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21.その手をつないで

 それから、菜月とりくと僕は、よりよい形で家族になれるよう、幾度となく話し合いを重ねた。  親権、養育費、住居、相続…。法的な枠組みに守られない僕たちには、考えなければならないことが数多くあった。  話した内容はすべてパソコンでメモを取って、都度、見解の相違や疑問点がないかを三人で確認し合うようにした。同性カップルを支援する団体に所属しているという菜月の知人に、話し合いの場に加わってもらうこともあった。  その人からのすすめもあって、メモとは別に、決め事をまとめて誓約書という形で一つの文書にし、最後に紙に印刷して三人でサインをした。後々になって、意見の食い違いが生じた場合や、万が一、何らかの理由で三人の意思疎通が不可能になった場合も想定して、備えておいて損はない、ということだった。  菜月と僕の両親にも、誓約書のコピーを携えて、三人で話をしに行った。  菜月の方は、ご両親にもとっくにカミングアウトしていたし、りくのことも二人が同居を決めたときにパートナーとして紹介したと聞いていたので、話はスムーズだった。ご両親はやたらと僕に恐縮していていたけれど、それでも、今回のことをとても喜んでいるようだった。  僕の両親には、段階を踏んで、まずは僕から話してみることにした。今後、長い付き合いになるだろうことを考えると、菜月とりくに会う前に心の準備をする時間があった方が、お互いにとってよい結果になるんじゃないかと思ったからだ。(悪意はなくても、無意識の言葉や態度で、ひとは簡単に傷ついてしまうものだ。)  僕は、誤解のないように、できるだけ丁寧に、自分の気持ちを言葉にした。菜月とりくは僕の大切な友人で、二人は僕の幸せを考えてくれていて、僕もそれを幸せに思っていることが、ちゃんと伝わるように。  やはり、両親は戸惑いを隠し切れないようだった。それでも、僕がカミングアウトしたときと同じように、僕の話をまっすぐに聞いてくれて、それだけでもありがたいと思った。  誓約書のコピーと、大量の話し合いのメモの中から、両親に関係しそうな部分を抜粋、要約したものを渡して、「気が向いたら、読んでみて」と言い置いて、その日は早めに退散した。  すぐに納得してもらうのは難しいだろうと覚悟していた。だから、しばらくして、両親から「菜月さんとりくさんに会ってみたい」と連絡があったときには、少し驚いた。  すぐに日取りを調整して、今度は菜月とりくと僕の三人で実家に赴いた。菜月とりくは緊張しきっていたけれど、両親は本当に「会ってみたい」だけだったようで、会合は穏和に終始した。無事に子どもが産まれたら、孫として接してくれるように頼むと、両親は嬉しそうにしていた。  りくの両親には、りくの希望もあって、今の時点では話をしないことになった。  過去の事件があって、両親とはぎくしゃくしているという話を聞いていたから、それもまた一つの選択なのかもしれない。けれど、僕の両親と会ってもらったときのりくの笑顔には、ときおり寂しげな陰があったように僕には映った。りくは、本当にそれでいいのだろうか。  何度ものどまで言葉が出かかったけれど、どうにかそれを飲み込んで、結局、僕は何も言わなかった。  きっと、パートナーである菜月とも相談して、りく自身が決めたことだろう。口出しするだけが、家族ではない。それとなく気にかけて、見守って、必要なときに助け合える。そんな関係がいい。そう僕は思った。  菜月は排卵検査薬を駆使して、(あまり言いたくないけれど、僕もなんとかがんばって、)本当にありがたいことに、二回目の排卵のサイクルで妊活はすんなりと実った。(かなり幸運な部類のようだ。)  病院で妊娠を確認してもらってから、約八ヶ月の期間を経て(その間もつわりやら仕事の調整やらで大変そうだった…。)、菜月は無事に女の子を出産した。  あまり実感はなかったが、僕は父親になった。  菜月とりくはその子に『七理(ななり)』と名付けた。  僕たち三人の名前から一文字ずつとって、かつ、性別にとらわれないような名前にしたかった、と二人は話していた。  