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聖女選定 2
キリエルにとって祈りは習慣だった。
夜明け前の月光の下、騎士の宿舎に近い小さな礼拝堂に入り、粗末な祭壇の前で跪く。それは己のためではなく、家と民のための祈り。
冷えた空気が火照った肌を優しくなでる。
その姿を誰が見るわけでもない。だがそれだけが、彼を支えていた。
◇
王宮の回廊を渡る風は冷たく澄んでいたが、その奥に漂う空気はざわめきに満ちていた。
――聖女の容体が、日に日に悪くなっている。
口にこそ出さないが、誰もがそのことを知っていた。
昼も夜も、祈りの間には人が集い、侍従や神官が行き交っている。
聖女候補であるルミエルもまた、その理由で王宮に滞在を続けていた。
(聖女が崩御すると、次代が選ばれる――)
幼いころから何度も聞かされた定め。
女神エルトゥメリアは聖女の死と同時に天より光を降ろし、新たな器を指し示してきた。
王家も教会も、選定の光に誰が選ばれるのかを固唾を呑んで見守るのだ。
しかしキリエルにとって、それはどこか遠い世界の話だった。
自分はただの騎士に過ぎない。
妹が聖女候補であるという事実も、己の役割を変えるものではない。
上辺だけの平穏だとしても、失いたくはなかった。
◇
その日も、ルミエルは祈りの間へやってきた。
純白の祭衣に身を包み、祈りの言葉を紡ぐ姿は、集った人々の視線を奪う。
だがキリエルの視界は霞んでいた。
熱は下がらず、鎧の中に湿った空気が籠もる。
呼吸のたびに喉が焼け、意識は浅い霧に包まれていた。
「……顔色が悪いな」
低い声が、すぐ傍で響く。
振り向くと、そこに皇太子カシアンが立っていた。
赤い瞳は宝石のように煌めき、長い赤髪は後ろで束ねられている。精悍な容貌は光を受け、さらに威厳を纏っていた。
祭壇に向かって跪いていたルミエルが、横目でこちらの様子を窺っている。
カシアンはルミエルの婚約者だった。
義務的に微笑みを返したあと――視線をずらし、キリエルを真っ直ぐに見た。
「昨夜は眠れなかったのか?」
短い問い。
浅く上下する胸をじっと観察され――耳が熱くなる。
他の誰も気に留めない不調を、この男は一目で見抜いたのだ。
「……問題ありません」
乾いた声で答える。
カシアンはそれ以上は何も言わず、ほんの一瞬だけ目を細める。
その眼差しの奥に覗く感情は、かつて同じ学院に通っていた“友人”に向けられたものであり、今のキリエルを苦しめるものだった。
(……やめろ。俺を見るな)
思わず心の中で呟く。
だが、あの甘く懐かしい記憶が慰めであることもまた事実だった。
◇
やがて言葉が途切れ、ルミエルは宰相や教会の使者に囲まれて退出していった。
彼らの会話からは、露骨な思惑の匂いがした。
「天から光が降る時を、どれほど待ち望んでいたことか」
「選定の瞬間こそが国の未来」
「必ず素晴らしい血統が護られる」
権力争いの気配は隠そうともしない。
キリエルはただ無言で立ち、剣に手を置きながらその喧噪をぼんやりと聞き流していた。
水底へ沈むように、徐々にざわめきが遠く揺れる。
(俺には関係がない。俺は、ただ……)
胸の奥で言葉が立ち消える。
熱のせいか、思考が鈍っていた。
◇
日が真上に登ったころ。
ルミエルは別棟の居室へと戻った。
「王宮へ来てから毎日祈らなくちゃいけなくて、窮屈だわ」
屋敷にいた頃、ルミエルにとって祈りは年に数度の儀式にすぎなかった。
彼女は面倒事を押し付けられたように、唇を尖らせる。
ベールを脱ぐと、肩に絹のように柔らかな髪が流れる。
瞳と同じ、海のように深い青の髪色。公爵家の色。
キリエルは眩しそうに目を細めると、一礼し退出した。
建物前の通路に立ち、警護に就く。
鎧が肌に擦れ、呼吸は浅い。
熱はさらに上がっている。
汗を拭う余裕もなく、ただ剣に重心を預ける。
ふと顔を上げた。
空には大きな太陽があった。
いつもより低く、いつもより眩しく、燃え盛るようだった。
「……まさか落ちてきやしないだろうな」
視界が白く焼かれ、脳裏に鋭い痛みが走る。
熱を持った心臓が早鐘を打ち、自らの喘鳴が耳の奥を焼いていた。
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