22 / 66
第22話 危うい誘いの先で
バーの店内には控えめに映画音楽が流れ、柔らかな光に照らされた空間が心地よい。
田中さんは資料を広げながら説明を始める。
「このプロジェクトは、雑誌の編集だけではなく、ウェブやSNSのコンテンツも含めて展開していく予定です」
……すごいな。俺でもやれるのかな。
資料の文字を追いながら、説明の熱量に思わず息を飲む。
「企画から発信まで、幅広く関わっていただきたいと思っています」
「……なるほど。確かに挑戦しがいがありそうですね」
口から自然にこぼれた言葉に、田中さんの目が細められる。
「ええ。ですから、一ノ瀬さんにはぜひ前向きに検討していただけたら、と思います」
にこやかに言われて、俺は思わず背筋を正した。資料を抱えたまま頷く。
「……わかりました、考えてみます」
「よろしくお願いします。……ところで、少し肩の力を抜きませんか?」
差し出されたグラスには琥珀色の液体。香りは強めで、思わずたじろぐ俺を、田中さんは微笑みながら見つめている。
「……あ、ありがとうございます。でも、ちょっとお酒弱くて……」
「平気ですよ。ほんの一杯、口を潤す程度ですから」
「えっと……そうですか」
「それに、こういう場にも少しずつ慣れてもらわないと」
冗談めかした声に、断りきれず手を伸ばしてしまう。
「……じゃあ、一口だけ」
グラスを受け取った瞬間、田中さんがふふっと笑った。
「素直ですね。一ノ瀬さん、だから神谷社長に気に入られてるんですね」
「いえ……」
笑い返す余裕もなく、俺は視線を逸らして酒に口をつけた。
舌に広がるアルコールの熱に顔が赤くなる。
思った以上に強いな……。
けれど田中さんは嬉しそうに目を細め、俺が飲み干すのを待っていた。
「どうです?」
「……あの、田中さん、ちょっと強いですね、これ」
思わず笑い混じりに言うと、田中さんは軽く肩をすくめる。
「すぐに慣れますよ。……もう少しどうですか?」
勧められるまま、グラスがまた満たされる。視界が揺れ、鼓動がだんだん速くなる。
そんな時、ポケットの奥でスマホが小さく震える。
取り出して画面を見た瞬間、その名前が視界に飛び込み、胸の奥がきつく締め付けられた。
──拓実。
なんで……よりによって、今。
田中さんの前で平静を装おうとするが、表情が硬くなってしまう。
「……はい、一ノ瀬です」
“……遥。今、何してる? ちゃんと話がしたいんだ”
拓実の声が受話器越しに響く。
落ち着いているのに、どこか切実さが混じっていた。
「……あ、えっと……」
濁さずに答えなければ――頭ではわかっているのに、酔いで舌が重く、思うように声が出ない。
しかも、田中さんの視線が横目でこちらを見つめていて、無意識に引き寄せられてしまう。
「あの、今、ちょうど外出先で……」
声が震えないように無理に微笑む。
膝の上で手を握りしめても、震えは止まらない。
焦りと切なさが混ざって言葉がうまく出てこなかった。
「……また、連絡します」
かろうじて答えて通話を切ると、田中さんの低く甘い声が耳元に落ちた。
「そろそろ、出ましょうか」
曖昧に頷くと、田中さんの手が肩に触れ、軽く支えられる。
田中さんはスマートに支払いを済ませて財布をしまう。
「あ、あの……払います」
「誘ったのは僕ですから、お気になさらず」
「ありがとうございます……」
支えられたまま、店の出口へ向かう。
体の奥はまだ火照り、酔いと緊張で視界がふわりと揺れる。
駅前に差し掛かると、足取りがふらつき、立つのもやっとだった。
「……すみません、俺……」
「大丈夫ですか? 少し、座りましょう」
ベンチに腰を下ろすと、夜風が火照った頬をかすめた。
少し楽になるかと思ったが、酔いと鼓動の速さは収まらない。
田中さんが横に腰を下ろし、ゆっくりと身を寄せてきた。
肩先に温もりが触れそうな距離で、低い声が耳元に落ちる。
「……よければ、この後、もう少し落ち着ける場所に行きませんか?」
「いや、でも……」
否定の言葉を口にしたはずなのに、頭の中は霞がかかったみたいにぼんやりして、言葉の続きが出てこない。
田中さんは穏やかな微笑を崩さず、すぐさま言葉を重ねてきた。
「大丈夫。少し話すだけですから」
その「だけ」が妙に甘く耳に残る。視界の端が揺れて、まぶたまで重い。
返事をしようとしても、声はうまく出なくて、かすかな吐息が漏れるだけだった。
ともだちにシェアしよう!

