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第46話 二人の温度差

休日の昼下がり。 拓実のマンションのリビングは、陽射しが柔らかく差し込み、まるで時間が止まったみたいに静かだった。 ソファーに並んで座って、俺はスマホをいじり、拓実はコーヒーを飲んでいる。 いつも通りの、穏やかな午後。――のはずだった。 「なあ、遥」 「ん?」 拓実の声がやけに落ち着いて聞こえた。 顔を上げると、カップを置いた彼がこちらを見ている。 そして次の瞬間、何の前触れもなく。 「結婚したいな」 コーヒーの香りが残る空気の中で、その一言が、やけに鮮やかに響いた。 「……は?」 間抜けな声が漏れる。 「だから、結婚。しよう」 まるで“夕飯どうする?”くらいの気軽さで言うから、頭がついていかない。 「いや、ちょっと待て」 俺は慌ててスマホを置いた。心臓がドクンと跳ねる。 「急に何言ってんの?」 「急じゃないだろ。もう付き合ってだいぶ経つし」 拓実が当たり前のように言う。 その表情は真剣で、冗談を言っているようには見えない。 「いや、でも……」 「でも、何?」 拓実が俺の顔を覗き込んでくる。その視線が真っ直ぐすぎて、思わず目を逸らした。 「だって、俺たち……日本じゃ結婚できないじゃん」 「ああ、それか」 拓実が少し考えるように黙り込む。そして、何でもないように肩をすくめた。 「制度とか、形とか……そんなの関係ないよ。それに日本でも、パートナーシップとかあるし」 「いや、そういう問題じゃねぇって」 俺は言葉を探す。どう説明すればいいのか分からなくて、もどかしい。 「じゃあ何が問題なんだよ」 「……わかんねぇよ」 目の前の拓実が少しだけ眉をひそめる。 沈黙が落ちて、時計の針の音だけが響く。 拓実の指が、ソファーの縁を握りしめていた。 「……まだ、実感ないっていうか」 拓実が不満そうに眉を寄せた。 「実感ない? こんなに一緒にいて?」 「そうじゃなくてさ……」 俺は視線を落とす。胸がドキドキしてうまく言葉にできない。 「そんな簡単に決められることじゃねぇし」 「簡単じゃないのは分かってるよ。だからちゃんと考えて言ってる」 拓実の声が少し強くなる。その真剣さが、逆にプレッシャーになって胸を締め付けた。 「……お前、俺と結婚したくねぇの?」 低い声。その一言に、喉が詰まる。 「そ、そういうわけじゃ――」 「じゃあ何なんだよ」 拓実が少しムキになって詰め寄ってくる。 その表情には、焦りと不安が混じっていた。 「拓実が勝手に盛り上がってるだけじゃん」 言ってしまった瞬間、空気が凍った。 「勝手って……お前、ひどくない?」 拓実が傷ついたように目を細める。その反応に、俺も少しカチンときた。 「だって急に言われても困るし」 「急じゃないって言ってるだろ。前から考えてた」 「いや、俺には何も言ってなかったじゃん」 拓実が言葉に詰まる。その沈黙が、余計に気まずい。 二人の間に、ピリピリとした空気が流れる。 「それは……」 拓実が言葉を探すように黙り込む。その表情には、苛立ちと諦めが混じっていた。 「……もういいよ」 「もういいって何?」 拓実が立ち上がる。 「ちょっと頭冷やしてくる」 「おい、まだ話終わってねぇじゃん。逃げんなよ」 「逃げてねえよ。このままじゃ余計なこと言いそうだから」 拓実がそう言い残して、寝室に消えた。ドアが閉まる音が、妙に大きく響く。 俺は一人残されたリビングで、深く息を吐いた。 「……何だよ」 胸の奥がモヤモヤする。拓実の気持ちも分かってる。 “結婚したい”って言葉、本当は……めちゃくちゃ嬉しかったのに。 どうして素直に受け止められないんだろう。 それに、日本じゃ法的に結婚できないのに、何を期待してるんだろう。 俺は頭を抱えて、ソファーに沈み込んだ。 「……結婚、か」 ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に溶けていく。 テーブルの上には、拓実が飲みかけたコーヒー。 まだ湯気が少し残っていた。

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