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聖女選定 3

 昼下がりの陽光が王宮を白く灼いていた。  その静寂を断ち割るように、けたたましい鐘の音が響いた。  ――聖女が息を引き取ったのだ。  回廊に立つ騎士や侍従が一斉にざわめき、ルミエルが滞在する別棟では、侍女や神官が血相を変えて行き来している。  「ヴァルデリオ公爵家の令嬢に光が降りるだろう」  誰もが声を潜めつつも、確信を帯びた調子で口々に囁いていた。  キリエルは壁に背を預け、耳の奥で反響する群衆の声を掻き消そうとした。  ――自分には関わりのない話だ。  そう言い聞かせなければ、立っていることさえ難しかった。  視界の端は涙で揺らぎ、息を吐くたびに喉が焼けるようだ。  その時、足音が近づいてきた。  赤髪を揺らし、毅然とした姿で進む皇太子カシアン。  宰相や重臣を従え、緊迫した面持ちで別棟へ急いでいる。  だが途中で視線が絡むと、歩みを止め群衆を割ってこちらに足を向けた。  「キリエル!」  低い声に名を呼ばれ、心臓が激しく跳ねた。  カシアンの赤い瞳が真っ直ぐにキリエルを捉える。  熱に霞む意識の底で、3年前の青い日々が甦る。  ――黒犬と詰る同級生を、あの赤い瞳が押し黙らせた。剣技を打ち合った後、あの厚い身体を手当した。教官にぶたれた頬を、あの骨ばった手で撫でられた。  「まもなく、選定が起こるだろう」  短く告げられる。  背後で家臣たちが「殿下、急がれませ」と促すが、彼は応じない。  「……妹を、頼む」  声は掠れ、かすかに震えていた。  皇太子として、生涯聖女を守る義務がある。当然のことだ。  しかし、その言葉を口にした瞬間、胸の奥がぐじゅりと疼いた。  カシアンの瞳が、動揺によって揺れた。  完全無欠と評される、賢王の長子。  この男を弱くするのは自分だけだと、キリアンの心が暗い喜びに沸くも、血が流れ出したように指先が冷えていく。  瞬間――轟音が大気を裂いた。  白金の光が奔流のように降り注ぐ。  群衆が一斉に歓声を上げた。  「ついに……!」  「ルミエル様!」  「女神がお選びになった!」  誰もが、少女の名を叫び、光の行方を疑いもしなかった。  だが。  光は、まっすぐにキリエルを貫いた。  「……ッ!?」  胸を突き破るような灼熱。  皮膚が焼けただれるかのような痛みが全身を駆け巡り、骨が軋む音さえ耳に響いた。  額を刃でえぐられるように、一画ずつ印が刻まれるのを感じる。  視界が白く塗り潰され、体が言うことをきかない。  「やめろ……!」  必死に叫んでも、口からは苦悶の声しか出ない。  血が沸き、神経が焼け、全てが痛覚に変わっていく。  なにが起こっている。雷が落ちたのか。  状況を把握しようにも、五感が白く焼かれ、次第に意識まで灰のように崩れていく。  やがて光が細く途切れると、糸が切れたように膝が床に叩きつけられた。  喘鳴が熱に溶け、歯の間から抜けていく。  「キリエル…!」  取り乱した声が意識を呼び戻す。  崩れる体がひんやりとする腕に抱き止められた。  赤い影が視界に滲み、耳元で鋭い声が飛ぶ。  「道を開けろ! 医師を呼べ! 神官もだ、急げ!」  周囲が慌ただしく動き出す気配が、ずいぶん遠い。  燃えるような痛みと、溶け落ちるような意識の狭間で、キリエルはただ、カシアンの鼓動を感じながら――暗い闇へ沈んでいった。  ◇  薄暗い寝所に、あの鐘の余韻がまだ響いているように思えた。  キリエルは重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。  視界は揺らぎ、全身は鉛のように重い。額には鋭い痛みがあり、熱を帯びた印がじんじんと疼き続けていた。  「……気づいたか」  低い声に顔を向ければ、寝台の横で椅子に腰かけている赤い影が見えた。  