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序-1
気がついたときには、彼の唇に触れていた。
***
高校から徒歩十分の1LKのアパート。聴きなれた炊飯器の音で、琅玕 は目を覚ます。時刻は朝五時。いつもこの時間に、炊飯器は米の炊き上がりを知らせてくれる。
「……」
早起きは苦手ではないものの、いつもより少し眠いのは晩遅くまで文庫本小説を読んでいたからだった。泊まりに来る幼なじみを待つついでにと言いながら、けっきょく続きが気になって最後まで読んでしまったのだった。
ふあ、とあくびをして気だるい上半身を起こす……と、目端に気配を感じてぼんやりそちらを見やった。
ベッドのすぐ脇。床に広げたマットのうえで眠る大きな幼なじみはすやすやと眠っている。そのようすに、琅玕 はふわと笑った。
(よく寝てる)
いつも険のある表情でムスッとしているけれども、こういうときばかりはあどけない。
(昨日もバイト遅かったみたいだし、寝かせてあげよ)
ルームシェアをしているわけでもないのに、幼なじみがこうしてよく泊まりにくるのは、彼がいくつもバイトを掛けもちして、それが夜遅くへおよぶこともあるからだ。――どうしてそんなに働くのかと訊いてみたことはあったものの、彼は「早 よ家を出てぇからじゃ」と言っただけだった。
くぁとあくびをして、後ろ頭をかく。思えば、幼なじみと言っても彼のことをほとんど知らない。それは彼が寡黙で、琅玕 自身も踏み込まないからだった。
(だから、こうやって近くにいてくれるんだろうけど)
きっと彼にとってこの関係は気楽なのだろう。琅玕 から踏みこめば、彼はきっとどこかに行ってしまう。そういう人だ。
……こんなことを言えば怒られてしまうだろうが、彼は野良猫みたいだなぁ、と琅玕 は思う。彼はふだんから眉間にシワをよせているように、他人を寄せつけない。干渉を嫌い、いつも他人に警戒しているようなきらいがあった。それゆえに人からは怖がられている。
(本当はやさしいのになぁ)
彼を起こさないようにベッドから降りる。狭い部屋は二メートル近い彼が横たわるだけでいっぱいだ。ポットに水を入れてからスイッチをいれておく。手洗いと洗面を済ませ、玄関から入ってすぐの洗濯機にタオルをまとめて投げこみ、電源をいれる。てきとうに洗剤と柔軟剤を投入して蓋を閉め、そのまま横のキッチンへ。八畳間の1LKは、玄関からリビングまでひとつづきになっていた。
(レタスまだ余ってたっけ……)
平皿を二枚と、保存容器をそれぞれ二つ取り出して冷蔵庫の上にならべる。ひとり暮らし用のそれは狭いキッチンからはみ出してリビングに置いてある。それが|琅玕《ろうかん》にとってちょうどよく、サイドテーブルのようなあつかいをしていた。
手をかるく消毒してから、保存容器におかずカップをいくつか出していく。本当はお弁当箱を買ったほうがいいのだろうが……高校生になって一人暮らしを始めた頃ころに、これで済むからわざわざ買わなくてもいいかと思ってしまって、そのまま一年が経ってしまっている。クラスメイトにも「黒生 くんって見た目のわりにズボラだよね。なんか、ちゃんと男子ってかんじで安心した」と言われるくらいには大雑把だ。
しゃもじに水をつけてから、炊き立てのご飯を切るようにかるく混ぜ、それぞれの容器によそう。
(梅干しに、かぼちゃの煮つけと野菜炒め。お肉は冷凍食品のソースとんかつがあって……ブロッコリーも昨日茹でたんだっけ。そのあまりが……あ、レタスもあるある)
冷蔵庫の中には、両手ですっかり包めてしまうていどのレタスが残っている。二人で食べるにはすこしたりない気もするが、朝食に彩りを添えるぶんにはまぁいいだろう。レタスは後で出すことにして、先に卵を二つ取りだした。
