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皇太子の結婚 1
心地よい紙の擦れる音で目が覚める。
カシアンが椅子に腰を掛け、山のように積まれた書類に目を通していた。
困惑して見つめていると、くたびれた様子の宰相が書類の間から顔を出し、柔らかく声をかけてきた。
「殿下がこの部屋を出られぬと仰せで、皆ここへ運んでくるのです……申し訳ございません、聖女様」
聖女様――。
その呼び方にため息が漏れる。
カシアンは一枚の羊皮紙を取り上げ、こちらへ差し出す。
「騎士団長からだ」
心臓が嫌な音を立てた。強張る指で受け取ると、それは騎士団の除籍通知だった。
たった一枚の紙切れが、胸の奥に残っていたかすかな誇りさえ、粉々に崩してしまう。
残された肩書きは、不釣り合いな「聖女」だけ。
「……俺の剣は」
かすれ声で問うと、カシアンはばつが悪そうに答えた。
「私の部屋に保管してある。……だが今は渡せない」
虚脱感が全身を襲う。
力が抜け、寝台に沈み込むしかなかった。
◇
その日から、カシアンに手を引かれるまま、皇太子の執務室へ通うことになった。
回廊を進むたび、突き刺さるのはかつての同僚たちの視線。
侮蔑と好奇が入り混じり、囁きが追いかけてくる。
赤い瞳が鋭く睨むと、ざわめきは潮のように静かに引いた。
だが、影のように噂はどこにでも付いて回った。
「あいつが聖女……」
「妾腹が、皇太子にどう取り入ったんだ」
「ルミエル様は泣き伏せっておられるらしい」
胸がひやりとした。
消えてしまいたい。
絶望がひたひたと心を蝕んでいく。
執務室のソファに沈み、ぼんやりと日々をやり過ごす。
カシアンは相変わらず多忙で、その多くは”聖女”のせいだと自覚していた。
だが今はもう、すべてがどうでもよかった。
宰相や神官たちが慌ただしく出入りし、「婚姻の儀」の準備を整えていく。
面倒なことに、形式として執り行う必要があるらしい。
中には功を立てようと媚びへつらう者もいた。
「最高級の絹が手に入りました。ぜひ聖女様の祭衣に」
男性用の祭衣は存在しないため必要だろうと、カシアンは淡々と許可を出した。
ついでとばかりに「裾は長く」「赤が映えるよう金糸を織れ」と、あれこれ要望を加えていく。
キリエルはその様子を、遠い景色のように眺めていた。
しかし、朝の祈りだけは習慣として欠かさず続けた。
なぜ自分が聖女に選ばれたのか、この国はこれからどうなるのか。
女神が答えを授けることはなかった。
その間も、カシアンは片時も離れなかった。
朝はキリエルの隣で一緒に祈りを捧げ、夜には寝台にかけると後ろから抱き寄せ、学院時代の思い出を語る。
それはまるで、凍えた体に体温を移す救命行動のようだった。
カシアンの目まぐるしい日々と裏腹に、キリエルの世界は薄い霞に覆われていた。
◇
ある日、カシアンが宰相に呼ばれ、一瞬の隙が生まれた。
回廊の柱の影に引き込まれると、かつての同僚が憎々し気に肩を掴んできた。
「おい黒犬、どうやって皇太子を誑かしたんだ。選定の光ってのは、イカサマなんだろ」
ぼんやりと聞き流していると、若い騎士はまくし立ててくる。
「お前が聖女なんて、どうかしてる。とっととくたばれ」
ひどく直接的な罵倒。
だが、ちっとも胸に響かない。
空ろな瞳で見返し、口を開いた。
「俺もまったく同じ意見だ。……なんで俺なんかがここにいる? なぜ生きてるんだ」
騎士が息を呑む。
そこへ赤い影が現れた。
「キリエル!」
慌てた声音が回廊に響く。
とっさに騎士は敬礼の姿勢をとり、小さく震える。
「同僚と話したかっただけです」
カシアンに強く腕を引かれながらも、怒る皇太子を宥める。
「……城門の警備にあたれ」
今にも暴れだしそうな殺気を漂わせながら、跪く騎士へ命じる。
彼は蒼白になり、速足でその場を辞した。
キリエルはそのまま執務室に引きずり込まれる。
(……これだから、あらぬ関係だと噂が立つ)
乾いた笑いが漏れた。
◇
背を扉に押し付けられる。
赤い瞳が怒りに鈍く光っている。
「……なんともない」
言い訳を口にすると、低い声が覆い被さった。
「お前は昔からそうだ。それがお前なりの処世術なのも分かっている。だが頼ってほしい。傷つくお前のそばで、何もできないなんて耐えられない」
体を逃がそうにも退路はなく、強引に顎を固定される。
「目を逸らすな。……長い付き合いだ。お前が何を考えてるかくらい、目を見れば分かる」
血のように赤い瞳が、キリエルの心の奥までも暴こうとする。
互いに不可侵だった領域に、足を踏み入れようとしていた。
「俺も同じだ。ずっと、この関係を壊したくなかった。……だが、選定の光が全てを変えた」
燃える瞳が近づく。湿った吐息を感じる。
「お前の目は空のように澄んだ青だった。……変わってしまって、惜しい」
言葉と共に、唇が触れる。
それは、決して起こりえないと蓋をしたはずの、青い日の夢。
ゆっくりと重なり、互いの体温を知る。
微かに震えているのは、鼓動が高鳴っているのは、どちらだったのか――。
しばし触れ合わせた後、カシアンは名残惜し気にゆっくりと体を離した。
頭に血が上り、鼓動が耳の奥を打ち破るように響く。
嬉しさと怒り、悲哀と渇望――あらゆる感情が絡み合い、足が震える。
キリエルは支えを失ったように、ずるずると扉に沿って座り込んだ。
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