菜月の出産前、二人は僕のマンションの同じフロアに引っ越してきて、新しい暮らしをスタートしていた。  マンションの契約の際は、僕も不動産会社の説得に協力した。  その時点で菜月の配偶者は僕であり、僕と菜月は別の部屋を借りて、菜月の部屋に法的には他人であるりくが同居するというのは、なかなか理解してもらうのが難しいようで、もどかしかった。どうにか契約にはこぎつけたけれど、これからの人生で二人が、そして未来の子どもが、経験せざるを得ないだろう苦労(それは本来必要のないものだ。)を考えると、やるせなさを感じずにはいられなかった。  産休を経て、菜月はそのまま半年くらい育休を取得し、子育てに専念していた。  力を入れて取り組んでいた『LGBTQ+αrt』の連載は、後任の担当者に引き継いだそうだが、やはり自分が続けたかったと悔しがっていた。在宅ワークで連載だけは続けられないかと会社にかけあったが、育休を取得する以上、業務として従事させることはできないと言われ、泣く泣く断念したそうだ。 「私が育休をとれたらよかったのにね」  りくが言ったように、法律上は他人であるりくは、会社の制度上、育休を取得できなかった。(最近では、法的に婚姻関係になくても、パートナーに育休を認めてくれる会社もあるようだが、まだまだ少数派らしい。)  それでも、菜月が休めるように、夜中の授乳や寝かしつけを交代したり、週末におかずや離乳食を作り置きしたり、りくは自分ができる精一杯で菜月と七理を支えていた。  菜月とりくと七理が営む生活は、一般的な家庭と同じ、もちろん何の遜色もない、人と人とが支え合って幸せを築いていく姿で、それが社会的に保証されないなんてことは、僕には、何かの間違いとしか思えなかった。  ちなみに、(自分で言うと恩着せがましいかもしれないが、)比較的仕事の時間に融通がきくこともあって、微力ながら、僕も家事に育児に奮闘した。もちろん苦労も多かったけれど、あまり子どもに興味のなかった自分でも、小さな命を抱き上げると自然と笑顔になれた。七理の成長や日々のわずかな変化を間近で見つめていると、幸せを感じられた。  菜月が約半年の育休を終え、保育園に七理を預けられるようになっても、二人の仕事の都合によっては僕が保育園のお迎えに行ったり、週末は七理を連れて僕の部屋に遊びに来てくれたり、多くの時間をともに過ごした。(保育園については、運営の権限が各園に委ねられている部分が多いそうで、もちろん最初の説明は必要だったが、比較的スムーズに、菜月もりくも僕も七理の保護者として対応してもらえた。)  毎日は難しかったが、それでも週に何回かは、なるべく時間をあわせて夕食を一緒にとるようにしていた。(一人暮らしの僕は正直大助かりだった。)彼がそこに加わることもたまにあったし、月に一回くらい、菜月とりくがデートするときは、僕が七理の世話を買って出て、タイミングが合えば子ども好きの彼に手伝ってもらうこともあった。  はたから見たら不思議な光景だったかもしれないが、それが僕たちにとっての家族の形であり、日常だった。  彼から結婚の連絡があったのは、そんな折だった。  一晩眠らずに完成させた曲をピアノで演奏し、その録音データを聞き返しもせずに、いつもの彼のメールアドレスに送りつけた。  気が付くと、いつのまにか、もう日が高くなっていたみたいだ。寝室に降り注ぐ日差しをカーテンで遮って、僕は満足して眠りについた。 (…声…聞きたいな…)  まどろみの中で、ぼんやりとそう思った。  たぶん、一晩中、彼のことを思い出しながらピアノを弾いていたからだ。  やっぱり、僕のピアノには、彼の声が一番合うから。  ただ、それだけの理由だ。  撮影の合間にスマホを見ると、奏からメールが届いていた。  昨夜はソファで眠ってしまって、気持ちも身体も重たかったけれど、その瞬間、それを一気に忘れてメールを開いた。  奏にしてはめずらしく、そのメールにタイトルや本文はなく、音声データのファイルのみが添付されていた。  もしかして、昨日の今日でもう曲を書いてくれたのだろうか。  