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堅吾 志至朗-1
思えば、俺ァ黒生 琅玕 のことをそねぇ知らん。
***
まだ小学生にもならないころに志至朗 の両親は離婚した。父はあまり話すほうではなく、幼い志至朗にはその詳しい事情を知る由もなかった。
母が家を出ていったあとも月に一度、三人そろって外食をする機会が設けられ、小学生になった志至朗は離れて暮らすようになったんだろうということを理解した。
月日が経つごとに、母はその様相を変えた。服が変わり、よく笑うようになり、会うたびに志至朗の知らない人になっていった。そのうちに会う回数は減ってゆき、相反して父はどんどん老けていった。部屋の中にビールやチューハイの缶が転がるのはふつうになって、洗濯物はそこらに脱ぎっぱなし。煙草も増えた。その灰皿を片づけるのも洗濯機を回すのも、母のいないこの家では志至朗の仕事になった。
小学生になって間もない志至朗に料理の心得はなく、また周りには教えてくれる者も頼れる親戚もいなかった。父が仕事帰りに買ってくる値引きの弁当が遅い晩飯で、母の手料理が恋しくなることはあったが自分ではなにも作れないため、文句をたれることなかった。
小学一年生の梅雨前のことだった。台所で埃をかぶった炊飯器を見、母のことを思いだした志至朗は、ぽつりと言った。
「母さん、元気にしよるかな」
そのとき、部屋中の音が消えた。それはほんの一瞬のことだったが、志至朗は目の前の父から顔をそらせなかった。目玉を剥き、鼻筋に波立つようなシワを集め、口の端に深い影を落とした。次に志至朗を襲ったのは、地震のような怒声だった。びくりと肩を跳ねさせたときには、頬をぶたれていた。なにが起こったのかは理解できなかったが、ボールが思いきり顔に当たったときと同じ味が口のなかにひろがって、遅れて頬が燃えるように熱くなった。なにがおこったのかを考えることもできなかった。――きっと、いま目の前で怒鳴っとるんは知らん人じゃ。志至朗があぜんとしていると、父はハッと我にかえって、泣きながら我が子を抱きしめた。志至朗は父のことがまるでわからなかったが、言ってはならないことを言ってしまったのだと幼心に理解した。
以来、父は似たようなことをくりかえすようになった。タガがはずれてしまったのか、なにか気に障ることがあると激しく怒鳴って、息子を殴りつける。少し時間が経つとおびただしい後悔に苛まれ、罪悪感を打ち消すように志至朗に懺悔 をし始め、最後は決まって酒におぼれた。次第に酒の量は増え、イライラする時間も多くなり、木造のボロ屋はピリピリと張り詰めた。
ある日、志至朗がランドセルを背負 って帰ると、父は足音がうるさいと言って八つ当たりした。お腹を蹴られた志至朗は反射的に給食を戻した。それすらも癪 に障ったらしく、頭を踏みつけられ、もう何度か太腿や脛を蹴られた。掃除しとけよ、と言って父は居間に戻り、志至朗は父の姿が見えなくなってからようやく起き上がった。泣くこともなく、ただ黙々と片付けをした。においだけは、しばらく消えなかった。
以来、家の玄関を開けるときの志至朗は慎重になった。なるべく音を立てないようにすべりこみ、まず父の靴があるかどうかを確認する。靴があれば耳を澄ます。寝ているのか、起きているのか、機嫌がいいのか、悪いのか……。
父がいないときは、まっさきにランドセルを片付けて、畳や寝室に散らばった洗濯物をかき集めた。体操服もいっしょに洗濯機へ入れて、洗剤を入れてまわす。そのあいだに、踏み台をもってきて乾いた服をとりこんで畳む。缶も持てるだけ拾ってシンクへ運ぶことを何回かくりかえし、残った中身を捨てて水で洗う。乾いた缶を袋に入れるのは、学校の行きしにあるスーパーの回収ボックスへ持っていくためだ。
