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5 運命の番の特別な力

 小屋の外は自分の目と同じ色の空が広がり、きんと冷えていた。  少し離れたところで雪下の地衣(くさ)を食んでいたヴィトが、こちらを見るなり駆け寄ってくる。 「ヴィト! わたしの相棒に乗ってきたのか」 「ああ。ひと目で通じて、小屋まで急行してくれたよ」  以前「もふって」馴れたことによる、思わぬ効果だ。  相棒にも心配をかけてしまった。その上、見た目より力持ちとはいえ、体重のあるエリセイと二人乗りという暴挙である。 「済まないがもう一度二人乗りさせてくれ」  恐縮しきりで、雪道を進む。  レクスを王城へ案内したときと同じく、後ろからエリセイにすっぽり包まれる恰好だ。レクスには意識しなかったが、今は背中にエリセイの少し早い鼓動を感じ、自分の心臓もまた活発になる。 (生きるのと、恋をするのは、似ているのだな)  小屋から領境まで、約半刻だ。その手前でエリセイが、 「あの村に寄りたい。確かめることがある」  肩を寄せ合うように建つ木造の三角屋根群を指差した。 (プナイネン家の所領だ。あまり近寄りたくないが――)  こちらの快復を待つ間に、何か作戦を立てたのだろう。了承してヴィトの手綱を引く。  村では、子どもたちが晴れ間を逃さず駆け回っていた。戦場にならない限りよそ者の来訪はめずらしい。すぐ気づいて大人を呼びにいく。  おとなしく柵の外で待った。剣も革袋に包んでヴィトに積んだままにし、敵意がないと示す。 (おや)  ほどなく現れた、くたびれた兎毛皮の帽子を被る村長の顔には、見覚えがあった。  十二月の合議で、村のオメガが襲われたこと、かつ隣村の馴鹿を盗んでいないことを主張した五十がらみの男である。 「合議の事件を掘り返すのか?」  小声でエリセイに尋ねた。「真犯人は別にいそう」と言っていたが、今は他にやるべきことがあるはずだ。  エリセイは「まあまあ」と掴みどころがない。 「どちら様ですかな」 「こっちがソコロフ家に、俺がアナトリエ家に仕える裁判官だ」  村長に硬い声で問われても、無害な笑顔で身分を騙る。彼が食えない男だったのを思い出す。 「先の合議の記録を見直し、公平に裁けていないって懸念が上がったんだ。改めて話を聞かせてもらえるか?」 「なんと、それは恐れ入る。我が村のオメガの怪我もだいぶ癒えて話せるようになったので、是非お願いします」  村長は険しい顔から一転、こちらの腕を引いて迎え入れた。エリセイがアナトリエ派でも渋る様子はない。  彼が合議の決着――犯人の特定はせず、ソコロフの村は馴鹿を一頭貸してやり、アナトリエの村はオメガの薬代を半分負担する――に不服げだったのを、エリセイはニキータに付き従いつつ見ていたらしい。 「ちょっとお邪魔しよう」  柵内には、二十軒ほどの家が並ぶ。過去に戦地になったのか、廃屋や、修繕跡のある家も少なくない。それらを横目に、被害に遭ったオメガの住む一軒へと案内される。 「こちらです」  城下の自宅よりひと回り大きい。中は簡素だが暖かかった。二重扉を入ってすぐの棚に、オメガの快復を願ってか、燻製肉や木の実の砂糖漬け(ジャム)、木彫りのお守りのようなものがたくさん届いている。  部屋の中央の木机と、奥の寝台の間には、革布(カーテン)が吊るされていた。 「ただいま。裁判官方をお連れしたよ。事件の話をしたいそうだ」  村長が革布に向かってやわらかい声を掛ける。  村に一人きりのオメガは、村長の息子だったようだ。それはなおさら合議の決着に納得いかないだろう。  自分も固定観念を捨てた今は、より力になりたいと思う。 「事が事だっただけに、革布越しでも構いませんかな」 「もちろん。むしろ辛い記憶を思い出させてしまうが、ご協力感謝する」  エリセイは労しげに言う。さらに村のオメガから見えなくとも頭を下げてから、切り出す。 「真犯人を見つける手がかりになりそうなことがあれば、何でも教えてほしい」 「……夜闇の中だったので、顔はわからないのですが」  鈴のような声が返ってきた。歳も自分といくつも違わなそうだ。酷い目に遭って可哀想で、犯人が許せなくて、強く拳を握り込む。 「大柄な男で、金髪でした。それで……レクス、と名乗りました」  村長が信じられないという顔で身を乗り出す。ソコロフ家公子の名は、イスの民ならみな知っている。  自分は動揺しなかった。主人はオメガを襲ったりする男ではないと、命を懸けて保証できる。 「わざわざ名乗るとは妙だな。レクス殿下に罪を被せようとする者か」 「私もおかしいと思ったゆえ、今まで誰にも言いませんでした」  エリセイも冷静に分析し、村のオメガが補足する。  レクスに罪を被せようとする金髪の男――ルドルフの名が浮かぶ。  自領にオメガがいると家臣に知らされ、手を出しにきた可能性は大いにある。  それなら村民は双方「やっていない」という証言しか出ないはずだ。  なるほど、ルドルフに逆襲する材料集めか。