ファイルの中身は気になったけれど、その場で確認する気にはなれなくて、なるべく気にしないようにして仕事を終わらせ、夜、いつもどおりにマネージャーに自宅まで送ってもらった。  帰りの車中で再生してしまおうかとも思ったけれど、やはりためらわれて、結局そのまま帰宅した。自分からお願いして曲を書いてもらったくせに、早く聞きたいような、聞くのが怖いような、相反する思いがあることに、自分でも気付いていた。  食事は現場で済ませていた。さっとシャワーを浴び、部屋着に着替えて、洗濯機のタイマーをセットするまでのいつものルーチンを、ほとんど流れ作業でこなした。  明日は撮休だから、就寝前の台本の確認もない。  もう、後回しにする理由がない。  観念して、仕事部屋のデスクの前に座った。パソコンを起動して例のメールを開き、ファイルを端末にダウンロードしてから、お気に入りのヘッドホンをつけた。なるべく何も考えないようにして、再生ボタンをクリックした。  聞き始めて、まず、車で聞かなくてよかったと思った。  ピアノだけの曲だけれど、なぜだろう、どうしようもなく、わかってしまう。 (奏と俺の曲だ…)  瞼が熱くなるのをごまかすように、目を閉じて耳を澄ませる。奏と出会ってからの様々な情景が、あざやかによみがえってくる。  高校の教室。春。桜。カフェテリアのテラス。交換した連絡先。LINEの画面。初めての約束の日。ピアノ室の扉。高校から駅までの道。奏の覚悟。  秋。文化祭。一瞬のような、永遠のような十五分間。駆け抜けた中庭。二人乗りの自転車。背中に感じた、奏の体温。涙。  死に物狂いで勉強したこと。卒業式。伝えた思い。抱きしめた奏の身体。いつまでも離せなかった。  大学のキャンパス。居酒屋の匂い。共有し合えた夜。つないだ手と手。背中をくっつけて、ただ一緒に眠ったこと。  雨上がり。人気のない駅前。靄。最後にしようと言ったのに、できなかったキス。夏。運命の人。俺にとっては、奏しかいなかった。  薄暗いバーの個室。チーズの味。酔っ払いの奏にかまれた耳の感触。一番好きな人。混ざり合わない二層のカクテル。  幸せそうな友人たちの笑顔。小雨の帰り道。一つの傘の下。ずっと一緒にいるということ。衝動。高架下の湿った空気。タクシーの降り際、掴まれた腕。  冬。見慣れたリビング。奏がいる違和感。過去の再現みたいなシナリオ。愛してるという言葉。こぼれ落ちた雫。玄関を出ていく後ろ姿。  共作の時間。二人だけの至高の空間。奏のピアノと俺の声が一つになるあの光悦。十五の夏から、きっと死ぬまで、鳴りやむことはない音楽…。  結婚のお祝いという名目だったはずなのに、その部分に対しての感情は、祝福も喜びも、逆に悲しみも苦しみも、一切含まれていないように感じられる。  ただ、二人がともにすごした日々をつづったような、その歳月を包み込み、慈しむような、ただ優しくてやわらかな想いから紡ぎ出されたような、そんなメロディだ。 (…会いたいな…)  不意にそんな言葉が頭をよぎった。  ヘッドホンからの音が鳴り止んで、慌てて我に返る。けれど、その気持ちは消えない。…消えてくれない。  そっとヘッドホンをデスクに置きながら、自嘲する。もうごまかすこともできないみたいだ。  時刻を考えると非常識かもしれない。でも、そんなこと、今は気にしたくない。たぶん、しないでいい。  スマホの画面に奏の名前を呼び出して、電話をかけた。  コールの音がやけに長く感じられた。数回目のコールで、奏は電話に出た。 「はると…?」  奏の声を聞いて、自分でかけたくせに何だか緊張した。 「これ、夢…?」 「ごめん、寝てた? 夢じゃないよ」 「寝る前、声、聞きたいって思ってたから、夢かと思った…」 「……」  まだ寝ぼけているみたいな奏の言葉に、何も答えられずに束の間黙り込んだ。  ただ、会いたかった。  「…お前の家、行っていい?」 「今から?」 「うん」 「…いいよ。気を付けて来てね」  電話を切って、着の身着のまま、マンションの地下に下りて、車を出した。  夜の街を自分で運転するのは、久しぶりだった。  こんな深夜に、車を走らせて、俺は何をしているんだろう。