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3.何も書けなかった
「ごめん! 何も書けなかった…」
翌週の月曜日、僕がピアノ室に入ると、開口一番、彼は顔の前で手のひらをあわせてそう言った。(相変わらず、教室ではほとんど会話のない僕たちだった。)
そんなに謝らなくても、責める気はないんだけどな、と思いながら、
「忙しかったの?」と聞いてみると、
「そうでもなかったんだけど…」と彼は最近のスケジュールを説明してくれた。
曰く、チョイ役のテレビドラマの撮影(週に二、三日。待ちが多いので時間はあるとのこと。)、週に二回のレッスン(演技や発声、ダンスなんかもあるらしい…。)、隔週でラジオの収録、あとは月に一回雑誌の連載用の取材があるが、「そんなに忙しくない」とのこと。
僕からすると、高校生の内から、しかも受験生がそんなに働いてどうするんだ、と驚きと呆れが半々くらいで思ったが、彼にとっての日常を僕がどうこうも言えないし、ふーん、とうなずいておいた。
「なんか、考えれば考えるほど、わかんなくなっちゃって…」
「じゃあ、何かテーマみたいなものがあったら、書きやすくなる?」
「テーマ? 例えば?」
ポピュラーソングのおそらく大多数を占めるのは、ラブソング、つまり、恋をテーマにした歌だろう。
僕は、早まったかな、と思いながらも、あえてそれをはずすのも不自然な気がして、
「まあ、一般的には、恋愛の歌が多いんじゃない。あとは応援歌とか」
何気ないふりをして、そう答えた。
「恋愛? それ、マジで言ってる?」
そう言えば、彼はつい先日彼女と別れたばかりだった。僕はまた自分のことばかり気にして、配慮に欠けていたのかもしれない、と少し焦ったが、
「違う、違う。この間のあれは、気にしないで」
彼はそれを見透かしたみたいに苦笑いして答えた。
「俺、告られたらだいたい付き合うようにしてんの。好きになってくれた人を好きになれたらハッピーじゃん」
彼の中で、『恋愛』と『付き合う』と『好き』はどのようにつながっているのだろうか。僕はそれを知りたいような、けれど聞きたくないような気がして、胸のあたりがもやもやした。
「…でも、なかなかそううまくはいかないよね…」
後半は、半ば独白のように聞こえた。
彼にも、恋をした相手に振り向いてもらえなかった経験があるのだろうか。
僕は、よくないな、と思いながらも、マイナスの気持ちが頭の中を渦巻きながら侵食していくのを感じていた。
彼の思い出に同情したわけじゃない。(当時の僕に、それだけの余裕と優しさがあったらよかったけれど。)いつものように、一方的に他人と自分の間に線を引いて、一方的にそれを寂しく思ってしまっただけ。そして、そんな勝手な自分がいやになっただけだ。
「でもさ、」
彼は気を取り直したように言葉を続けた。
「奏は、恋愛の歌がいいの?」
「…あんまり好きじゃないけど…」
「やっぱり。奏って、そんな感じ、しないもん」
「……」
彼が感じた印象をどう受け取っていいのか、僕にはわからなかった。やはり、僕は恋愛に縁がなさそうに見えるのだろうか。それを聞く勇気もなくて、返答に困っていたら、
「別に、変な意味じゃなくてさ。ほら、クラスの男子が恋バナで盛り上がってんの、うざくない?」
「…別にうざいとは思わないけど…」
自分には縁遠い話だから、やはり疎外感は感じてしまう。恋愛や性的な話題についていけない。経験もないし、そのような感覚を理解できない。
特に、恋バナなんて言って、誰と誰がどうした、どうなったなんて、まるで自己顕示のように仲間内で共有しているのを聞くと、嫌悪感を覚えてしまう。
友人をそんなふうに思いたくないし、おそらく自分の方が『特殊』なんだろうという思いもあったので、その感情に『うざい』という言葉をあてはめたことはなかったが、
「まぁ、苦手かな」
そう言葉にして、僕は初めてその気持ちを人に話せて安心していることに気付いた。
「だよねー。あの男子同士のノリみたいなのって、何なんだろうねー。マジきもいー」
彼がちゃかすように言うので、
「それはわかる」
と言って僕も笑った。
恋愛が苦手なことと男子同士の悪ノリが苦手なことは別のような気もしたし、彼と僕の立場は全然違っていたけれど、それでもその会話は当時の僕にとっては救いになった。
「恋愛がナシなら、応援歌? 応援って、何を応援するんだろう?」
こいつは本当に歌を作って歌う気があるのだろうか、とまたしても思ったが、基本的にまじめな僕はまじめに提案してやる。
「具体的に何かを応援するっていうより、自分がつらいときにどんな言葉ではげまされるかを考えてみるのは?」
「んー、なるほどー。…俺はつらいときはそっとしといてほしいかな」
「…おい…」
「ごめん…。恋愛も応援も、なんかぴんとこなくて…」
こいつは意外と強敵だ。さすがの(?)僕もだんだん口調と態度がおざなりになってくる。
「…自分のことで書けないなら、ほら、あんた、俳優でしょ? 例えば、今までの役で印象に残ってるのは?」
「でも、それだと俺の歌じゃなくて、その役の歌になっちゃうんじゃ…」
「あ、そう。じゃあ、テーマは一旦おいといて、文化祭で歌を歌いたいって思ったのは、どうして?」
