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0話 あるいは夢 ※

   ――甘い、香りがする。  重たく甘ったるい空気が肺を満たし、侵していく。  息を吐き押し出そうにも、吸うほどに濃度を増して、脳の奥へと入り込む。  舌の上に甘苦さが残り、指先まで微かな痺れが広がる。  熱い。息苦しい。けれど、痺れるような恍惚が混じって、抗う意思を掻き消していく。  (……はやく、逃げないと……)  そう思っていたはずの頭が眩み、言葉がぼろぼろと崩れ落ちる。  思考そのものが煙に溶けていくようだった。  「お前を失いたくない。ずっとそばにいてほしい」  遠い日の記憶が、香の中から浮かび上がる。  太陽のように燃える赤い髪。深く凪いだ赤い瞳。  思慮深いその眼差しは、ただひたむきにキリエルを映していた。  「俺はいつもお前の幸せを祈っている」  静かな声。  分厚い手のひらが、優しく頬を撫でる。  壊れ物を触るように震える指先がひどく愛おしい。  胸の奥に熱が満ち、自然に涙が滲んだ。  (俺も……お前の幸せを祈っている。  自分を捨ててでも、命を懸けてでも……)  頬を伝った涙は、祈りそのものだった。  ――ぱしん、と頬に衝撃。  温かい記憶は粉々に砕け、冷たい鎖の音が足元で鳴る。  「……あ、」  掠れた声は、すぐに硬い指で塞がれた。  言葉もなく沈黙を命じられる。  耳に熱い吐息が触れ、甘やかな囁きが滴り落ちる。  「聖女様、どうか僕のために祈ってください……」  白い指先が汗ばむ褐色の肌を滑る。  濡れた祭衣の下で胸の飾りを執拗に弄られると、甘い痺れが走る。  「……痛かったか?お前が悪いんだぞ、駄犬め」  もう片方の耳には、冷たい囁きが吹き込まれる。  叩かれた頬がじんわりと熱を持ち、全身が強張る。  逆らってはいけない。躾けられた犬のように、次の命令を待つ。  冷えた手のひらが腰に触れると、教えられた通りに腰布をたくし上げ、尻を晒し突き出す。  「……いい子だ」  嘲笑を含んだ低い声に、“ご褒美”を期待した腰が戦慄く。  ――パンッ!バチンッ!  容赦のない平手で尻を叩かれ、痛みが背骨を伝って脳を揺らす。  「アッ!ぐぅ!あっぁ!」  混濁する感覚の中で、痛みと快感が混じり合う。  煮詰められた欲望が腹の奥に溜まり、疼いている。  ――ちがう、こんなのは俺じゃない。  気遣うように背中を撫でていた指先が顎先を掬うと、垂れていた舌を絡め捕られる。  「――綺麗です、聖女様」  激しい口づけの合間に囁かれる賛辞。  楽し気な嗤い声が部屋に反響していた。  ぬめる蕾を押し開かれ、熱が腹の中を摩擦する。  視界が揺れ、悦楽が思考を奪う。    片方は支配のごとく鋭く、片方は慈悲のように柔らかく――。  両極の声が同時に頭を侵し、体を引き裂いていく。  頬を伝う涙が舌に掬われ、ぬめる音と共に飲み込まれた。  嗤い混じりの吐息と、甘い慰撫の囁き。  幸福な記憶は穢され、祈ることすらできず嬲られていく。  香はさらに濃く、視界を曇らせた。  腹の奥を痺れと熱が締め上げ、震える身体はもはや自分のものではない。  指に封じられた唇は、呻きではなく、くぐもった快楽の声を漏らしてしまう。  ――ちがう……俺は、……  必死に抗う意識の中、脳裏に声が響く。  ――のために祈れ  命令と慈愛に上書きされた祈りは形を変えていく。  かつての願いが、次第に甘美な痺れと混ざり合い、歪む。  キリエルは絶望と恍惚を抱きながら、深い淵へと沈んでいった。

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