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第4話 最終回

タクシーで帰宅した俺の前に広がるのは、ひっそりと静まり返った部屋だった。 以前は、蒼が作る夕食の匂いや、テレビの音が聞こえていた。俺が帰ってくると、「おかえり」と蒼が笑ってくれた。今は違う。ただ、漆黒の闇が広がっている。もう、いない。その事実が、俺の心を再び締めつける。怒りはどこかへ消え失せ、代わりに胸を刺すような寂しさが込み上げてきた。 ふと、スマートフォンを手に取る。画面をタップし、メッセージアプリを開くと、蒼とのやり取りが一番上に表示されていた。喧嘩別れをしてから、何も連絡は取っていない。蒼からの「ごめん」というメッセージも、俺からの「もう連絡してくるな」という返信も、そのまま残っていた。何かに突き動かされるように、指が震えながら文字を打つ。 『さみしい』 『なんで、いねえんだ』 酔った勢いだった。いや、酔いのせいだけではなかった。本当は、蒼にいてほしかった。寂しくて、どうしようもなかった。送信ボタンを押してから、我に返る。こんなメッセージを送って、どうするつもりだ。酔っているとはいえ、情けなさすぎる。慌ててメッセージを取り消そうと指を動かした、その瞬間。 『既読』 最悪だ。見られてしまった。俺の心臓が激しく脈打つ。何かが大きく、音を立てて崩れ落ちていく感覚。恥ずかしさと、後悔と、そしてわずかな期待が入り混じり、俺はスマホを握りしめた。そのとき、画面が光った。蒼からの返信だった。 『僕も会いたい』 たった五文字のその言葉が、俺の心を大きく揺らした。怒りでも絶望でもない、まるで温かい光のような感情が、俺の胸にじわりと広がっていく。俺は、再び蒼と向き合うことになるのだろうか。 雨が降る夜だった。秋斗の家を出てから、俺はたださまよっていた。行くあてもなく、ただひたすらに、秋斗の怒りの声が耳にこびりついて離れない。 「お前は、俺の人生を壊したんだ!」 俺の善意が、秋斗を深く傷つけた。彼を救いたかったという、俺の純粋な愛が、結局は彼にとっての毒だった。あの時、すべてを失った秋斗を、俺はただそばにいることしかできなかった。俺が弱かったからだ。俺の無力さが、秋斗を再び絶望の淵に突き落とした。 「俺は、お前がいない家に戻りたいんだ」 そう言った時の秋斗の顔を思い出し、俺は再び胸を締めつけられた。もうこれ以上、秋斗を苦しめたくない。俺が彼に植え付けた「幻」も、俺自身が彼の中にいるという事実も、すべて消し去ってしまいたい。 気がつくと、俺は4年前に訪れた、あの古びた一軒家の前に立っていた。錆びついた扉を叩く。ゆっくりと開いた扉の奥に、あの男が静かに座っていた。男は俺の顔を見て、何も言わずに部屋に招き入れた。 「…消してください」 俺は、震える声で懇願した。 「俺が秋斗くんに与えた記憶を、すべて消してください。俺の存在を、彼から完全に消し去ってほしい。俺が彼の中にいる限り、彼は苦しみ続ける…」 男は、静かに首を振った。 「それは、できない」 「…どうしてですか?」 「私の能力は、誰かに向けられた純粋な愛が形になったものだ。私がしたのは、その愛を彼の心に届ける手伝いをしただけ。それは、あなたの、彼を想う心が作り出したものなんだ。それを消すことはできない。君が彼を愛する限り、君の心と彼の心は繋がっている」 男の言葉は、俺の苦悩に終止符を打った。俺はただ、絶望のあまり秋斗を遠ざけることしか考えていなかった。けれど、俺が秋斗を愛する気持ちそのものが、彼と俺を繋いでいる。それは、能力で作り出した「幻」なんかじゃない。俺の心は、ずっと秋斗を愛し続けていた。そして、あの温かい記憶も、俺の心から生まれたものだったのだ。 秋斗がどれだけ怒っていても、秋斗が俺を遠ざけても、この「愛」だけは、誰にも、そして自分自身にすら消すことができないのだと気づいた。 その瞬間、俺の心に、再び光が差した。 俺は、再び秋斗と向き合う決意を固めた。今度は、偽りではなく、俺自身の愛で。 週明けのオフィスは、いつも通りの喧騒に包まれていた。俺の心は違っていた。週末に蒼と交わした、たった二つのメッセージが、何度も頭の中で反芻されていた。 『さみしい』 『僕も会いたい』 あの後、俺は何も返信できなかった。情けなさで、恥ずかしさで、そして、蒼の言葉が持つ温かさで、どうしていいか分からなかった。出社すると、蒼の姿を探してしまう自分がいた。蒼はまだ来ていない。俺は、いつも通りを装ってパソコンを立ち上げたが、画面に集中することができなかった。 しばらくして、蒼がやってきた。