5 / 28
聖女選定 4
沈黙の広間で、王が玉座から立ち上がった。
深い赤の王衣が灯りにより鮮やかに映え、白髪が混じる赤髪は床に届くほど長い。眉間の皺には、大国を統べる厳しさと、民を想う責任が深く刻まれていた。
その姿だけで人々の声を呑み込ませる威厳があった。
鋭い眼差しが群衆を見渡し、静かに告げられる。
「この者を、次代の聖女と認める」
一拍の静寂。
続いて広間を揺らすようなざわめきが爆発した。
「ありえん、あの男が聖女だと!?」
「ヴァルデリオの娘ではなく、あの妾腹に……!」
「前例があるものか!」
誰もが口々に叫び、王の間は混乱の渦に飲み込まれた。
「――静まれ!」
王の声が銅鑼のように響いた。
広間が再び凍りつく。
「光を受けた者を否定することは、すなわち女神を否定すること。我らが国そのものを否定することにほかならぬ」
理路整然とした声。そこに揺らぎはなかった。
人々は顔を見合わせながらも、反論できずに口を閉ざす。
「……額をお見せ願いたい」
神官が進み出て、震える指でキリエルの前髪をそっとかき上げる。
赤く刻まれた印が露わになると、人々は悔し気に息を吐く。
「間違いなく、女神の御業。聖女の証でございます」
神官の声が確信めいた響きを帯び、黄金の瞳をのぞき込む。
「聖女様……」
思わず零れた言葉が、キリエルの胸をギリリと締め付けた。
(ちがう、俺は聖女じゃない……!)
頭の中は燃えるような怒りと混乱で満ちる。
騎士として積み上げた誇りは、その一言で塗り潰されたのだ。
突き刺さる無数の視線に寒気を覚え、腰に手を伸ばすが何も掴めず空を切る。
剣を帯びず、鎧も奪われた身は裸同然。
なんの後ろ盾もない“器”が欲望に飲み込まれようとしていた。
その時だった。
金の刺繍が輝く裾を翻し、皇太子カシアンが一歩前に出る。
堂々とした声音が広間に響き渡った。
「聖女は国と共に歩む者。ゆえに、法に従い、我が妃とする」
地鳴りのようなざわめきが沸き上がった。
「馬鹿な……!」
「皇太子と……婚姻だと!?」
「認められるはずがない!」
予想だにしない皇太子の宣言に、そこかしこで反発の声が挙がる。
キリエルは顔を上げられなかった。
妃。
その言葉の意味を理解するより早く、黒い視線が全身を絡め取っていく。
(カシアンは何を言っている。俺は――)
喧噪が体を覆い尽くし、脳の動きを鈍らせる。
王は長く一つ息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「よい。聖女を守るは王家の務め。皇太子の婚姻をここに認める」
簡明な、しかし絶対の裁断。
賢王と名高い彼の決定は、誰にも覆せない。
その眼差しはカシアンの胸の内まで見透かしているようだった。
群衆の動揺は収まらず、怒号と嘆きが渦巻く。
膨れ上がった不信が床を揺らす。
キリエルは混乱のるつぼの中心で、力なく項垂れていた。
体の感覚が遠く、指先が震えている。
その騒然のただ中で、カシアンはためらわずキリエルの腕を掴んだ。
「立て」
低い声が命令のように響く。
「ま、待て……俺は……」
掠れた声を出す暇もなく、力強く引き起こされる。
広間の視線が突き刺さる中、皇太子に導かれ、王の間を後にした。
「ついて来い。お前はもう、一人では生きていけない」
かつての“友”は、今まで見たことのない顔をしていた。
◇
王の間を出てなお、ざわめきは耳の奥にこびりついていた。
誰もいない石造りの回廊に、二人の足音だけが響く。
カシアンは黙したまま歩いていた。長い赤髪が揺れ、背筋は弓のように張り詰めている。
キリエルは足を止めた。
「なぜ、あんなことを言った」
固い声で問う。まだ心臓は早鐘を打っている。
カシアンは迷わず赤い瞳を向けた。
「お前は今、もっとも政治的に危うい立場にある。光を受けた瞬間から、誰もがお前を利用しようとしていた。貴族も、教会も」
「……だからって、妃だと」
声が震え、思わず目を逸らした。