(たまご焼きつくっちゃお~)
上機嫌で玉子焼き用のフライパンに油を引き、IHの電源を入れる。思うより多めに入れたほうがきれいに仕上がる、とわかったのは、最近のことだ。ゆったりしているせいか、それとも気楽な性分だからなのか、ふつうならもっと早くにわかっていそうなことを知るのは、人より遅い。友人にもよくお前はズレてんだよ、と言われるものの、それがいったいどのあたりなのか、よくよく考えてみても自覚はできなかった。
たまごをボウルへ割り入れながら、まだ寝ている幼なじみをちらと見やる。彼は料理をしないから、夜はまかないの出るバイトに行っているらしい。けれど、始めたらすぐに自分よりずっと上手くなってしまうんだろうなぁ、なんて卵を溶きながら考える。塩胡椒をふり、パックの白だしで風味づけをする
溶き卵を熱々のフライパンへそそぐと、じゅわぁ、といい音がした。この音がすると、フライパンにこびりつかない。卵をまわしながら、ふと想像する。
(ええ~どんな料理つくるんだろ)
幼なじみがこのキッチンに立ってつくるのは、いかにもそれらしい大味の料理だろうか。それとも、彼の気質みたいに繊細なものになるのだろうか。
(それはそれでいいな)
ひとり、ふふと笑う。
(あ、けどこのキッチンだと小さいか)
自分の背丈でも狭いと感じる最低限のものだ。幼なじみにはもっと使いにくいだろう。……と、妄想しているうちに卵が焦げそうになっていることに気がついて、あわてて巻いていく。
玉子焼きができたら切り分けて少し冷ます。そのあいだに、空っぽのフライパンへ少量の水をそそぎ、卵を二つ割り入れる。これは、朝ごはん用だ。作り置きのおかずや自然解凍ができる冷凍食品を容器へ詰め、ちょうどいいころに玉子焼き、隙間にブロッコリーをさしこんでいく。できあがったら、すきまをあけて軽く蓋をしておく。
レタスをとりだして洗い、軽く水を切ってから平皿にならべたところで、ちょうど六時を過ぎたころになった。琅玕 はキッチンから一段降りて、リビングの幼なじみの近くへ寄った。姿勢を低く、声をひかえめにして、彼を呼ぶ。
「レオ~、朝ですよぅ」
彼は意外にも、大きい音が苦手だ。小心者ではないが、どうにも不快らしいというのは、幼いころから見ているから知っている。
「ん゙ん゙……」
低い音でうなり、彼は目をつむったまま眉間にシワを寄せた。
「朝。起きて」
「……」
「ね~、起きて。レオ。目玉焼きつくったよ?」
幼なじみの目が、うっすらと開いた。おそらく、まだ起きていない。
「レオ。朝。ほら、顔洗って。朝ごはん食べよ?」
「……、」
のそりと上体を起こした彼の黒髪が、肩口にかかってさらりと垂れる。幼なじみはそのまましばらく沈黙していたが、ややあって、だいぶゆっくりと顔をあげた。猛獣のように鋭い眼光をしている彼の、朝の寝ぼけ眼 を見るのが、琅玕 はいっとう好きだ。
「おはよ、レオ」
「……ああ、はよ」
起き抜けで声はやわい。
「昨日、遅かったみたいだね。おつかれさま」
「……」
レオはしばらく、琅玕 の顔をぼんやりと見つめ、遅れてコクリとうなずいた。
「水曜日じゃいうんに、団体客が入った言 うて……三十人いっきに。ホールの人数、足 らん……」
彼は寝言のように声をこぼして、気だるそうに立ちあがった。上半身をゆらゆらと揺らしながら、洗面所へ遅々と向かっていく。
(ふふ、可愛い~)
大きな背中を見送って、琅玕 もまた立ちあがる。
(えっと、なにしてたんだっけ。あ、そうそう。目玉焼き~っ)
