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Another story 追憶②
「ようこそ、コーグ国へ。今日という日を待ち望んでおりました」
「こちらこそ同じ気持ちです。私たちのために盛大な宴を開いていただいて、本当にありがとう」
地続きのバルコニーへ続くガラスの扉から、広間には温かな太陽の日差しが降り注いでいた。壮大な空間を彩る装飾品はどれも趣向が少しずつ違い、どことなくちぐはぐだったが、皆同じさんさんとした光に照らされることで、生まれた国の違う友のように結束して見えた。
もう二十年以上昔のことだ。生まれて初めて隣国のコーグにやって来た私は十七になったばかりで、まだ王子という立場だった。王の長子で、将来大国レラの君主となることが決まっていたけれど、その輝かしい地位とは裏腹に、その心はいつもどんよりと暗かった。
幼いころから無口で、表情も乏しく、冷めた目をしていた私は、自然と人を遠ざけた。勉学や剣術はできる方だったが、そんなことは未来の王なら当然で、褒める者などいなかった。その陰気さは、年の離れた愛くるしい弟の誕生と共に、一層影を濃くした。
不思議なくらい誰の面影も引いていない私よりも、美しい后そっくりの弟君を、周囲は揃って溺愛した。父に連れられて民の住む街へ視察に行った時でさえ、連れ立って歩く兄弟のうち、兄の名を呼ぶ歓声は皆無だった。
あの日とて、主役は弟だった。隣り合う二つの大国が永久に平和であることを祈念して、コーグ国で開かれた宴。夢のように煌びやかな空間の中で、人々はもうすぐ七歳になる第二王子を取り囲み、持てはやしていた。
人気者の弟を、妬む気などさらさら無い。弟は確かに群を抜いて可愛らしいけれど、私が遠巻きにされる原因は全てはこちら側にある。擦れた大人になった今の姿からは信じられないような話だが、この頃の私はひどく口下手で、まれに誰かに話しかけてもらうことがあっても、気の利いた返事はおろか愛想笑いの一つさえもできなかった。
広間の隅でぽつんとグラスを傾けているばかりの跡継ぎを見かねて、レラ国の王である父がある人物を紹介しにやって来たのは、宴も後半に差し掛かった時分のことだった。
「ルタ、ご挨拶なさい。こちらは、コーグ国のシヌレ王子だ」
父の横で、長身の青年が人のよさそうな笑みを浮かべていた。
「初めまして、シヌレです」
にこやかな彼の顔を、目線だけ上げてちらちらと見た。印象の良くないことだとはわかっているが、初対面の人の前だと緊張してうまく体が動かないのだ。
その国土を太陽に愛され、一年中温かな日差しを享受している隣国コーグの人間にしては、肌の色の淡い男だった。それに釣り合うように、髪も目もほんのりと彩色が優しい。柔らかそうな髪はそのなで肩に着くか着かないかくらいの長さで、しゃらしゃらと揺れていた。
「ルタ、です……」
目も碌に合わせない、不愛想な自己紹介しかできなかった。しかし、シヌレがそれに眉を顰める雰囲気はなかった。
短すぎる私の言葉の後に、否応なしに沈黙が流れた。それに助け舟を出すために、父が口を開く。
「シヌレ王子は、お前と同い年の十七歳だ。手先が器用で、織物が得意だとか。これも、ご自分で織られたのだろう?」
父が、シヌレの首元にふわりと巻かれていた白いショールを指し示した。ええ、そうなんです。そう答えた彼は、まるで羽のようなそれをそっと手元へ下した。
「ルタ王子、手に取ってみてください。父が誕生日に買ってくれた織機で作ったもので、手触りには自信があるんですよ」
差し出されたそれをおずおずと受け取り、その繊細さに驚いた。びっくりするほど柔らかく、それでいて温かさも備えている。織った人間のイメージとぴったり重なる布だと思った。
