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第3話
週末、目の前に広がるのは、蒼が残していった私物だった。俺は大きな段ボール箱をリビングの床に置き、その中を覗き込んだ。蒼に「出ていってくれ」と言ってから数日。あの日以来、蒼は家に帰ってきていない。蒼が最低限の荷物を取りに来たのは、俺が会社に行っている間だったらしい。俺と顔を合わせないように、という蒼の配慮だったのだろうか。この段ボール箱の中には、蒼が置いていった「俺たちの記憶」がたくさん詰まっていた。
箱の一番上に入っていたのは、蒼と選んだコーヒーマグカップだった。
「これ、秋斗くんに似てるね」
「いや、こっちの方が蒼に似てるだろ」
店内で、俺たちはそう言って笑い合った。ペアのマグカップを両手で包み込む。ずしりと重い。蒼が選んだ、あの時の記憶が蘇ってくる。あの日、本当に幸せだった。それなのに、このマグカップは、俺たちの結婚が嘘だったことを突きつける、ただの証拠品でしかないのだろうか。
次に手に取ったのは、アルバムだった。表紙には「私たちの4年間」と書かれている。俺と蒼が、二人で撮った写真ばかりだ。結婚式を挙げた日の写真、新婚旅行で沖縄に行った時の写真。俺が蒼を抱きしめ、蒼が俺の肩に顔をうずめている写真もあった。その時の蒼の顔は、あまりにも幸せそうで、まるで嘘だとは思えない。俺たちは、本当に愛し合っていたはずだ。一枚一枚ページをめくるたびに、鮮明な記憶が蘇ってくる。
「秋斗くん、写真撮るよ!」
そう言って、蒼は俺の隣で屈託なく笑っていた。その笑顔は、今でも俺の心臓を締めつける。その笑顔の裏には、「この思い出はいつか消えてしまう」という悲しい覚悟があったのだろうか。蒼の愛情が本物だったことは、疑いようがなかった。蒼は、俺のために、俺が笑うために、すべてを投げ打ってくれた。
それなのに、なぜ、俺は蒼を許せないのだろう。怒りだろうか?いや、違う。怒りだけじゃない。このマグカップや、アルバムを見るたびに、俺の心は温かさと、そして何よりも深い悲しさに満たされていく。
「幸せだったのは、全部幻だったのか?」
そう自問するたびに、心は叫ぶのだ。
「そんなはずはない」と。この胸を焦がすような温かさは、確かに存在した。それは、蒼が作り出した偽りの記憶なんかじゃない。俺の心が、蒼を愛したという、確かな証拠だった。俺は、震える手でアルバムを閉じ、段ボール箱の底に沈めた。蒼がいないこの部屋で、俺は一人、偽りの愛と真実の悲しさに打ちひしがれていた。
出社すると、同僚たちの視線が痛かった。皆が心配そうな顔で、俺と蒼の様子をうかがっている。俺は蒼と顔を合わせないように、ただ黙々と自分の席に向かった。
「おい、秋斗。最近どうしたんだよ」
昼休憩中、同僚の和也が声をかけてきた。いつものように蒼と三人で飯を食っていたのに、蒼がいないことに和也は気づいている。
「なんでもない」
俺は素っ気なく答えた。その態度に、和也は困惑した顔でさらに続けた。
「蒼がすごく心配してたぞ。何かあったんなら、俺たちにも話してくれよ。あいつ、最近ずっと元気ないし…」
蒼の名前を出された途端、俺の心の奥底で冷たい怒りが再び燃え上がった。
「蒼のことなんか、俺に聞くなよ」
思わず突き放すような口調になってしまい、和也は驚いたように口をつぐんだ。その隣にいた後輩も、不安そうな表情で俺を見つめている。
「どうしたんですか、秋斗さん…」
後輩の声が、俺の胸に突き刺さった。こいつは、俺の履歴書を見て、真実を知ってしまった人間だ。俺を裏切った蒼と、知らず知らずのうちにその嘘を暴いてしまった後輩。俺は、その二人を同時に拒絶している。
「…あんまりだぜ、秋斗」
和也の声が聞こえた。その声は、俺が彼らをどれだけ傷つけているかを物語っていた。俺にはどうすることもできない。この怒りも、悲しみも、すべては蒼が作り上げたものだ。