それは欠かせない寄り道である。 「発作中で身体は暴かれてしまいましたが、『妾になれ』という要求は断りました。そうしたら剣で、斬りつけ、られ……」 「怖くて痛い思いをしたな。もう充分だ、ありがとう。よく眠れる煎じ薬を持ってきた。よければ飲んでくれ」  だがエリセイは村のオメガが恐怖をぶり返したのを察するや、聞き込みを打ち切った。  それでも収穫は得られた。妾になれという台詞も、自分の思いどおりにならないなら斬り捨てるのも、いかにもルドルフらしい。  エリセイと目を見合わせ、認識を同じくする。 「あと、盗まれたって言われた馴鹿の特徴も聞きたいんだが」  エリセイはもうひとつ、同席する村長に持ち掛けた。 「牧夫でも、馴鹿を他の群れに入れられたら見分けられるか自信がないと言っていますよ」  こちらは諦め気味だ。実際、消えた馴鹿をよそで見つけられたら何よりの無罪証明になるが、難しいから合議と相成ったのである。  そこに、革布の向こうから再び声が上がった。 「牧夫小屋のそばにいた中に、とても綺麗な毛皮の仔がいました。私は絵が得意なので、描いて差し上げます」  村のオメガは、エリセイの気遣いによって落ち着きを取り戻したようだ。彼は隔離中、隣村の馴鹿を間近に見ていた。申し出に甘えることにする。  優しく燃える暖炉の火を眺め、しばし待つ。 「できました」  白くほっそりとした手に渡されたのは、以前書庫で見た本並に上手な絵だ。 「へえ、背側が灰色、腹側が茶に白い斑点か」 「はい。私を守るみたいに牧夫小屋に飛び込んできてくれたんです。犯人の剣の邪魔をしたから連れ去られたかも」 「この仔もおまえさんの絵も、すごく印象的だ。助かるよ」 「いえ……『どうせオメガが誘った』で終わらせずに合議を開き、犯人を捜し続けてくださって、嬉しかったので。私のせいで村のみなが武器を取らないよう望みます」  エリセイに絵を褒められ、村のオメガの声がはじらう。人たらしなエリセイに少しむっとしてしまった。 (場違いだし、我ながら心の狭い……鍛錬が足りないな)  エリセイのほうは、絵の描かれた羊皮紙を再び見てひとり頷き、懐に収める。 「裁判官さん方、チャガ(白樺茸)のお茶を淹れましたよ」  そろそろ暇しようとしたところ、村長夫人が盆を持ってやってきた。  器は息子のぶんもある。と言うかチャガ茶は薬効があるので、もともと彼のために用意したとみた。長時間よそ者が居座ると負担だろうからやはり断ろうとしたが、 「その碧い目に雀斑、もしかしてスフェンかい?」  名を言い当てられた。驚きのあまり、幼く見えるのも忘れて小さく口を開ける。 「なぜご存知で?」 「ふふ、澄ましてないと母親にそっくり。彼女はこの村で生まれたんですよ。遠慮してるのかちっとも顔を出さないけど、元気ですか?」  なんと――母が他の村から父のもとに嫁いできたのは知っていたものの、この村だったとは。  自分が物心ついて以降訪ねなかったのは、余裕がなかったのもあるし、互いに厳しい暮らしで頼るのを控えたのもありそうだ。  思わぬめぐり合わせである。いい返事ができたらよかったのだが。 「五年前に、精霊界へ旅立ちました」 「まあ、そうかい……」  母の死を告げると、夫人は朗らかな笑みを引っ込めてしまった。  見兼ねたのか、エリセイが右手で夫人の背中を、左手でこちらの背中をさする。 「ちょっと温かいものでも飲もう」  と、夫人が持ってきた茶器を傾けもした。まるで自分が淹れたみたいに。  これには一同くすりと笑いが浮かぶ。村のオメガも「温まっていってください」と言ってくれたので、一杯だけご馳走になることにした。  ほこほこと湯気の立つ木の器を、両手で包む。エリセイは三脚きりの椅子を夫人に譲り、立ったまま暗褐色の茶を味わった。  ふーっと温かい息を吐くとともに、顔を上げる。 「そう言えば、こちらではオメガを精霊の化身と見做して大切にする風習があると聞いた」 「ええ。百年ほど前この村にいたオメガが、『オメガは王の器たるアルファを選び、愛し合い、末永く繁栄をもたらす精霊の化身』だと話したんですよ」  夫人が子守唄のごとく諳んじる。はっとエリセイを見た。  王城で読んだ本の記述と重なる。口承するうち「精霊王の化身」の「王」が抜け落ちたと考えられなくもない。 (百年前、伝承を村に伝えたオメガがいたのだな。しかしなぜこの村に?) 「他にも何か口承は残ってるか?」  エリセイが夫人を怖がらせないよう軽い口調で、さらなる情報を乞う。自分たちの知らない伝承も知っているかもしれない。 「そうですねえ、『たとえ当代で実現できなくとも、ヒールオメガと運命の番が必ず戦いを収める』とも。『慈悲深き王の子どもたち、豊かな大地を愛し栄えよ』という一節はご存知でしょう? 精霊の化身たるオメガを愛するアルファが戴冠すれば、イスは栄える――わたしたちはそう解釈して、精霊王に加護を祈り続けているんです」  夫人がほら、と棚にひしめく木彫りを示す。じっくり見れば、母のつくった厨子と意匠の似たものがあった。  