そう思いながらも、この思いは止まらなかった。  なかなか変わらない赤信号にハンドルを指先で叩きながら、そんな自分に苦笑した。  彼女とは、もう二年くらいの付き合いになる。  知り合いに誘われて、柄にもなく参加したパーティーで、なんとなくお互いに気になっているのがわかって、そうなった。  たしか、菜月とりくが奏の両親に挨拶に行ったとか、そんな話を聞いたころだった。俺もいつかは結婚できるかな。そんなことを思ったような気もする。  それでも、具体的にそういう話が出たのは、つい先週のことだ。いつもの店で食事をしながら、彼女の担当のスタイリストさんがプロポーズされたとかいう世間話からの流れだった。 「はるくんは、結婚したいって思う?」  具体的に結婚する、しないみたいな話ではなかったが、彼女がごく自然に聞こえるように意識していたことも、すこし緊張していたこともわかった。おそらく、「私と」と言えずにいたことも。  彼女は俺と同い年だから、年齢も気になるころかもしれないし、もしかしたら俺から言ってもらえるのを待っていたのかもしれない。そう思うと、申し訳ないような気持ちにもなった。  『結婚』という言葉を頭の中でリピートしてみたとき、奏のことが思い浮かんだ。  この一年間、奏が菜月とりくの子育てを支えている姿を、そばで見続けてきた。  いいな。幸せそうだな。一般的な家庭の形とは言えないだろうが、そんなことはきっとどうでもいい。奏がやさしい顔で笑っている。菜月と、りくと、七ちゃん。奏の大切な家族に囲まれて。本当によかった。奏が幸せそうでよかった。  俺が、そこにいなくても。 (…もう、いいかな…)  そう思った。  この得体の知れない何かから解放されるなら、もう、それで。  俺は奏の手を離せない。けれど、もう片方の手を彼女とつないで、生きていくことはできる。彼女と当たり前の結婚をして、当たり前の幸せを手に入れることができる。  きっと、もう、それでいい。  少し頬を染めながら、俺との未来を嬉しそうに語る彼女の夢物語に、俺は笑顔で話を合わせた。  それから数日後、昨日のことだ。  突然の雨に撮影が切り上げられたので、共演者と少し飲んでから、それでも早い帰宅になった。  急にひまになっても何をする気にもならなくて、とりあえずいつものようにシャワーを浴びて、部屋着に着替えて、テレビをつけた。  ふと、プライベート用のスマホのバイブが鳴る。写真アプリからの通知のようだ。『昨年の今頃』の文字をタップすると、一年前、出産祝いを持って行ったときの七理の写真が画面に表示され、思わず顔がほころぶ。  ソファに寝転がって、次々と映し出される写真を何とはなしに眺める。今よりもさらに小さくて、まだ生まれて間もない頼りない七理の姿に、可愛いな、と目を細める。  思えば、昔から子どもは好きだった。奏と子守りをしたり、家族の食事に呼んでもらったり、七理に会う機会は結構あって、ついつい写真をとってしまうから、プライベート用のアカウントはいつの間にか七理の写真ばかりになっている。  自分の子どもは、もっと可愛いんだろうか。  彼女と結婚の話をしたことを思い出す。彼女と俺が結婚して、子どもを作って、家庭を築く未来。ごくごく一般的なそれは、あまりにも簡単に想像できる。  彼女とは気が合うし、俺と同じように幼いころからこの世界で働いて、仕事への理解もある。両親、親せき、仕事の仲間、学生時代の友人…。たくさんの人に祝福されて、きっと幸せになれる。  彼女のことも、未来の子どものことも、長いときをともに過ごすうちに、誰よりも大切な存在になっていくんだろう。  誰よりも。…もしかしたら、奏よりも。  そう思うと、なぜだろう、ぞっとした。  ひやりとしたものが内蔵に触れてくるような、そんな感覚。  自分が自分でなくなるような気さえした。  またスマホのバイブ音が鳴る。今度はLINE。奏ではない。彼女からのメッセージ。 『この間の話、あんまり気にしないでね。はるくんのタイミングでいいから』 「…………」  おそらくそれが彼女の気づかいであろうことはわかる。頭では、わかっている。  それなのに、なんだろう。この言いようもない違和感。