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聖女選定 4

 沈黙の広間で、王が玉座から立ち上がった。  深い赤の王衣が灯りにより鮮やかに映え、白髪が混じる赤髪は床に届くほど長い。眉間の皺には、大国を統べる厳しさと、民を想う責任が深く刻まれていた。  その姿だけで人々の声を呑み込ませる威厳があった。  鋭い眼差しが群衆を見渡し、静かに告げられる。  「この者を、次代の聖女と認める」  一拍の静寂。  続いて広間を揺らすようなざわめきが爆発した。  「ありえん、あの男が聖女だと!?」  「ヴァルデリオの娘ではなく、あの妾腹に……!」  「前例があるものか!」  誰もが口々に叫び、王の間は混乱の渦に飲み込まれた。  「――静まれ!」  王の声が銅鑼のように響いた。  広間が再び凍りつく。  「光を受けた者を否定することは、すなわち女神を否定すること。我らが国そのものを否定することにほかならぬ」  理路整然とした声。そこに揺らぎはなかった。  人々は顔を見合わせながらも、反論できずに口を閉ざす。  「……額をお見せ願いたい」  神官が進み出て、震える指でキリエルの前髪をそっとかき上げる。  赤く刻まれた印が露わになると、人々は悔し気に息を吐く。  「間違いなく、女神の御業。聖女の証でございます」  神官の声が確信めいた響きを帯び、黄金の瞳をのぞき込む。  「聖女様……」  思わず零れた言葉が、キリエルの胸をギリリと締め付けた。  (ちがう、俺は聖女じゃない……!)  頭の中は燃えるような怒りと混乱で満ちる。  騎士として積み上げた誇りは、その一言で塗り潰されたのだ。  突き刺さる無数の視線に寒気を覚え、腰に手を伸ばすが何も掴めず空を切る。  剣を帯びず、鎧も奪われた身は裸同然。  なんの後ろ盾もない“器”が欲望に飲み込まれようとしていた。  その時だった。  金の刺繍が輝く裾を翻し、皇太子カシアンが一歩前に出る。  堂々とした声音が広間に響き渡った。  「聖女は国と共に歩む者。ゆえに、法に従い、我が妃とする」  地鳴りのようなざわめきが沸き上がった。  「馬鹿な……!」  「皇太子と……婚姻だと!?」  「認められるはずがない!」  予想だにしない皇太子の宣言に、そこかしこで反発の声が挙がる。  キリエルは顔を上げられなかった。  妃。  その言葉の意味を理解するより早く、黒い視線が全身を絡め取っていく。  (カシアンは何を言っている。俺は――)  喧噪が体を覆い尽くし、脳の動きを鈍らせる。  王は長く一つ息を吐き、ゆっくりと頷いた。  「よい。聖女を守るは王家の務め。皇太子の婚姻をここに認める」  簡明な、しかし絶対の裁断。  賢王と名高い彼の決定は、誰にも覆せない。  その眼差しはカシアンの胸の内まで見透かしているようだった。  群衆の動揺は収まらず、怒号と嘆きが渦巻く。  膨れ上がった不信が床を揺らす。  キリエルは混乱のるつぼの中心で、力なく項垂れていた。  体の感覚が遠く、指先が震えている。  その騒然のただ中で、カシアンはためらわずキリエルの腕を掴んだ。  「立て」  低い声が命令のように響く。  「ま、待て……俺は……」  掠れた声を出す暇もなく、力強く引き起こされる。  広間の視線が突き刺さる中、皇太子に導かれ、王の間を後にした。  「ついて来い。お前はもう、一人では生きていけない」  かつての“友”は、今まで見たことのない顔をしていた。 ◇  王の間を出てなお、ざわめきは耳の奥にこびりついていた。  誰もいない石造りの回廊に、二人の足音だけが響く。  カシアンは黙したまま歩いていた。長い赤髪が揺れ、背筋は弓のように張り詰めている。  キリエルは足を止めた。  「なぜ、あんなことを言った」  固い声で問う。まだ心臓は早鐘を打っている。  カシアンは迷わず赤い瞳を向けた。  「お前は今、もっとも政治的に危うい立場にある。光を受けた瞬間から、誰もがお前を利用しようとしていた。貴族も、教会も」  「……だからって、妃だと」  声が震え、思わず目を逸らした。  「ああ言わなければ、その場でお前は奪い合いになっていた。