鷹の留まった丸屋根と、男とも女ともつかない人型像。 「あなたの母さんは、少女時代から木彫りが上手でしたよ」 「……知りませんでした」  小声で言ったきり、胸がいっぱいになる。  母が聖堂を模した厨子を遺した謎が、図らずも解けた。口承をもとに、二大貴族の戦いの終息を願っていたのだ。息子が穏やかに豊かに暮らせるように。 「わたしたちは、息子が長い戦いを終わらせるヒールオメガかもしれない、幸せになってほしい、そう思って大切に育ててきました。なのに手酷く傷つけるなんて、許せません……」  同じく息子を想う夫人の目に、じわりと涙が浮かぶ。村長も割り切れない顔でその肩を撫でた。合議では、王の器を選び繁栄をもたらす存在のはずのオメガの扱いにも失望したのだろう。 (ヒールオメガと運命の番が戦いを収める、か)  黙って耳を傾けていたエリセイは、どこか思うところのある表情で茶を飲み干す。 「犯人には心当たりがある。続報を待っててくれ」  頼もしい一言を残し、村長の家を辞した。  再びヴィトの背に乗り、事件現場にもなった馴鹿牧夫小屋のある白樺林へと向かう。  村民を装い、アナトリエ側に抜ける手筈だ。冬季は領境の警備隊も睨み合いなので、派手な動きをしなければ可能である。 「母君の話も聞けてよかったな」  林道を辿りながら、エリセイが肩越しに話し掛けてくる。 「……両親と、もっといろいろ話したかった」  ぽつりと偽らざる気持ちを吐いた。村長親子が支え合う様子を見た直後で、少し感傷的になっている。林を通る間だけ、ただの「スフェン」でいさせてもらおう。 「父はわたしを、『精霊を宿す大地の子ども』と呼んだ。わたしに未来を見ていたんだろう」 「母君に村の口承を聞いて、『うちの子は可愛いからオメガだな、戦いを収めてくれる』って思ったのかもしれんぞ」 「そこまで親ばかではない、はずだ」  普段なら呆れるところだが、エリセイの軽口に胸が温まった。  両親は息子がオメガだと知ったら、たとえ周囲に疎まれても「誇りなさい」と励ましてくれた気がする。 (せめてふたりの遺志を、未来につなごう)  エリセイの暖かさを知った今、恨みによって胸が凍ることは二度とない。  太陽は早くも地平線に沈み、長い夜が来た。  白い外套を裏返しにし、見咎められることなくアナトリエ領に入る。  雪道が整備されており、ヴィトを歩かせやすかった。二村の民が馴鹿牧夫小屋に行き来していたおかげだ。彼らのように隣人とうまく共存している地もある。事件のせいで交流が途切れてほしくないと思う。  同じイスの民だから。  事実、アナトリエ領の風景はソコロフ領のそれとほぼ変わらない。ソコロフ領のほうが地形の起伏が大きいくらいだ。地は雪に覆われ、たまに林や廃屋にぶつかる。兎が遠くを横切る。ぽつぽつと三角屋根の集まる村がある。村民たちは今日も生き抜けたことを労い合っているだろう。 「スフェン、体力は平気か? 休憩するか」  アナトリエ領に入って以降手綱を握るエリセイが尋ねてきた。 「そんなにやわではない」  すっかり近衛騎士の顔に戻り、凛と答える。エリセイに半ば抱き締められる体勢のためか、強がりでなく傷は痛まない。エリセイが「そりゃ何より」と小さく笑う。 「休憩より、雪が降っていない今のうちにアナトリエ城へ急ごう。あと一刻ほどか?」  斜め後ろを窺うと、エリセイはアナトリエ城の方角をまっすぐ見据えていた。  思えば彼の主人であるニキータを三日も放っておいてしまっている。ニキータを案じる顏にこそ惹かれたのに、かすかな切なさがこみ上げ、すぐ前に向き直る。 「ああ。途中で騎士団長に見つかって三日警護をさぼった説教をされずに済めばな。――ところで」  エリセイはこちらの胸の痛みも知らず、ふざけ半分に答える。  かと思うと、唐突に声色が変わった。 「王城の周りだけ風雪の止む日がない所以が、わかったかもしれん」  王城の風雪?  エリセイは一度にたくさんの思考を並行できるらしい。瞠目しつつ、「所以とは」と訊く。 「たぶん、精霊たちが王冠に相応しいアルファ以外寄せつけないようにしてる。彼らは大地を荒れさせる戦いが嫌いなんだ」 「確かに雪で閉ざせば大規模な戦いはできないな」 「それだけじゃない。大地に宿る精霊は精霊王だろ?」  うむ、と頷く。国の礎となる大地に宿り加護を授けてくれるのは、精霊王だと言われている。  それがどう関係するのだろう。 「その精霊王の化身がオメガだ。つまり、大地(オメガ)を愛し、守ってくれる存在こそが『王の器(アルファ)』ってわけだ。アルファが貴族ばかりなのは、戴冠してヒールオメガとともに国に平和をもたらせるからじゃないか……と、村長夫人の話を聞いて考えた次第だ。ほら、密会のとき『精霊の囁き』が起こっただろ。レクス殿下は王として大地を守ってくれる、と坊っちゃんだけでなく精霊たちにも見込まれたんだよきっと」  エリセイが訳知り顔で語る。彼の言うとおり、ひとつひとつの事象がつながる。ただ穴もある。 