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序-2
初夏の気配を感じる涼やかな朝。
腕時計は七時をすこし過ぎたところで、琅玕 はあくびまじりに見慣れた通学路を歩いていた。
「眠そうだな」
肩を叩かれ、わっと声をこぼす。いつのまにか、毎朝おなじみの顔が並んでいた。クラスメイトであり、中学生時代からの友人であるルテンだ。登下校のときだけゆるめたネクタイに、同じ青還 高校のスラックス。琅玕 と同じように課題を持ち運ぶためのパネルケースを片手に持っているが、小柄なルテンが持つと地面すれすれだ。
「はよ、黒生 」
「黒生くんおはよう」
もう一人。可憐な声とともに、奥からひょっこりと顔を出したルミは、ルテンの双子の妹だ。どことなく面差しの似ている彼女はルテンと同じように小柄だが、制服は私立天宮 学園のもので、楚々とした上品さがある。
「おはようございます」琅玕 は二人に合わせて足をゆるめた。
「黒生くん、夜更かしでもした?」
ほんわかと笑うルミ。
「それが、小説の続きが気になって……」
「最後まで読んじゃったんだ」
彼女はくすくすと笑った。
「なんて本?」ルテンが訊いた。
「『彼と彼とが、眠るまで。』って本なんですけど、最初はなんとなく学園ものだなぁ、って思っていたら、どんどん大変なことに……」
「エグ。っていうか、そろそろ次の台本探さねぇとなぁ」
ルテンの言葉に、ルミは大きな目を丸くした。
「実験劇場が終わったばっかりなのに?」
実験劇場とは、五月末から六月頭にかけて行われる高校演劇の公演会のことだ。生徒のあいだでは、新人公演とも呼ばれていて、春に入部した役者や裏方にとって、はじめて経験する貴重な舞台になる。
二年になったルテンは変わらず役者を、昨年流されるままに入部した琅玕 は裏方を続けていて、とくにルテンは青還高校の演劇部でも筆頭の役者だ。
「むしろ、次からが本番だっての。九月末に地区大会があって、運がよけりゃ県大会。……つっても、うちは県立で予算も人数もそんなにねぇから、天宮みたいな舞台セットはできねぇけどな」
「天宮ってそんなにすごいの?」
妹の言葉に、ルテンは肩をすくめた。
「おいおい自分の学校だろ? こないだの公演、観なかったのかよ。天宮っつったら、強豪って有名なんだぜ」
「ルテンのとこしか観てない」
「お前なぁ」
二人のようすに、琅玕 はふふと微笑んだ。
「笑ってんじゃねぇぞ。お前も小説ばっか読んでないで台本探せ」
「はいはい」
「雑な返事すんなや」
コントのように二人で笑っていると、奥のルミが「ずるい~」と声をあげた。
「なんだよ、かまってちゃんか?」
「そうだよ。わたし、二人といっしょに高等部に上がれるって思ってたのに、二人とも青還に行っちゃうんだもん」
「いいだろ、お前にはヨリ姉さまがいるじゃん」
「学年がちがうのー!」
ルミはぷぅと頬をふくらませた。
琅玕 はあれと首をかしげる。
「二人にお姉さまなんていましたっけ?」
「親の再婚だよ。言ってなかったっけ?」
「聴いてませんねぇ」
「まぁそれでさ。ルミは麗 しのヨリ姉さまにご執心ってワケ」
「もう、ルテンのいじわる!」
ルミは顔を真っ赤にした。
「いいだろこれくらい。毎日のろけ聞かされるオレの身にもなれっての」
「のろけって、たしかにヨリ姉さまはとってもすてきだし大好きだけど、べつにつき合ってるわけじゃ……」
恥じらうようにうつむいて、彼女は熱くなった頬に両手をそえた。
「だぁぁ、それだっての。おら、とっとと愛しのヨリ姉さまに会いに行きやがれ恋煩悩!」
「ルテンのバーカバーカ! あとでヨリ姉さまのお話たっぷり聞かせてあげるんだから」
「いらねぇよ! 散れ!」
二人は頭をつきあわせて「いーっ」といがみ合うと、ふんとそっぽを向いた。ルミは琅玕 に向くと、
「黒生くん。ルテンは口が上手いんだから、言うことぜんぶ信じちゃだめだよ」
と言った。その横で「お前がすなおすぎるだけだろ。世間知らずめ」とルテンがさしこみ、ルミがむぅと涙目でにらみかえす。
「わかってますから、安心してください」
琅玕 が苦笑すると、ルミは「じゃあね」と手を振った。その背中を見送りながら、横目にルテンを見やる。
「いじめすぎでは?」
「べっつにぃ」
ルテンは口をとがらせて、たったった、と校門を抜ける。琅玕 もまた、すぐ横に並んだ。
