21 / 22

20.一夜だけの

 菜月には「僕から話すよ」と軽く言ったけれど、そうそう軽く話せるわけもなくて、僕は頭を悩ませた。  事実だけをそのまま伝えたとしても、彼はわかってくれるだろうし、祝福してくれるだろう。菜月がからかったように、冗談みたいに文句をこぼすかもしれないが、 『おめでとう』  それでも、きっと最後にはそう言ってくれる。  その声が耳をかすめて、余計に僕の胸は苦しくなる。  それは、彼の痛みを思うだけじゃない。かつて家族になろうと言ってくれた彼をおいて、他の人と家族になることへの罪悪感だけじゃない。もっと身勝手で、自分本位な気持ちだ。  菜月に僕の子どもが欲しいと言われたとき、一瞬、誰かとセックスするということを初めてリアルに考えた。そのときに、ふと思ってしまったことがある。  結局のところ、子どもを作るためのセックスはしなくてよくなったけれど、そう思ってしまったという事実は消えなかった。  『普通の幸せ』を手に入れてほしい。その言葉に嘘はない。けれど、そう思ってしまったのも真実だ。  雨の高架下でキスを拒否しなかったのも、 タクシーから降りるときに彼の腕をつかんだのも、否定しようがない、本当の自分だった。  今までにないくらい、彼を思わない日はなかった。  仕事を終えて、お風呂で一人になったとき、眠る前、ベッドに入って目をつむったとき、朝、目を覚ましたとき…。まるで何度書き直しても納得できないフレーズみたいに、頭の中をぐるぐると回っては、結局、どこにもたどり着かずに、ただ僕の思考を奪っていく。  矛盾した感情が、僕の中に背中合わせに住みついている。それが苦しくて、でもどこか心地よくて、どうにもできなくて、どんどん深みにはまっていく。  頭がおかしくなりそうだ。…もうとっくにおかしくなっているんだろうか。  それなら、それでいいのかもしれない。おかしくたって、彼は僕を否定したりしない。ただありのままを受け入れてくれると、僕は知っている。  もう、やりたいようにやってやろう。  そうだ、僕が言ったんだ。あのときは逆だったけれど、たぶん同じでしょ? 『僕がそうしたいと思って、彼がいやじゃないならいい。』  僕は、言わば開き直って、覚悟を決めた。    ある晩、夜遅くになってから、彼に電話をかけた。 「大事な話があるんだ。急がないんだけど、都合のいいとき、悠人の家に行ってもいい?」  僕が彼の自宅に行くのは初めてだった。彼は驚いた様子を隠さなかったけれど、嫌がるでもなく、その場でスケジュールを確認してくれた。あっという間に、エックスデーは三日後の夜に決まった。あれだけ悩んだのにあっけないもんだな、と今しがた通話を終えたばかりのスマホの画面を見て思ったが、それでもその手はこわばっていた。  その日は、朝から薄暗い曇り空。風が冷たく、今年初めての雪でも降りそうな、そんな冬の日だった。  夕方までの仕事を終えた僕は、なるべく平常心で準備を済ませて、通販で買っておいたものを鞄の中に入れ、缶ビールとワインのハーフボトルを紙袋に入れて、自宅を出た。玄関のカギをかけながら、すでに緊張している自分に苦笑した。  普段なら徒歩と電車で向かうところだが、緊張しながらとぼとぼと歩いている自分がいやになって、通りがかったタクシーに乗りこんだ。約束の時間よりだいぶ早く着いてしまいそうだったので、手前のコンビニで降ろしてもらって、何気なく店内を見渡すと、テレビ雑誌の表紙に彼を見つけた。これからこの人の部屋に行って自分が何を言うのかと思うと、なんだかおかしかった。 (そう言えば、このコンビニ…)  ふと思いついてデザートの棚を見ると、やっぱり、昔、彼の部屋で食べたロールケーキがあった。お酒のあてにもならないし、いつ食べるんだろう。そう思いながらも、身体が勝手に動いていた。  会計を済ませてロールケーキを紙袋にしまい、店内の時計を見ると、そろそろよさそうな時間だった。