「伊東奏と音楽を作りたかったから」
そこは即答なのか。
「それなら、」
「そっか!」
僕が「とりあえず曲先で」と言いかけたのと、彼が思い付いたように声をあげたのは、ほとんど同時だった。
「先に奏の曲、聞いてみてもいい?」
最初からそうすればよかったのに、と思わなくもなかったが、名案を思い付いたみたいな彼の表情がおかしくて、僕も知らず笑ってしまった。
この意味のないようなやりとりを、どうしようもなく無駄な時間を、僕は楽しんでいることに気付いていた。(たぶん彼もそうだっただろう。)
録音データがあると言ったのに、せっかくだから弾いてと言われて、僕はいそいそとその場でピアノを演奏して聞かせた。
なるべく歌いやすいメロディかつ歌詞がのることを意識して作曲したのは、僕にとっては初めての試みだった。誰かに歌ってもらったり、詞をつけてもらったりするのを想像して楽曲を制作するのは、なんだかこそばゆく、そして意外と楽しかった。
彼は一回目の演奏をじっと聞き終え、
「これに詞をつけるなら、できるような気がする。もう一回弾いて」
静かな声でそう言って、真剣な表情でシャーペンを片手にノートを開いた。
僕は二回目を演奏する。彼はときおりペンをとめながらも、さらさらと文字を書き留めていく。
僕は彼のイメージを途切れさせないよう、ピアノを弾く指先に集中しながらも、視界の隅で白いページに言葉があふれていくのを、不思議な気持ちで眺めていた。
「もう一回」
僕が三回目を弾き終わるころ、ノートの一ページが埋まっていた。彼はそれを読み返しもせずに、僕に手渡した。
「こんなイメージでどう?」
彼が今しがた綴ったばかりの文字を、目でなぞる。彼が書いた詞は、誰かの感情とか、ストーリーとかじゃなくて、言葉の羅列みたいなものだった。
(…きれいだ…)
この歌詞からどのような世界をイメージするかは、聞き手に委ねられるかもしれない。でも、僕には、彼の中の色彩や景色みたいなものが、鮮やかに広がったような気がした。
「…うん、いいと思う」
「よかった。…やっぱり奏の曲はすごいね。言葉が沸いてくるような感じがした」
彼の無邪気な笑顔がまぶしくて、僕はそっと目を伏せた。僕の曲がすごいんじゃない。僕の曲を聞いて、言葉を紡ぎだせる、彼の力が特別なんだろう。
彼のその才能は、共作の相方としては歓迎すべきはずなのに、なんだか寂しいような苦しいような気持ちも同時にそこにあって、その正体も理由もわからなくて、僕は戸惑った。
「曲のデータはあとで送るね」
持て余した思いを切り離すように、彼にノートを返した。
「うん。文字数とか、細かいところは次回までに修正してこればいいかな」
「そうだね。次回以降、歌とピアノをあわせながら、ブラッシュアップしていったらいいと思う」
「りょーかい」
「…いろんなパターンがあった方がいいって話だったけど、詞先はどうする?」
「うーん、自信はないなぁ…」
「無理に書いてもよくないと思うし、何か思いついたら、くらいにする?」
「そうしてくれると助かる。ごめんね、俺が言ったのに」
そんなことは気にしていないと僕は首を横に振った。
彼も笑って頷いて、時計をちらっと見た。まだもう少しだけ時間がある。
「さっきの曲、もう一回弾いてくれる?もちろんデータも聞くけど、生演奏の方が、イメージがふくらむような気がする」
「何回でも」
僕はまた鍵盤の上に指をすべらせた。彼は、今度はノートに向かわずに、目を閉じて音色に耳を傾けている。
「至上の贅沢。伊東奏のファンに怒られそう」
僕のファンなんているんだろうか、と思いながらも、軽口に付き合う。
「それを言うなら、僕は相沢遥のファンに怒られるね」
「…アイドルじゃないし、そんなに過激なファンはいないと思うよ」
「それならいいけど」
「奏のファンは、なんかこわそう」
「僕のファンなんかいないって」
「いるよ。俺、俺」
「…こわいの?」
「こわいよ~、同担拒否!」
「だから、同担がいないって」
「…マジで言ってんの?」
「ん?」
「……」
ピアノを弾きながら、こうやって彼と言葉を交わしたり、彼の歌声を聞いたり、ただ静かに過ごしたりする時間を、十五年以上経った今でも、僕は大切な宝物のように思っている。
こうして、放課後のピアノ室が、僕たちの主な創作の場になった。
ああでもない、こうでもない、と言い合いながら、彼と同じ時間を共有して、楽曲を作り上げていく作業は、本当に楽しかった。
小さな言い合いになることはあったけれど、深刻なけんかになることはなかった。
彼は、素直で、無邪気で、よくしゃべって、でも頑固なところもあって、言うとたぶん怒られるけれど、子どもみたいだった。僕は、そんな彼の性格やいろいろな表情を一つずつインプットしながら、それに対応していくのが好きだった。
けれど、彼の歌詞を最初に見せてもらったときのように、ふいになぜか寂しくなることもあった。
そんなとき、ふと彼の声が僕のピアノと調和する瞬間があると、胸が締め付けられるような、泣きたくなるような気持ちになって、人は恋をするとこんな気持ちになるんだろうか、と想像してみた。
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