父の暴力がひどくなったあたりから、志至朗は学校帰りに寄り道をするのが日課になった。学校で出た宿題の多くはその時に済ませてしまうのだが、休み時間だけではたりないときがある。だからといって、家に父がいればそれどころではなくなってしまう。志至朗の居場所は、運動公園のベンチだった。遊具のある広場からはやや離れた場所にあり、ちょうどよく日差しや雨をさえぎる屋根に守られていた。四角い木のテーブルと、それを囲むベンチ。宿題をするにはうってつけだった。
向こうの広場で、同じくらいの年の子どもたちが陽ざしをめいっぱいに受けてむじゃきに遊んでいる声を遠くに聞きながら、志至朗はひとり黙々と計算ドリルや字の書きとりを進めた。
夏休みのあいだ、志至朗は朝から図書館へ出かけ、閉館時間が来ると運動公園に向かった。黒生 琅玕 と出会ったのは、そのときだ。図書館の休館日にベンチで宿題を進めていると、いつのまにか近くにいた。あまりに静かで、すぐに気づけなかった。背は小さく、肌は白い。亜麻色の髪は肩口まで伸びていて、瞳は森の色と空の色を混ぜた水面のようだった。
このころには目が合ったときに睨むのが志至朗のくせになっていて、そのせいで友達はひとりもいなかった。幼い琅玕 と出会ったときもまた、志至朗はギンとにらんだ。しかし琅玕 は、にぱぁ、と笑みをひろげた。
(ズレとる奴じゃな。頭オカシイんじゃねぇかこいつ)
以来、同じ曜日、同じ時間に名前も知らないそいつが現れるようになり、なにをするわけでもなく、志至朗が宿題をするとなりに座った。睨みぐせのついた志至朗と目が合うたびに表情をほころばせ、嬉しそうにする。
そんなことが何回かあってから、志至朗はいよいよ訊いた。
「お前、なんなん?」
「なんなん、とは……?」
そいつは首をかしげた。
「めんどっちぃ奴じゃな。なんでいつも見よんか訊いとんじゃがさ。ヒマなんか?」
「ヒマといえば……そうかも」
「あっきれた。その辺で遊んどるやつなんてぎょうさん居 るんじゃけぇ、そっち混ざりゃええじゃろうが」
あっちいけ、と手を振ると、そいつは恥ずかしそうに笑った。
「えと、運動苦手で……」
「ならカードゲームは。スマホでもええじゃろ。動画でも観とけ」
志至朗はもっていなかったものの、クラスメイトがどういう遊びをしているかくらいは知っていた。
「えっと、そういうのも……なくて」
両手の指先を合わせるようにうつむくと、やわらかな亜麻色の髪もいっしょに揺れた。靴もピカピカで、服には毛玉もほころびもない。その姿は志至朗にとって、自分とちがう世界に暮らす人間だとじゅうぶんに理解できるものだった。
「じゃあ去 ね。俺ァいそがしい」
「えっと、名前」
「は?」
「名前、教えて!」
「話聞いとったんかお前」
あきれ顔で返すと、尻尾が下がった犬みたいにしゅんとした。すこしだけ、悪いことをした気がした。
「ごめんなさい……トモダチが、ほしくて」
「……」
おおかた、引っ越してきたばっかりなのだろう。
「……志至朗 じゃ」
「ししろ……しし、」
瞬間、緑色の瞳がパァと輝いた。そのようすは、渓流の水面へ陽の光がさしこんできらきらするときと同じに見えた。
「じゃあレオだ。獅子 だから、ライオン!」
「好きにせえ。……お前は」
「ぼくはね、黒生 琅玕 。よろしくね、レオ!」
琅玕 は志至朗の手を握ってその日いちばんの笑みを見せたが、相反して志至朗は冷めた気持ちでいた。それはひとえに、琅玕 があたりまえに守られる側の人間だからだ。
志至朗は思った。質のいい髪に、きれいな身なり。見ず知らずの他人に笑いかけられる無邪気さに、睨まれてもその意味を理解できない能天気な頭。トゲのない柔和な声色は、護ってくれるやつがいて、弱くても許してもらえる環境があるから。だから、そんなふうになよなよしていられるんだ。