「その……綺麗だと思います。とても……」
口にできた感想はたったそれだけだった。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
にこやかにそう告げたシヌレの横で、父がもうちょっと何かないのか、と言いたげな視線を私に送ってくる。
その時だった。
「ねぇねぇ、何それ!凄く綺麗!」
いつの間にか私たちのそばへ歩み寄っていた弟が、シヌレの織った布を指さした。私の手からぱっと奪い取り、目を輝かせてそれに見入る。
「こんな布、初めて見た。綺麗なだけじゃなくて、触り心地も何ていうか……雲ってこんな感触なのかなって思うような、優しくて不思議な感じ」
「ご名答です。コーグ国の伝統的な織物で、雲が編み込んであるんですよ」
シヌレが嬉しそうに言った。
「へえ、そんなこと出来るんだ。体に巻いたら、空に浮かべそうだね」
弟は得意げな顔で、真白いそれをマントのように纏い、ふわふわと靡かせて見せた。
「なんて可愛い。私の目の前にいるのは、小鳥でしょうか。それとも天使?」
そう告げるシヌレの柔和な眼差しには、慈しみの光が瞬いていた。
極上の織物を一通り堪能し、私の手へ返すと、弟は早くも次なる楽しみを見つけたようで、広間の中央へ駆けていった。
天真爛漫なその背中と、私のいぶかし気な顔を見比べて、父が息を吐く。
「あそこまで愛嬌たっぷりに振るまえという無理は言わんが……お前ももう少し、人に好かれる努力というものをしてもいいんじゃないか。そんなんじゃ、いつまでも一人ぼっちだぞ」
頬がかっと熱くなる。何も同い年の男子の前で、そんな苦言を呈さなくてもよいのに。
私は俯きながら、弟の指型がついた薄布の皺を伸ばし、シヌレへ返すべくそっと突き出した。
シヌレが彼の父であるコーグ国王に呼ばれて去り、父も傍を離れてしまうと、私はまた一人きりになった。
こんな陰気な客人が居なくなったところで、誰も気になんか留めないだろう。私は黙って広間を抜け出し、うろうろと廊下をさ迷った末に城の外へ出た。広い庭中を覆うように植えられた色とりどりの花を眺めながら、あてもなく歩き回った。
日は既に傾き、空は夕暮れと呼ばれる模様に近づいている。そろそろ宴も終わるだろう。
次にこの国の土を踏むとすれば、シヌレ王子が跡継ぎとして即位して、それを祝う時にでもなるのだろうか。きっと、想像もつかない程ずーっと先の話だ。
そんなことを、ぼんやり考えていた時だった。
「花が好きですか?」
背後から柔らかな声が聞こえた。
目を伏せがちに振り返れば、見覚えのある白いショールの端を、胸元あたりでひらひらと靡かせている長身がそこに在る。
「なんで……ここに……」
「父と話している時に、あなたが広間を出ていくところを見てしまって。適当に話を切り上げて、追いかけて来ました」
私は彼の質問には答えなかったのに、彼は私の問いかけにしっかりと答えてくれる。なんだか申し訳なくなって、先の質問に回答することにした。
「別に、好きではなくて……花は……」
もごもごと告げる私の言葉は、我ながら感じのよくないものだったと思うが、シヌレを包む和やかな空気が消えることはなかった。
「そうなんですね。では、何が好きですか?」
「えっと……」
答える声は淀んだ。嫌いなものなら、いくらもあげられる。虫、蜥蜴、ひそひそ話、仲間外れ。でも、好きなものというと、ぱっと思いつかなかった。
「特に……ありません」
「ふうん、そうですか」
流石に呆れて去って行ってしまうかもしれないと覚悟したのに、拍子抜けするくらいのんびりした相槌が返ってきた。
彼が何を考えて追いかけてきたのかが全くわからないまま、私達は花々の間の道を並んで歩いた。私は気の利いたことなんか言えないし、シヌレもずっと黙っていた。
