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1.僕の人生が変わった日

 僕たちは高校の同級生で、彼の名前は相沢遥(あいざわ はるか)、僕は伊東奏(いとう かなで)だから、いわゆる出席番号友達なのかと聞かれたりもするが、実のところはそうでもなかった。  約十五年前、僕たちは芸術高校の音楽科に所属していた。僕たちの芸高は、すべての科が一学年に一クラスしかなかったから、在学中の三年間、彼はたいてい僕の前の席に座っていて、僕は否応なしに彼の後姿をほとんど毎日見ていた。  それでも、入学してから二年以上、彼は僕にとって遠い存在で、彼と僕の席の間には薄くて透明な膜があった。  僕たちの高校ではめずらしくなかったが、彼はいわゆる芸能人で、小学生のころから子役をしているらしく、ときおりテレビで見かけることもあった。  『遥』は芸名で、本名は『悠人(はると)』ということは、入学してすぐの自己紹介で知った。高校の帰りにふと駅前の本屋に立ち寄れば、雑誌の表紙に『相沢遥』の文字が目に入って、僕はその雑誌を手に取ろうとして、やっぱりやめた。  彼はよく高校を早退していたし、休み時間もその分の補習にあてなければならないようだった。芸高の生徒は、各科の独自の課題が多く、おそらく一般的な高校の生徒より比較的忙しいと思うが、その中でも彼は忙しそうに見えた。(それでも、少なくともクラスの中では、彼はいつも涼しげな顔をしていた。)  彼の主な芸能活動は俳優業のようだったので、なぜとなりの演劇科ではなく、音楽科に所属しているんだろうと思わなくもなかったが、それを本人に問いかけるような積極性を僕は持ち合わせていなかった。  一方の僕はと言うと、プロの弦楽器奏者である両親の影響で、幼少期からピアノを習っていて、小中学生のころは全国規模のジュニアコンクールで優勝したこともあった。(弦楽器も少しだけかじったが、続かなかった。)  ピアノや音楽自体は好きで、自分で希望して音楽科に入学したけれど、この腕だけで多くの人を感動させられるような、そこまでの才能があるわけでもないんだろうな、と自分でわかりかけていたころだった。  両親がつけた奏という名前は、当時の僕には重たく感じられた。(今はそうでもない。)  プロとは言っても、僕の両親は、世界中の舞台で活躍しているような有名な部類ではなく、音楽事務所に所属する、いわばサラリーマンの演奏家だ。ジャンルを問わず、コンサートや舞台演劇の演奏に参加することも多い。  その関係で、僕は中学生のころに一度だけ、彼が舞台に立っているのを見たことがあった。  ストーリーは正直覚えていないし、両親がオーケストラピットの底で演奏していただろう音楽も流れて消えていった。  ただ、同い年の少年がたくさんの大人の中で光り輝いて見えた。それだけを鮮明に覚えている。  彼と僕の間の透明な膜がやぶられたのは、(と言うか、ただの幻想だったと気づかされたのは、)僕が彼の本名を知ってから二年以上経った、高校三年生の春のことだった。  校内のカフェテリアのテラス席は少し肌寒く、白い丸テーブルとチェアはひんやりとしていた。  音楽科の友人たちは昼食をすませると先に立ち去ってしまったが、僕はなんとなく教室に戻る気になれず、その場にとどまっていた。四月の日差しを感じながら、石畳につもった桜の花びらのじゅうたんが、風でときおり形を変えるのを、何とはなしに眺めていた。  ひときわ強い風がほのかなピンク色の花びらを舞い上げたその先に、彼は立っていた。 「少しいい?」  彼はおもむろにこちらに近づいてくると、そう言って、先刻まで友人が座っていた僕の正面のイスの背に手をかけた。  この二年間、ほとんど毎日背中を見ているけれど、ほとんど話したこともない、相沢遥だった。  突然のことに、彼が声をかけたのが本当に自分なのか、一瞬疑いを持ったが、勘違いではなかったようだ。  彼は僕の返事を待たずにそのまま腰かけると、小さく息をはき、姿勢を正して話し始めた。 「突然こんなことを言われたら困るかもしれないんだけど、頼みがあるんだ」 (…相沢遥が、僕に、頼み…?)  彼が言うように大いに困惑した僕は、返事もできずに、ただ黙って彼の話の続きを聞く形になった。 「ろくに話したこともないのに、驚くよね。