顎を指ですくわれ、顔をのぞき込まれる。  「……やはり、そうか」  珍しく疲労の色が濃い。  「カ、シアン……?」  掠れた声が漏れる。喉は渇ききっていた。  部屋には沈黙が落ちていたが、外の騒がしい足音が床を伝って感じられる。  胸騒ぎがした。  カシアンは熱を持つ額の印を優しく撫でながら告げる。  「お前に、光が降りた」  キリエルはゆるく首を振る。  全身の血が冷たくなり、手足が痺れた。  「……ありえません」  「皆が見た。宰相も神官も、俺もだ」  カシアンの声音は落ち着いていたが、その拳は強く握り締められている。  キリエルは目を閉じた。  あの白金の光。全身を裂くような痛み。倒れ込む瞬間に感じたカシアンの体温。  ――夢ではなかった。  「王の間で議論が続いている。歩けるか」  「……騎士としての務めです。仰せのままに」  自分に言い聞かせるように、固い声で答える。  カシアンは痛ましげにキリエルの顔を見つめる。  だが何も言わず、扉の方へ先立った。  ◇  王の間に近づくにつれ、ざわめきは大きくなっていった。  廊下には重臣や貴族たちが群がり、ひそひそと囁き合う。  「本当に男が……?」  「ヴァルデリオ家の娘ではなかったのか」  「妾腹に何の資格がある」  侮蔑と驚愕が入り混じる声が、容赦なく突き刺さる。  値踏みする視線が全身に絡みつく。  鎧を脱がされたままの姿でも、キリエルは背筋を伸ばし、騎士の礼節を保とうとした。  だが、誰一人として彼を騎士として見ていない。  向けられるのは疑念と侮りばかり。  「神罰ではないのか」  「国が滅ぶ兆しかもしれぬ」  そんな囁きさえ聞こえる。  胸の奥で、黒い不安が膨らむ。  ――俺は何を間違えてしまったのか。  卑しい自分が認められるには、妹のため、国のために剣をとるしかなかった。  こんなことは誰一人望んでいないのに。  行き場のない怒りが体の中を掻き乱す。  剣を持たない手が頼りなく震えた。  ◇  金の装飾が施された荘厳な扉が押し開かれ、重々しい空気が流れ込む。  絢爛たる王の間。高く据えられた玉座、群れ集う宰相や神官たちの顔は険しい。  「王の忠実なる剣、キリエル・ヴァルデリオがお召しにより参りました」  玉座の前で跪き、精一杯の声を上げる。  カシアンはその隣で気遣うように立っていた。  「面を上げよ」  宰相が命じると、キリエルはゆっくりと顔を持ち上げる。  すると集った人々は息を飲み、黄金色の瞳を食い入るように見つめた。  誰もキリエル自身のことなど気にも留めていない。  平和な世界を壊した“異物”を検分しているにすぎないのだ。  カシアンは騒めきを治めるように庇い出る。  「父上、キリエルはまだ体が癒えておりません。長座は難しいかと」  カシアンの長い髪が眼前でくゆる。  やっとの思いで息を吸うと、頭がくらくらと揺れた。   「陛下、これは誤りにございます。女神は必ずルミエル嬢を選ばれるはずでした」  重臣が声を震わせ、必死に言い募る。  「だが、印は確かにあの額に……」  神官が指を戦慄かせキリエルを指し示す。  「我ら神職の目にも明らかでした。これは紛れもなく、女神の御業……」  「信じられぬ!」  「こんなことは前代未聞だ」  貴族たちが口々に囁き、ざわめきが広がる。  キリエルは唇を噛み、額を垂れた。  その印はなおも脈打ち、逃れられない現実を突きつけるようだった。  (俺は騎士だ……こんなことが、あっていいはずがない……)  心の奥で繰り返す言葉は、ひどく白々しい。  やがて、王が玉座から静かに立ち上がる。  広間に、沈黙が落ちた。  口を開こうとする王の気配が、重くのしかかってきた。

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