「そろそろ、戻ります?」
似たような景色の中をぐるぐる歩き回り、意図せずに城の玄関が近づいてきたとき、彼が言った。
きっと、私なんかと居てもつまらなかっただろうな。気の毒に思いながら頷き、連れ立って城の中へ入る。太い廊下を進んでいけば、広間から聞こえる喧騒が少しずつ大きくなっていく。
「うちの庭師は、とても腕がよくて。もう少ししたら、花壇の雰囲気ががらっと変わる時節です。花はお好きじゃないそうですけど、よかったらまた遊びに来てくださいね」
「え……」
「今日は、会えてとても嬉しかったから」
表情の乏しい、何にも喋らない奴と知り合えたところで、そんな風に思うわけがないじゃないか。社交辞令にしても、度が過ぎている。私は唇を噛み、立ち止まった。
「どうしました?」
「……何が、嬉しかったんですか」
目も見ずにぼそりと言ったそれは、質問のふりをした嫌味だった。一体どんなことが嬉しかったのか、答えられるものなら答えてみればいい。
こんなことに憤る自分が嫌になる。口下手で上がり症で、その上細かいことをさらっと流すことができない気難しさまで備えているから、この身の周りからは人が離れていく一方なのだ。
私を倣うように立ち止まったシヌレは、今までと少しも変化のない柔和な口調で、迷いなく答えた。
「あなたの弟君は私の織った布に、嬉々とした賛辞をふんだんに贈ってくれました。あなたは、繊細な生地をこの上なく丁重な手つきで扱ってくれました。大切なものを尊んでもらって、喜ばない人間はいません。私は今日、お二人に出会えて本当に嬉しい」
夕日へ姿を変えてもなお、暖かく大地を照らし続ける太陽の光が、廊下の窓から差し込んでいた。
冬将軍が統治する凛冽な国に生まれた私は、この日初めて春というものを知ったのだ。
宴を終えて帰国し、それからまだ一か月も経たぬ頃に、私はシヌレに会いにコーグ国へ向かった。
馬車を引く御者以外は、誰も連れて行かなかった。尋ねるという予告すらしなかった。急な来訪に驚きつつも笑って出迎えてくれたシヌレに、私は真っ先に言い訳を告げた。
「外国へ遣いを頼まれて、その途中でコーグ国を通ったんです。用事を済まさなければいけないから長居は出来ないんですが、せっかくだから寄っていこうかと思って」
事前に台本を書いて練習していた甲斐があり、長い台詞をすらすらと言えた。
偶然、本当に偶然、通ったから。急ぐんですけど、ほんの少しだけなら時間があるので。そんなことをぶつぶつと繰り返し言いながら、シヌレと並んで花壇を眺めた。城の庭で爛漫に咲き誇る花々を前に心が洗われていくのを感じ、今まで気づかなかったけれど自分は植物が好きだったんだなぁと、しみじみ思った。
味を占めた私は、同じ言い訳を盾にして、何度も何度もコーグ国を訪れた。時には、一週間と開けずに尋ねたことすらあった。毎回顔を合わせるなり、同じ台詞を読み上げる私に、シヌレはいつも陽だまりのような笑みを向けてくれた。
何回目かに出迎えられた時、いつも通りの口上を述べようとした私を制止し、彼は言った。
「ちょうど、いただきものの質の良い氷砂糖が有るんです。よろしかったら、私の部屋で一緒に召し上がりませんか。いつもはお遣いに行かなければいけないから凄くお急ぎで、互いの顔を見るくらいの時間しかありませんけど……もし、今日に限ってはお時間に余裕があれば」
一瞬言葉に詰まった後、私は頷いた。
「き、今日は偶然……時間があるんです。たまたま、急がなくていいお遣いの日なんです」
シヌレと出会うまで人付き合いというのものをほとんどしたことのなかった私が、名案と信じて来訪の度に乱用していた言い訳。それがバレバレの上に苦しすぎるものだとこの時さえも気付かなかったのは、シヌレの微笑みが盾になってくれていたからだ。