…というか俺、クラスで浮いてるから、誰ともそんなに話したことないんだけど…」  彼が自分のことを『クラスで浮いてる』と思っていたのは意外だった。  たしかに、音楽科のクラスで特定の生徒と仲良くしているような印象はなかったが、芸能界の友人が演劇科にいるようだったし、何事にもそつがないように見えていたから、そういうスタンスなんだろうと勝手に思っていた。 「いや、ごめん。そんなことを言いたいんじゃなくて、頼みっていうのは、」  彼は一瞬の間をおいて、覚悟を決めたように、静かな声で言った。 「文化祭で歌を歌いたいから、伊東奏に協力してほしいんだ」  それは、大げさではなく、僕の人生が変わる出来事だった。  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったが、それは意味をなさず、僕たちの耳を素通りしていった。  舞い散る桜の花びらを横目に、ピアノのコンクールと病気以外で授業を休むのは初めてだな、とどこか他人事のように思った。  僕が何も答えられずにいたからだろう。 「もちろん無理にとは言わないけど、聞くだけ、聞いてもらってもいい?」  と断ってから、彼は続きを話し始めた。 「俺、中学生のときに初めて音楽劇に出演させてもらってね、」 「…『夜と朝の妖精』?」  僕は演劇のジャンルに明るくなく、その作品が音楽劇ということも知らなかったし、彼に言うつもりもなかったのに、初めて彼を見たあの舞台の題名を、思わず声に出してしまっていた。 「知ってんの?」  僕は内心、しまった、と思ったが、彼は嬉しそうな顔をした。  それはテレビや雑誌で見るよりもやわらかく、言うなれば少年っぽい表情で、僕はたぶんそのときになってやっと彼を自分と同い年のただの人間として認識した。 「親がオケで参加してた」  なぜか『見に行った』とは言えなかった。  彼は「そうなんだ」とうなずいて、それから少し視線を遠くに向けた。 「そのとき、音楽の力ってすごいなって思って、それで音楽科に入ったんだ」  彼の視線の先には、校舎の壁が白く、その上には空が青く、広がっていた。僕たちが生まれるよりも前から、ここでたくさんの生徒たちがさまざまな思いを持って、連綿と音楽を学んできたことを想像すると、気が遠くなるような気がした。 「歌はあんまりうまくないんだけどね」  彼は照れ隠しのようにそう付け足してから、また僕に向き直って、話を続けた。 「うちの事務所は俳優業がメインだし、相沢遥のイメージもあるから、歌でメディアに出るのも、何か違うくて」 「…それで、文化祭?」 「うん。伊東奏が作曲とピアノで、相沢遥が作詞と歌。…どうかな?」  どうやら、仕事とは別の領域で歌をやってみたい、学校の文化祭という場はどうだろう、ということのようだ。僕の困惑した頭でも、それは理解できた。 (…でも、なんで僕なんだろう)  この高校の音楽科には、器楽、声楽、作曲、音楽史の四つの専攻がある。僕は器楽専攻、彼は声楽専攻だ。  もちろん、音楽科の基礎授業で一通り学んでいるから、作曲専攻でなくても、音楽科の生徒ならある程度作曲はできる。それは彼も同じだろう。  ピアノを僕に依頼するのはわかる。けれど、作曲に関しては、自分でやってもいいし、より高いレベルを求めるなら、作曲専攻のクライメイトに頼むのが本筋ではないだろうか。  僕がまた返答できずにいると、彼はおもむろにスマホを取り出して何やら操作し、テーブルの上に置いた。  僕はまさかと思って、さーっと血流の音が聞こえそうなくらい、血の気が引いていくのを感じた。  その恐れは、僕の意に反して現実になった。彼のスマホから流れてきたのは、誰も知るはずのない、僕が作曲したメロディだった。 「これ、奏でしょ?」  彼はあっさり僕のことを下の名前で呼んで、にこっときれいな顔で笑った。それは、テレビや雑誌で見る作り物のような笑顔で、そんな場合でもないのに、僕は半ば茫然とその美しさに見とれていた。  人生の見えない歯車が、きしんだ音を立てているような気がした。  僕はもともとピアノをやっていたから、高校入試の際には確実に合格できるように器楽専攻を選択した。けれど、昔から、どちらかというとピアノよりも音楽自体に愛着を感じていたように思う。  特に、高校に入学してからは、コンクール用に既存の楽曲を必死になって習得するよりも、自由にピアノを奏でて新しい楽曲を創作したり、ピアノの音や別の楽器の音、電子音なんかをパソコンで組み合わせてアレンジしたりすることに、楽しみを見出していた。  