「ルドルフもアルファだが、どこが王の器なんだ」 「うーん、十代の頃は純粋に戦いを終わらせようとしてたとか? よく知らんが」  何とも適当だ。感心しかけたが、話半分に聞いておこう。 「とにかく、主人同士が番って王城に入ったとき完全に風雪が止めば、それも説得材料になる。イスを豊かにする王と伴侶だってな」  エリセイがなおも不敵に笑う。それにはふたりを再度相見えさせなければ。  黒い空と灰色の雪原の向こうに、堅牢なアナトリエ城が見えてきた。  アナトリエ城はソコロフ城と同じく石造りで、東西に長い。  エリセイは抜け道に精通していた。城の守りが心配になるくらいだが、彼がすべて押さえているなら逆に安心なのか。  他の騎士からすればまだ「敵」のスフェンを伴ったまま、二階の突き当たり、ニキータの私室に辿り着いた。 「坊っちゃん、今戻ったぞ」  エリセイが声を掛けるも、広い部屋は静まり返っている。  嫌な予感がした。エリセイの顔色も険しくなる。  一騎打ちの後、遺体を抱えながらニキータの手も引いて相棒の馴鹿に乗せたというが、無事帰城できたか、できても深夜の外出が露見して責め立てられていないか、最新状況がわからないのだ。  エリセイが急いた手つきで奥の扉を開ける。  寝室だ。燭台がかろうじて灯っている。  紺色の絨毯の中央に、彫刻木の寝台があった。その隅に、寝具と毛皮の小山ができている。 「……エリセイ?」  か細い声が聞こえた。ニキータが(くる)まっているようだ。  エリセイが咄嗟に息を止める。ニキータが芳香を発しているのだ。書庫でレクスに会って以来、発作が続いているのか。 「あの方は、レクス殿は支障なくソコロフ城へ帰れたか?」  寝具の隙間から出てきたニキータは、上気してぐったりしているのに、一言目にレクスの安否を問う。運命の相手を「守りたい」という切望ゆえに発作が重くなっているのかもしれない。  忠誠心で誘発発情を抑えたエリセイは、一定の距離を保ったまま答える。 「レクス殿下に同じことを訊かれると思ったんでな、先にこっちへ来たんだ。大丈夫、これしきで膝を折るやつじゃない。彼の近衛騎士がそう言ってる」  ニキータの薄灰色の瞳が、こちらを捉えた。  大柄なエリセイの陰になって、今まで見えていなかったらしい。大きく目を見開くや、寝具の奥に引っ込んでしまう。 「なぜ生きている? 彼が偽物でも間諜でもない確証はあるのか」 「あるある。裏切られたから斬ったんじゃないんだよ」  ニキータはなかなか人を信用しない、とエリセイが評するだけあり、死んだはずの敵騎士がなぜ横にいるのか、書庫での言動の真意まで確認を怠らない。  エリセイは顛末をかいつまんで知らせた。  場を収めるために命を張ったこと、ヒールオメガの能力で癒したこと。こちらの無謀をしれっと当て擦りもする。 「ふむ……きみはエリセイの運命の番だったんですね。毎回惚気られていたのでさもありなん。快復されてよかった」  ニキータは癒しの力に驚愕しきりだったものの、このとおり健在なので信じることにしたらしい。寝具の山から出てきてくれる。  それはよいのだが、エリセイは癒しのくだりをずいぶん大げさに話した。剣の柄で脇腹を突いておく。 「おまえさんはまたそういう顔でそういうことを……」 「どういう顔だって?」  その間にニキータは背筋を伸ばして座った。黒い寝間着姿ながら、公子として少しでも体面を整えようとしているのが、同じオメガの自分にはわかる。ゆえに「楽になさってください」とはあえて言わない。 「ふふ。王城書庫では『俺とスフェンは進展してないのに』と不機嫌だったろう、エリセイ」 「おっと、悔しがってたのばれたか」  ひとたび呑み込めば、ニキータの切り替えは早い。エリセイをからかいすらする。エリセイもニキータの体調を量るみたいに乗るが、こちらはひとり置いてけぼりだ。 (惚気る? 不機嫌?)  なぜなら、三日前の王城書庫でのエリセイの振る舞いはまるで。 「わたしはてっきり、慈しんできた公子殿下が他の男と番うのが面白くないのかと……」  戸惑いを表明すると、アナトリエ家の従兄弟ふたりはますます可笑しそうに笑った。 「エリセイは過保護ではありますが。レクス殿の人柄を知ってからは、『いい男を逃すな』と僕の手紙を幾度添削したか」 「そりゃそうだ。未来の王だぞ」  エリセイの緑眼に含みはない。  では――ニキータに叶わぬ想いを抱いていると、こちらが勘違いしたに過ぎないのか。  恋心で判断が曇っていたと判明し、拍子抜けする。 「むしろ俺がいちばん頭にきたのは、おまえさんの最期の一言だ。小屋でも言ったが、俺が命を懸けて守りたいのも、運命だと思うのもスフェンなんだよ。背中を見せたときからそうだったんだ。のんびりしてた俺も俺だが、ちゃんと言ったからな。いいな」  そこに畳み掛けるかのごとく、念を押された。思い出したらしい怒りと後悔も添えて。 (思わせぶりな言動にとどめたのは、運命と思っていないからではなく、わたしの使命を尊重してくれていただけ? 