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プロローグ
スマートフォンの画面に映る彼の名前を見て、めずらしいな、と僕は思った。
たいていの連絡はLINEのメッセージですませるので、(と言っても、そんなに頻繁に連絡を取り合っているわけでもないが、)いったい何だろう、といぶかしく思いながら、僕は通話ボタンをタップした。
何か前置きがあったような気もするが、覚えていない。
「俺、結婚しようと思ってる」
その瞬間、頭が真っ白になった。
文字通りの白。空白。空っぽ。嬉しいとか、悲しいとか、感情が一切わいてこない。
どれくらい時間が経ったのか、それとも一瞬だったのかも、わからない。
「…そっか、おめでとう」
自分の声が義務的な祝福の言葉を絞り出すのを、僕はどこか遠い場所から聞いていた。
「披露宴で一曲弾かせてもらおうかな」
そんなセリフが、すらすらと自分の口から出てくる。言いながら、彼は披露宴なんてしないだろうな、と思っていたけれど。
「気が早いな。まだ彼女と話してるだけだし、たぶん、式も披露宴もしないよ」
やっぱりそうだった。なんとなく少しだけ満足する。何の意味もないのに。
「じゃあ、お祝い、何にしようかな」
「…何でもいいの?」
「いいよ」
けれど、そのあとの言葉は予想外だった。
「じゃあ、一曲、書いてくれる?」
僕は、これは彼からの仕返しか何かだろうか、と思いながら、
「…考えとく」
とだけ答えて、電話を切った。
僕は、恋をしない。
たぶん、恋をしたことがない。
そもそも、恋がわからない。
僕はスマホをソファに放り投げて、グランドピアノの椅子に座り、脱力して目を閉じた。
もう何年も前から覚悟しているつもりだったのに、想像以上だな。菜月 に言われたとおりだ。
でも、涙は出なかった。
もうずいぶんと長い間、彼が誰かと付き合ったり別れたりするのを見聞きしてきた。僕はそのたびに、今と似たような気持ちになっていたような気がする。
たぶん、嫉妬心ではない。彼が自分以外の誰かにとられてしまうといった、そんな感覚はない。
ただ、心臓に穴が開いたような、世界が遠くに行ってしまったような喪失感。
彼は恋をする。僕は恋をしない。それだけのことなのに。
恋と結婚は別物だ。その実、僕も法律上は菜月と婚姻関係にある。(菜月と僕は親友か姉弟のような関係で、菜月には同性の恋人がいる。)
でも、彼にとって、結婚と恋は近いものだろう。それくらいは、僕にだってわかる。
もう十五年以上前、僕たちがまだ高校生のとき、彼が僕に声をかけてくれたから、今の僕がいる。
いつもそばにいるわけじゃない。けれど、いつだってどこかに存在して、お互いを生かしている。まるで、空気みたいに。
僕にとっても、たぶん彼にとっても、お互いの存在は唯一で、何にも代えられない。
この関係性はこれからも続いていくだろう。彼が結婚しても、例えばこの世からいなくなったとしても、変わらずに。
恋をしないから、失恋もしない。だから、この気持ちがなくなることはない…。
僕はやっと重いまぶたを上げた。部屋のあかりがやけに眩しく感じられた。
ピアノの鍵盤に向き合って、そっとメロディを奏でる。
思えば、これまで数多くの楽曲を彼と一緒に作ってきたけれど、純粋に彼に聞かせるためだけに楽曲を作ったことはなかったな。
『一曲、書いてくれる?』だって?
軽く言ってくれたな。
覚悟してもらおう。
彼と出会って、僕がどれだけ彼に救われてきたか。
どれだけたくさんの気持ちを彼にもらったか。
彼とすごす時間を、僕がどれだけ大事にしてきたか。
どれだけ彼に感謝し、彼の幸せを願っているか。
彼をどれだけ愛し、大切に想っているか。
すべて伝わるような楽曲にしてやろう。
彼がこの楽曲を聞いたとき、泣いて、笑って、恥ずかしくなって、他の誰にも聞かせられないって思うような、そんな楽曲にしてやろう。
何だか、ちょっと楽しくなってきた。
僕は彼とすごした日々を振り返りながら、彼に贈るメロディを綴り始めた。
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