それからはコーグ国を訪れる度、同い年の第一王子の部屋へあがるようになった。彼に似合う優しい色調で統一された室内へ通されると、その日によって異なる花の香りがした。庭の手入れの際に切り戻しした花を、庭師が毎日のように届けて、部屋に飾ってくれるのだと教えてくれた。成長の促進のためにあえて茎から落とされた哀れな花たちを、シヌレは日々愛でて過ごしていた。
共に過ごす時間が増えていくにつれて、最初のうちは敬語で話していた私たちの会話からは堅苦しい語尾が溶け、丸みを帯びていった。コーグ国の王子はちょっとした冗談なんかを言うようになり、レラ国の王子は台本なしでも、とりとめのない会話を楽しめるようになった。といっても私が口下手な人間であることには変わらないし、彼だってお喋りというタイプではなかったけれど、不意に生まれる沈黙さえ、心地よいものになり始めていた。
シヌレと過ごす時間の中で、私はいつも体を内側から温めるような炎が、己の中に存在しているのを感じた。そしてそれが友情という名の灯りなのだと、信じて疑っていなかった。
宴での出会いから一年程が経ち、二人の第一王子が揃って十八になった頃。その日も、私はコーグ国の城を訪ねていた。
「シヌレ王子は、外出されています。程なく戻られますから、部屋でお待ちになっていてください」
顔見知りの侍女にそう案内され、私は初めて主不在の折に彼の部屋の扉をくぐった。
広すぎる部屋は好きじゃないとかで、一国の王子のものとは思えないような、こじんまりした室内だ。窓際にベッドが置かれ、その傍らにはコーグ国王である父から贈られたという織り機。趣味で織りなした美しい布がぎっしり詰まったチェストに、その上に鎮座する花瓶に飾られた切り戻しの花。部屋の中央には薄青色の丸い小さなテーブルと、同じ色をした二脚の椅子。そのうちの一脚は、当初は私がやってくる度に運ばれ、客人が去れば片付けられていたものだけれど、最近では常にこの場所に置かれるようになっていた。
椅子に腰かけ、部屋の主を待っていると、随分と低い高さからノックの音がして、扉が開いた。
「お客様に、お飲み物をお持ちしました」
落ち着き払った堂々とした声が聞こえ、召使らしき人物が、瑞々しい香りを放つ液体で満たされた瓶とグラスを運んできた。
それだけなら特に驚くようなことではない。しかし、私がおや、と思ったのは、その召使の容貌だった。私の髪と同じように赤みを帯びた、ふんわりした巻き毛を備えている。これは、レラ国の人間の特徴だ。
てきぱきと給仕する彼の体つきは、未完成で小さい。どう見ても、まだ十歳前後だろう。幼いうちから主人に仕えるというのはさほど珍しいことではないにしろ、王族の近侍に異国の血を引く者が居るというのは、血筋というものを何より重視する私の国ではまずありえないことだった。コーグ国においても、かなり珍しいことなのではないだろうか。
私と同じ色の髪を持つ召使に、飲み物を注いでもらったグラスを、そっと持ち上げる。大人顔負けのしっかりした口調で、彼は説明を始めた。
「コーグ国の特産品を原料にした果実酒です。実が収穫された季節により風味が代わりますが、この時候に作られたものは、まろやかで口当たりが優しく、特に好まれています」
そうか、と返事をして頷く。酒はあまり得意じゃないんだよな……そう思いながら少しだけ口に含み、驚いた。
美味しい。甘みが強く、濃厚だけれど後味が爽やかで、とても気に入った。私はすぐにグラスを空にして、注がれるがままに何杯も飲み干した。
やっとシヌレが部屋へ入って来たのは、瓶に残るのはわずかな雫だけとなった頃だった。
「ルタ、待たせたな」
「ああ、シヌレ……別に大して待ってないけど」