小屋での治癒は、それを覆すほど必死だった……)  剣を正面から受け、「愛する主人を守り抜け」と使命を託した際の、エリセイの何とも言えない表情がよみがえる。  想いが伝わらないまま喪う絶望だったのか。そう思うと、殊勝に頷くほかない。 「では、今は発作を制御しているんですね。僕も見習わねば」  ただし運命の番とは限らない。感心されて気が咎めるし、胸が痛む。  ニキータはこちらの後ろめたさも知らず、真剣な顔で続けた。 「僕はオメガなので、玉座にはアルファであるレクス殿に即いてもらえたらと考えていました。その際アナトリエ派が不当に迫害されないかが気掛かりでしたが、手紙をやり取りした今は、あの御方ならアナトリエかソコロフかではなく、イスという国を導き豊かにしてくださると確信しています。伴侶として伴走できるなら本望というものです。僕もヒールオメガだとよいのですが」  高潔な言葉に、思わず跪礼する。  エリセイと違って公子たちの手紙の内容までは把握していない。王城でもニキータとゆっくり話す暇がなかったが、期せずして直接彼の意志を聞く機会を得られた。  レクスが出会いからどんどん惹かれていったのがよくわかる。ニキータもまた、王の伴侶に相応しい。何せエリセイが忠誠を誓った主人だ。  改めて、誇らしい気持ちで両公子の恋の成就に尽力できる。 (今は、御二人が運命の番であることの証明に集中しよう。さすれば自分たちが運命の番かどうかの判断にもつながる) 「で、だ。今後の方針を固めるために、俺と別行動になったあと何があったか聞かせてくれ」  エリセイが話を進めた。今度はニキータが説明役になる。  いわく、レクスが「王城で弔い戦を始めるつもりはない」と厳命し、エリセイを追わなかった。近衛騎士を喪った張本人の言葉にはルドルフも逆らえなかったようだ。  そして、レクスはルドルフと連れ立って巡回隊のソリで帰城したという。 「殿下は王城を訪れたことを、巡回隊以外にもおおやけにされたのか……」 「若造も道連れにな。若造は好きに単独行動できなくなった」  他に帰りの足がなかったとはいえ、ソコロフ派の面々に行動を追及されていないか心配になる。自分の不手際のせいで、と歯噛みしたら、エリセイの大きな手に背中をさすられた。  ひととおり話し終えたニキータが、気高い公子の顔でエリセイを見る。 「きみが帰らないのは、何か企みがあるのだと思った。この数日の不在は僕の依頼ということにしてある。王城書庫で重要史料だと言っていた本も、巡回隊に頼んで我が城に持ってきておいた。きみの運命の番を癒し、情報収集して、これからどう出る?」  エリセイも、いつもの怠け者でなく、アナトリエ家で最も忠実な騎士として胸に手を当てた。密かに見惚れる。 「聖堂で合議を開こう。議題は――ソコロフ家公子とアナトリエ家公子の密通について」  精霊界の入口でエリセイに引き戻されてから、たった三日後。  聖堂にて、エリセイの発案――表向きは匿名の告発による合議が始まった。  当事者と裁定人たちに通知が届くやいなやの日程である。急過ぎるという声もあったようだが、議題が議題だけに決行された。  むしろ、なぜ二大家の公子が夜中に王城にいたかをつつかれる前に先手を取った、はずなのだが。 「ソコロフ家公子レクスは、アナトリエ家公子ニキータに熱を上げている。信じがたいことだが、私が密通現場をこの目で見た」  相変わらず馴鹿毛皮の外衣(マント)に赤い上衣姿のルドルフが、よそゆき口調で高らかに証言した。  ニキータを襲おうとしたくせに、しらじらしい。 「偶然居合わせたのではない裏付けとして、彼らの手紙も押さえている。これは、ソコロフ公やソコロフ家のために働いてきた派閥への裏切りにほかならない」  なんと、密令の最初に本物だと示すべく封蝋を施した手紙まで入手している。書庫に潜むなりして会話を盗み聞いていたくらいだから、盗ったに違いない。  一読したら捨てるべきだが捨てられなかった、レクスの恋情につけ込んで。  そのレクスは、十数人が集う円卓の一席で、甘んじてルドルフの言を聞いている。その立場ゆえ迂闊に発言できない。  顔色がよくないのは、矢面に立たされているのはもちろん、近衛騎士を喪った責任も感じているのかもしれない。 (レクス殿下……おそばに馳せ参じたい)  自分は今、レクスの席の向かい側の窓に掛けられた革布(カーテン)に隠れ、隙間から窺っている。  エリセイの考えで、ソコロフ城へは帰らず、生きていることを主人に知らせていないのだ。  然るべきとき呼び入れるので別室に控えていてくれとも言われたが、立ち会いたくてこの形に相成った。段取りを乱さないよう、窓と石壁の間から薄く流れ込む外気で頭を冷やす。 「しかもニキータはオメガであり、その芳香でレクスを淫らに誘惑している」  止まらないルドルフの舌鋒に、裁定人を務める両派の貴族たちがざわついた。  ルドルフはレクスのみならず、ニキータをも蹴落とすつもりらしい。悔しくて革布越しにルドルフを睨みつけた。  そのわずかな視界を、広い背中が埋め尽くす。 