ぱたた、とキッチンへ。フライパンの目玉焼きは、いい具合に仕上がっている。出来上がったものを、レタスを敷いた平皿に乗せる。椀を二つ出し、フリーズドライの味噌汁をそれぞれに入れてから、ポットのお湯をそそいでかるくまぜておく。冷凍の小ネギをはらはらと落としておけば、それなりにらしくなるものだ。
冷蔵庫の上は、すでにお弁当と朝のおかずでいっぱいだ。琅玕 はレオが支度をしているあいだに、カーテンを開ける。すき間からこぼれていたやわらかな光は、ぱっと広がって室内を明るく染めた。窓際の観葉植物たちも、朝日をよろこんでいるようだ。リビングのマットを畳み、端に立てていたローテーブルを中央に戻す。マットは壁に立てかけておき、テーブルを台拭きでかるく拭いてから、できあがったおかずや味噌汁を並べ、箸をおく。冷蔵庫から牛乳をとりだしてグラスへそそぎ、それも運んだ。ヒゲ剃りの音を聞きながら、弁当を包む。琅玕 はフックにかけていたじょうろを手に取った。
(僕もヒゲが欲しいな~。かっこいいおじさんとか憧れる)
自分のあごを片手でさすってみるものの、いまだにその気配はない。
(まだ高校二年生。見込みは、きっとある)
うんうんとうなずきながらじょうろをいっぱいに満たし、窓際へ。育てているのは、どれもたいして手間のかからないものだ。生き生きと葉を開いている植物を見、世話をするのは、琅玕 にとって毎日の楽しみだ。水やりと植物の健康観察が終わったころあいに、長い髪をうしろできれいにまとめたレオの姿が見えた。
「おはよう、レオ。朝ごはんいる?」
「食 う」
「わかった」
琅玕 は微笑んだ。テーブルの前にどかりと腰を下ろした彼は、すっかりいつもの調子だ。きつい目じりにちからの入った眉間。口は真一文字に結んで、いっけん不機嫌そうにも見える。キッチンへ戻ろうとした琅玕 は、ふと足を止めた。
「ね、刈り上げのとこ触っていい?」
「……好きにせられ」
低い声に、つきはなしたような言いかた。視線を逸らしている彼の思うところはわからないが、この場合はだいたい嫌がっていない。空いている片手を伸ばして、横頭の整った場所に触れる。
「ふふ、ショリショリ~。ね、ヒゲは?」
ついでに顎も触ると、こちらは剃ったばかりでなめらかな肌触りだった。
「これもまたこれでイイんだよなぁ」
「いつまで触っとんなら」
「おっと、ごめんごめん。つい堪能しちゃった」
琅玕 は上機嫌でキッチンへ戻った。大急ぎでご飯をよそって、二人分の茶碗とともに「お待たせ」とレオの向かいストンと座る。
「「いただきます」」
手を合わせるタイミングは、いつもなんとなくぴったりだ。
「今日は?」レオが訊いた。
「課題があるから早く出るつもり」
「皿……洗っとく」
「ん、いつもありがと」
琅玕 は微笑んだ。
黙々と食べるレオは、最初に汁物を一口飲んでから、ご飯をかきこむ。大きな口でおかずを食んで、またすぐご飯へ。彼なりに食べる順番というか、調子があるんだろうなぁ、といつも見て思う。
「食べんのか」
「ん~ん。ちょっとレオを眺めてただけ」
「いつも、そねぇ面白いもんでもなかろうに」
「いいんだよ。僕の楽しみだから」
「物好きな奴 っちゃ」
「僕はズレてるらしいからねぇ」
ふぁ、とあくびをする。レオはこちらを見て、眉間にシワを寄せた。
「……待たんでええけぇ、ちゃんと寝られ。夜寝るんが遅うなったら、弁当もいらん」
おや、と琅玕 は目を丸くした。にんまりと笑う。
「ふふ」
「なんじゃ」
「いんやぁ」
いっそう頬がゆるんでしまう。こういう、なにげない気遣いが彼のやさしさだ。
「レオ大好き」
彼は食べていたものを詰めかけたのか、んぐっと短く喉を鳴らした。
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