「……?何か、随分と顔が赤くないか?」
シヌレが首を傾げ、ふとテーブルの上へ視線を落とす。たちまち、焦った表情になった。
「アムア、これ……全部飲ませたのか?」
「えっ……は、はい」
「そこまで強い酒ではないが、丸々一本というのは……大丈夫かな」
主人の困ったような表情を見て、アムアと呼ばれた少年が眉尻を下げた。申し訳ございません、そう言って私に向け、深く首を垂れて見せる。
私がどんどん飲むものだから気を利かせて注いでくれただけなのに、この子が謝罪するいわれはない。焦りながら、アムアに顔を上げさせる。
「お前は、何も悪くないぞ……とても気遣いのできる、優秀な近侍だ」
「しかし、ルタ……体、本当に何ともないか?」
不安げなシヌレを前にして、思わず笑ってしまった。なんて心配性な奴だ。実のところはほんの少しだけ酔ったようで、体がふわふわとする感覚はあったものの、こんなの全く大したことじゃない。安心させてやるために、私は元気よく椅子から立ち上がる。
「ほら、何ともないだろ……あれ」
気持ちよく火照っていたはずの体の平衡感覚が、ぐにゃりとひしゃげるのを感じる。床に倒れ込むのを覚悟したけれど、絨毯とぶつかる衝撃が襲うより先に、私は意識を手放してしまった。
「ん……あれ……」
「ああ、やっと起きた」
目が覚めたのは、柔らかい布団の上だった。視界に映る淡い色合いの天井に、鼻孔を突くほのかな花の香り。シヌレの部屋のベッドだと気付いた。
この褥の持ち主は、寝台の脇に運んだ椅子に腰掛けて、私の顔を覗き込んでいた。
「体、辛い?」
「いや……大丈夫」
「そう。でもさ、もうちょっと寝てた方がいいんじゃない?」
「うーん……」
頷きかけて、ふと窓の外の景色が目に入る。辺りは、もう暗くなり始めていた。
まずい。来訪した時はまだ昼過ぎだったのに、想像以上に時間が経っていたことを知る。
「もう……帰るよ」
「無理は、しない方がいいと思うけど」
「でも、全然平気だから……ほら、お遣いがあるし」
此処へ来るのは、父に頼まれた外国へのお遣いのついで。その設定を、私はまだ貫き続けていた。
ベッドの上で上半身を起こし、掛けられていた布団を剥ぐ。そこで初めて、シャツの襟元がゆるめられており、ズボンのベルトも抜かれて留め具が外されていることに気づいた。
私が寝ている間に、体を休めやすいようにとやってくれたことだろう。有難い気遣いだと思うだけで済むはずの話なのに、シヌレにそれをされている様を想像してしまって、とうに冷めていたはずの頭にどんどん熱が昇っていく。
「お遣い、か……」
私の告げた単語を、シヌレが繰り返した。
「最低でも月に三度以上は、外国へのお遣いを頼まれてるよね。レラ国の王子は、公務が忙しいんだね」
「そ、そうだよ。父は私に期待してくれてるみたいだ。お前にしか頼めないと言って、色々命じてくださって……」
嘘だ。
父も、母も、私より弟を可愛がっている。跡継ぎは長子である私なのに、外国への公務には愛くるしい第二王子だけを連れて行くことさえある。
私が遣いにやって来るのを待っている友好国なんて、存在しない。祖国の城にだって、私の帰りを待っている人なんかいない。
「……今度はさ、用事のついでなんかじゃなく、私だけに会いにおいでよ」
シヌレの掌が、私の手の甲に重なる。初めて触れ合った彼の肌は、思いのほかひんやりと感じられた。
「私は、いつだってルタが来るのを待ってるよ」
柔らかな声音が、熱で痺れる耳に届いた。
太陽に愛される大地に生まれたわりには、白く繊細な指先と体温の低い掌。それ以上に温かいものを、私は知らない。
「やぁ、いらっしゃい。久しぶり……では全然ないか。まだ、前回訪ねてくれてから一週間だものね」