「いかにも我がアナトリエ家公子はオメガだ。だがそれは両家の公子を排除し、対立を深める理由にはならん」  窓際に陣取るエリセイが反論に立ったのだ。その堂々とした体格と態度に、場の注目が集まる。もっともアナトリエ派の面々は、普段の怠けぶりとの落差に面食らうふうでもあるが。  そっと頬の雀斑に手を当てれば、ほんのり熱くなっている。 「史料によると、オメガは『精霊王の化身』であり、『王の器』たるアルファを選ぶ。そのアルファは、戦いを収め国を栄えさせる『善き王』の意志を継ぐ。ゆえに、オメガであるニキータ殿下と、その運命の番であるレクス殿下は、結ばれるべきだ。『王と伴侶は運命の番』が望ましい」  裁定人は両派閥の要人だ。エリセイは彼らに向け、運命の番がもたらし得る平和と、両公子の恋の正統性について演説した。  傍らのニキータが史料の該当部分を提示すれば、裁定人たちの受け止め方も真剣なものになる。 「この件をまず内密に話し合えないかと考えていたところ、プナイネン公に襲われ、やむを得ず本日の合議に至った」  ルドルフに陥れられたことにも、さらりと触れた。先ほどとは色の異なるざわめきが起こる。 「ふん。両公子が運命の番だと断言したが、その証明は?」  分の悪くなったルドルフが、すかさず盛り返す。運命の番かどうか傍目には判別できない。そこを突くとはやはり知恵が働く。  だがエリセイは動じない。 「運命の番の条件は三つある。まず、相手のアルファを守りたいと強く思うか。かつて善き王と恋に落ちた精霊王の名残だ。次に、相手のアルファに近づいたとき、周期に関係なく発情発作が起きるか」  エリセイの解説を受け、裁定人たちの視線がニキータへ向かう。なぜなら円卓にはレクスも同席している。  レクスは気遣わしげな、叶うなら今すぐニキータを別室へ避難させたそうな顏だ。  一方のニキータは、こちらからは後頭部しか見えない。オメガ同士は芳香も嗅ぎ取れない。どんな状態だろうか。 「発作は起きていないようだが? どちらにせよ主観的だ」  ルドルフが仰々しく肩を竦めた。  きっとニキータはおおやけの場なので自律しているに違いない。なのにこういうときだけ努力を踏みにじられて歯がゆい。 「そりゃあ、発作中のオメガと見れば襲う輩が同じ部屋にいるんだから、煎じ液を飲むなり自衛するさ」  エリセイが、歯がゆさを晴らしてくれるかのごとく攻勢に出る。  ここまでルドルフと対照的に坦々としていたのが、一転して怒りと非難の滲む声色だ。円卓がたちまち静粛になる。  エリセイはまっすぐルドルフを見据えた。ルドルフが苦々しげに問う。 「……何が言いたい」 「十二月の合議で話し合った、オメガ傷害および馴鹿盗難事件の真犯人は、おまえさんと見受ける」  声が出そうになり、口を手で覆った。  この場で例の事件も言及するとは聞いていない。まとめて解決するに越したことはないが、勝算はあるのかと心配が募る。 「その外衣(マント)。盗まれた馴鹿の毛皮だな? 背が灰色、腹が茶に白い斑点だ」  当のエリセイは、密会に続いて二度も後手には回らないとばかりに、証拠を挙げた。 (外衣だと?)  その毛皮を何度か見ている。しかし村のオメガが絵に描いてくれた馴鹿の特徴と同じとは、気づかなかった。馴鹿好きなエリセイならではの発見だ。  言われてみると、ルドルフの胸側にくる部分と背中側になる部分で色が違う。エリセイが羊皮紙の絵を広げてみせた。――ただ。 「はっ、その落書きが証拠だと? 背と腹で毛並の異なる個体が何頭いると思っている」  ルドルフは取り合わない。彼の言うとおり、この毛並は多くはないが特定にも至らないのだ。 「裾の少し色が濃くなってるところ。毛皮を剥がすときの血じゃない。馴鹿牧夫小屋で斬りつけられたオメガの血の染みだ。彼を庇った馴鹿を殺めて、証拠隠滅したな」  エリセイはさらに証拠を重ねた。  村のオメガは、馴鹿が「私を守るみたいに小屋に飛び込んできてくれた」と言っていた。もし再び真犯人にまみえれば角で攻撃するに違いない。  一気に形勢逆転する。 「オメガを襲った犯人は、大柄で金髪で、オメガの妾を求めてて、なびかない相手には剣を振るうアルファだ」 「おれ以外にも金髪はいる、」 「夜闇で顔が見えにくいからとレクス殿下の名を騙りもした。ソコロフ城に入り浸って、殿下の足下を掬えそうな瑕疵を探してたのは誰だ? 殿下を引き摺りおろしてやろうとしてたのは」  息吐く間もなく核心をついた。 「……アナトリエ分家の公子といっても失礼じゃないか」  ルドルフは図星だったのか、笑ってみせるが弱々しい。 「それから二年前、戦場でレクス殿下を暗殺せんとする弓兵がいたそうだが。そいつが使った黒曜石の矢じりは、鉱山のないアナトリエ領ではほとんど見ない。いったいどの家の弓兵かな。その矢を阻止した騎士にちょっかいを出してたのは、口止めを兼ねてか?」 (矢じりまで?)  ぴくりと耳をそばだたせた。自分が阻止した一矢。この流れで聞くと、ルドルフが二年前の時点でレクスを――王位を狙っていたように聞こえる。  