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聖女選定 1
王宮の奥深くに造立された祈りの間。天窓からは優しく光が降り注ぎ、白大理石の柱を淡く染めていた。
天へとせり上がる丸天井、アーチを描く列柱、そこに彫り込まれた複雑な幾何学の紋様。朝の冷たい空気を混ぜるように、香炉から立ち上る白煙がゆったりと揺れていた。
石畳の床には濃紺の絨毯が敷かれ、一歩踏み込むごとに深く沈む。乳香の甘苦い香りが鼻をくすぐり、耳を澄ませば遠くの衣擦れの音まで響いていた。
その場に立つ誰もが、ただ己の非力さを思い知らされる。ここは女神の領域に最も近い場所――そう信じさせる力があった。
その中心に、ひとりの少女が跪いていた。
ルミエル。ヴァルデリオ公爵家の末娘にして、次代の聖女候補。
十五の身に純白の薄衣をまとい、両手を胸の前で組む姿は、まさしく“理想の聖女”だった。
珊瑚のように赤く色づいた唇からは、流麗な旋律のごとき祝詞がこぼれ、鈴の音のように澄んでこだまする。
その声は祈りの間の隅々まで届き、清澄な水音のように耳へ沁み渡った。
――女神エルトゥメリアの御名を讃える言葉。
――創国神話を語り継ぐ詩。
――祝福された血を守る誓い。
彼女はすべてを歌い上げていた。
四人の近衛騎士は、その横顔を守るように立っている。
そのうちの一人――キリエルは、彼女の兄だった。
鎧の下で、彼の体は熱を帯びていた。昨日から続く微熱。汗が額に浮かび、くくった髪が濡れた首筋に張り付く。それでも姿勢を崩さず、剣の柄に添えた手を固く握りしめ続けた。
同じ列に並ぶ三人の騎士が横目で不躾に彼を見やる。くだらない詮索を閉め切るように睨み返すと、彼らはばつが悪そうに目を泳がせた。
――彼らは正統な家から選ばれた若い騎士たち。
妾腹の自分は、ただ数を揃えるために加えられたに過ぎない。
侍女であった母譲りの褐色の肌と黒髪。吊り上がった目尻は出自の卑しさの表れだと、幼い頃から「黒犬」と揶揄されてきた。
公爵家の血筋を象徴する青い瞳以外、何もかもが妹とは正反対だった。
キリエルは黙して立ち、妹の声を聞き続ける。
◇
この国において「聖女」とは、ただの象徴ではない。
女神エルトゥメリアをその身に降ろし、神託を告げる“器”である。
エルトゥメリア――豊穣を司る太陽の女神。
彼女に選ばれたとき、聖女の額には赤い印が輝き、瞳は黄金色に変わる。
その姿は繁栄と安寧の象徴であり、王家と共に国の礎を築いてきた。
起源は、はるか昔。
「原初の祈り手」アリュエルと、のちに初代皇帝となる青年カエルスは天に祈りを捧げた。それは、飢餓によって命を落としたアリュエルの妹サラのため。――すると、女神エルトゥメリアがアリュエルの身に宿り、サラを蘇らせ、痩せ細った地に豊穣をもたらした。
そして三人の血脈を祝福し、決して絶やさぬよう命じた。
アリュエルとカエルスは結ばれ、共に国を興し、民のために女神に祈りを捧げた。サラはこの物語を後世に歌い伝えた。
ゆえに今、王家はアリュエルとカエルスの血を、公爵家は姉妹の血を継ぐ。
王と聖女はその均衡において国を支え合うことを宿命づけられている。
――そして、ルミエルは公爵家の末娘。
唯一の聖女候補であった。
◇
歌声がゆっくりおさまると、静寂が訪れた。
ルミエルは悠然と立ち上がり、祭衣の裾を整え、祭壇に向かって深く一礼する。
銀糸を織り込んだ布が光を弾き、彼女の姿をより神聖に見せていた。
振り返った彼女の青い瞳が、真っ直ぐキリエルを射抜く。
「終わりましたわ。今日もありがとう、キリエルお兄様」
柔らかな笑みが浮かんでいた。
その声音は確かに親愛を含んでいた。
けれど、裏側に微かな優越の色が混じる。
他の近衛に向ける言葉よりも甘やかで、しかしその響きは絶対的だった。
それは兄に向けた敬意ではなく、従者に与える労りにも似ていた。
(俺は、彼女にとって“兄”なのか。それとも――)
キリエルは熱で軋む体を折り、低く頭を垂れた。
「ご奉仕できたこと、誇りに思います」
形式通りの答えを返しながらも、冷たい影が胸に広がる。
鈍く重い痛みをかき消すように、キリエルはきつく目を瞑った。
ルミエルが祭衣を翻し、祈りの間を出る。
兄の腕にそっと手を添えると悪戯っぽく笑った。
「一緒に、ね?」
その仕草は幼いころと変わらない、兄に甘える妹のものだった。
だが十五の少女となった今、彼女は当然のようにすべてを手に入れることができる。
「ええ、お供いたします」
キリエルは静かに答える。
妹の背を追うように、近衛騎士たちは従順に歩み始める。
小さな後ろ姿に、誰もが未来の聖女の姿を見るだろう。
キリエルはただ心の内で祈った。
――この妹が、幸せに生きられるように。
重厚な扉を押し開けると、香炉の煙が揺れ、天窓の光が瞬いた。
その静けさは、キリエルの胸をひやりと締めつけた。
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