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2.初めてのピアノ室
彼からLINEのメッセージがあったのは、翌々日の日曜日だった。連絡がないまま、月曜日に学校で会ったら、どんな顔をしたらいいんだろうとちょっと心配していたから、安心した。
『一昨日の件、相談したいんだけど、明日の放課後って時間ある?』
特に予定もないので、いつものように学校のWebサイトにログインしてピアノ室の空きを確認し、月曜日の放課後の一枠を予約する。
『大丈夫。第一ピアノ室でいい?』
『ありがと。それじゃ、明日』
その夜、何か持っていくものはないかな、という考えが頭をよぎったが、メモも録音もスマホで事足りるし、張り切っているように思われるのもいやだったので、いつもと同じように学校の準備をして、ベッドに入った。なるべく平静を装って目を閉じたが、正直な僕の脳みそはぐるぐると回り続けて、でも何も考えられなくて、なかなか眠りにつけなかった。
朝、教室で彼と顔を合わせたけど、「おはよう」とあいさつするだけで、それ以上の会話にはならなかった。いつもよりも長く感じる授業の時間を、いつものように彼の後姿を何とはなしに眺めながら、どうにかやりすごした。
最後の授業が終わったとき、彼は僕の方に振り返って、「あとで」と小さな声で一言だけ言い残して、さっさと教室を出て行った。
約束のピアノ室に赴き、ドアの小窓から中をのぞいてみたが、彼はまだ来ていないようだった。
先に入室し、記録簿に名前と時刻を記入する。狭い防音室には、アップライトピアノと、教室で生徒が使用しているものと同じ机と椅子が一組だけ。
どちらに座ろうかと思って、やはり僕はピアノ椅子を選んで腰かけた。手持ち無沙汰なので、手が動くままに最近の自作曲を奏でてみる。短い曲の最後まで弾き終えたところで、ドアの小窓から彼がのぞいているのに気が付いた。
僕と視線があうと、彼は小さな窓から笑って手を振り、ドアを開けて狭い空間に入ってきた。
「ごめん、遅くなった?」
「大丈夫」
先に教室を出て行ったのにどこに寄り道をしていたんだろうと思ったけれど、わざわざ問いただすのもはばかられていたら、
「ここ、切れてない?」
と彼は頬を指さして聞いてきた。
「どしたの?」
「彼女の爪があたったみたい。いや、もう元カノか」
「今、別れてきたの?」
僕はぎょっとして聞き返した。
「いや、俺の方は別れる気はなかったんだよ。今朝、しばらく忙しいから会えないってLINEしたら、さっき呼び出されて、しばらくっていつまでって聞かれて、文化祭までかなって言ったら、こうなっちゃったんだよね…」
(…それは、当然なんじゃ…)
僕は内心思ったが、声には出さなかった。
彼はまったく悪びれた様子もないし、むしろ、その話し方や態度からは、こうなってしまったことを面白がっているような雰囲気すら感じられた。(彼の仕事は俳優だから、失恋の悲しみを隠すためにそう演じている、と考えられなくもないんだろうが、そんな印象は受けなかった。)
どう反応するべきか、僕が逡巡していると、
「まぁ、それはいいとして、本題に入ろっか」
彼の方から切り上げてくれたので、当時すでにその手の話題に苦手意識があった僕としては、正直助かった。
本当にそれでいいのかな、と思わなくもなかったが、ピアノ室の予約は一時間だし、僕が口出しするのもおかしいかと思って、追求しないことにする。
僕は狭い部屋の道をあけて、彼に部屋の奥のイスに座るようにうながした。
着席してすぐに彼が説明してくれたのは、次のような内容だった。
この高校の文化祭は毎年十一月の文化の日に開催され、文化祭のステージに出演する場合、九月中旬までに申請がいる。
ステージは、演目の内容や出演者の人数、希望等によって、講堂のメインステージ、もしくは、学内発表会用の小さなホールが割り当てられる。その年のエントリー数によるらしいが、メインステージはクラスや部活の団体が優先され、少人数の有志で参加する場合の持ち時間は十分が限度。ホールなら、演目の所要時間に応じて時間を割り振ってくれるが、音楽演奏の場合、基本は十五分になる。(別途、各枠の間に入れ替えと準備の時間として五分もらえる。)ピアノは講堂でもホールでも利用できるそうだ。
彼がいつからこのことを計画していたのかはわからないが、リサーチは十分らしい。
「大勢に見てもらいたいか、曲数を多くやりたいか、になるよね。奏はどっち派?」
「そこまで考えてないよ」