お店の自動ドアが開いた途端、ひんやりとした外気が足元から迫ってきた。スマホで場所を確認しながら、寒い夜の道を歩いた。  彼のマンションまでは、そんなにかからなかった。エントランスの前に立ち、彼が住んでいる高い建物を見上げた。 あの夏休みの日からずいぶん遠くまできてしまったな。そう思った。 「いらっしゃい。寒かったでしょ」  約束の時間にはまだ少し早かったけれど、彼は僕を待ってくれていたのだろう、すぐに中に招き入れてくれた。  昔と変わらず、彼の部屋はきれいに片付いている。広いリビングは、あの寮の部屋とは全然違うのに、変わらない雰囲気を感じる。  手土産の紙袋を差し出すと、彼は中をちらりと見て、 「懐かしいね」  となぜか少し寂しそうに笑った。  ワインとロールケーキは冷蔵庫にしまい、早速二人でビールをあけた。大きめのソファに隣同士で座って、でも少し距離を置いて。  覚悟して来たのに、いざとなるとなかなか切り出せないもんだな。なんて思いながら、何とはなしに雑談していたら、あっという間に缶ビールを飲み切ってしまった。 「奏、なんか、緊張してるね」 「ごめん、なかなか話せなくて…」 「いいよ、奏のタイミングで。俺はこうしてるだけで楽しいし」  彼はワイングラスを出すと言ってキッチンに向かった。  僕はその間に手洗いを借りて、酔っ払ってしまう前に話そうと決心し、リビングに戻るドアを開けた。  グラスを用意してくれた彼には悪いけれど、ワインに口を付けないまま、僕は話し始めた。 「先月、菜月とりくと食事したとき…」  菜月とりくが家族になって子どもを育てたいと考えていること。子どもを作るために力を貸して欲しいと言われて、僕は協力しようと思っていること。そのために一時的に菜月と結婚しようと思っていること。二人は自分たちのために子どもが欲しいというだけではなく、僕の幸せをきちんと考えてくれていること。なるべくたんたんと、ある一点だけは故意に省いて、説明した。  彼はときおりワイングラスを傾けながら、僕の話を黙って聞いていた。  一区切りがついたとき、 「なんで俺はお前の家族になれなくて、菜月はお前の家族になれるわけ?」  開口一番、彼がまじめな顔で言うから、菜月の声真似を思い出した僕は、ちょっと笑ってしまった。 「なんで笑うの」  あ、怒らせたかな、と思ったら、彼はグラスの中身を飲み干して、テーブルに乱暴に置くと、 「あー俺も子ども産めたらよかったー」  さも悔しそうに言って、ソファにどさっと背中を預けて大げさに天井を仰いだ。  僕はやっとワイングラスに口をつけながら、もし彼が菜月のように女性でレズビアンで僕の子どもが欲しいと言われたとして、僕は承諾しただろうかと考えた。けれど、まず彼が女性であることすら想像できなくて、早々にあきらめた。 「え、ってことはさ…、」  彼は天井を仰いだまま、視線だけをこちらに向けて、こわごわと僕の方を伺うように、 「…菜月とセックスすんの?」  そう僕に問いかけた。  僕はその様子に苦笑しながら、用意していた答えを返した。 「僕もどうするんだろうと思って、二人に聞いたんだけど、妊活のための専用のスポイトみたいなセットが売ってるんだって」 「…なんだ…。…いや、でも、それもちょっといやかも…」  気が抜けたようにソファに沈み込む彼を見て、内心でごめんねと謝りながら、僕は次の言葉を考えていた。  彼の勘違いは、僕の思惑どおりだった。性交渉せずに子どもを作ることを最初に伝えなかったのは、わざとだ。一瞬でも彼に『僕が誰かとセックスする』と思ってもらいたかったから。  いざ決行するとなると、やっぱり緊張して胸がどきどきしてきた。けれど、不思議と不安はなかった。心臓の音とは裏腹に、何かのスイッチが入ったみたいに、僕は落ち着いていた。  もし計画通りにいかなくても、彼は笑って受け止めてくれるだろうし、それはそれでいいかもしれないな。そんな風に思いながら、僕はワイングラスをそっとテーブルに置いて、用意していたシナリオを実行に移した。 