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第21話 辞める理由は、君を想うから
side 一ノ瀬 遥
朝のオフィスは相変わらず静かだった。
自分のデスクに座ってパソコンを立ち上げ、メールを確認する。
けれど、頭の中は全然仕事に集中していなかった。
……やっぱり、このままじゃダメだ。
昨日からずっと考えていたことが、胸の奥で重くのしかかる。拓実の姿が頭をよぎるたびに、心が揺れる。
息を吐いて立ち上がり、編集長の席の前まで行って足を止める。
「……編集長、少しお時間いただけますか。話したいことがあって」
資料に目を落としていた編集長が顔を上げ、柔らかくうなずいた。
「ああ、いいよ。会議室に行こうか」
静かな声に背中を押されるようにして、俺はその後ろをついて行った。
「……実は、退職を考えているんです」
会議室に呼んでもらい、静かにそう切り出した。
編集長は少し驚いたように目を瞬かせる。
「えっ……それは急だね。一ノ瀬くん、今の仕事に不満があるのか?」
「いえ、そうではなくて……。ここでのお仕事には、すごく感謝してます。皆さんにも良くしていただいて」
言葉を選びながら話すと、編集長は黙ってうなずいた。
「じゃあ、どうして?」
「……ちょっと、色々あって。環境を変えたいんです」
はっきりとした理由は言えない。でも編集長はそれ以上追求せず、否定も説教もしてこなかった。
「そうか……。君の気持ちを軽く扱うつもりはないよ。ただ、急に辞めるには惜しい人材だと思ってる」
「……ありがとうございます」
「まずは少し休んでみないか? それからでも遅くはない。気持ちが落ち着いてから改めて考えればいい」
その穏やかな声に、不意に喉が熱くなる。唇を噛んで目を伏せた。
居心地が悪いわけじゃない。むしろ、ここは安心できる場所だ。
けれど――俺は、拓実から距離を置くために、この居場所さえ手放そうとしている。
会議室を出て自分のデスクに戻ると、しばらくは仕事に没頭した。
編集長に気持ちを打ち明けたせいか、少し肩の力が抜けて、意外と手が動く。
原稿の確認に赤を入れて、後輩からの相談に答えて……気づけば、あっという間に昼になっていた。
スマホが震え、メッセージ通知が画面に浮かぶ。
……送り主は田中さんだった。
“新しい情報とご相談がありまして。今夜よろしければ、仕事帰りに会えませんか”
短い文面だけど、その内容に目が止まる。
新しい情報か。これは聞いておいたほうがいいよな。
同僚や後輩に残せるものは残したい。
役に立つ情報があるなら、受け取ってから、会社を去るべきだろう。
“わかりました。今日の仕事終わりで、大丈夫です”
そう返信してスマホを伏せる。
昼休みが終わる頃、窓の外の空を見上げた。少し雲が切れて、光が差し込んでいた。
*
仕事を終え、田中さんから待ち合わせに指定された駅前のバーに向かう。
ガラス越しに見えるネオンが、少しだけ疲れた心を揺らす。
約束の時間ちょうどに扉を開けると、田中さんがすでに来ていた。
「お待たせしました」
軽く会釈しながら席に着くと、田中さんは微笑みながらグラスを軽く掲げる。
「来て頂いてありがとうございます。少し疲れていませんか?」
「……いえ、大丈夫です」
自然にそう答えながらもずっと緊張してる。
田中さんは穏やかだけど、少しずつ距離を詰めてくる雰囲気だ。
「まずは、新しい情報です。昨日入った芸能関連の動きで、まだ外部には出ていません」
田中さんが小さな封筒を差し出してきた。それを受け取り、中の資料をざっと目にする。
最新の撮影スケジュール、話題の俳優のインタビュー抜粋、来週公開予定の映画の情報――いくつかのレポートや写真、簡単なメモがきれいに整理されている。
「なるほど……ありがとうございます。こういう情報があると、記事の優先順位や企画を判断しやすいですね」
田中さんはにこりと微笑む。
「まだ非公式ですが、タイミング次第では大きなスクープになる可能性もあります。一ノ瀬さんの目で見て、必要なら活用してください」
「ありがとうございます」
「そしてもう一つ……一ノ瀬さんにご相談したいことがあります」
田中さんはゆっくりとグラスを置き、真剣な目でこちらを見る。
「相談と言いますと……?」
「実は、神谷メディアから独立した編集プロジェクトがありまして。ぜひ一ノ瀬さんに参加していただきたいのです」
ふんわり響く言葉の意味がすぐに理解できた。
拓実に依存せず、自分の力で何かを成し遂げられるかもしれない――。
でも、その先には確実に、拓実と自分の関係に距離を置く覚悟も必要になる。
「……田中さん、その話、詳しく聞かせてもらえますか」
声を少し強く、冷静に保ちながら問いかけた。
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