「ああ言わなければ、その場でお前は奪い合いになっていた。お前を守るためだ」
守る――その言葉に、目の奥がぐらりと揺れた。
「ふざけるな……!」
堰を切ったように言葉が溢れる。
「俺は騎士だ! 剣を執って生きるはずだった! なのに、聖女だと? 妃だと? ……俺からこれ以上、何を奪う!」
赤い影が一歩近づく。
「奪ったのではない。お前を失いたくなかったんだ」
喉が詰まり、息が止まった。
「……前線行きを希望した時も、止めたのはお前なんだろ!」
怒りに任せて叫ぶ。
「俺は戦える。死ぬ覚悟だってあったのに!」
声が石壁に反響し、遠くで落ちた。
しばしの沈黙。
やがて返ってきたのは、迷いのない答えだった。
「ああ、止めた。……俺はお前を失いたくない」
「……もう俺は、俺じゃない」
額の印が脈を打ち、心の声が溢れ出す。
「好き勝手に扱われ、俺自身なんか、もうどこにもいない」
「違う」
カシアンは即座に否定した。
「俺はずっと見てきた。幼いころから、学院でも、騎士になってからも……お前自身を。誰に何と呼ばれようと、俺の見ているのは“キリエル”だ」
その声には確信めいた響きがあった。赤い瞳が燃えている。
「俺はお前を愛している。ずっと、そばにいてほしい」
世界が一瞬止まった。
鼓動の音だけが耳の奥で反響し、思考は真白に塗り潰される。
「……なに、を……」
声が掠れ、言葉にならなかった。
息が詰まり、回廊の冷気が鋭く突き刺さる。
この震えが怒りか、戸惑いか、自分でも判然としなかった。
キリエルは乱れた呼吸のまま、その場から立ち去ろうとする。
だが、カシアンの熱い手が彼の腕を掴む。
「宿舎はもう使えない。……用意した部屋へ来い」
◇
力強く引かれ、拒む間もなく扉の奥へ押し込まれる。
そこは、先ほど目を覚ました簡素な一室だった。
キリエルは腕を振り払い、背中を向けて吐き捨てる。
「出て行け」
しかし炎のような気配はじっとこちらを見つめている。
視線の熱さに背中が炙られるようで、じっとりと汗ばむ。
「学院の部屋を思い出す」
ふと、思いのほか柔らかな声が耳に届く。
「夜明け前に祈りを捧げ、剣を振るお前を、よく窓から眺めていた。俺が遅くまで机に向かていると、競うように起きだして寝巻で勉強していた……俺が咳をしていたとき、黙って薬草を置いていったな」
口下手な彼なりに、励まそうとしているのが伝わる。
「……もうわかった」
吐息と共に返す。背を向けたまま、肩の力はわずかに抜けていた。
次の瞬間、背後から抱きすくめられた。
「お前を失いたくない。ずっとそばにいてほしい」
再び体に緊張が走る。
背負った宿命を忘れて過ごした穏やかな日々が重なる。
「……ルミエルがいるだろ」
苦し紛れにはぐらかした。
「彼女にそんな気はない。お前も知っているだろう」
腕の力がさらに増す。
震える指先がキリエルの服を握るのを感じ、息を飲む。
「お前を失ったらと思うと、心が壊れそうだ。
これまでは王宮に縛ってでも見守るつもりだった。
だが今は違う。俺が守らなければならない。……こんなに怖いと思ったことはない」
耳に触れる吐息は震え、涙の色を帯びている。
こんなにも感情的なカシアンは初めてだった。
「……泣くなよ」
苦しさを隠すように茶化す。
「泣き虫の皇太子なんて、恥ずかしくないのか」
だが熱を持った腕は離れない。
「……今日は色々ありすぎた。少し休ませてくれ」
参ったように呟くと、渋々ながら拘束がほどけ、寝所へ追いやられる。
キリエルは布団に身を沈め、顔を覆った。
椅子がきしむ音。カシアンはまだ部屋を出ていなかった。
「勘弁してくれ……」
掠れ声で呟く。
「暗殺されたらどうする」
真剣な声が返ってくる。
「殺されたってかまわない」
かすかな笑みを浮かべて言い返すうちに、疲労が意識をさらっていく。
最後に感じたのは頬を撫でる温かな手だった。
その温もりを追いながら、深い眠りへ沈んでいった。
ともだちにシェアしよう!