「悠人」  僕が静かに名前を呼ぶと、彼は「ん?」と言って僕の方を見た。  僕はその顔を見て、声を聴いて、自分の気持ちが揺らがないことを改めて確かめて、言葉を続けた。 「今でも『奏の初めては俺がいい』って、言ってくれる?」  思えば、もう十年も前になる。大学の近くの居酒屋で、初めて女性と付き合ってみようと思っているという話をしたとき、彼は『キスしたこと、あるの?』と僕をからかった。そして、そう言って僕にキスの仕方を教えてくれた。 「…どういう意味?」  僕の意図を察したのか、彼の声と表情が固くなる。 「僕の子どもが欲しいって菜月に言われたとき、思ったんだ。自分でも驚いたけど…」  言いながらうつむき、唾をごくりと飲み込んだ。口の中にワインの味がした。  僕は、他者に性的欲求を持たない。少なくとも、これまで誰かとセックスしたいと思ったことはない。  けれど、もしそうするのであれば、初めてセックスするとしたら、僕にとって、相手は世界でただ一人しかいない。  それ以外、考えられなかった。 「悠人としかしたくないって」  恐る恐る視線を上げて、彼の表情をそっと盗み見ると、彼も僕の方をじっと見つめていた。その表情に、嫌がったり呆れたりするような色は見えない。ただ何も言わずに僕をその目に映している。  僕はソファの上で彼の方に向き直り、その膝にそっと指先で触れて、彼の目を見つめた。 「十年前の続き、聞いてもいい?」  彼は何も答えない。でも、彼の目は変わらず僕を見つめ返している。その目は十年前にキスしたときと同じ目だ。  彼がもう拒絶しないことを確信して、僕はその言葉を続けた。 「『セックスってどうやってするの?』」  彼の顔が苦しそうに歪む。その顔を包み込むように頬に両手を添え、昔、彼に教えてもらったみたいに、少しだけ首を傾けて、僕は彼にそっと口付ける。 「僕からキスしたら、悠人はどうなるんだっけ?」  彼は今度こそ怒ったみたいに僕の身体を乱暴にソファに押し倒して、その唇で僕の唇をふさいだ。 「…ん…」  彼の求めに応じて、僕は口を開けて彼を受け入れる。舌が絡み合って、唾液が混ざり合う。もうどっちのものなのかも、二人の境界線もわからなくなるくらい。  何かに操られるみたいに彼の首に腕を回して、さらに深く濃厚なキスを誘う。十年前のあのときよりも、深く、激しく、キスは角度を変えて何度も続く。唇が熱くて、頭が熱くて、まるで脳が溶けるみたいだ。  長い口付けのあと、そっと唇を離した彼が、感情を抑えたみたいな低い声でささやく。 「…ベッド、行こう」  僕は彼に手を引かれてどうにか立ち上がり、慌ててもう片方の手で鞄を持って、そのままリビングを出た。  彼は寝室のドアを開けると、照明を薄暗くしてから、僕をベッドの端に座らせ、部屋着のTシャツを脱いで無造作に床に落とした。  上半身裸になった彼を見て、僕も脱いだ方がいいのかなと思い、シャツのボタンに手をかけたけれど、 「俺がする」  その手を彼に止められて、僕の横に座った彼に一つずつボタンを外されるのを、僕は恥ずかしい気持ちで見ていた。 「どこまでしていいの?」  シャツを取り払われ、肌着も脱がされて、彼と同じような格好になった僕の肩に、彼が顔を埋めるようにして、歯を立てる。その感触に僕は息を吞む。 「…悠人の、好きなように」 「それ、煽ってるの?」 「煽ってないよ。…その、」  さすがに言い出しにくくて、けれど言っておかないと彼が困ると思って、僕はどうにかもごもごと説明する。 「…一応、準備してきたから…そんなに衛生的にまずいことは…ない…と思う…」  それでも語尾が小さくなって、うつむいてしまう僕の頭を、彼はぎゅっと抱きしめて、 「くそ、ゴムあったかな…」  と苛立ったように言って、立ち上がろうとした。  僕はとっさにその手を掴んで引き止め、 「何?」 「あの、これ…」  鞄の中から小さな紙袋を出して、彼におずおずと手渡した。  