敵は内にいたのだ。エリセイの洞察力に、何度目かの感心を覚える。 「プナイネン公が代替わりして以降、村のオメガが襲われたり、公子が矢面に立たされたり、ずいぶんと騒がしいことだ」  エリセイは手をゆるめずとどめを刺した。  もしかしたら先代のプナイネン公は、息子であるルドルフの姦計を窘めていたのかもしれない。ソコロフ派の裁定人が「先代は病死とのことだが、思えば急だったな」とひそひそ言い交わす。  こうなっては、エリセイの主張とルドルフの主張どちらが受け入れられるか、合議の決着も見えてくる。両公子の「密通」を合議にかけると聞いたときは耳を疑ったが、今は手応えしかない。 「エリセイ。ソコロフ内の事件も調べてくれて痛み入る。その二件は私が持ち帰り沙汰を下す」  レクスが冷静に話を引き取った。エリセイとレクスに挟まれたルドルフは、ついに黙りこくる。  あとはレクスとニキータが、イスの未来を変えることにもつながる交際を宣言して、要人たちに認めてもらえば――。 (何のつもりだ?)  角度的に、いち早く気づいた。ルドルフが外衣の下で剣の柄に手を掛けるのを。  追い詰められた紅眼は、対抗意識のあるレクスでも、罪を挙げ連ねたエリセイでもなく、ニキータに注がれている。  ニキータの後ろ姿は、レクスと接近したことによる発情発作を抑えるので精一杯の様子だ。先ほどより発作が重くなっている。  ルドルフが石床を蹴り、ニキータに斬り掛かる。 (させない)  革布の中から飛び出した。  ルドルフからニキータまで、円卓四分の一周。間に座る数人は呆気に取られている。自分のほうがニキータに近い。ニキータ本人が発作で動けず逃げそびれても、間に合う。 「くっ……!」  だが計算外に、騎士の一人が割って入ってきた。壁際に控えていたプナイネン家の近衛騎士だ。彼は先代から長く仕えていた。老練な剣が横手から迫る。 (わたしなら治癒できる。たとえ斬られても、レクス殿下の大切な人を斬らせない)  剣のぶつかり合う音が、高い天井に反響した。  ルドルフの剣を、風のように部屋を縦断してきたレクスが。  ルドルフの近衛騎士の剣を、エリセイが防いだのだ。 (エリセイ、ニキータ殿下よりわたしを守ってくれた)  胸が熱くなった。主人のために働けたことにも、エリセイの判断にも。 「なぜアナトリエの雌を庇う、レクス! こやつの首を取ればソコロフ派の勝利だろうが」  ルドルフが血走った目で叫ぶ。何でも剣で解決せんとは、短絡的過ぎる。  レクスの相手にもならないと思った。だがレクスは「スフェン!?」と、斜めに血の染みが残った騎士服を纏う、死んだはずの近衛騎士に気を取られる。  その隙にルドルフが二撃目を放った。 「つっ」  対応が遅れたレクスの右腕から、ぼたぼた血が滴る。端整な顔が痛みに歪む。 「おやめください!」  ニキータが思わずといったふうに立ち上がり、レクスの右半身を抱き締める形で盾になった。 (何ということだ。わたしのせいで殿下がお怪我を)  自分もせめてもの罪滅ぼしに、エリセイの背後から踏み出す。  ルドルフの剣を払う。体格差は鍛錬の積み重ねによって埋められる。瞬く間に壁際へ追い立て、喉もとに剣を突きつけてやった。 「お前……、死に損ないめ。オメガごときがどこまでおれの邪魔をする」  ルドルフもやっとこちらに気づいた。驚きと憎悪と、手に入らないもどかしさみたいなものを顔に浮かべる。  オメガごときが、か。 「言ってやれ、スフェン」  彼の近衛騎士はエリセイが抑えてくれている。今こそ、と口を開いた。 「わたしがオメガである限り、です。同じオメガゆえ、ニキータ殿下がなぜ自分はオメガに生まれたのかずっと考えてこられたとわかります。そして答えを見つけられた。運命の相手であるレクス殿下と手を取り合い、イスの未来を変えるためです」  自分がオメガだと明かした上で、熱弁する。  この体質はそういうものと思って対抗するのみだった。だが、隠すものでも恥じるものでもなく、誇り未来へつなぐべきものだと今は言える。 「運命の番の条件の三つ目。運命の番を持つオメガ――ヒールオメガは、王に相応しいアルファを治癒することができます。何よりの客観的証拠になりましょう」  その気高さから、ニキータは王を選ぶヒールオメガだという確信があった。  ルドルフが唇を噛む。円卓で固唾を飲んでいた裁定人たちが、「おお」と心動かされた様子なせいだ。 「なるほど。では今私が負った傷をニキータ殿が癒せれば、運命の番だと証明できるのだな」  三つ目の条件を知ったレクスが、静かに、だが風格を漂わせながら言う。  レクスに促され、ニキータが緊張と発作とで小刻みに震える身体をずらす。  あんなに出ていた腕の血が、止まっていた。 「これは……まさしく加護だ」  みな一様に息を呑む。ルドルフは脱力したように俯く。  ソコロフとアナトリエでも、どんな逆境でも、運命の番は愛し合い、癒し合えるのだ。  レクスが円卓を見渡して言葉を継ぐ。 