。  びくん、と身体が跳ねる。欲の解放と、エリセイの体温の心地よさとで意識がとろけた。  今度は、何かが焦げる臭いに目を開けた。薄明るい。  氷霧は晴れ、木造の小屋の中にいる。  狭さも物の配置も、父の小屋によく似ていた。横たわる寝台の向かいに暖炉があって――。 (エリセイ?)  濃灰の外套を纏った大男が、火の前にしゃがみ込んでいる。思わず上体を起こすと寝台が軋んだ。 「おお、起きたか。早速肉を食べて体力回復だ」  振り向いた男は、やはりエリセイだ。呑気に笑いながら、木串に刺した兎の丸焼きを差し出してくる。 「……焦げている」 「いろいろ思い出してたらつい、な。食えなくはないだろ。俺の燻製肉を好まないスフェンのために獲ってきたんだぞ」  香ばしいを通り越していることを指摘すれば、エリセイは口を尖らせた。だが仕草と裏腹に、緑眼には安堵と慈愛と満足感のようなものが浮かぶ。 (夢の続きか)  二回続けて死後の世界に現れてくれるのは嬉しいが……眉を顰めざるを得ない。 「よもや君まで死んだのではあるまいな」  不審を口にすると、エリセイは真顔になった。いつかみたいに五拍見つめ合ったのち、 「違う違う、スフェンが生きてるんだよ」  と返ってくる。吹き出し笑いを添えて。  生きている――?  自分の身体を見下ろせば、白い騎士服でなく兎の毛皮をつなぎ合わせたものを着ている。その中に手を突っ込む。  上半身に斜めに走る傷痕に、指先が触れた。肌が少し引き攣れてはいるが、塞がっている。  次にエリセイの手ごと串肉を引き寄せ、齧りつく。エリセイの手は熱い。焦げた肉は苦い。緑眼を見上げると、心臓が早鐘を打つ。  心臓が、動いている。  エリセイを守って死んだはずが、生きているらしい。 「なぜ……?」  呆然と訊く。エリセイは対照的に得心顔で寝台に腰掛けた。本調子でないこちらを肩に寄り掛からせてくれた上で、厨子を取り出す。 「まず、このお守りのおかげで即死を免れた」  懐に入れていたほうのものだ。精霊王像がほぼ真っ二つになっている。 「そして、ヒールオメガは『互いを癒すことができる』だろ?」 「? 癒しとは、盾になるという意味ではないのか」  だろ? と言われても疑問は晴れない。具体的な説明を求めると、エリセイは渋い顔になった。 「スフェンはたぶん史料を読み違えてるな。俺が話そうとしたところに、プナイネンの若造の横槍が入ったんだった」  素行はともかく家督を継いだプナイネン公であるルドルフを「若造」呼ばわりとは、勇ましい。もちろん窘めない。 「じゃあ、癒せるかもとも知らずに命を張ったのか。改めておまえさんの忠誠心はすごいな」 「……それより、早く仕組みを教えてもらえるか」  ぎゅむっと抱き締められるも、ここが精霊界でないなら居たたまれない。照れ隠しも兼ねて本題に戻るよう促す。 「ああ。癒しってのは、治癒能力だ。命を救える。たとえ死ぬほどの怪我であっても」 (治癒能力だと?)  息を呑んだ。「君がわたしを?」と重ねて問えば、エリセイが首肯する。 「昔々、人間の男と恋に落ちた精霊王がいてだな」 「それはわたしもソコロフ城の書庫で読んだ。善き王だろう」 「おっ、話が早くて助かる。精霊王は、愛する男が戦いで傷つく度、不死身の力を分けて治癒してやったんだ」  確かに読み違いのようだ。読解力はエリセイのほうが上なので異論はない。 「男は精霊王直々の加護によって生き抜き、ついに戦いを収め、善き王になった。ただ、善き王の子どもたち――次代の王も人間だ。不死身じゃない。だから精霊王は、その伴侶に癒しの加護を授けたってわけだ。それがヒールオメガ」 「わたしはヒールオメガなのか……?」  エリセイはゆっくり話してくれるが、それでも理解が追いつかない。  そもそも前提に実感がない。オメガの中でも特別な力を持ち、アルファの中でも王に相応しい男の番であるヒールオメガ。ニキータがそうではないかと考えていたが、まさか自分も? 当代に一人いればよさそうなものだが。 「癒せたからにはそうだな」 「いや、オメガがアルファを癒す力だろう。逆ではないか」 「番のアルファに触れてもらえば、自分自身も癒せる。ほら、伝承書に『オメガもまた精霊のように不死身ではない』ってあったろ。番が末永く添い遂げられるようにって計らいだと考えてる」 「ふむ……『ゆえに加護を互いの番に』の先に書かれていたのは、『与え合える』だったのか」  王城書庫でエリセイと一緒に読み進めた本の、破れていた頁を思い起こす。身を以って解読することになるとは思わなかった。  精霊たちに死という概念はない。精霊界に常に在る。その力を加護として授けられた――。 (わたしにそんな力があったとは。弓や槍が当たらないのも、ヒールオメガの特徴だったのか?)  