恥ずかしくて僕はうつむいていたけれど、彼が紙袋から中身を出して、僕の方を見るのが気配でわかった。中身はコンドームとローションだ。 「奏が買ったの?」 「ネットで調べて、通販で…」 「これ、使ってあるじゃん」 「その…、な…ならしておいた方がいいって…書いてあって…」  コンドームの箱は開封していなかったが、ローションはネットの情報を参考に、準備に使った。  彼は何かを考えるようにしてそれを見つめていたが、小さくため息をつくと、両方とも紙袋に戻してベッドの枕元に置いてから、僕の横に座り直した。 「…ちょっと話そっか」 「うん…」  ローションとか準備とか生々しい話をして、彼の気が削がれてしまったのではないかと心配したけれど、どうやらそうではないらしい。彼はそそくさとベッドに横になると、 「こっち、来てよ」 と布団の端を上げて僕を呼んでくれた。僕は少しためらいながらも、彼の横にそっと身体を滑り込ませた。  彼の裸の胸に顔を近付けるのが恥ずかしくて、背中を向けたら、後ろから抱きしめられた。裸の素肌がぴったりとくっついて、その体温に鼓動が速くなる。 「…昔話、聞いてくれる? あのロールケーキの話」  すぐ耳元で彼の声がして、まるでそこから全身に熱が広がっていくようだ。こんな状態でちゃんと話が聞けるのだろうか。そう思いながらも、僕が小さく頷くと、彼は僕の肩に鼻をくっつけて、静かな声で話し始めた。 「…文化祭の前の夜、俺、眠れなくて、奏と話したいなって思って、何回も電話しようとして、できなかった」  ロールケーキの話と言うから、高校三年生の夏休みのことかなと思ったけれど、どうやら違うみたいだ。夏休みも、文化祭も、もうずいぶんと昔のことだけれど、僕も覚えていた。文化祭の前夜、僕も彼にLINEのメッセージを送れなくてずっと画面を見つめていた。 「なんか、どうしようもなくなっちゃって、深夜なのにコンビニ行って、あのロールケーキが目に入った。夏休みに一緒に食べたみたいに、明日、全部終わってから奏と食べたいなって思って、買って帰った」  人気のない暗い夜道を、コンビニの袋をぶら下げて歩いている高校生の彼の姿が思い浮かんで、胸がきゅっとなる。 「でも、結局、お前を俺の部屋には、連れて行けなかった」  文化祭の当日、僕たちの発表のあと、校内を走って逃げて、自転車置き場にたどり着いた。僕がどこに行くのと聞いたら、彼は『奏の行きたいところ』と答えた。二人で自転車に乗って、学校から抜け出して、笑い合った。  あのとき、彼は何を思っていたんだろう。一人で寮に帰って、冷蔵庫の中に残ったケーキを、どんな気持ちで眺めたんだろう。 「あれから、ずっと思ってる」  僕を抱きしめる両腕に力を込めて、彼は言葉を続けた。 「俺は、奏を俺の思いどおりにしたくて、奏のそばにいるんじゃない。ただずっと奏と一緒にいられるなら、それでいいんだ。結婚したって、子どもができたって、それは変わらないって、わかってる。だから、奏は俺に許してほしいなんて思わなくていいし、たとえ俺が望んでいたとしても、奏がしたくないことはしなくていい」  包み込むような温もり。耳に響く静かな低い声。僕は目を閉じて、彼が僕とただともにいてくれた歳月に思いをはせた。彼の言葉と相反するけれど、今、このとき、すべてを彼の思いどおりにしてしまっていいと、そう思った。 「悠人」  僕は彼の手に自分の手をそっと重ねた。 「僕は、今、こうしたくて、こうしてるよ。あんたが望むからそうしたいのか、僕がただそう望んでるのか、考えすぎて、もうわかんないけど…」  電車と雨の音が響く深夜の高架下、彼と何度もキスを交わしながら、僕は思った。もし彼がそれを望むなら、僕がそれを叶えてあげられるなら、そうしたい。彼のすべてを僕が受け入れてあげたい。  けれど、今のこの気持ちは、きっとそれだけではない。僕自身が、彼とそうしてみたい、彼に僕を受け入れてほしい、そう思っている。