花々の香る、淡色の光に満ちた部屋。最後に訪ねた時も、そのきらきらとした空間の主は、いつもと変わらぬ笑顔で歓迎してくれた。
「今日は、酒はやめておこうな。あの風味を気に入ってくれたのなら、清水に果汁を加えたものをお出ししよう。酒よりも喉の当たりがいい上に、いくら飲んでも倒れることが無い」
アムアに持って来させよう。シヌレの告げたその言葉に、私はぴくりと反応した。
「あの子は、あの後叱られたりしなかったか。私が倒れたせいで」
「ああ、大丈夫だよ。酒を給仕するときは、注ぐペースを考えるように注意はしたけれど」
「そうか、安心した」
ほっと息をつく私を見て、シヌレが目を細めた。
進められるままに椅子に座り、向かいの席に腰掛けた彼と顔を見合わせる。いつだって口数は少ない人間なのだけれど、この時の私は出会った日以上に押し黙っていた。
特に言葉を引っ張り出すこともしようとしないシヌレの前で、私は今朝母国を出発した時から心の中で何度も繰り返していた言葉を、やっと口にする。
「き、今日は、ついでじゃないんだ」
「うん」
「ただ、シヌレに……会いに来たんだ」
「そうか」
昼過ぎのコーグ国を吹き抜ける風が、カーテンを揺らしている。この地で初めて知った春の日差しが、私を包む。
黒色と呼ぶには淡く、でも茶色というのとはまた違うさらさらとした髪を、シヌレはかき上げた。
私の中に宿る炎が、膨らんだのがわかった。友情という名の灯りだと信じていた火が、この身を内側から焦がしていく。
友とは、こんなにも胸を締め付ける存在なのか?その人のことしか考えられなくなってしまうほど、心を張り詰めさせるものなのか?
彼と出会うまでずっと一人ぼっちだった私には、その炎の正体などわからなかった。ただ視線の先にある顔を見つめ、若い胸を燻られるばかりだった。
爽やかな果実水を楽しみ、昼食を共にとった後で、日が高いうちに帰路に着くべく、私は帰り支度を始めた。
「ねえルタ、相談が有るんだけど」
「……?」
「帰り道、途中までご一緒したら駄目かな。見たいものがあるんだ」
「別にいいけど……見たいものって?」
「あのね……」
レラ国の方向へ進み始めた馬車の中で、私と向かい合ってシヌレが座っている。自分の馬車に誰かを乗せたのはその時が初めてだった。
ぼんやり車窓の外を眺めるしかすることの無かったこの場所に、朗らかな声が響く日がやって来るとは――しかも、二人分も。
「そこは、そんなに綺麗な光景なのか?」
「ええ、楽しみにしていてください。息を飲むほど、美しい場所なんです」
シヌレの隣にはあの小さな召使が座り、前回会った時と変わらぬはきはきとした声で主人と会話していた。
「父と母が生きていた頃、一緒に行ったんです。地上の光景とは思えなくて、凄く感動しました。王子様にも、是非お見せしたくて」
どうやら、レラ国との国境付近に景勝地があり、それはアムア少年の大切な思い出の地らしかった。シヌレは前々からその話を聞いていて、ちょうど私の帰り道に位置するその場所へ、行ってみないかと提案したということらしい。
シヌレはしきりに、光景を見るのが楽しみだとアムアに話しかけていたけれど、本当のところは幼い召使を思い出の地へ赴かせてあげたいというのが大きいのだろう。
「侍従長から、最近頑張っているからって、おさがりのカメラを譲ってもらったんです。最初の一枚は、王子様を映したくて」
「それは光栄だなぁ」
アムアは首から古そうなカメラをぶら下げていた。それをなんとも大切そうに包む小さな手を、心優しい主君が撫でる。
指と指が触れ合った瞬間に、アムアの丸い頬がほのかに色づいたのを、私は見逃さなかった。
大好きなんだなぁ、この王子様のことが。可愛らしい反応を前にして、私は自らの口元が自然と緩んでいくのを感じた。
