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第22話 危うい誘いの先で

バーの店内には控えめに映画音楽が流れ、柔らかな光に照らされた空間が心地よい。 田中さんは資料を広げながら説明を始める。 「このプロジェクトは、雑誌の編集だけではなく、ウェブやSNSのコンテンツも含めて展開していく予定です」 ……すごいな。俺でもやれるのかな。 資料の文字を追いながら、説明の熱量に思わず息を飲む。 「企画から発信まで、幅広く関わっていただきたいと思っています」 「……なるほど。確かに挑戦しがいがありそうですね」 口から自然にこぼれた言葉に、田中さんの目が細められる。 「ええ。ですから、一ノ瀬さんにはぜひ前向きに検討していただけたら、と思います」 にこやかに言われて、俺は思わず背筋を正した。資料を抱えたまま頷く。 「……わかりました、考えてみます」 「よろしくお願いします。……ところで、少し肩の力を抜きませんか?」 差し出されたグラスには琥珀色の液体。香りは強めで、思わずたじろぐ俺を、田中さんは微笑みながら見つめている。 「……あ、ありがとうございます。でも、ちょっとお酒弱くて……」 「平気ですよ。ほんの一杯、口を潤す程度ですから」 「えっと……そうですか」 「それに、こういう場にも少しずつ慣れてもらわないと」 冗談めかした声に、断りきれず手を伸ばしてしまう。 「……じゃあ、一口だけ」 グラスを受け取った瞬間、田中さんがふふっと笑った。 「素直ですね。一ノ瀬さん、だから神谷社長に気に入られてるんですね」 「いえ……」 笑い返す余裕もなく、俺は視線を逸らして酒に口をつけた。 舌に広がるアルコールの熱に顔が赤くなる。 思った以上に強いな……。 けれど田中さんは嬉しそうに目を細め、俺が飲み干すのを待っていた。 「どうです?」 「……あの、田中さん、ちょっと強いですね、これ」 思わず笑い混じりに言うと、田中さんは軽く肩をすくめる。 「すぐに慣れますよ。……もう少しどうですか?」 勧められるまま、グラスがまた満たされる。視界が揺れ、鼓動がだんだん速くなる。 そんな時、ポケットの奥でスマホが小さく震える。 取り出して画面を見た瞬間、その名前が視界に飛び込み、胸の奥がきつく締め付けられた。 ──拓実。 なんで……よりによって、今。 田中さんの前で平静を装おうとするが、表情が硬くなってしまう。 「……はい、一ノ瀬です」 “……遥。今、何してる? ちゃんと話がしたいんだ” 拓実の声が受話器越しに響く。 落ち着いているのに、どこか切実さが混じっていた。 「……あ、えっと……」 濁さずに答えなければ――頭ではわかっているのに、酔いで舌が重く、思うように声が出ない。 しかも、田中さんの視線が横目でこちらを見つめていて、無意識に引き寄せられてしまう。 「あの、今、ちょうど外出先で……」 声が震えないように無理に微笑む。 膝の上で手を握りしめても、震えは止まらない。 焦りと切なさが混ざって言葉がうまく出てこなかった。 「……また、連絡します」 かろうじて答えて通話を切ると、田中さんの低く甘い声が耳元に落ちた。 「そろそろ、出ましょうか」 曖昧に頷くと、田中さんの手が肩に触れ、軽く支えられる。 田中さんはスマートに支払いを済ませて財布をしまう。 「あ、あの……払います」 「誘ったのは僕ですから、お気になさらず」 「ありがとうございます……」 支えられたまま、店の出口へ向かう。 体の奥はまだ火照り、酔いと緊張で視界がふわりと揺れる。 駅前に差し掛かると、足取りがふらつき、立つのもやっとだった。 「……すみません、俺……」 「大丈夫ですか? 少し、座りましょう」 ベンチに腰を下ろすと、夜風が火照った頬をかすめた。 少し楽になるかと思ったが、酔いと鼓動の速さは収まらない。 田中さんが横に腰を下ろし、ゆっくりと身を寄せてきた。 肩先に温もりが触れそうな距離で、低い声が耳元に落ちる。 「……よければ、この後、もう少し落ち着ける場所に行きませんか?」 「いや、でも……」 否定の言葉を口にしたはずなのに、頭の中は霞がかかったみたいにぼんやりして、言葉の続きが出てこない。 田中さんは穏やかな微笑を崩さず、すぐさま言葉を重ねてきた。 「大丈夫。少し話すだけですから」 その「だけ」が妙に甘く耳に残る。視界の端が揺れて、まぶたまで重い。 返事をしようとしても、声はうまく出なくて、かすかな吐息が漏れるだけだった。

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