何かに突き動かされるようにして、僕は今ここにいる。  それはセックス自体をしてみたいという欲求ではなくて、では何なのかと考えてもわからなくて、言葉では伝えられなくて…。  だから、僕は彼の手を握り、目を閉じて、ただ思う。  僕は結婚するけれど、それでも、僕の『一番好きな人』は変わらないよ。  いつまでも、誰よりも、何よりも、大切に思ってるよ。  許してほしいなんて思わなくていいと言ってくれたけれど、やっぱり僕は許してほしいんだ。  同じ道を歩こうと、家族になろうと言ってくれたのに、本当は嬉しかったのに、僕が臆病で、未来が怖くて、受け止めてあげられなくて、ごめんね。  僕の価値観を押し付けて、結婚して幸せになってほしいなんて言って、ごめんね。  それなのに、僕自身がその未来を恐れて、自分を守るために、逃げるように先に結婚して、ごめんね。  そんな卑怯で、わがままな僕を、すべて認めて、受け入れて、許してくれるとわかっていて、甘えてしまって、ごめんね。  僕は他の人と家族になるけれど、それでも、僕を忘れてほしくなくて、ずっと一緒にいたくて、その手を離せなくて、ごめんね。 「…もう、自分でもわかんないんだ…。ただ、こうしたいって、思った…」  神様に祈るように、すがるように、彼の手に額を押しあてる。彼は僕をなだめるように、そっと僕の髪に口付け、優しく問いかける。 「…後悔、しない?」 「…わかんないけど、それでもいい」 「そっか…。なら、俺もそれでもいいや」  ささやくような、微笑むようなその声は、僕をまるごと包み込んでくれるみたいだった。もし後悔したとしても、そばにいるよ。彼も、僕自身でさえも、この思いのすべては知らなくても、わからなくても、それでもいいよ。二人で、全部、抱えていけるよ。そんな風に言ってくれているように聞こえた。 「悠人」  僕は彼の腕の中で彼の方に向き直り、裸の胸に唇をくっつけて、呟くようにその名前を呼んだ。  唇から彼の鼓動を感じる。心臓の音。素肌の体温。彼がここにいること。僕のそばで生きていること。そのすべてが愛しいと思った。 「悠人…」  ただ、愛しい。愛しくてたまらない。この気持ちをどうしようもなくて、もうそれしかできないみたいに、ただその名前を繰り返す。 「…奏…」  彼も僕の名前を呼んでくれる。その声に操られるようにそっと彼の顔を見上げると、その目は優しい色をして僕を映していて、僕はそこに一つの答えを見つけたような気がした。  ただ相手を思う気持ち。幸せになってほしいと願う気持ち。たくさん笑顔でいられますようにと祈る気持ち。  少し寂しくなるときも、わがままになってしまうときもあるけれど。  その声を聞くと嬉しくなって、その願いを叶えてあげたくて、喜んでほしくて、笑っていてほしくて。  その存在を感じるだけで、それが自分の幸せになる。  例えば、もし、同じときをすごせなくなっても、遠く離れていても。  それでも、ずっと、きっとどこかで、つながっている。  ただ、ありのままで、共に生きている。 (…ああ、そうだったんだ…)  僕は恋がわからないけど、たぶん、今、この気持ちはわかる。  目の前にいる、愛しい人。その頬を両手で包み込み、そっと唇に唇を寄せて、僕は微笑った。 「きっと、こんな気持ちを『愛してる』っていうんだね…」 「……」  僕を映す彼の瞳が潤んでいく。その目の端から雫が零れて、僕の指先に伝う。  彼の涙を見るのは、それが初めてだった。 「…その言葉、仕事で何回も言ってきたけど、ずっと違和感があった」  彼は涙をぬぐいも隠しもせずに、ただまっすぐに僕を見つめていた。 「今、やっと、わかったよ」  まるで鏡に映したみたいに、彼の両手が僕の頬に触れる。 「奏のためにある言葉だった」  そう言って彼もまた微笑んだ。それは涙に濡れたくしゃくしゃの笑顔だったけれど、切なくて、優しくて、何よりも美しいと僕は思った。  そっと目をつむり、どちらからともなく引き寄せられるようにまた唇を重ねた。  