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第2話
雨が降りしきる中、秋斗の妻の葬儀が行われた。俺は秋斗の隣に立ち、彼の肩にそっと手を置くことしかできなかった。秋斗は、まるで魂が抜けたかのように、ただぼんやりと空を見つめている。彼の頬を伝う涙が、雨に混じって消えていくのが見えた。
あれから、秋斗は変わってしまった。いや、変わってしまった、というよりも、何かを失ってしまったようだった。家にこもりきりになり、食事もろくにとらない。俺が差し入れたものを、ただ見つめているだけのこともあった。
「秋斗、何か、食べよう…」
俺がそう声をかけると、秋斗は「…いい」と、力のない声で答えるだけだった。その瞳には、かつて俺が知っていた、輝きが一切なかった。ただひたすらに、深い虚無だけが広がっていた。俺の胸は、彼の痛みに呼応するように、ぎゅっと締めつけられた。
ある日、秋斗は突然、俺にこう言った。
「俺も、死ねばよかったのに…」
その言葉は、まるで鋭い刃物のように俺の心臓を貫いた。俺は、自分がどれだけ無力なのかを痛感した。親友として、秋斗を支えたい。だけど、どんな言葉をかけても、どんな行動を起こしても、秋斗の心を救うことができない。彼は、愛する妻を失った悲しみの中で、自分自身をも見失っていた。
その夜、俺はインターネットで、藁にもすがる思いで「記憶」「心」「救う」といったキーワードを打ち込んだ。すると、奇妙なブログに行き当たった。それは、特殊な能力を持つ者が、人の心の傷を癒す、という内容だった。胡散臭い。そう思った。けれど、秋斗のあの瞳を思い出すと、俺はもう、どんな手段も厭わなかった。
ブログに記載された住所を訪ねると、そこには古びた一軒家があった。玄関の扉を開けると、静かに座っている、初老の男がいた。
「…ようこそ」
男はそう言って、俺を招き入れた。俺は震える声で、秋斗のことを話した。男は黙って俺の話を聞き、最後にこう言った。
「彼の心は、愛を失ったことで、空っぽになってしまっている。私ができるのは、その空っぽの場所に、満たされた愛の記憶を植え付けることだ。ただし、代償は大きい。あなた自身の、彼に対する記憶もまた、彼のものと同期する。この能力は、いずれ解けてしまう」
「それでも、俺は構わない」
俺は迷うことなくそう答えた。秋斗が再び笑ってくれるなら、俺自身の記憶がどうなろうと、かまわない。たとえ、いつかこの偽りの愛が崩れ去っても、その4年間で、秋斗が生きる気力を取り戻してくれるなら。
「彼の心を、愛で満たしてやってください」
俺の言葉に、男は静かに頷いた。それが、俺と秋斗の、偽りの「結婚」生活の始まりだった。
俺は、蒼の問いかけには答えず、ただリビングのソファに深く腰を下ろした。蒼は、俺の隣に座ろうとしたけれど、その前に俺は冷たい声で口を開いた。
「…俺と、お前は結婚してない。そうだな?」
蒼の動きが止まる。その瞳は大きく見開かれ、表情から血の気が引いていくのが分かった。重い沈黙が、部屋を満たす。
「答えろよ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。蒼は顔を伏せ、震える声でつぶやいた。
「……ごめんなさい」
その言葉が、俺の怒りの導火線に火をつけた。俺は立ち上がり、蒼を見下ろして叫んだ。
「謝って済むことか! お前は、俺を騙していたのか?!」
蒼は、泣きながら首を振った。
「違うんだ、秋斗…! 騙したかったわけじゃない。あの時の君は、もう、どうしようもないくらい自分を蔑ろにしていて私は恐ろしかったんだ…」
「だから、お前は俺を救うために、神様にでもなったつもりか?!」