お目当ての地点に到着するまでに要する時間は、子供にしてみればかなり果てしないものらしかった。アムアはまだ道の半分も進まぬうちにうとうとと船をこぎ、たちまち愛しの主人にもたれて寝息を立て始めた。
「アムアの生まれはレラ国か?」
起こしてしまわないように小声で尋ねた私に、シヌレが答えた。
「生まれた場所は、そうらしい。しかし、この子は混血だよ。父親がレラで、母親がコーグ」
「ああ、それは……苦労しただろうな。うちの国は、血統を重視しすぎるところがあるから……外国人と結婚した者や血の混じった子供を、極端に嫌うんだ」
人に優劣を付ける法など無い。国の方針としては、民は皆平等だ。それでも、人々の心に住まう差別というものは、そう簡単に払拭できるものではない。
アムアの屈託ない寝顔が、視界に映り込む。これが尊ばれるべきものであることは、明白であるはずなのに。
「アムアは本当にいい子なんだ。賢くて、気が利いて、決して挫けない。私なんかの近侍でいるのは勿体ないくらいだ。きっと出世するぞ」
シヌレの声が、眼差しが、あどけない従者を慈しむ。
うららかな春の光は私だけでなく、この大地で生きる全てのものを包んでいる。
「ルタは、本当に行かないの?」
「ああ、私はいいよ。雪景色は見慣れてるし」
国境付近へ差し掛かる頃にやっと目を覚ましたアムアは、御者に停車すべき場所を指定して、迷うことなくお目当ての場所に向かって歩き出した。
その背中を追って馬車を降りたシヌレが、くるりと振り向いて誘ってくれたけれど、私はやめておくことにした。アムアはきっと思い出の地で、大好きな主人と二人きりになりたいだろう。
二人がコーグへ帰るための馬車も到着したし、私が此処に居る理由はない。御者に出発するよう命じようと思ったとき、ふと車窓の外に主人と幼い召使の姿が見えた。
流石レラ国の生まれとも言うべき足さばきで雪道を進んでいくアムアの後ろで、シヌレはなんとも頼りないよたよたとした様子で歩いていた。無理もない、足が埋まるほどの悪路なんて、温暖なコーグ国ではまず経験したことが無いだろう。
いつすっ転んでもおかしくない姿を目にして、私は暫し迷った末に馬車を降りた。
「いやあ、ルタが来てくれてよかった。肩貸してくれなかったら、歩けなかったよ」
傍に居るアムアには聞こえないように、シヌレがこっそり耳打ちしてくる。
景勝地に到着した私たち三人は、その圧倒的な美しさを眺めていた。どこまでも果てしない雪原に、それを彩るように生えた木々。頭上には雲も無く、晴れ渡る空が広がっている。それぞれ端というものを持たない青と白の狭間で、煌めく無数の緑が撓っている。
「うわぁ……これは、絶景だね」
目の前の光景に見惚れながら、シヌレが言う。
「でしょう。両親が元気だったころに、一緒に来たんです」
アムアが、隣で得意気に胸を張っている。その刹那、寒風が召使にくしゃみを運ぶと、主人は自らの上着を脱ぎ、小さな肩にふわりとかけた。子供の体には大きすぎるそれが、地面についてしまうことも厭わずに。
「本当に綺麗な場所だ。いつか子供が生まれたら、私もここへ連れて来よう」
この絶景に負けぬほど、澄んだ声がそう言った。
私は、銀世界を背景にしてシヌレの姿をフィルムに収めようとしたアムアの手からカメラを取り上げて、並んだ二人を一緒に映してやった。指が滑って、数回シャッターを切ってしまったのは内緒だ。
「あの……お撮りしましょうか」
「いや、私はいいよ……。写真は苦手だ」
アムアが申し出てくれたけれど、私は映るのを断った。大嫌いな細い吊り目を、この陰気な面差しを、記録したくはない。
「勿体ないなぁ、ルタは綺麗なのに」
シヌレが呟いた。お世辞は嫌いなのに不思議と腹は立たず、頬が紅潮していくのがわかった。
