102 / 111

第92話

言わなきゃ良かった… 呆然としながら見渡す部屋にはきっと“大切な人”のにおいが残っているのだろう。 それを不躾に土足で踏んでしまったんだ。 琥太郎だけじゃない。 “大切な人”も、その人と過ごした時間も、踏み付けてしまった。 とても大切なものなのに。 口から出た言葉はなかったことには出来ないと、知っているのに…。 知っていた。 洗面台の鏡裏の収納に琥太郎が使わない香水があるのを。 ヘアワックスもあった。 歯ブラシだって2本揃っている。 はじめてこの部屋に訪れた時からなにも変わっていない。 消耗品なのにだ。 食器を用意してくれたのも、その人の皿を使われ、割られたくないから。 読みかけの本に挟まった栞が動かないのも、きっと…。 見ないふりをしていた……。 ふと視線を落とすと、折角綺麗にした洗濯物が倒れている。 俺達みたいだな… どんなに綺麗にしたって、積み重ねた物があったって、崩れるのは一瞬だ。 いや、積み重ねた分だけ崩れやすくなる。 遠慮や尊重が減るから…。 前髪をぐちゃっと握って、そこに顔を埋める。 泣きたいのは琥太郎だ。 琥太郎が泣く前に、俺が泣くなんて出来ない。 なぁ…、あんたなら琥太郎を笑顔に出来んのかよ… 忘れ物はなにも言わない。 それが罰のようにも思える。 琥太郎はそんな中で生きているんだ。 それが、どんな思いなのか。 どんな温度なのか。 想像したって、そんなの足りない。 俺が…、こんな顔をしてる場合じゃねぇよな… 後悔は後で死ぬほどすれば良い。 だって、後悔だから。

ともだちにシェアしよう!