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第20話 心はまだ、君を追っている

side 神谷 拓実 雨の音で目が覚める。 隣に手を伸ばすが、そこにあるのは冷たいシーツだけ。 ――遥は、いない。 昨夜、黙って見送った俺は、結局何もできなかった。 ……俺は何をすればよかったんだ? 無理にでも抱きしめればよかったのか。 でも、力で縛るなんて絶対にしたくなかった。 そんなことをしたら、あいつを傷つける。あの“クズ元彼”と、何ら変わらない。 枕元のスマホが目に入る。ロックを解除すると、昨夜送られてきた一行のメッセージが画面に残っている。 “俺たち、ここで終わりにしよう” 胸がぎゅっと締め付けられ、血の気が引くように冷たくなる。 なんでだよ。 なんでそんな短い言葉で終わらせるんだよ。 「……遥」 名前を呼んでも、返事は返ってこない。 画面の文字だけが無機質に光っていて、その一行は、俺の胸を刺す。 「痛えな……」 こんなの、初めてだ。 今までは、努力して頑張れば手に入った。筋書き通りに、少しずつでも未来を掴めた。 ……でも今回は、違う。 あいつには、あいつの心がある。 俺が思う通りには動かない。計算も理屈も、過去の経験も、何の役にも立たない。 ――ただ、想いが絡まるだけだ。 「……クソ」 悔しさが喉を焼く。怒りと情けなさと、どうしようもない焦りが混ざり合う。 そのとき、滝沢から着信が入る。 眉をひそめつつ応答すると、落ち着いた声が耳に届いた。 「朝からすみません。拓実さん、遥さんがこちらに帰って来てらっしゃいます」 胸の奥がざわつく。 「ああ、遥と会ったのか?」 「はい。昨夜、ちょうどエレベーター前で。久しぶりだなと思って声をかけたら……少し、元気なさそうで」 「……そうか」 「遥さんは“ちょっと戻ってきただけです”っておっしゃいましたけど……無理してるように見えました」 滝沢の声音には、遠慮がちだけど確かな心配がにじんでいた。 「それで気になって。拓実さん、何かあったんですか?」 俺はしばし沈黙した。喉の奥に重いものが張り付いて、言葉がすぐには出てこない。 「……あいつ、出ていったんだ」 ようやく絞り出した言葉に、滝沢は短く息を呑む。 「これ以上一緒にいると、しんどいんだって」 「……そうでしたか」 静かな間が落ちる。そのあと、彼は穏やかな声で言った。 「でも、それは遥さんの本音じゃないと思いますよ」 「……本音?」 「きっと、何か他に理由があると思います」 通話を切ったあとも、滝沢の最後の言葉が耳に残っていた。 雨が窓を打つ音に耳を澄ましながら、俺は深く息を吐いた。 * 雨が上がった昼過ぎ、俺はばあちゃんに呼び出されて、カフェに足を向けていた。 店内はいつもと同じ穏やかな空気。けれど、俺の胸の中は荒れたままだ。 カウンターに座ると、ばあちゃんが静かにコーヒーを淹れてくれる。 香ばしい香りが立ちのぼり、少しだけ心が落ち着く。 「……拓実。遥くんから“マンション退去したい”って連絡があったのよ」 「え、まって……遥から!?」 「あなたが知らないってことは、何かあったのね?」 隠しても無駄だと思い、カップを両手で包みながら小さく息を吐く。 「実は、遥が俺から離れた。“これ以上、一緒にいるとしんどい”……そう言って」 口に出すと胸がまた締め付けられる。 ばあちゃんは黙って俺を見つめ、すぐにふっと目を細めた。 「拓実、あなた……自分のなにが悪かったか、わかってないんじゃない?」 胸をえぐるような言葉に返せず、視線を落とした。 責められて当然だ。守るって言いながら、結局何もできなかった。 「遥くんが出ていったのはね、あなたを嫌いになったからじゃないわ」 「じゃあ何があったんだよ……」 「それはわからないけど。とにかく、自分の言動を振り返ってごらんなさいよ」 俺の言動を振り返る……? 「……遥くんはね、酷い元恋人の仕打ちだって、一人でじっと耐えてきたのよ。しかも、見ず知らずの人にだって見返りなんて求めずに手を差し伸べたわ。そんな子が、自分の気まぐれだけであなたから離れると思う?」 ばあちゃんの声は柔らかいけれど、芯がある。 「あなたが、知らないうちに遥くんを悩ませてたのかもしれないわ」 「俺が、遥を……」 「きっと遥くんのことだから、拓実のことを考えたのよ。拓実に迷惑かけたくなくて、勝手に思い詰めてしまったんじゃないかしら」 ばあちゃんの言葉が胸に重く落ちる。 コーヒーの温かさが手に伝わるけれど、心の中の冷えはなかなか溶けない。 「俺のせいか……」 「それはそうと、どうして引き留めなかったのよ」 「あいつを力で縛りたくなくて……だから、何も言えなかったんだよ」 「縛るのと、想いを伝えるのは別ものよ」 その瞳は真剣で、けれど優しかった。 俺の中で、迷いの靄が少しずつ晴れていく。 「……うん」 小さく返事をすると、ばあちゃんはにっこりと笑った。 「ほんと、あなた見てると亡くなったあの人を思い出すわ」 「何? じいちゃん?」 「ええ。強引で優しいくせに、たまに鈍くて。拓実はあの人そっくりだわ」 「……なんだよそれ」 まあ、いいや。 今度こそ、何も言わずに手放さない。 まぶたの裏に浮かぶ遥の姿を思い描き、心の中で軽く拳を握った。

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