そのやわらかい感触と温かさに、僕は身を委ねた。  僕たちは、何度もキスをして、抱きしめ合って、お互いの存在を感じ合った。  人と肌を重ねるのは、僕にとっては不思議な感覚で、それを確かめるように、僕は少し湿った彼の素肌に手のひらで触れて、頬を摺り寄せた。  彼は、僕の身体中、いろんなところを舐めたり、かじったりした。彼が僕にしてくれることを、僕も彼にしてあげた。恥ずかしかったけれど、決して不快ではなかった。くすぐったくて声を出して笑うと、彼も笑って、ベッドの上で子どもみたいにふざけ合った。  熱っぽい声でときおり名前を呼ばれると、耳が熱くなって、ふわふわして、まるで時間や場所が意味をなくしたみたいだった。僕も彼の名前を何度も呼んだ。  彼の手が僕のそれに触れても、口に含まれて温かい粘膜の中で射精させられても、いやだとは思わなかった。むしろ、僕も彼にしてあげたいと思った。  彼のそれを目の前で見ても、拒否感はなかった。彼にしてもらったことを思い出して、同じようにしてみると、彼の口から吐息混じりの甘い声が漏れて、もっと聞きたいと思った。  彼は僕の口の中には射精せずに、僕の頭をそっと引き離すと、枕元の紙袋に手を伸ばした。彼がコンドームの箱を開け、その小袋の封を切るのを、僕は緊張しながら見ていた。  実物を見るのは、高校の保健の授業以来だった。そのとき彼が僕の前に席に座っていたと思うと、なんだかおかしくて小さく笑った。  彼は僕の腰の下に枕を挟み、膝を立てて足を開くように僕に言った。すべてを彼の前にさらけ出しているような格好になって、恥ずかしくて、落ち着かなかったけれど、我慢した。  彼は僕の膝の間に身体を滑り込ませ、ローションを指に取って少し温めるようにしてから、そっと僕のそこにふれた。周りにローションを塗り込むようにされ、その滑りを借りて、彼の指は意外とすんなりと僕の中に入っていった。  彼は僕の身体に覆いかぶさるようにして、首筋や肩にキスを落としながら、僕の中の奥の方まで丁寧に指を進めた。彼が入ってこられるようにそこを押し広げられていると思うと、どうしようもなく恥ずかしくて、もう何も考えられなかった。目をつぶって、ただその感触と彼の吐息の熱さを感じていた。  しばらくして、そっと指が引き抜かれた。ちゅっと頬にキスされて、そして、彼のそれがあてがわれた。  そこに彼の熱を感じて、掠れたような低い声で耳元に囁かれて、全身が熱くなった。その熱をどうにかしたくて、助けを求めるように彼にすがりついた。  ぐっと身体が押し開かれるような感覚がしたけれど、ほとんど痛みは感じなかった。  彼はときおり苦しそうにしていたけれど、すべてを僕の身体の中に収めると、大きく息を吐いて、汗ばんだ額を僕の胸に預けた。僕はその頭を抱きしめて、やわらかい髪を撫でた。  僕の中に彼の存在を感じて、不思議な気持ちになった。彼が顔を上げ、優しく微笑んで僕の頬に触れたとき、なぜか不意に涙があふれそうになった。  彼は僕の身体を揺さぶって、何度も僕の中を行き来して、僕の中で果てた。  挿入する行為自体のよさは、やっぱり僕にはわからなかったけれど、初めて体内に感じた熱を、僕の名前を呼ぶ切なげな声を、僕はきっと一生忘れないだろうなと思った。  気怠さとまどろみの中で、僕の髪を撫でる手の心地よさを感じながら、人は生殖や快楽のためだけにセックスするわけじゃないということを、理解したような気がした。  目覚めると、隣に彼はいなかった。  寝ぼけ眼で部屋を見渡してみても、彼の姿も、夜の記憶を思い起こさせるものも、何もない。丁寧に折りたたまれた僕の衣服と鞄だけが、サイドテーブルに並んで置かれていた。  それらを手早く身に着けて、形だけでもと布団を整えて、僕は寝室を出た。  いったいどんな顔をすればいいんだろう。そう思いながら、なんとなくそーっとリビングのドアを開けると、さわやかな朝の陽光の中にコーヒーのよい香りが漂っていた。  