「ルミさんが取られて寂しいんですか?」
「取られてねぇわ!」
(そこは否定するんだ)
琅玕 はへぇ、とまばたきをした。
「ただ、ちょっと心配なだけだよ。ヨリ姉は悪い人じゃねぇけど、ルミは人を疑わなさすぎる。あいつのいいところだけど、それだけじゃヨリ姉に負担がかかるだろ? すくなくともヨリ姉は、ちゃんと他人の悪意に敏感だからさ。あんまりにすなおなルミを目の前にすると、むしろ、いろんなこと抱えこんじまうんじゃないかって思ってさ。……ルミは、まぶしいから」
「なんだ。ヨリさんのこと、認めてるんですね」
「同族嫌悪ってやつ。ま、オレのほうがイケメンだけどな」
「はいはい。ルテンはイケメンですよ」
「あー、お前また雑な返事!」
琅玕 はルテンとともにデザイン科棟へ向かう。運動部の声が聞こえるが、それ以外はまだ生徒もまばらだ。学校の寝起きのようなこの時間は、いつも独特の空気感をまとっている。
「課題はどうよ」
ルテンがネクタイを締めながら訊いた。
「まだです。金曜提出の製図が……ルテンは?」
「製図は終わった。今日はパネルの水張りやろうと思ってさ」
水張りとは、紙に水分を含ませてホッチキスなどでパネルや板に張る作業のことで、デザイン科ではこれをイラストレーションなどの課題だけでなく、プレゼンテーションボードとしても使用する。入学してすぐに教えられる技術のひとつだ。
失敗するとラップをてきとうにつけたときのように、パネルの角へつっぱった形の凹凸ができる。こうなると、いちど剥がしてまたやり直さなければいけない。ルテンはいつもきれいに張るが、万一に失敗したときのことも考えて早めにやるつもりなのだろう。
「ルテン、いつも製図早いですよねぇ。僕はどうにも苦手で。なんかズレちゃうんだよなぁ」
「あんなのはシャーペンの太さも計算して線を引くんだよ」
「ええ……」
友人の細やかさに琅玕 は眉根を下げた。ルテンは一見おちゃらけたノリをしているが気配りな性質で、それは制作課題やふだんの生活にも垣間見える。いま整えたばかりのネクタイを見てもそうだ。結び目は左右対称の形をしていて、曲がったりヨレたりもしていない。
「セーフセーフ」
言ったルテンの視線を追うと、向こうから歩いてくる教員の姿があった。ネクタイを締めるのが遅かったら、いまごろ注意されていただろう。
「青葉 先生はよーっす」
ルテンが片手をあげると、数学の青葉先生が足を止めた。
「おはようございます、でしょう」先生は苦笑している。
「さーせん。はよーざいます!」
ルテンが言い直す横で、琅玕 も「おはようございます」と頭を下げる。
「二人はあいかわらず、声がよく通るね」
おちついた調子の青葉先生は、黒ぶちの眼鏡をしている。背丈は琅玕 と同じぐらいでそれなりに高いもののひかえめな風貌で、生徒からは「メガネ」や「あおたん」と呼ばれていた。
「そりゃ演劇部っすからね」
ルテンは、ニッと笑った。
「今日は小テストあるんすか。点落としたら放課後、居残り?」
「小テストはありませんよ」
「ははん、ってことは、カノジョとデートだ」
ルテンが意味ありげにニヤリと笑うと、青葉先生はあきれたように眉根を下げた。
「敬語を使いなさいよ。それに俺は……」
言いかけて、青葉先生はわずかに視線を流した。前髪の影でなにかの思案を挟んで、こちらに笑みを戻す。
「残念ながら、先生にはそういう面白い色恋の話はありません。友達としてください」
では、また授業で。去っていく青葉先生の背中を見送ったルテンは、その笑みをいっそう深めた。
「あおたんって、素は『俺』って言うんだ。へぇ~……」
「ルテン?」
「先生には、ねぇ……ははっ、面白いことがありそうだ」
「ルテンの深読みなんじゃ?」
「知ってるか? あおたんの眼鏡、ダテなんだぜ。わざわざ顔に似合わないイモっぽいデザインを選ぶなんて、おかしいだろ」
「ただファッションセンスがないだけでは?」
「言うねぇ! けど、オレの勘が言ってるんだ。あおたんには、ぜったいなんかあるってな」
友人 の悪癖だ。
琅玕 は肩をすくめた。
弁当を忘れたことに気がついたのは、昼休みのことだ。
実習室で鞄を開いたときにいつもあるはずの包みが見あたらず、腹をすかした自分と同じように、鞄はスカスカだった。
「おー、購買に行くか?」ルテンが横からのぞきこんだ。
「それが、今日お財布持ってなくてぇ……」
「お前なぁ……ぽんこつもほどほどにしろよ。いくら?」