「話なら聞くぞ。いったい何があったんだよ」
もう一度、和也は問いかけてきた。俺は答えることができなかった。蒼がかけた能力のことを話したところで、誰が信じるだろうか。それに、俺と蒼の間にあった「偽りの愛」を、同僚たちに知られたくはなかった。
俺は、和也と後輩から顔を背け、ただ孤独に昼食を終えた。蒼がいないだけで、こんなにも俺の世界は暗く、寂しいものだったのか。俺は、そのことに気づかないふりをすることしかできなかった。
昼休み、俺は和也と後輩がいつも通り昼食をとっている場所に足を運んだ。あの日以来、俺は彼らとまともに顔を合わせていなかった。俺が近づくと、二人は驚いたように顔を見合わせる。
「……あの、この前は悪かった」
俺は絞り出すように言った。
「何の話だよ?」
和也は、いつものように茶化すような口調でそう言ったけれど、その声には困惑がにじんでいた。
「和也にも、お前にも、ひどいことを言った。すまない」
俺が頭を下げると、二人は慌てて「いいんすよ、そんなこと」と手を振った。
「…俺は、自分だけが傷ついているって、勝手に思い込んでた」
そこまで言って、俺は言葉に詰まった。蒼に裏切られた、という被害者意識が俺を支配していた。蒼を追い出して、和也や後輩に八つ当たりをした後、俺は気づいたのだ。自分も同じように、大切な人を傷つけていたのだと。
「俺は、大切な人にひどいことを言って、追い出してしまった。自分勝手な振る舞いで、周りの人間も傷つけて、俺は本当に最低だ」
後輩が、何も言わずに俺の背中をさすってくれた。その手は、ひどく温かかった。
「秋斗さん、また、蒼さんと話してください」
後輩は、俺の目をまっすぐ見てそう言った。俺は頷くことしかできなかった。和也も、黙って俺の肩に手を置いた。
その瞬間、俺の中の何かが変わった気がした。蒼への怒りばかりに囚われていた俺の心が、少しだけ、本当に少しだけ軽くなった。許されたわけではない。ひとりで抱え込もうとしていた重荷を、彼らが一緒に背負ってくれている。そう感じることができた。この優しさに、俺は報いなければならない。蒼と向き合い、この先の未来を、もう一度、自分の足で歩き始めるために。
職場の飲み会は、最悪だった。同僚たちの心配そうな視線も、俺に遠慮してか参加しなかった蒼がいない空間も、俺の心を苛むだけだった。ひたすらに酒を呷った結果、帰り道では足元がおぼつかなくなった。アスファルトの道が波打ち、頭が重い。
「秋斗さん、大丈夫ですか」
背後から聞こえたのは、後輩の声だった。俺は、その声に気づかないふりをしようとしたけれど、体が傾き、転びそうになったところを、後輩が慌てて支えてくれた。その手が、まるで蒼のようだった。温かくて、強くて、そしてどこまでも優しい、あの手に。
一瞬、蒼だと思ってしまった。
「蒼……」
口から漏れたのは、もう二度と口にしないと決めた名前だった。後輩は何も言わず、ただ黙って俺を支えてくれている。俺は、その事実に気づいて、ひどく惨めな気持ちになった。蒼はもういない。蒼は、俺の人生からいなくなった。
「タクシー、止めますね」
後輩はそう言って、俺を歩道に座らせ、手を挙げた。間もなくして止まったタクシーに乗り込むと、運転手が無言でエンジンをかけた。
その時、カーラジオから流れてきたのは、聴き覚えのあるバラードだった。それは、蒼の車でよく聴いた曲で、蒼がいつも口ずさんでいた、あの曲だった。まるで、蒼がそこにいるかのようだった。彼の笑い声が聞こえるようで、俺の心を締めつけた。
ああ、違う。蒼はもう、いない。俺は、ただの幻を追いかけているだけだ。そう気づいた瞬間、俺の目からは、とめどなく涙が溢れ出した。
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