「精霊王が愛した善き王は、大地を損なう戦いを好まなかった。戦って勝つ者でなく、戦いを起こさず大地と民を守る者こそが玉座に即くべきだ」 「慈悲深き、王」  イスの民なら知る伝承の一節を呟いた。「戦いを好まない」「戦いを起こさない」と聞いて浮かんできた。 「そうとも。『番となった男が戦いに出る度、精霊王はその慈悲を信じて癒した』。慈悲深さが『善き王』の要件だ。貴公の遺志を継ぎ、我が城の書庫で史料を調べたよ。立場があるからといって指を咥えて見ているだけではいられない」  レクスが威厳を湛えて微笑む。彼は、ヒールオメガに選ばれるアルファの要件を自力で突き止めたらしい。エリセイが「その調子」とばかりに頷いている。  国全体を巻き込む恋の仕上げは、主人その人にしか果たせない。 「空位時代も王の器たるアルファはいたろうが、大地を守るより戦ってしまい、運命の番を得られずじまいで力尽きたと思われる。そもそもソコロフ家とアナトリエ家の戦い自体、運命の番をめぐっての対立が始まりだった」 「なんと」 「私とニキータ殿は、互いに運命の番として手を取り合い、戦いとは違う形で恨みを融かし、刻がかかってもイスを豊かに栄えさせていきたい。各位、私たちについてきてくれるか」  所信表明するレクスの頭上には、もう王冠が輝いているように見える。  合議の議題は今や、百年前以前に行われていた「新王の選出」に変わった。  不毛な戦いに終止符を打つ歴史的瞬間に、もちろん異論はない――一名を除いて。 「恨みを融かす? 殺された恨みは殺すことでしか晴らせない。過去にソコロフとアナトリエの戦いで命を落としたプナイネンの者たちの仇を取らねば。数代ぶりにアルファに生まれたおれこそが、プナイネン家の栄光を取り戻すんだ。アナトリエ家公子を討てば、功績でソコロフ家をも上回れる。王に相応しいのはおれだ……」  ルドルフがぶつぶつ言う。だが、彼につく者はない。 「イスの王に相応しい男は戦わない、って話がわからんか? それにアルファだからって子孫を残すためにオメガを襲ってよしともならんぞ」  エリセイがきっぱり断罪した。  レクスが、他の騎士にルドルフを連行するよう指示する。  ルドルフは自失状態で、それ以上抵抗はせず合議の間を出ていく。彼の近衛騎士も付き従う。  それを見るに、一門を想う気持ちが始まりではあったのかもしれない。だが、玉座の狙い方やオメガの扱いに同情の余地はない。 「スフェン。特に貴公には最後までついてきてほしい。しっかり静養して、戻ってくるように」  レクスは腕の手当て――抱き締めるのみでは傷を塞ぐまではいかなかった――に向かいざま、個別に声を掛けてくれた。ニキータをぴたりと寄り添わせているが、そんなふたりを見ても胸は痛まない。別の意味でちょっぴり羨ましいだけだ。  合議は、予想できない形でお開きとなった。 「ふう。ヒールオメガのくだりでおまえさんを呼んで、癒しの力について説明する段取りだったのに、あやうく密会の失態を繰り返すところだった。二度とやらんでくれって頼んだだろ?」  新王が現れた昂揚渦巻く中、エリセイがこそりと耳打ちしてくる。そうだったのか。 「……済まない」 「まあ、スフェンの迫力とどさくさに紛れたのとで、運命の番が二組いることには気づかれず済んだがな」  円卓の空気を一変させて両公子の交際公認のきっかけをつくり、ルドルフを追及もした頼もしさはどこへやら、緑眼を和ませている。 「君がその調子だから新王候補に挙がらな……何だその脇は」  一件落着に免じて笑ってやろうとして、血相を変えた。  エリセイの騎士服の脇腹が赤黒く染まっている。彼の大きな手でも覆いきれていない。 「あー、若造の近衛騎士が責任感なのか自分の腹を斬ろうとしたのを止めたときにちょっと。掠り傷だよ。しかしあの騎士、若造にはもったいない手練れだな?」 「軽口を叩いている場合か。……~っ」  よく見れば額に薄っすら汗が滲んでいる。無理をしているのだ。早く手当てせねば。守りたい。癒したい――。  焦りが爆発したみたいに、目の前が明滅した。熱に浮かされ、足がふらつく。  頬の雀斑を叩いても立て直せない。  発作だ。これほど強いのははじめてだった。 「スフェン?」  エリセイが自分の怪我を顧みず、胸板に寄り掛からせてくれる。  今は逆効果でしかない。彼の体温によって、小屋で癒されたときの快感が喚起され、腰が疼く。 (まだ近くに裁定人たちがいるというのに。わたしを隠してくれ……)  かろうじてエリセイを見上げる。発作を重くさせている張本人に助けを乞うのもおかしいが、彼のほかに頼れる人はいない。  エリセイは瞬時に異変を把握した。緑眼の奥にじわりと欲が灯る。 「芳香を他の男に嗅がせたくない。屋根裏部屋へ行こう」  こちらの腕を肩に回し、怪我の痛みも忘れたかのような大股で廊下を縫っていく。  螺旋状の石階段を、下ではなく上へと駆け上がった。

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