まだ半信半疑な一方、エリセイは鉱物を掘り当てたみたいな顔で続ける。 「アナトリエ城の書庫に入り浸って、歴代のアナトリエ公の日記を探してみた。そしたら、身内の公位継承権争いとか、王位をめぐる他家との対立で自分や伴侶が大怪我を負ったのに、何なら葬送の準備もされたのに、以降も夫夫(ふうふ)で統治を続けてる記述がいくつかあったんだよ。そちらさんの記録も見れば、生き返りの王と伴侶がもっといそうだ」  イスの歴史において、戦乱は今に限った話ではない。勝利を収めた善王たちは決まってアルファで、ヒールオメガと癒し合いながら生き残ったようだ。 (二大貴族の戦いによって、史料が散逸したり埋もれたりせずにいれば)  オメガの体質の仕組みや役割が知られ、単に発情発作のある迷惑な存在とは思われなかったはずだと、口惜しく思う。 「それで百年前の両公子は、一人のヒールオメガをめぐって……待て」  ちゃっかり腰に回ったままのエリセイの腕をぺしんとはたいた。  百年前の公子たちは、癒されず亡くなった。なぜなら。 「互いを癒すことができるのは、[運命の番]のみだ。わたしたちは違う」  エリセイの得意顔につられて納得しそうになった。  自分たちは運命ではない。自分で言って哀しくなるが、事実だから仕方ない。 「癒せたのなら、俺たちも[運命の番]ってことだと思わんか?」  だが、エリセイはなおも大真面目に自説を説く。 「俺のほうも、以前書庫で剣を突きつけられた傷が、スフェンに触れたらすぐ治った。雪室を掘ったときの腰の痛みも、スフェンにさすってもらったら消えた」 「掠り傷で、腰だって痛いうちに入らない程度だったろう」  否定が口を衝いた。自分がエリセイにとって特別だったら嬉しいが、早とちりなら余計落胆が大きくなる。 「おまえさんは死ぬほどの傷だったよ。この小屋じゃなくアナトリエ城まで行ってたら間に合わなかったと思う。守りたい人の血肉を抉ったときの感覚が、今も俺の手に染みついてる……」  エリセイの大きな手が震えているのが見えて、反射的に両手で包み込んだ。  死ぬならエリセイの剣によってがいい、なんて。エリセイにはいい迷惑だ。 「それは済まない。ああすれば君も両公子も死なせず収められると思ったのだ」 「スフェンらしいな。だが二度とやらんでくれ」  これには何も言い返せない。  あんな窮地は二度と招くまい。――と、言うか。  密会前と変わらぬ物腰のエリセイを見上げる。怪我人なので騎士的対応をしてくれているだけに違いない。 「……君こそ、わたしたちが君たちを陥れたと、見限ったのではなかったのか」  手紙交換と史料調査の日々むなしく、ソコロフとアナトリエの宿命に呑まれたと思った。ひしひしと決別を感じた。 「誓って、陥れてはいない」 「あーうん、わかってるよ」  どうしても行き違いを解きたくて前掛かれば、エリセイはあっさり受け入れる。  ではなぜレクスに剣を向けたのだろう。 「ただどっちにしても、坊っちゃんが置かれた状況は同じだった。だから俺が派手に立ち回って、その隙にオメガのおまえさんに坊っちゃんを連れ出してほしかったんだ」 「え?」 「なのに目で合図してもちっとも伝わらないどころか、俺の剣を避けもしなかった。俺の強さを知ってるくせに」  エリセイが深々と溜め息を吐く。  一騎打ち中に彼がニキータに視線を向けたのは、愛する主人を見つめたのでなく、こちらへの合図だったのか。まったく読み取れなかった。  言われてみれば、オメガは他のオメガの芳香を嗅ぎ取れず、欲も刺激されない。 「……済まない」  鈍過ぎた申し訳なさと、失望されていなかった安堵とが入り混じる。  ここが現実の父の小屋で、エリセイが敵方ながら「埋める」と嘯いて逃げ込み介抱してくれたのは、もう疑わない。 (それにしても、死ぬほどの傷をひと晩でどう塞いだのだろう)  それでもヒールオメガの実感が湧かないのは、具体的な癒しの方法が思い当たらないのもある。  さっきエリセイは「番のアルファに触れてもらえば」とか言っていた。  ふと、都合のいい夢だと解釈したエリセイとの触れ合いが脳裏をよぎる。 「では……癒しの方法とは、もしかして……」 「ああ。すごく可愛かったぞ。治癒って目的がなければ、じっくり堪能したかったなあ」  おそるおそる尋ねた意味がないくらい、満面の笑みで返された。  死んでいると思って口づけや愛撫を許し、求めもしたのが悔やまれる。と言うか、傷への口づけ以外のあれこれは必要だったか? 「怪我人に何ということをするのだ、君は!」 「いやいや、俺だって厳かに別れの挨拶をしようとしただけだ。苦情は精霊王に言ってくれ」  赤面を隠せない。剣を突きつけたいのに、愛剣は壁に立て掛けられていて手が届かない。