(お前なんか、嫌いじゃ)
琅玕 がつきまとうのも、自分以外の知り合いができるまでだ。志至朗はそう思って、以来、琅玕 がとなりに来ても追い払うことはせず、同時にそれ以上の干渉もしなかった。そうしているうちに、季節は冬になった。
いつからか父の帰る時間はもっと遅くなり、帰ってこない日もできた。志至朗は心底ほっとした。――今日は親父に殴られんですむ。そんなことを考えて、父がいないことを喜んでいる自分に嫌気がさした。自分もまた、父と同じように性根が腐っていくような心地がした。
(……いっそ、死ねばええ。親父でも俺でも、どっちだって)
木枯らしが吹いて手がかじかんでも、志至朗には放課後すぐ家に帰る理由がなかった。帰りたくない理由だけは、はっきりあった。父がいつ居るのか、わかららないからだ。けっきょく、志至朗が向かう場所は冷たい運動公園のベンチしかなかった。
その日はめずらしく、琅玕 が先にいた。彼は薄着のまま三角座りをして、小さく丸まっている。
「風邪ひくぞ」
体操服の上着を琅玕 へ放り投げてから、ランドセルをどかりと置く。琅玕 は、上着の襟元を寄せると、赤い鼻の先をこちらに向けてニッと笑った。
「レオだって」
「俺ァ丈夫じゃけえ、ひかん」
「それ、どうしたの?」
琅玕 は目もとを指さした。
「あ゙?」
触ると、ズキと痛んだ。顔をしかめる。
「あー……」
思いだした。今朝、父に殴られたのだった。
「別に。……転んだ」
殴られて転んだから、嘘ではなかった。ただ、詳しく説明をするのは面倒だった。事情を知らない奴が言うことは知れていて、心配や同情はこれといって役に立たず、誰かが助けてくれるわけでも、その後のことに責任を持ってくれるわけでもないからだ。
「はやく治るといいね」
「どうでもええ」
ランドセルをあけて、宿題を取りだす。琅玕 は「そっか」と表情の読めないあいづちをうってからは、なにも訊かなかった。それは志至朗にとってひどく気楽だった。説明をする必要もなく、同情もされない。相手の心を無下にする必要もないから、気構えなくていい。
(やっぱこいつ、アホなだけなんじゃろうな。まぁ、それくらいのがええ)
空が暗くなって、帰らなければいけない時間になった。陽の光がない空気は酷薄と澄んでいて、およそ容赦なく子ども二人の肌を刺した。ジラついた電灯はいまにも消えそうになりながら、帰れと急かしているようだった。
「じゃあな」
志至朗はいつも、またねとは言わない。またねと言って別れた母には会えず、約束の言葉は真綿のように温かい苦しみをつきつけるものになっていたからだ。
「待って」
琅玕 の小さな手が、志至朗をひきとめた。冷たい彼の両手が、同じように冷えきった志至朗の手を包む。
「ぼくね、レオのこと好きだよ」
まっすぐな瞳だった。
志至朗は目を見ひらいた。
きっと、琅玕 にとってはなんてことのない言葉だろうと思った。この食べ物が好きだとか、あの色が好きだとか、それくらいのものだろう、と。うぬぼれるにしても、励ましたいとか、そのていどのもので……。
だが。
「……」
志至朗にとっては。
「また明日ね!」
好きだよ。
また明日。
機嫌よく去っていく背中を見送ったまま、立ち尽くす。
「お前の目は、節穴なんか……」
真っ赤な手で顔を覆う。
こんな自分を好きだと。
「かってなこと言いよって……人のこと、なんも知らんくせに」
寒さでジンと痛む耳が、熱い。ボロボロに崩れてしまいそうになって、その場にしゃがみこむ。
(あいつの笑顔が消えん。あいつの声が消えん。別れたばっかなのに会いてぇ。今夜だって明日だってあたりまえに、親父に殴られるゆうんに……。嬉しいと苦しいがぐちゃぐちゃにまざりあって、気が狂いそうじゃ)
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