「だよねぇ。俺もそこはこだわらないし、もし奏がいいなら、とりあえずいろいろ作ってみたいな」
僕に否やはなかった。
歌詞のある楽曲を作成する際には、たいていの場合、詞もしくは曲のどちらかを先に作り、そこにもう一方をあわせて作る。詞を先に作ってそこに曲をのせるのを詞先、曲を先に作ってそこに詞をのせるのを曲先という。
歌を作りたいと言っているんだから、これくらいは知っているかなと思いながら説明したが、彼はふんふんとうなずきながら聞いていた。
僕は詞に曲をつけたことはないので、できれば曲先ですすめたいという気持ちはあったが、僕の都合であわせてもらうのも悪いし、自分から誘ったからには、彼の中に何か伝えたいメッセージがあるのではないかと思い、
「歌詞とか、歌のイメージはある?」
と聞いてみたのだが、
「うーん、特にないなぁ…」
そんなこともないらしい。
本当に歌を作って歌う気があるのだろうか、とちょっと怪訝に思ったが、
「いろんなパターンをやってみた方が、いいものができるんじゃないかな」
と言われて、たしかに、最初から型にはめてしまうよりは、さまざまな方向から可能性を引き出してみた方が、よい作品が生まれるような気がした。
ひとまず、次回までに、彼は詞を、僕は曲を書いてくることになった。うまくイメージがあえば、それをあわせて一つの楽曲にしてもいいし、彼の詞に僕が曲を書いて、僕の曲に彼が詞を書いて、二曲にしてもいい。場合によっては、ボツになってもいいから、遠慮せずに意見を言い合おう、ということになった。
「遠慮しないって意味ではさ、俺のこと、なんて呼ぼうかって思ってない?」
僕は友人のことはたいてい名字で呼んでいたが、彼の方が僕のことを下の名前で呼ぶから、なんとなく名前を呼ばずにやりすごしていたんだけど、言い当てられてしまってちょっと気まずくなった。
「ごめん、わかった?」
「全然。芸名もあるし、呼びにくいよね。でも仕事じゃないし、悠人でいいよ」
そういうことじゃないんだけど、と思ったが、彼にとってはそれが自然なんだろうか。
遠慮しない、という言葉を自分に言い聞かせながら、
「…名前で呼ぶのって、僕は慣れないんだけど」
と正直に言ったら、
「…たしかに、言われたらそうかも。別に何て呼んでくれてもいいんだけど…。俺の場合、ずっとYouTube見てたから、今更、クラスの伊東さんっていう感じがしなかったんだよね」
彼はそう説明してくれた。
たしかに、僕にとっても、彼はクラスの相沢さんというよりは、相沢遥だったので、そんなもんかな、と妙に納得した。
こだわるのも逆に恥ずかしい気もしたので、彼が提案したように本名の下の名前で呼ぶことにした。
しばらくは慣れるのに苦労したけど、いつの間にか『相沢遥』は同級生で合作の相方の『悠人』に変わっていった。
そこまで話した時点で、ピアノ室の残り時間はあと十分くらいだった。
次回の打合せの予定を来週の月曜日、同じ時間に決めて、同じピアノ室の予約もすませたので、今日はもう帰ろうか、と僕が言いかけたら、
「ちょっとだけ何か弾いてくれる?」
彼に先を越されてしまった。(僕はピアノの演奏以外はたいていいつもワンテンポ遅い。)
僕は少し考えてから、先日、彼が気に入っていると言ってくれた、僕がYouTubeに投稿したピアノ曲の片方のメロディを弾いた。
この楽曲は主旋律が二つあるから、例えば、この楽曲に彼が歌詞をのせるのは難しいだろうな。
そう思いながら鍵盤を叩いていたら、ふいにもう片方のメロディが、小さく僕の耳に届いた。歌詞はない。鼻歌だ。
…よく覚えているな。僕は素直に感心した。
それぞれのメロディ自体は複雑ではないが、主旋律が入れ替わったり、重なり合ったりしている部分も、彼は的確に音をとらえている。
彼自身は、あんまり歌がうまくないと言っていたけれど、そんなことはない。マイナー調で切なげな声がいいし、歌い方にくせはあっても、下手ではない。(彼は声楽専攻だから、求めるレベルが高いのかもしれないけれど。)
低音も高音も耳に心地よい。なんだが、自分が作ったメロディなのに、新しい旋律を聞いたような気がした。
彼の声は、僕のピアノの音とよくなじんでいる。違う音なのに、一つの音になっているように思えるときすらある。
僕は目を閉じて彼の声に耳を澄ませながら、鍵盤の上をすべるように指が動くのと、予感めいた静かな期待のようなものを感じていた。
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