代わりに逞しい肩に拳を見舞うも、エリセイにはじゃれつきにしか感じないらしく、にまにましている。 (人の痴態を思い出すなっ)  どうしたらいいのかわからなくなる。だがエリセイは自重してくれない。 「甘い芳香も発してた。やっぱり運命に違いない」 「し、周期の発情発作に過ぎない。前回の発作から数か月経っているし。今まで何度も会っていたが周期は狂わなかったではないか」 「はじめて会ったときも周期の発作だったのか? 小屋で酒を飲んだときも……?」  半ばむきになって反論すれば、エリセイが顎に手を当てて考え込む。  運命の番だと裏付ける要素もあれば、当て嵌まらない要素もあるのだ。  そばにいても発作は起こらない。習慣で自律できているだけだろうか。 (わたしがエリセイの背中に敬意に似た感情を抱いたのは、運命の番の条件を知る前だ。運命でなくとも純粋な恋情だと思いたいと言うか)  こちらも口を噤む。恋心の扱いが下手なばかりに、どちらにせよ命を救ってもらったことに感謝しそびれた。我ながら可愛くないが、いきなり振る舞いを変えられない。  それに本当に運命の番だったとしても、結ばれてめでたしめでたし、とはいかない。  自分は今もソコロフ家近衛騎士だ。生を実感したら、気に掛かるのは主人のこと。  微妙な空気を変えるのも兼ねて、 「それより、運命の番の条件の三つ目について、殿下たちにお伝えしなければ」  と立ち上がる。 「……っ」  たちまち蹲った。傷に刺すような痛みが走る。命は取り留めたが、即もとどおりとはいかないようだ。エリセイの膝に座らせられる。 「とことんおまえさんらしいな。わかった、俺たちが運命の番かどうか結論を出すのは急がなくて構わないよ。ただ、治癒中に俺が言ったことに一片も嘘はない。それは信じてほしい」  エリセイの体温を感じながら、せめてと素直に頷いた。夢うつつに聞いた「愛してる」は決して忘れないし、それだけでよぼよぼになるまで生きていける。  エリセイはほっと目もとを和ませたのち、表情を切り替えた。 「実は、坊っちゃんたちの密会から二日半経ってるんだ。坊っちゃんは俺の相棒に託した。レクスの動きはない。スフェンは死んだことになってる。それでも務めを果たそうってか」 「当然だ」  今度は意気込んで頷く。たとえ主人に知られずとも、忠誠を尽くすのは変わらない。 「よし。スフェンの快復を見せれば、『癒し』の力がわかりやすい。癒す方法を説明するのは照れるが、主人のためなら致し方ないよなあ」  すっかりいつもの口調で茶化された。  無言でエリセイの胸板をはたく。主人の役に立つには、自分がどうやって命をつなぎとめたかまで報告するしかないのか……。 「はは。それと、プナイネンの若造も何とかしたい。スフェンを狙ってるだろ」 「ルドルフか。レクス殿下への対抗意識で、殿下の近衛騎士にちょっかいを出しているだけだ」 「いやそれだけじゃない。おまえさんは自分の可愛さをもう少し自覚しろ。二度どころか百度だって言ってやるぞ」  不毛な言い合いまで始まる。エリセイは開き直った顏だ。自分を可愛いと思うなんてオメガとして負けも同然なので、簡単には聞き入れられない。努力はしてやることにして、話を戻す。 「ルドルフには『盾になれ』と言われた。レクス殿下とわたしの話を盗み聞いて、自分と番わせようと考えたんだ。我々以上に情報を持っているわけではないな」 「スフェンは若造の番じゃない、俺のだ」 「まだ君のでもない」  動向を探る者の存在を共有していたのに裏をかかれた悔しさも相俟ってか憤慨するエリセイに、釘を刺す。説得力がないのでその膝からも下りた。今度は慎重に。  隅の棚に畳んで置いてある、白い騎士服を手に取る。裂けた上衣はざっくり縫い合わせてあり、血の染みもできる限り綺麗にしようとしてくれたのが窺われた。  改めて、この出血量でよく生きているものだと思う。 「あー、服には加護が効かないみたいでな、もとどおりにはほど遠いが」 「充分だ。ありがとう」  騎士服のみならず、この服にこもった敬意や使命をも大切に扱ってくれたエリセイに礼を言い、袖を通す。加護に劣らず力が漲った。  エリセイはこちらを見つめ、はにかむように頬の傷痕を掻く。 「先にアナトリエ城へ向かわせてもらえないか? 坊っちゃんには俺以上に頼りになる味方がいない。レクス殿下ならあと数日うまく立ち回れるだろ」 「もちろん。どなただと思っている」  そうと決まればと暖炉を片づけ、それぞれ厨子を懐に収める。  主人たちの恋は、まだ潰えていない。ソコロフとアナトリエでも。自分たちの恋に報いるためにも、叶えにいく。

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