そう感じてしまう、自分への恐怖。罪悪。  逃れるようにそのメッセージの画面を消して、目をつむる。それだけでは足りなくて、スマホを握りしめた手で視界を覆い隠すようにして、深く息をつく。  身体が重くて、動けなかった。しばらく、そのままじっとしていた。頭はいっぱいだったけれど、その中身は空っぽで、真っ白だった。  寝転がったまま、せきを切ったように、スマホの画面に奏の名前を呼び出し、通話ボタンをタップしていた。スマホから奏の声が聞こえて、慌ててテレビの電源を切った。  適当なあいさつもそこそこに、単刀直入に告げた。 「俺、結婚しようと思ってる」  迷いもためらいもなかった。俺じゃない、別の誰かが話しているみたいだった。  おめでとうと言われても、披露宴でピアノを弾くと言われても、まるで心が凍り付いているみたいに、何も思わなかった。  電話が切られて、今度こそもう何もする気も起きなくて、またソファに横になり、目をつむった。  目の前は文字どおり真っ暗なのに、奏の姿が目に浮かんで、二年前、奏に結婚すると打ち明けられたときのことを思い出した。  きっと家族を持つことをあきらめていたであろう奏に、家族ができる。どんな形でも、それが奏の選択なら、それで奏が寂しくないなら、幸せになれるなら、応援しようと思った。 『奏に家族ができること、嬉しく思います。ただ幸せを祈ってる』  奏に送ったLINEのメッセージに嘘はない。  スマホを胸に握りしめる。さっき通話を終えたばかりなのに、その相手からの着信音がなればいいのにと思っている。そんな自分をごまかすように、狭いソファの上で身じろぎする。  このソファだ。思い出したくない。  今、俺が横になっている、この場所だ。思い出しちゃ、いけない。 『セックスってどうやってするの?』  奏は俺に聞いた。そのあとどうなるのか、奏も俺もわかっていた。  奏の声、表情、熱、唇の感触。鮮明に覚えていることに辟易した。  スマホは鳴らない。明日は早朝から撮影だ。もう眠ってしまいたいのに、寝室に行く気力もない。  このまま寝室に行って、あのベッドに入ったら、どうにかなってしまいそうだった。  もう、何も考えたくなかった。   彼女のメッセージには、返信できなかった。  それが、昨日のことだった。  幹線道路から路地に入る。もうすぐ奏の家に着く。  俺の中で答えは出ているのだろうか。それは誰かを幸せにするだろうか。  昨日、俺はどうして奏に電話したんだろう。  俺は、どうして奏に結婚のお祝いに曲を書いてほしいなんて頼んだんだろう。  奏は、あんな曲を俺に送ってきて、どういうつもりなんだろう。  あの日、奏はどういうつもりで俺を誘ったんだろう。  奏は、ずるい。  奏の誘いを断れなかった自分を棚に上げて、思う。  さっき、奏の曲を聞いたときも、少しだけ思った。  奏は、ずるい。  でも、それは俺が望んだことだ。  奏を抱きたいと思ったのは俺だ。曲を書いてくれと言ったのも。  ずるいのは、俺も同じだ。  近くのコインパーキングに車を停めて、奏のマンションに向かった。  俺を迎え入れた奏は、俺にソファを勧めて、温かいお茶を入れてくれた。 「どうしたの?」  奏は俺の隣には座らずに、ソファの背もたれに腰を預けるようにして、お茶をすすった。 「送ってくれた曲、生で聞きたくなっちゃって」  さすがに会いたくなったとは言えなくて、そう答えると、 「…いくらでもどうぞ」  奏は自分の分のティーカップをそっとソファの前のローテーブルに置いて、グランドピアノに向かった。  特に前置きもなく、演奏が始まる。  俺もティーカップを置き、ソファに横になって、目をつむった。  優しい音に包み込まれる。 『結婚して幸せになって』  昔、奏に言われた。 『結婚なんてしないで』  今、いっそ、そう言ってくれたらいいのに。  奏がそう言ってくれるなら、俺は迷わずにその手をとるのに。  けれど、そんなこと、奏は死んでも言わないだろう。  ピアノの優しい音がする。  奏が、俺のためだけに書いた曲を、俺のためだけに演奏してくれている。  俺は、それを幸せだと感じている。