そして、(自分で言うのもどうかと思うが、)まあまあよくできた楽曲については、匿名で作ったYouTubeのチャンネルに、こっそり公開していた。  特に何かの目的があったわけではない。ただ、何というか、これまでの自分から解放されるような気がして、わくわくして、楽しかった。それだけだった。  けれど、それはあくまで自分だけの秘密の趣味だ。親や教師はもちろん、音楽科の友人にだって、話したことはない。  自分の楽曲が世間で通用する自信なんてなかったし、狭い世界ではあるが、多少名前が知られているという自覚はあったので、『あの伊東奏がピアノコンクールの世界を脱落して陳腐な楽曲を作っている』と言われて傷つくのも、怖かった。  実際、高校に入学してYouTubeに自分のチャンネルを作ってから二年近く、これまでおよそ二十曲を公開してきたが、特に話題にもならず、たいした再生数にもなっていない。本当にただ公開されているだけという状態で、たまにコメントがつくと喜んで返信するという具合だったから、誰にも知られたくなかった、というのが本音だ。  それなのに、そんな僕の臆病さをあっさり無視して、彼の問いかけはほとんど確信に近いように聞こえた。そんな彼をごまかすことなんてできるだろうか。  …いや、違うな。僕は小さく首を横に振る。本当は、ちょっと嬉しかったんだ。自分の楽曲を見付けてもらえたこと、認めてもらえたこと、そして、その人が彼だったこと。  それをなかったことになんて、できなかった。  もう、観念するしかないんだろうな。僕を見つめる彼の笑顔をあきらめたような気持ちで見つめ返して、僕は腹をくくった。 「…なんでわかったの?」  それでも、最後の抵抗とばかりに、あと、単純に理由を知りたいという気持ちもあって、ため息まじりに聞いてみた。 「俺、同年代のアーティストを発掘するのが好きで、検索してたまたま見つけたんだけど、」  たしかに、チャンネルの説明欄には、『都内在住の高校生』と記載してある。 「授業で奏の曲を聞いて、なんとなくだけど、もしかしたらって思ったんだ」  作曲の授業では、テーマにしたがって制作した楽曲をデータにして提出する、という課題がよく出される。そして、テーマをよく表現できている作品や、単に担当の教員が気に入った作品は、音楽科のクラス内に共有されることがある。その際、基本的に作曲者の名前は伏せられるが、何せ一クラスしかないなので、誰の作品なのかがわかってしまうことも多い。  でも、そのような事情も考慮して、課題用の作品は、なるべく趣味の作品と類似しないように気を付けているつもりだった。課題の数曲を聞いただけで、ネット上の匿名の作品と僕を結び付けるのは難しいのではないだろうか。 「それだけでわかったの?」  僕が追及すると、 「…ごめん、実は気になってピアノ室の前でこっそり聞いてた」  彼は苦笑いしながらそう白状した。 (相沢遥のくせに、若干ストーカーっぽいな…)  ピアノ室とは、在校生がいつでも利用できる練習用の防音室で、北校舎の端にある。普段はあまり人気のないその場所で、こそこそと僕のピアノの音に耳を澄ませている彼の姿を想像して、僕はちょっとおかしくなった。  彼のスマホは僕のチャンネルを表示し続けているらしく、広告を挟んで、今度は先程とは別の僕の楽曲が流れてきた。  聞いてもいないのに、彼は僕の楽曲の感想を語り始めた。 「さっきの曲もいろんな音が楽しくて好きだけど、今はこの曲をよく聞いてるんだ。どの音を聞いたらいいかがわからなくなるような感じがして、でもなんかそれが気持ちいいんだよね。単純に全体のメロディも切なくて好きだけど」  自分の作った楽曲を目の前で流されて、しかもその感想を聞かされるという体験は、気恥ずかしいような面映ゆいような、初めての気持ちにさせられた。コンクール用にピアノの演奏を録音して、教師も同席してそれを聞いて講評することはあるが、そのときには感じたことのない感覚だ。  ちなみに、(自分の作品について自分で語るのはあまり好まないけれど、)最初に流れていた楽曲は、僕が演奏したピアノの音に、パソコンで他の楽器の音や電子音を組み合わせた、どちらかというとポップなノリの作品だ。  今流れているのは、ピアノの演奏を重ね合わせた楽曲で、二人のピアニストが会話しているようなイメージで作った。