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第19話 ここで終わりにしよう

荷物を抱えて元のマンションに戻る足取りは、地に足がつかないようで現実感が薄かった。 エントランスに足を踏み入れると、外の蒸し暑さとは違って、涼しい空間が広がっていた。 潔さん所有のマンション――ここも近いうちに出ていかなきゃいけないな。 部屋に入りドアを閉めると、途端に静寂に包まれる。荷物を玄関に置き、スイッチを押すと白い光がぱっと広がった。 カーテンを開ければ、拓実の部屋から見たあの夜景とはまるで違う景色。思わず胸が詰まる。 冷蔵庫には、期限切れの調味料しか並んでいない。 ……喉は渇いてるし、お腹も空いたな。 財布とスマホをポケットに突っ込み部屋を出る。 夜の空気は少し湿っていて、街灯に照らされたアスファルトが鈍く光っていた。 歩いてすぐのコンビニに入ると、店内の明るさがやけに眩しく感じた。 ペットボトルのお茶を手に取り、ついでに弁当やおにぎりもかごに入れる。 拓実がいたら「栄養バランス考えろ」って、きっと小言を言われただろう。 そんなことを思い出して、苦笑いが漏れる。 会計を済ませて外に出ると、残暑も和らいで秋めいた夜風が頬を撫でていった。 「……ひとりって、寂しいな」 ぽつりとこぼした声は、すぐに夜に溶けていった。 マンションのエントランスに向かって歩いていると、ちょうどエレベーターの前で、誰かがボタンを押す姿が目に入る。 「……あれ、遥さん?」 滝沢さんだ。拓実の知人でもあり、ここのマンションの隣人。俺が元彼騒動のときにお世話になった人。 スーツの上着を脱いで片手に持ち、ちょっと仕事帰りって雰囲気。 「あ、こんばんは……」 「お久しぶりですね。あれ、拓実さんのところにいらっしゃったんでは……」 不思議そうに言われて、胸の奥がちくりと痛む。 「まあ、いろいろあって……ちょっとこっちに戻りました」 「……そうですか。元気そうなら安心です」 言葉を濁す俺を、滝沢さんは深追いせず、穏やかに頷いた。 ただ、その視線には少し心配そうな色が混じっている。 「何か困ったことがあれば、いつでも声かけてくださいね。あの時から……拓実さんにも遥さんを見守るように言われてましたから」 優しい声に、なんだか胸が熱くなる。 「拓実さんは本当に遥さんのことが大事なんですよ」 「……大事……ですか」 思わず繰り返した言葉が、喉で震えた。 「遥さん、どうしました?」 「俺は……拓実と一緒にいると駄目なんです」 言葉にするたび、胸がぎゅっと締め付けられた。 滝沢さんは黙って俺の顔を見つめ、眉を少しひそめる。そして、しばらくの沈黙のあと、低く呟いた。 「……そうですか」 言葉は少ないけれど、その声に滝沢さんの複雑な心境が滲む。 胸の奥にまだ残る、拓実への気持ち。 好きであることも、離れるしかないことも、どちらも消せない。 そのやり取りを胸に刻みながら、俺は部屋へ戻った。 袋をテーブルに置き、ペットボトルのお茶を開ける。冷たさが喉を滑り落ち、ようやく少し落ち着きを取り戻すことができた。 温めもせず弁当に箸を突っ込む。食べられる味のはずなのに、口に広がるのは空虚な感じだけ。 美味しくない。……っていうか、味がしないな。 拓実と一緒に作った食卓の笑い声が、ふいに蘇る。当たり前だと思ってた日々が、今はやけに遠い。 無音の部屋。スマホを眺めても何ひとつ頭に入ってこない。 ベッドに転がって天井を見上げる。 考えまいとするほど、拓実の顔や声が浮かんで胸が締め付けられる。 震える指でスマホを操作する。何度も打っては消して、ようやく残ったのはたった一文。 “俺たち、ここで終わりにしよう” 送信を押した瞬間、心臓が跳ねる。 息を止めて画面を凝視すると、ほんの数秒後に“既読”の文字がついた。 その小さな表示に、胸の奥が焼けつくような痛みが走った。 ――拓実が読んだ。 何を思っただろう。どんな顔をしてるんだろう。 怖くて、それ以上見られなくて、電源ボタンを強く押す。 真っ暗になった画面が、今の俺みたいに空っぽだった。 「……これで、いい」 俺が決めたことだ。 拓実を傷つけてまで選んだ道。戻るわけにはいかない。 涙をこらえて布団を強く握りしめる。泣いてしまったら、きっと揺らいでしまうから。 布団を頭までかぶって目を閉じる。 それでも、拓実の“俺の気持ちは変わんねぇから”って低い声が耳から離れなくて、眠気なんてまるで来なかった。 胸の奥に残る痛みは、きっと時間が経てば薄れていく――そう信じたかった。

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