俺の言葉に、蒼は嗚咽を漏らした。そして、ついにすべてを話した。俺が妻を亡くしてから、どれほどひどい状態だったか。どうにかして俺を救いたくて、特殊な能力を持つ人に頼んだこと。4年間、俺と結婚として過ごした日々が、すべてその能力による偽りのものだったと。
蒼の告白を聞きながら、俺の頭の中は真っ白になった。愛し、愛されていたはずの時間が、すべて蒼が仕掛けた「幻」だった。幸せだった日々も、温かい思い出も、すべてが嘘だと突きつけられた。俺の心は、絶望と怒り、そして虚しさで満たされていく。それは、まるで俺の心を直接叩き割るようだった。俺は蒼から一歩、また一歩と後ずさり、壁に背をつけた。息が詰まり、立っていることさえままならない。
「…俺は、4年間も偽りの幸せに浸っていたのか?」
震える声で呟くと、蒼は顔を歪めて首を振った。その仕草は、もう俺の心には届かない。俺の目に映るのは、ただただ「嘘」という二文字だけだった。
「お前は、俺の感情を操って…まるで子供をあやすようにしていたのか?」
俺の言葉は、蒼の心を深くえぐった。蒼は嗚咽を漏らしながら、必死に訴えかけてくる。
「違うんだ! 操ったんじゃない。ただ、君に生きていてほしかったんだ。笑ってほしかったんだ…!」
蒼の声は悲痛だった。それが純粋な、俺を想う気持ちからだったことは、俺にも分かっていた。だけど、その純粋さが、俺をさらに深く傷つけた。まるで、俺が一人では何もできない、惨めな存在だと突きつけられたようだった。俺は、自分自身に、そして蒼に対して、激しい怒りを覚えた。
「その結果がこれか? お前の勝手な判断で、俺の人生を壊したんだ!」
俺の言葉は、まるで鋭い刃物のように蒼の心に突き刺さった。蒼は言葉を失い、ただ涙を流すしかなかった。俺は、その涙を「本物」だと信じることができた。でも、その涙は、俺の心を救うにはもう遅すぎた。愛していたはずの人間が、実は俺の人生を勝手に操作していた。その事実は、俺の心を虚しさで満たしていった。
俺はもう、蒼の顔を見ていることができなかった。この部屋に、この家全体に、蒼の「嘘」が染み付いているように感じた。そして、俺はただ一言、絞り出すように言った。
「…出ていってくれ」
俺の言葉に、蒼は何も言い返すことができなかった。ただ、その場で泣き崩れるだけだった。俺の心を深く抉り、勝手に人生を操ったくせに、どうしてそんな風に泣けるんだ。その涙さえも、俺には醜い演技のように思えて、ますます怒りがこみ上げた。
「俺は、お前がいない家に戻りたいんだ」
そう言ってしまったのは、俺の最後の抵抗だった。妻を亡くし、絶望の淵にいた、あの何もない部屋に戻りたいと、俺は願ってしまった。蒼と過ごした4年間を、すべて消し去ってしまいたかった。
蒼は、震える声で何かを言おうとしたけれど、言葉にはならなかった。そして、ゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていった。最後に、俺の方を振り返った蒼の瞳は、絶望と、それでも俺を愛しているという複雑な光を宿していた。
ガチャリ、とドアが閉まる音がした。
その音は、俺と蒼の間にあった偽りの「結婚」というラインが、完全に破綻したことを告げていた。部屋には、再び静寂が戻ってきた。しかし、それは安らぎの静けさではなかった。蒼が作った「幻」が消え去ったことで、俺の心は再び虚しさで満たされていく。蒼が俺を救おうとしたのは、きっと本心だったのだろう。でも、それは俺の心を蝕み、俺の人生を勝手に作り変える権利を蒼に与えたわけではない。俺はただ、裏切られたという事実しか受け止めることができなかった。
この激しい衝突の後、俺たちは距離を置くことになった。そして、その寂しさが、俺の怒りをやがて「悲しみ」へと変えていくことを、俺はまだ知らなかった。
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