今、自分はこの上なく幸せだと、感じている。  それ以外は、もう何もいらない。そう思えるくらいの、思ってしまうくらいの、至上の幸せ。  それが、答えなんだろうな。  ピアノの音色は変わらず優しい。  その音に包まれながら、ゆっくりと重い瞼を上げ、スマホを手に取り、電源を切った。  目を閉じると、彼女の泣き顔が頭に浮かんで、でもすぐに消えていった。  自分は最低かもしれないと思ったけれど、もうどうにもできなかった。  ピアノの音色は、変わらず優しく俺を包みこんでいる。  演奏が終わって、奏がそばに来る気配がしたけれど、俺は目を開けられなかった。 「悠人、寝ちゃった?」 「…寝てない」 「…泣いてるの?」 「泣いてないよ…」 「……」  泣いていないと言っているのに、奏がティッシュを引き抜いて渡してくれるから、俺は仕方なくそれを受け取って目元に押し当てた。  奏は、俺に占領されているソファとローテーブルとの間に座り、ティーカップをそっと手に取った。奏の背中の体温を感じた。 「…僕は、今、七理や菜月やりくがいてくれて、幸せだよ 「うん。わかってる」 「悠人が結婚しても、今と何も変わらないよ。僕は、たまに悠人と音楽できればいいんだ」 「俺も、それでいい」 「大丈夫だよ。あんたは優しいし、寂しがりだから、ずっとそばにいてくれる奥さんや子どもを大切にして、きっと幸せになる。それでも、僕が悠人を一番好きな気持ちは変わらないよ。何も心配しなくていいよ」  奏はこちらを振り向かずに、ただティーカップにじっと目を落として、さきほどのピアノの音のような、静かな優しい声で言葉を紡いだ。俺はそれを心地よく感じながら、また瞼を閉じた。  奏の言うとおりだ。  今、奏には家族がいて、一人じゃない。  俺にも、結婚して家庭を築いていこうと思える人がいる。  このまま、お互いにお互いをただ好きでいて、片方の手だけを握り合ったまま、もう片方の手を誰かとつないで、生きていくこともできる。  奏の言うとおり、俺は両方を手に入れることができる。 (…でも、それって、何のため…? )  それが普通の幸せだから? 親や世間に祝ってもらえて、自分が幸せだって安心したいから? (それが、本当に俺の幸せなんだろうか…?)  そっと目を開けて、自分の両手を目の前にかざしてみる。  もう離せない片手と、もう片方の手。  この手を誰かとつなぐのも、離すのも、俺の自由だ。誰ともつながずに、あけておくのだって。そのどれが幸せかなんて、誰にも決められない。  俺以外の、誰にも。 「…ねぇ、奏」  世間がどうとか、普通がどうとか、そんなことは抜きにして。  俺は、この手をどうするのが、俺自身の幸せだと思うんだろう?  俺は、この手をどうしたいんだろう?  その答えを探し求めるみたいに、俺はゆっくりと両手を伸ばし、その手のひらを奏の方に向けた。 「ここに、手、合わせてみて」 「手? …こう?」  奏は不思議そうにしながらも、ティーカップをテーブルに置き、こちらに向き直って、そっと手のひらを重ねてくれる。俺はその指の間に指を絡めて、ぎゅっと握る。 「なに? これ」  少し照れくさそうに、奏が笑う。 「…何だろうね」  答えにもならない返事に、気を悪くするでもなく、奏はつながった両手をまじまじと見て、手持ち無沙汰そうに両手をにぎにぎと動かす。その様子が子どもみたいで、なんだかおかしくて、俺は笑ってもう一度それをぎゅっと握りしめる。  このまま、この手を引っ張って、奏の身体を抱き寄せることもできるだろう。あの夜みたいに、キスして、抱き合って、つながり合うことも。  きっと、奏は拒まない。そうしてしまいたい衝動も、確かに俺の中にある。  けれど、今、奏の手の温もりを感じて、俺が望むのは、その衝動に従うことではないような気がした。  たぶん、俺は、その手を奪いたいんじゃない。自分のものにしたいんじゃない。  一生離さないなんて、もう離さないでなんて、そんな約束もいらない。  ただそうしたいときに、何も言わずに、つなぎあえたなら、それでいい。  それだけでいいから。だから。 「奏」  俺はもう一度その名前を呼んだ。