3 / 28

聖女選定 2

 キリエルにとって祈りは習慣だった。  夜明け前の月光の下、騎士の宿舎に近い小さな礼拝堂に入り、粗末な祭壇の前で跪く。それは己のためではなく、家と民のための祈り。  冷えた空気が火照った肌を優しくなでる。  その姿を誰が見るわけでもない。だがそれだけが、彼を支えていた。   ◇  王宮の回廊を渡る風は冷たく澄んでいたが、その奥に漂う空気はざわめきに満ちていた。  ――聖女の容体が、日に日に悪くなっている。  口にこそ出さないが、誰もがそのことを知っていた。  昼も夜も、祈りの間には人が集い、侍従や神官が行き交っている。  聖女候補であるルミエルもまた、その理由で王宮に滞在を続けていた。  (聖女が崩御すると、次代が選ばれる――)  幼いころから何度も聞かされた定め。  女神エルトゥメリアは聖女の死と同時に天より光を降ろし、新たな器を指し示してきた。  王家も教会も、選定の光に誰が選ばれるのかを固唾を呑んで見守るのだ。  しかしキリエルにとって、それはどこか遠い世界の話だった。  自分はただの騎士に過ぎない。  妹が聖女候補であるという事実も、己の役割を変えるものではない。  上辺だけの平穏だとしても、失いたくはなかった。  ◇  その日も、ルミエルは祈りの間へやってきた。  純白の祭衣に身を包み、祈りの言葉を紡ぐ姿は、集った人々の視線を奪う。  だがキリエルの視界は霞んでいた。  熱は下がらず、鎧の中に湿った空気が籠もる。  呼吸のたびに喉が焼け、意識は浅い霧に包まれていた。  「……顔色が悪いな」  低い声が、すぐ傍で響く。  振り向くと、そこに皇太子カシアンが立っていた。  赤い瞳は宝石のように煌めき、長い赤髪は後ろで束ねられている。精悍な容貌は光を受け、さらに威厳を纏っていた。  祭壇に向かって跪いていたルミエルが、横目でこちらの様子を窺っている。  カシアンはルミエルの婚約者だった。  義務的に微笑みを返したあと――視線をずらし、キリエルを真っ直ぐに見た。  「昨夜は眠れなかったのか?」  短い問い。  浅く上下する胸をじっと観察され――耳が熱くなる。  他の誰も気に留めない不調を、この男は一目で見抜いたのだ。  「……問題ありません」  乾いた声で答える。  カシアンはそれ以上は何も言わず、ほんの一瞬だけ目を細める。  その眼差しの奥に覗く感情は、かつて同じ学院に通っていた“友人”に向けられたものであり、今のキリエルを苦しめるものだった。  (……やめろ。俺を見るな)  思わず心の中で呟く。  だが、あの甘く懐かしい記憶が慰めであることもまた事実だった。  ◇  やがて言葉が途切れ、ルミエルは宰相や教会の使者に囲まれて退出していった。  彼らの会話からは、露骨な思惑の匂いがした。  「天から光が降る時を、どれほど待ち望んでいたことか」  「選定の瞬間こそが国の未来」  「必ず素晴らしい血統が護られる」  権力争いの気配は隠そうともしない。  キリエルはただ無言で立ち、剣に手を置きながらその喧噪をぼんやりと聞き流していた。  水底へ沈むように、徐々にざわめきが遠く揺れる。  (俺には関係がない。俺は、ただ……)  胸の奥で言葉が立ち消える。  熱のせいか、思考が鈍っていた。  ◇  日が真上に登ったころ。  ルミエルは別棟の居室へと戻った。  「王宮へ来てから毎日祈らなくちゃいけなくて、窮屈だわ」  屋敷にいた頃、ルミエルにとって祈りは年に数度の儀式にすぎなかった。  彼女は面倒事を押し付けられたように、唇を尖らせる。  ベールを脱ぐと、肩に絹のように柔らかな髪が流れる。  瞳と同じ、海のように深い青の髪色。公爵家の色。  キリエルは眩しそうに目を細めると、一礼し退出した。  建物前の通路に立ち、警護に就く。  鎧が肌に擦れ、呼吸は浅い。  熱はさらに上がっている。  汗を拭う余裕もなく、ただ剣に重心を預ける。  ふと顔を上げた。  空には大きな太陽があった。  いつもより低く、いつもより眩しく、燃え盛るようだった。  「……まさか落ちてきやしないだろうな」  視界が白く焼かれ、脳裏に鋭い痛みが走る。  熱を持った心臓が早鐘を打ち、自らの喘鳴が耳の奥を焼いていた。

ともだちにシェアしよう!