お前の方が何倍も綺麗だ。強くそう思ったけれど、口下手な私がそんなことを言えるはずがない。
行きの道ではシヌレに肩を貸したけれど、帰りの道では手を繋いだ。暫く歩いたことで、彼は少し道に慣れたらしかった。
「肩を借りるほどではないけど、一人で進む自信はなくて……」
シヌレはいつも穏やかで落ち着いているのに、その時ばかりは恥ずかしそうに俯きがちだった。
どんどん進んでいくアムアの背中に少し遅れを取りながら、私たちは並んで歩いた。体温の低い彼の手は、寒空の下でますます冷たくなっていた。
「ルタの手は、温かいね」
「そうかな。今は、だいぶ冷えてると思うけど」
「それでも、私の手より温かい」
シヌレの指先が、私の指先にからまる。
この男がいなければきっと、私は自分の体温にすら気づかなかった。
馬車を停めていた地点まで戻り、繋いでいた手を離して雪を払い合う。アムアはとっくにコーグ国へ戻る馬車へ乗り込んでいるというのに、シヌレはなぜか道の上で動こうとしなかった。どういうわけか、レラ国へ帰る馬車に乗り込もうとする私の横へ、追いかけるようにして寄って来た。
「どうした……?」
「ねぇ、ルタはさ……逃げたくなることはない?」
逃げる。優しい微笑みに不釣り合いな、ネガティブな言葉だった。
「王子じゃなかったらと、思うことはない?現実味がないくらい大きなものよりも、ただ目の前に居る人のことだけを想って生きていけたらいいのにと、思うことはない?」
問いかけられて、思料する。私を愛してくれる人などいない、祖国の城を思い浮かべた。そして、視察に行っても弟の名ばかりを呼んでいた、レラ国の人々の姿を思い浮かべた。
「全部、捨ててしまえたらと、思うことは……」
「……無いな」
シヌレの顔は見ずに、私は答えた。
王子だから寂しい人間なわけじゃない。陰気で口下手で、とっつきにくい人間だから孤独だったのだ。いくら違う家に生まれていたとしても、私はきっと下を向いてばかりいただろう。
「私は……こういう形で生を受けてよかったと、思ってるよ」
別に将来王になることに執着しているからじゃない。
隣の国の王子が、かけがえのない人だからだ。
他の人生を歩んでいたら、お前とは出会えなかったから。だから私は、これでいい。
「そっか……ルタは、強いなぁ」
返答を聞いてそう口にしたシヌレは、私の中で自分の存在がそこまで大きなものであることなんて、予想だにしていないだろう。
「私は……もっと、強くなる」
白い息を吐きながら呟いた。城の中ではどんなに孤独でも、毅然とした強い王になる。たくさん努力して、絶大な力を有して、お前の国が困窮したときには、必ず私の国が手を差し伸べてやる。
そう決意して、私は傍らに立つシヌレの顔へ視線を投げるために、頭をもたげた。
二十年後の今、『崩落の華』を見上げているのと全く同じ、首の角度で。
魔法使いの瞳の色が、あの日共に眺めた絶景を、この胸にありありと蘇らせる。
シヌレが居なくなったのは、あれからすぐだった。国を捨てて駆け落ちするなんて結論に至るまでには、深い苦悩があったことだろう。彼は私の救いだったのに、私は彼を塵ほども救ってやれなかった。
かけがえのない人が姿を消し、私の世界は再び闇に飲まれた。残ったのは、絶大な力を有する王になるという決意だけ。それだけが、今の私を突き動かしている。
最後に見たシヌレがどんな顔をしていたか、私にはもう思い出せない。
お前は、人生で初めての友。当時は気づくことすら出来なかった、初恋の君。俯いていた私に手を差し伸べた、かけがえのない人。
あの日窓辺から差し込んだ、春の光そのもの。
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