俺は慌てて画面に目を落としたが、蒼の気配がすぐ近くにあることに気づいた。そして、デスクの上に、カチャリと音がした。 「おはよう」 蒼の声は、いつもと同じ、穏やかな響きだった。 「これ、よかったら」 そう言って、蒼は俺のデスクに栄養ドリンクを置いた。俺は、蒼の顔を見ることができなかった。この栄養ドリンクは、あのメッセージへの返事なのだろうか。それとも、ただの同僚としての気遣いなのか。 「……なんで、こんなこと」 俺の声は、掠れていた。 「風邪引くなよ。君、最近無理してたから」 蒼は、それ以上何も言わずに自分の席に戻っていった。 俺は、デスクに置かれた栄養ドリンクを見つめた。あの夜、俺が送った情けないメッセージ。蒼が返してくれた、たった五文字の『僕も会いたい』。この栄養ドリンクは、その返事なのだろうか。 「俺は、蒼を許せるのだろうか」 そう考えたとき、俺の心の奥底で、固く閉ざされていた扉が、わずかに開くような音がした。 俺たちは、土曜日の午後、人通りの少ない公園のベンチで再会した。お互いに言葉が見つからないまま、沈黙が続く。秋斗は、俺の顔を見ることもなく、ただ遠くの空を見つめていた。その横顔は、俺が家を出ていったあの日から、何一つ変わっていないようだった。 「…ごめん」 沈黙を破ったのは、俺だった。 「俺の勝手な判断で、君を騙した。君の人生を、俺が勝手に操った」 「違うんだ」 秋斗の声が、掠れていた。 「…お前は、俺を救おうとしてくれた。その気持ちは、わかっている」 秋斗は、そう言ってから、ゆっくりと俺の方を向いた。その瞳は、怒りや憎しみではなく、ただ深い悲しみを湛えていた。 「俺は、お前がくれた幸せが、全部嘘だと思っていた。だから、お前を拒絶した。お前がいない家で、一人で過ごす週末は、ただただ虚しくて、孤独だった。俺は、お前が残していったマグカップやアルバムを見て、気づいたんだ。あの4年間が、全部幻なんかじゃなかったって」 秋斗の言葉に、俺は息をのんだ。 「お前が俺にくれた温かさは、確かに存在した。あれは、俺の心が、お前を愛したという証拠だった」 そう言って、秋斗は震える声で続けた。 「俺はまだ、お前がしたことを、完全に許すことはできない。だけど、もうお前がいない世界には戻れないんだ」 秋斗の言葉に、俺の目から涙が溢れ出した。ずっと言いたかった言葉。聞きたかった言葉。秋斗が一人で向き合い、見つけ出してくれた真実。 「…ありがとう」 俺はただ、そう言うことしかできなかった。俺が秋斗に与えたものは、偽りの記憶だけではなかった。俺たちが二人で積み重ねた時間は、確かに秋斗の心に、消えない愛の痕跡を残していたのだ。秋斗は、俺の涙を拭うこともなく、ただ静かに俺の隣に座った。その手は、震えていたけれど、それでも温かかった。 「…完璧な結婚じゃなくても、隣にいてくれないか」 秋斗の声は、蚊の鳴くような声だった。その一言に、俺は涙を堪えることができなかった。 テーブルの向こうで、蒼が静かにコーヒーを淹れている。湯気とともに広がる香りは、かつて俺が「当たり前」だと思っていた、あの日常の匂いだ。もうその日常を「当たり前」だとは思えない。 「どうぞ」 蒼は、マグカップを俺の前にそっと置いた。それは、あの週末に段ボール箱の中から見つけた、俺たちが二人で選んだペアマグカップだった。蒼が俺に似ていると言った、少し大きめのマグ。 「……ありがとう」 俺は、絞り出すようにそう言った。蒼は何も言わず、ただ穏やかな微笑みを返した。その微笑みの奥に、俺を深く愛する気持ちがあることを、今なら知っている。 コーヒーを一口飲む。熱い液体が喉を通り過ぎていく。偽りの記憶の中で、蒼と飲んだコーヒーの味は、いつも甘く、温かかった。今、俺が飲んでいるコーヒーは、ほんの少し苦くて、そして、ひどく温かい。 「完璧な結婚じゃなくても、隣にいてくれないか」 あの公園で、俺が蒼にそう言った時、俺はただ、もう一人になりたくないという、惨めな気持ちからそう言ったのかもしれない。今のこの静かな朝、蒼が俺の隣に座り、コーヒーを飲む音だけが響くこの瞬間に、俺は確信した。これは、決して「偽り」なんかじゃない。 これは、俺と蒼が、それぞれの痛みと向き合い、壊れかけた心を一つにして、ようやく手に入れた、新しい日常だ。俺は、蒼が差し出してくれた、温かい手を取った。その手は、冷えていたけれど、確かに俺の心を温かく満たしていく。これは、俺たちの、新しい人生の始まりだった。 End

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