「親にお金の貸し借りはだめって言われてるんです」
はぁ、と肩を落とす。上機嫌で作った玉子焼きは、アパートでひとりぼっちだろうか。
そのとき、クラスメイトが大きくざわついた。琅玕 がその理由を遅れて知ったのは、弱々しい声で呼ばれたときだった。
「あ、あの。くろはえ……? 先輩、いますか」
実習室の入り口には一年生の女子が立っている。彼女はどこか不安そうな表情で実習室をおろおろと見まわしていた。名前は知らないが、デザイン科の後輩だ。ふだんこうしてデザイン科棟で多くの時間を過ごすのだから、顔くらいは見たことがある。
「あ……はい。僕ですけど」
黒生は立ちあがった。
その瞬間、クラスメイトのザワつきに喜色が沸く。女子が多いからなのか、きゃあきゃあという声が反響し、四方八方からふだん浴びることのない視線がそそがれることになった。
(みんな、おもしろがってるなぁ)
こういうとき、つくづく自分は人前へ立つことに向いていないなぁ、と思う。ルテンから何度か役者をやらないかと誘われたが、断っていて正解だ。人前に立つのはあまり好きじゃない。琅玕 が机の間を抜けていくと、そこかしこで「告白」「カノジョ」という単語が飛び交っていたが、それは聞かなかったことにする。
「どうしました?」
女生徒は、琅玕 を見上げていっそう青ざめた。
(おや?)
自分は背丈はそれなりに伸びたものの、顔立ちも見た目も……虚しいが、なよやかだ。いままで怖がられたためしはない。どうしてこの子はこんなに怖がっているんだろうか、と考えた矢先に、彼女がふるえる声で言った。
「せ、先輩を呼んでこいって……あの……」
すっかり怯えきった視線を追う。その視線は、専門科棟の入口へ注がれているらしかった。琅玕 が実習室から身を乗り出すと、後ろのほうから「きゃあ」と黄色い声が上がった。
(しまった。告白だと思われている状況で、その女の子へ不用意に近づいてしまった……)
いちおう、ごめんねと言っておく。彼女は彼女で、怯えていてそれどころではないらしい。ようやっとデザイン科棟の入り口を見ると、それを塞いでしまうほどの大きな人影があり、「ああ」と琅玕 は声をあげた。彼女が怯えている理由がわかった。レオだ。
「あ、の……」
「大丈夫」
琅玕 》は声をひそめて、耳打ちする。
「僕の知り合い。教えてくれてありがとね」
するとまた、きゃあと歓声があがる。
(しまった。またうかつなことをしてしまった)
自分はこう、どうしてやってから気づくのか。つくづく自分の至らなさに肩を落としながら「そういうんじゃないから、誤解。誤解!」と後輩との関係を否定しておく。どれくらい信じてくれたかはわからないものの、だいたいはみんな騒ぎたいだけだろうから、躍起にならなくてもそのうち忘れてくれるだろう。後輩を返し、琅玕 自身は実習室を出る前に足を止めた。
「ルテン、先に食べてて~!」
「昼飯どうすんだよ」ルテンが声を張った。
琅玕 はデザイン科棟の入り口で待つレオを見やって、微笑んだ。
「どうにかなりそ~」
昼休みを十分ほどすぎたころ。校舎裏で、琅玕 は弁当を広げた。
「んっふふ~、レオありがとね。ご飯届けてくれて」
今日はレオもいっしょの昼ごはんだ。上機嫌にしているかたわら、レオはとなりで眉間に危惧 を乗せている。それは、弁当を渡したらすぐに教科棟へ戻るつもりだった彼を、琅玕 が引き留めたからだ。
「誰かに見られたらどうすんなら」
レオは学校で琅玕 との関わりを隠したがる。その理由は、琅玕 もなんとなく察していた。――きっとレオは、風聞を気にしているのだろう。睨みぐせのあるレオは身体も大きく、しばしば生傷をつけることがあるから周りから怖がられていて、不良だのなんだのと悪い噂に事欠かない。そんな自分といっしょにいて、琅玕 に危害がおよんだり悪い噂の的になってしまうのを、彼は気にかけていた。
(まぁ、僕としてはレオの悪い噂のほうが、気に食わないんだけど)
噂は気に食わないが、レオはそれをよしとしている。なら、そこまでは自分も干渉しまい……と、自制しているのだが。
琅玕 は口をとがらせた。
「これくらい許してよ、レオ。僕は君と過ごす時間が好きなんだ」
「じゃけど」
「それに、誰もこないよ。こんなとこ。ね、一回くらいいいでしょ?」
レオは眉間にシワを寄せたまま、ふいとそっぽを向いた。
「食べたらすぐ戻られ」
(わぁい、許された!)