二つのメロディがメインになったりサブになったりを繰り返して、終盤で両方がメインのメロディになる。一般受けはしないかもしれないが、僕としては気に入っていたから、彼に好きだと言ってもらえて純粋に嬉しかった。 「あとは、こっちの…」  彼がスマホを操作しながら話すので、ふとその画面をのぞき込んだ僕は、もう今日何度目かもわからないが、またもや驚かされることになった。表示されている彼のアカウントに、見覚えがあったのだ。  自虐でもなんでもなく、数えるほどしかいないのだから、いやでも記憶してしまっている。目に入ったその文字列は、僕の脳が幻を見せているのでなければ、僕の楽曲に欠かさずコメントをくれるアカウントと同一のものだった。  さっきは血の気が引いて青ざめたばかりなのに、今度はみるみるうちに顔に血が上って、耳まで赤くなっていくのが、自分でもわかった。  彼に不審に思われないか、気が気ではなかったが、幸いなことに、彼は僕の楽曲のお気に入りのフレーズを再生するべくスマホを操作していて、こちらの様子には気付いていないようだった。  …見なかったことにしよう。もしまたこのアカウントからコメントがきても、何食わぬ顔で普通に返信しよう。  僕はそう心に決めて、どうにか平静を装った。  さきほどまでは頭の片隅にあった、このチャンネルの持ち主が僕であることを誰かに話したのか、彼に確かめておかなければという気持ちは、どこかに消え去ってしまっていた。  何の根拠もないけれど、彼はおそらくこのことを誰にも話していないような気がしたし、もし話していたとしても、彼がそう選択したのならそれでいいとさえ思った。  楽しそうに僕の楽曲について話す彼を見ながら、僕が考えていたのは、彼にどのような楽曲を提供しようか、その曲を彼はどのように歌ってくれるだろうか、ということだけだった。  その日から、月並みな表現かもしれないが、僕の世界はカラフルに塗り替えられていった。  今となっては、ありがたいことに方々から依頼を受けて楽曲を制作しているが、誰かのために曲を作ったのは、このときが初めてだった。  十七才の春から、秋の文化祭までの半年間は、おそらく僕の一生の中で最高の季節だった。  当時、彼は、芸能界の仕事と学業とで本当に忙しそうにしていた。(加えて、僕たちは受験生だった。)その中でうまくやりくりして作った時間の、おそらくほとんどを、僕との楽曲の制作や練習のためにあててくれていたんじゃないかと思う。  僕の方はというと、彼に比べればごく一般的な高校生をしていたから、比較的、時間には融通がきいた。彼が仕事で不在のときは、趣味の楽曲を作るときもあったが、一方でコンクールに向けての課題曲の練習にも励んだ。  自作の楽しみを覚えてからは、コンクール用に演奏の精度を上げていくことを、単純で義務的な作業のように感じていたけれど、そのときは違っていた。ピアノの音を奏でれば奏でるだけ、自分の音楽が花開いていくような感覚さえして、まるでピアノを始めたばかりのころのような、わくわくした気持ちを思い出した。  そして、その年の夏、久しぶりに国内では最高峰と言われるジュニアコンクールで入賞を果たし、それを最後に僕はコンクールの世界に別れを告げた。優勝者の演奏と比べると、情熱、技術、努力、それにおそらく才能も、僕には足りなかった。  一抹の寂寥感はあったけれど、振り向きはしなかった。自分にとってより大切なものが何なのか、そのために今自分がどうするべきなのか、彼と音楽をする中で、僕は気付き始めていた。  あのあと、僕たちはひとまず連絡先を交換し、彼は仕事があるからと言って、カフェテリアを立ち去っていった。僕は今さら教室にも戻れなくて、足早に帰宅し(たまたまお弁当と一緒に鞄も持ってきていてよかった。)、グランドピアノを備えた自宅の防音室にこもった。  彼は何を歌いたいんだろう。どうして歌おうと思ったんだろう。誰に、何を伝えたいんだろう。僕は彼のことを何も知らない。僕は、彼に何をしてあげられるだろう。僕と彼は、何を生み出すことができるんだろう。  その日のうちに夢中で書き上げたピアノ曲は、今でも誰にも公開していない。安易で、幼稚で、純粋な、二度と生み出せないメロディ。世界中で僕だけが、たまに手遊びのように弾く。

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