お前を守るためだ」  守る――その言葉に、目の奥がぐらりと揺れた。  「ふざけるな……!」  堰を切ったように言葉が溢れる。  「俺は騎士だ! 剣を執って生きるはずだった! なのに、聖女だと? 妃だと? ……俺からこれ以上、何を奪う!」  赤い影が一歩近づく。  「奪ったのではない。お前を失いたくなかったんだ」  喉が詰まり、息が止まった。  「……前線行きを希望した時も、止めたのはお前なんだろ!」  怒りに任せて叫ぶ。  「俺は戦える。死ぬ覚悟だってあったのに!」  声が石壁に反響し、遠くで落ちた。  しばしの沈黙。  やがて返ってきたのは、迷いのない答えだった。  「ああ、止めた。……俺はお前を失いたくない」  「……もう俺は、俺じゃない」  額の印が脈を打ち、心の声が溢れ出す。  「好き勝手に扱われ、俺自身なんか、もうどこにもいない」  「違う」  カシアンは即座に否定した。  「俺はずっと見てきた。幼いころから、学院でも、騎士になってからも……お前自身を。誰に何と呼ばれようと、俺の見ているのは“キリエル”だ」  その声には確信めいた響きがあった。赤い瞳が燃えている。  「俺はお前を愛している。ずっと、そばにいてほしい」  世界が一瞬止まった。  鼓動の音だけが耳の奥で反響し、思考は真白に塗り潰される。  「……なに、を……」  声が掠れ、言葉にならなかった。  息が詰まり、回廊の冷気が鋭く突き刺さる。  この震えが怒りか、戸惑いか、自分でも判然としなかった。  キリエルは乱れた呼吸のまま、その場から立ち去ろうとする。  だが、カシアンの熱い手が彼の腕を掴む。  「宿舎はもう使えない。……用意した部屋へ来い」 ◇  力強く引かれ、拒む間もなく扉の奥へ押し込まれる。  そこは、先ほど目を覚ました簡素な一室だった。  キリエルは腕を振り払い、背中を向けて吐き捨てる。  「出て行け」  しかし炎のような気配はじっとこちらを見つめている。  視線の熱さに背中が炙られるようで、じっとりと汗ばむ。  「学院の部屋を思い出す」  ふと、思いのほか柔らかな声が耳に届く。  「夜明け前に祈りを捧げ、剣を振るお前を、よく窓から眺めていた。俺が遅くまで机に向かていると、競うように起きだして寝巻で勉強していた……俺が咳をしていたとき、黙って薬草を置いていったな」  口下手な彼なりに、励まそうとしているのが伝わる。  「……もうわかった」  吐息と共に返す。背を向けたまま、肩の力はわずかに抜けていた。  次の瞬間、背後から抱きすくめられた。  「お前を失いたくない。ずっとそばにいてほしい」  再び体に緊張が走る。  背負った宿命を忘れて過ごした穏やかな日々が重なる。  「……ルミエルがいるだろ」  苦し紛れにはぐらかした。  「彼女にそんな気はない。お前も知っているだろう」  腕の力がさらに増す。  震える指先がキリエルの服を握るのを感じ、息を飲む。  「お前を失ったらと思うと、心が壊れそうだ。   これまでは王宮に縛ってでも見守るつもりだった。   だが今は違う。俺が守らなければならない。……こんなに怖いと思ったことはない」  耳に触れる吐息は震え、涙の色を帯びている。  こんなにも感情的なカシアンは初めてだった。  「……泣くなよ」  苦しさを隠すように茶化す。  「泣き虫の皇太子なんて、恥ずかしくないのか」  だが熱を持った腕は離れない。  「……今日は色々ありすぎた。少し休ませてくれ」  参ったように呟くと、渋々ながら拘束がほどけ、寝所へ追いやられる。  キリエルは布団に身を沈め、顔を覆った。  椅子がきしむ音。カシアンはまだ部屋を出ていなかった。  「勘弁してくれ……」  掠れ声で呟く。  「暗殺されたらどうする」  真剣な声が返ってくる。  「殺されたってかまわない」  かすかな笑みを浮かべて言い返すうちに、疲労が意識をさらっていく。  最後に感じたのは頬を撫でる温かな手だった。  その温もりを追いながら、深い眠りへ沈んでいった。

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