琅玕 はそれだけでさっき考えていたことをすっかり忘れ、上機嫌に戻った。遅れてレオが包みを開けるのを見る。自分が作った弁当を、彼がどんなふうに開いていくのか……琅玕 はずっと知りたかった。
「そんなに見られな」
レオがぶっきらぼうに視線を拒絶する。彼の横顔はどこか険しい。それでも彼への興味を止めることができなかった。
(緊張、してるのかな。いつもいっしょにいるのに)
どこまで踏みこむことが許されるだろうか。
彼の、刈り上げた横頭に触れる。ショリ、と整った手触りが指先に触れた。琅玕 は膝のうえの弁当を自然とおろし、身体を寄せていた。
「なんっ……」
(あ、おどろいてる)
指先でなでながら、琅玕 はただ見つめた。彼は自身が態勢を変えて弁当を落としてしまうことを杞憂 しながら、同時に戸惑っている。
(瞳が揺れてる……こまってるんだろうな)
さわ、と耳に触れる。彼の身体が一瞬だけふるえてからすぐ、硬直したのがわかった。
(あ)
耳が赤い。
(これ、だめかも)
頭の隅では、やめなければいけないと理解していた。けれど、見たことのない彼の一挙一動から目を離せなくて、離れがたくて。
(熱いな……)
六月の半ばにさしかかるこの時期は、こんなにも暑かっただろうか。片手間にネクタイをゆるめる。身体の線が重なる。どちらも熱がじゅうぶんすぎるほどにこもっていて、布越しに擦れた肌はそのまま染みて溶けてしまいそうだ。
「ろ、琅玕 ……ん゙っ?!」
彼にくちづけをする。息が熱い。身体が熱い。
「ね、ちから抜いて」
「そんな……ん、」
耳もとでささやく。
「キモチイイよ?」
「っ……」
その瞬間、レオの表情が崩れた。気難しげな眉間は眉根を下げ、とまどいを隠せなくなった瞳が見ひらかれて濡れている。壁にぴったりと背をつける彼にはどこにも逃げ場がなく、ありのままの感情でいるほかなかった。
(可愛い……)
もう一度、唇を重ねる。ちゅ、ちゅ、となんども軽く触れるようにして。緊張をほぐしていくように。耳にくちづけを落とし、汗のにじむ太い首筋に舌を這わせる。
「ええ、んか」
余裕のない声が、頭上にぽつと落ちた。
「?」
ぼんやりと見上げる。今度はわずかな自制をはらんだような低い声色だった。
「本当に、ええんか」
「レオ?」
瞬間、返事を待たずに唇を奪われた。
「っ……ん」
大きな手で頭の後ろが押さえつけられ、息ができなくなる。なにが起こったのかを遅れて理解したのは、彼のもう片方の腕が、琅玕 の背中をぎゅうと締めつけたときだった。
(あ、僕、キスされてるんだ)
ようやく、琅玕 は物事の一端を理解した。
(レオの口って、大きいんだなぁ。……なんて、あたりまえか)
口を薄くひらく。熱を孕んだ彼を誘う。彼のくちづけはぎこちないものだったが、熱をはらみながらも乱暴にしまいと必死に耐えているような愛らしさがにじんでいた。
(レオも、男子なんだなぁ)
わかっていたことをあらためて思う。彼女がいたという話も聞いたことがなく、また下の会話も苦手らしいと知っていたから、彼が欲情するという想像は、いまのいままで、つかなかった。このまま食べられてしまうのだろうか、と考える。
(はじめてなんだろうなぁ、可愛い)
鼓膜が脈打つのを感じながら、琅玕 は唇をはなす。
「ね、もっと深いのしよ? 舌、出し……」
わずかに身体のあいだがゆるんだとき、レオはその場でうずくまるように背中を曲げた。
「|痛《い》ッ……」
「えっ、レオ、大丈……あ、」
琅玕 はレオがうずくまった理由を察した。
「ッ見んなアホ!」
「んえっ!」
振りはらわれて、琅玕 は背中から地面に転がった。バタバタと走り去っていく音が聞こえて、そのうちにしんと静まりかえる。
「……あぁ、あー……」
琅玕 は不格好な姿勢のまま片手をのったりと空へ伸ばし、無意味に揺らす。と、その腕をぱたりと顔へ落とした。
「んんあああああ、やっちゃったぁぁぁぁぁ……」
そのままごろりと横たわる。ズキズキと痛んでいた股間の苛烈な熱が引いていくのを感じながら、両手で顔をおおった。
「僕、最低かよぉ……」
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