きっと、俺が生まれてから死ぬまでの間に、もっとも多く呼ぶ名前になるんだろうな。そう思った。 「ん?」 「…この両手、もらってよ」 「…どういう、意味…?」  彼の言葉の意味を、おそらく僕はほとんど正確に理解していたと思う。それなのに、そんな言葉が口から零れだしたのは、それを認めてしまうのが怖かったからだろう。  そんな僕の思いを感じ取ってか、 「たぶん、奏が思ってるとおりかな」  彼は困ったように微笑むと、そっと手の力を緩めて指をほどいた。  離された両手に目を落とす。手のひらに残る体温。それがゆっくりと空気に溶けるように消えていくのを、寂しいと思ってしまう自分がいる。 「…どうして…」  僕はただ呆然と呟いた。 「俺にも、わかんない」  彼の声は笑っていたけれど、少し苦しそうに聞こえた。  彼はまたその両手を目の前にかざすようにして、眩しいものでも見るみたいにその手を見つめて、 「ただ、この手をつなぐなら、お前がいいなって思った」  静かにそう言った。  いっそ、今すぐ、その手で僕の手をとってくれたらいいのに。彼がそう望むなら、僕はもう拒みはしないのに。  けれど、彼は僕の方を見ない。その手が僕に伸ばされることもない。  …胸が、苦しい。 「お前の言うとおり、お前も、俺も、もう一人じゃない」  彼の言葉は、いつかの雨のように、 「この手を取らなくたって、生きていける。別の道も選択できる。そんなこと、わかってる」  雫が落ちて、波紋になるように、 「お前は、自分のせいでって思うかもしれない。俺の独りよがりなのかもしれない」  優しく、けれど確かに、 「お前のためなのか、自分のためなのかも、もうわかんない」  少しずつ、少しずつ、 「でも、それでも、こうしたいって思うんだから、もう、どうしようもないじゃん」  僕に降り注ぎ、染み渡っていく。 「…もう、あきらめてよ」  呟くようなその一言が、最後の一粒の雫が、僕を濡らす。  まるで、それが涙に変わったみたいに、僕の目から雫が零れ落ちる。  もう、いいのかもしれない。あきらめてもいいのかもしれない。  本当は、僕だって、わかっていた。  彼は普通じゃない僕に、普通を押し付けたことなんて、一度もなかった。僕は何よりもそれに救われてきた。それなのに、僕は自分ができない普通を、彼に押し付けていた。  わかっていたのに。そんなこと、意味もなくて、ただの間違いで、自分の否定で、彼の否定で、いらないものだって、わかっていたのに。  自分が普通になりたくて、そうすることが、彼を普通の幸せに閉じ込めることが、自分を普通に近づけることのように思えて、やめられなかった。  普通なんて、恋と同じで、ただの名前で、誰にもわからないものなのに。僕にとっても、彼にとっても、意味のないものだったのに。  そんなこと、恋をしなくて、普通じゃない僕が、誰より知っていたのに。 (…ごめんね、悠人)  僕は、彼の両手に、今度は自分から、僕の両手を伸ばした。  僕の指先が、彼の指先に触れる。包み込むようにして、彼の両手を、僕の両手で握る。彼の両手が、こわごわと、僕の両手を握り返す。  その温もりに、僕の目から、また涙が零れる。 「…いいの?」  僕は小さな声で彼に問いかける。 「いいよ。…奏こそ、いいの?」  彼も小さな声で僕にそう問いかけた。 「いいよ」  僕がそう答えると、彼は泣きそうな顔をして、笑った。  それは、とても幸せそうな、僕が一番大好きな、彼の笑顔だった。  ねぇ、悠人。僕が結婚するときに言ってくれたでしょ。  ただ幸せを祈ってるって。  僕も同じだよ。  悠人が幸せでいてくれたら、それでいい。  悠人が悠人のすべてをくれなくても、僕は僕のすべてをあげる。  でも、それでも僕にもらってほしいって言うのなら、僕はすべて抱きしめて生きていくよ。  ソファに横になったまま、目をつむって、彼は動かない。 「悠人、寝るなら、ベッドで寝て」 「…奏はどこで寝るの?」 「狭くていいなら、一緒に寝よっかな」 「…なんか、寮の部屋を思い出すなぁ」

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