昨夜の空き缶やワイングラスは、やっぱり、すっかりきれいに片付けられていた。 「おはよう」  彼の声も笑顔も表面上はいつもどおりに見えて、それでいいんだと僕は少しほっとした。ともすればそこに混じってしまいそうになる別の感情をなかったことにして、笑顔で返事をした。 「おはよう。…モーニングコーヒーだね」  彼がコーヒーをカップに注いでくれているのを見て、ふと思い出して僕が言うと、 「それ、寮の部屋に泊まったときのこと?」  お互いに十年前の小さなエピソードを覚えていることに驚いて、笑い合った。  食パンと目玉焼きにコーヒー、そして僕が買ってきたロールケーキ。二人でダイニングテーブルに向かい合って、何でもないことのように、まるでこれまで何度もそうしてきたように、朝食をすませた。  食器を片付けてから、昨日と同じように、少し距離を置いてソファに座った。朝の情報番組に話題を提供してもらって、どうでもいいような世間話をしたり、黙りこくったり。  会話の内容なんて、いつもとそう変わらないはずなのに、どことなく、ちょっと気まずい。そう感じているのは、たぶん僕だけではない。もう、用事もない。  今日、僕が彼の部屋をあとにしたら、次に会うときは、これまでどおりの二人になるだろう。暗黙の了解。そうするべきだ。お互い、わかっている。  わかっている、はずなのに…。 『帰りたくない』 『帰したくない』  二人の間の数十センチの空気を震わせるみたいに、どうしようもなく伝わってしまうのは、きっと僕の気のせいじゃない。  もしも、それを声に出して、その隙間を埋めて、お互いの名前をささやきあって、もう一度唇を寄せ合ったら、僕たちはどうなるんだろうか。  いつもと変わらない穏やかな表情をテレビの方に向けている彼の横顔を、そっと横目で見る。彼はこちらを見ないけれど、僕が今彼を見ていることも、僕がその妄想を決して現実にしないことも、わかっているだろう。  だから、僕から切り出さないといけない。そう思ったのに、 「そろそろ帰るよ」  と言いかけた僕の声は、 「そろそろ仕事だから…」  彼の声にかき消されていた。 (…嘘だ…)  僕はとっさにそう思った。昨夜の約束を取り付けたとき、電話口でスケジュールを確認しながら、たしか、彼は言っていた。次の日も夕方までなら空いてるよ、と。  単にスケジュールが変更になったんじゃない。僕に早く帰ってほしくて、噓をついているのでもない。たぶんだけれど、何の根拠もないけれど、彼はきっと、わざとわかるような嘘をついている。  そんな気がした。  彼がソファから立ち上がる。どうしていいかもわからないまま、自分の意志ではないみたいに、僕も鞄を手に取ってゆっくりと立ち上がる。リビングを出て、玄関でハンガーから上着を取って、靴を履こうとして彼に背を向けてしゃがみかけた、そのとき。  ぽたり。フローリングの床に雫が落ちる音がした。  振り返っちゃいけない。そう思いながらも、振り返らずにはいられなかった。 「…あれ…、なんでだろう…」  その目にいっぱいに涙をためながら、それでも笑顔を崩そうとしない彼の頬に、吸い寄せられるように指先で触れようとして、その手を彼に振り払われた。 「ごめん。…昨日から、涙腺、崩壊してるね…」  彼はごまかすように涙をぬぐって、また笑った。けれど、涙は次から次へと湧いてきては、ぽたぽたと落ちていく。  その目から、目をそらせなかった。僕も目が熱くなった。けれど、泣いてはいけないような気がして、どうにか雫を落とさないように堪えた。  彼は涙を隠すようにうつむいて、 「大丈夫…。大丈夫だから…」  小さな声でそう言って、玄関のロックを解除した。僕は彼にそっと背を向けて、玄関のドアを開け、彼の家をあとにした。  翌週、彼からLINEのメッセージが届いた。 『結婚、おめでとう。奏に家族ができること、嬉しく思います。ただ幸せを祈ってる』

ともだちにシェアしよう!